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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第115話 町の中では、強い順に動けなかった



【本文】


シンの「中、取られてる」が広場に落ちたあと、最初に動いたのは俺じゃなかった。


ユリウスだった。


「住民確認を先にする。穀物倉庫、鐘楼、旧宿通りの三つ。間の家を空にできるか確認。レンは動くな」


「また?」


「今は特に」


言い返したい。でも鐘楼の向こうに家の屋根が見える。倉庫の隣はパン屋の粉庫。その裏には、昨日まで普通に子どもが走っていた路地がある。


強い順に前へ出ればいい場所じゃない。


ミオが広場の机へ地図を置いた。公開地図じゃない。白嶺の運営用。家と裏口と薪置き場まで、必要なところだけ書き足してある。


「穀物倉庫八人くらい。鐘楼下は六。旧宿通りは、見えたのが五。重複はあるかもしれない」


「十八か十九?」


「数え方次第。まだ家の中は見てない」


第111話から消えていた二十人前後と、だいたい合う。


だいたい。


ぴったりじゃないのが、逆に嫌だった。


エダンが屋根を見上げる。「旧宿通りなら裏から入れる。宿の洗濯場、薪置き、井戸。あそこは道が三本ある」


シンがすぐ首を振った。「四本。パン屋の裏から壁抜けると、物干し場につながる」


「壁抜ける?」


俺が聞くと、シンは俺を見た。


「人が通る隙間。レンは無理」


「俺そんなでかくない」


「剣つけたら無理」


そこを基準にされるのも嫌だ。


広場の北側で、北方兵の男が声を上げた。


「話がある!」


ユリウスがこちらを見た。俺が一歩出ると、また目で止められる。


「私が行く」


「俺も」


「後ろ」


最近、扱いが雑じゃないか。


盾を持った白嶺守備二人を前に、ユリウス。その後ろに俺。ミオは少し離れて記録。北方兵の男も短剣を鞘へ戻し、一人で鐘楼前へ出た。


「名前は?」


ユリウスが聞く。


「ベイル。北方第七路隊、臨時分遣」


「指揮官は?」


ベイルは一瞬だけ黙った。


「この場は俺だ」


「ここへ入った命令を出したのは」


「カイル隊長」


確定した。


俺の腹の奥が熱くなる。


ミオが横から小さく言った。「今は聞く」


分かってる。


ベイルは懐から折った紙を出した。武器を置いた白嶺守備が受け取り、ユリウスへ渡す。


紙には、占拠範囲と禁止事項が書いてあった。


穀物へ火を入れない。


民家へ入らない。


住民を人質にしない。


白嶺側から攻撃されない限り、長剣・弓・火器相当の使用を禁ずる。


目的。


《南側軍の白嶺恒久駐留を阻止し、白嶺を南北いずれの軍事拠点にもさせない》


署名。


カイル。


「あいつ……」


俺はそこまで言って止まった。


ひどい。


でも、書いてあることだけなら、第110話で本人が言ったことと同じだ。


白嶺を取りたいわけじゃない。


南の砦にも、北の砦にもしたくない。


そのために町の中へ兵を入れた。


話が飛びすぎている。


「要求は?」


ユリウスが聞く。


ベイルが答えた。「南側六十名を一日行程下げる。白嶺内の南側兵を、救護と伝令を除いて退去。白嶺の民間通行は続ける。条件が確認できれば我々も出る」


オルザが広場の反対側から声を飛ばした。


「武装して市街を占拠して中立を要求する。それを中立とは呼びません」


ベイルはそちらを見る。「同意する必要はない。条件だ」


きれいに言わない。


だから余計に、戦争なんだと思った。


ユリウスが聞く。「住民を外へ出すのを妨げない?」


「妨げない。荷物は手で持てる範囲。武器の搬入は止める」


「穀物は?」


「動かさない」


「鐘は?」


「鳴らさない」


鍋屋のおばちゃんが裏口から怒鳴った。


「鍋は?」


全員がそっちを見る。


ベイルまで。


「……鍋?」


「火止めたいんだよ。さっきから言ってるだろ」


俺は頭を抱えたくなった。


ベイルは真面目に考えた。


「鐘楼側ではないなら、白布を持って一人で」


「じゃあ行ってくる」


「待っておばちゃん!」


戦争中なのに、鍋の火を止める交渉が成立した。


白布を持ったシンが付き添う。おばちゃんは戻ってきた時、鍋だけじゃなく木べらまで持っていた。


「置いてくると焦げるんだよ」


誰も聞いていない。


その間に、旧宿通りの住民確認が終わった。


残っていたのは三軒、五人。北方兵は家へ入っていない。住民も裏口から出せる。


「先に空にする」


ユリウスが決める。


エダン、シン、白嶺守備三人。戦わない。住民を出すだけ。


俺はまた広場。


「俺、本当に何もしなくていい?」


ミオがこっちを見ずに言った。「レンがここにいることが仕事」


「どういう意味」


「北方兵が一番見てるの、レンだから。動けば向こうも動く」


そう言われると、余計に動きにくい。


俺は鐘楼前のベイルを見る。


ベイルも俺を見ていた。


なるほど。


三十分。


住民五人が裏路から出た。


一人、靴を片方持ったまま出てくるおじいさんがいた。


「履かないの?」


俺が聞くと、「急げって言うから」と怒っていた。


急いでも履く時間くらいあったと思う。


でも、その怒り方が普通で少し安心した。


住民が抜けたあと、エダンは戻らなかった。


旧宿通りの裏側へ残っている。


シンだけが来た。


「四人。旧宿の前にいる。家は空」


「五人じゃなかった?」


ミオが聞く。


「一人、鐘楼側に移った」


動いている。


数は固定じゃない。


ユリウスがベイルへ声をかけた。


「旧宿通りは住民がいなくなった。そこから兵を下げてください」


「条件確認前には下げられない」


「住民保護が目的の一つなら、空の通りを押さえる理由はない」


ベイルが少し黙る。


「通路を押さえる理由はある」


「なら軍事占拠ですね」


「最初からそう言っている」


会話が嫌なくらい成立する。


ユリウスは俺を見た。


今度は止める目じゃない。


「旧宿だけ取り返す。ただし追わない。鐘楼へ押し込まない。退路を一つ残す」


「俺、行っていい?」


「前には出るな」


「それ行く意味ある?」


「ある」


また置物だ。


でも行く。


旧宿通り。


両側に閉じた店。洗濯物だけが一本、取り込まれずに残っている。白い靴下が風で揺れていた。


正面に北方兵四人。


俺たちが通りへ入ると、全員こっちを見る。


俺は剣を抜かない。


後ろの路地からエダンが顔を出す。


さらに横の薪置き場から白嶺守備二人。


北方兵が振り返る。


退路は鐘楼側に一本だけ。


俺は言った。


「そこ、もう人いない。戻って」


北方兵の一人が苦笑した。「お前が言うと、お願いに聞こえないな」


「剣抜いてないじゃん」


「抜かなくても強いのは知ってる」


そこは不便だ。


四人は相談した。


小声。聞こえない。


一人がこっちを見て、短剣を地面へ置いた。


残りも置く。


「鐘楼には戻らない。拘束される」


「それでいいの?」


俺が聞くと、男は肩をすくめた。


「四人でお前とやるよりいい」


賢い。


たぶん俺より。


旧宿通りは、戦わずに戻った。


大勝でもない。


歓声もない。


でも店の裏にいた猫が一匹、戸の隙間から出てきて、何も知らない顔で道を横切った。


その猫を見て、少しだけ嬉しかった。


夕方までに、市街内で確認できた北方兵は十五人になった。


四人拘束。


一人は鐘楼側へ移動。


数が合わない。


まだどこかにいる可能性がある。


そして外。


北口の見張りから、北方兵がまた増え始めたと報告が来た。


俺たちが町の中へ目を向けた時間に。


今度は外が、少し厚くなっていた。


町の中では、強い順に動けない。


それは分かった。


でも。


強い順に動かないと守れない場所も、外には残っていた。


第116話 取り戻した場所の数だけ、外が薄くなった


【本文】


次の日の朝、白嶺の地図には石が増えていた。


赤が北方兵。


青が白嶺守備。


黄が南側兵。


白が住民避難路。


ミオが置いていく。


俺は横から見ていた。


「多くない?」


「昨日より多い」


「赤が?」


「全部」


町の中を守るために、人を置く。


外を見るために、人を置く。


食料路にもいる。


避難路にもいる。


拘束した北方兵四人を見張る人もいる。


怪我人のところにもいる。


石を置けば置くほど、白嶺が大きくなったみたいだった。


実際は、人間の数は増えていない。


オルザが地図の南側へ黄色い石を二十置いた。


「昨日入った二十名は、このまま市街と南口の間に置きます。六十名本体は外」


「全部入れたら楽になる?」


俺が聞くと、オルザは少し考えた。「今日だけなら楽になります。その代わり明日が悪くなる可能性があります」


北側から見れば、白嶺が南側軍を正式に入れたことになる。


昨日までの交渉も終わる。


「じゃあ入れない」


俺が言うと、ユリウスが紙から顔を上げた。


「レンが決めない」


「あ、そうだった」


忘れていた。


最近、忘れたら怒られることが多い。


午前。


鐘楼下と穀物倉庫の二か所を分ける作戦になった。


取り返すのは鐘楼下から。


理由は、鐘楼が高いから。あそこを取られたままだと市街の動きが全部見える。


ただし正面から押さない。


家が近い。


鐘楼の裏には石段がある。細い。二人並べない。さらに隣の染物屋の二階から、物干し用の板を渡せば屋根へ出られる。


「そんな道、地図にあった?」


俺が聞くと、シンが言った。「道じゃないから」


「板で渡るの?」


「洗濯物は毎日渡ってる」


人と洗濯物を一緒にするな。


でも使う。


俺は正面。


また囮みたいな位置。


エダンと白嶺守備三人が裏の石段。


シンは染物屋側。


ミオは広場から全体。


ユリウスは住民避難。


オルザは南側兵を外周と市街境へ分ける。


始める前。


ベイルが鐘楼前から声を出した。


「昨日の条件に返事は?」


ユリウスが答える。「南側六十の一日後退は受けない。市街占拠を解けば、南側部隊の縮小は再協議する」


「順番が逆だ」


「こちらから見れば、そちらが逆です」


昨日からずっとこれだ。


ベイルは俺を見る。


「レン。入ってくるか?」


「今日はあんまり入らない予定」


「予定?」


「俺も細かいこと知らない」


本当に知らない。


エダンがどこまで回っているかも、シンが板を何枚使うかも聞いていない。


向こうに読まれないように、俺にも全部言わなくなった。


ちょっと寂しい。


でも、その方がいい。


鐘楼の上。


鳥が三羽飛んだ。


合図じゃない。


本当に鳥。


俺が一瞬見上げた。


ベイルも見た。


その時、鐘楼の裏で木が鳴った。


一回。


二回。


「今のは?」


ベイルが振り返る。


俺は肩をすくめた。「知らない」


今度は本当。


北方兵が二人、裏へ向く。


正面が薄くなる。


俺は一歩だけ前へ出る。


抜かない。


向こうが俺を見る。


また裏で音。


今度は上。


シンが染物屋の二階窓から顔を出した。


「レン! 板短い!」


作戦中に言うな。


「知らないよ!」


「エダンに言って!」


「聞こえてる!」


屋根の向こうからエダンの声。


北方兵まで笑った。


緊張が一瞬だけ抜けた。


その一瞬で、エダンたちが鐘楼裏の石段へ入った。


北方兵が下がる。


正面は俺がいる。


裏は白嶺守備。


上は板が短いシン。


逃げるなら穀物倉庫側。


でもそこへ全員が集まると、今度は倉庫が増える。


ベイルも分かっている。


「鐘楼を捨てる。倉庫へは合流しない。北口側へ出る」


「通していい?」


俺はユリウスを見る。


ユリウスが頷く。「武器を置けば」


ベイルが少し笑った。「昨日からそればかりだな」


「町の中だから」


六人。


短剣、小盾、斧を置く。


そのまま一列で北口側へ。


白嶺守備が左右につく。


拘束じゃない。


町の外まで送る。


ベイルは俺の前を通る時、小さく言った。


「カイル隊長は、お前が全部守ろうとすると思ってる」


「何それ」


「俺も今朝まで意味が分からなかった」


聞き返す前に歩いていった。


鐘楼は戻った。


上へ登る。


景色が広い。


外が見える。


そして。


すぐ分かった。


「東、高所取られてる」


ミオが下から上がってきた。


「いつ?」


「さっき」


東側。


昨日空いていた監視位置に北方兵。


六人。


さらに羊道北出口。


白い帯が増えている。


南西旧橋側も、遠くに人影。


俺たちが鐘楼を取り返している間に。


外の三か所が同時に厚くなっていた。


「ベイルの言ってたやつ」


俺は言った。


「全部守ろうとする?」


ミオが石を置く。


東高所。


羊道。


南西。


穀物倉庫。


さらに北口。


「今の人数で、全部に十分置くのは無理」


「南の六十入れたら?」


「一日だけは埋まる。でも北が増員したら、また足りなくなる。しかも南軍を入れた時点で、中立の話はほぼ終わる」


「じゃあ北の条件飲んだら?」


「南が下がる。市街の北方兵も出るかもしれない。でも次に北側が条件を変えた時、止める力が減る」


「何しても穴あるじゃん」


「そう」


ミオはさらっと言った。


嫌な答え。


昼。


外へ出るか、倉庫を取り返すか。


俺たちは倉庫を選んだ。


食料だから。


北の兵も南の兵も、結局食べる。


穀物倉庫には九人いた。


住民はいない。


火も使っていない。


戸の前に大袋が積まれている。盾代わり。


パン屋が遠くから見て怒った。


「それ麦だからな! 穴開けるなよ!」


敵にも味方にも言っている。


俺は正面に立つ。


「出てくれない?」


北方兵が袋の向こうから答えた。「昨日より雑になったな」


「疲れてきた」


「こっちもだ」


普通の会話。


でも出てこない。


今度は戦闘になった。


短い。


狭い。


俺は袋を切らないように剣を使う。


それがめちゃくちゃ難しい。


一人の斧を受ける。横へずらす。後ろの麦袋に刃が当たりそうになって、相手本人が止めた。


「危ない!」


「お前の斧だろ!」


「麦だぞ!」


どっちの味方なんだ。


エダンが横から入る。


白嶺守備が反対側。


南側兵は入口を押さえるだけ。


九人のうち、三人が負傷。軽傷。


白嶺側も二人。


最後は全員が武器を置いた。


倉庫も戻った。


歓声は出なかった。


皆、外を見ていたから。


その間に、東高所は完全に北側のものになった。


羊道北出口は封鎖。民間の荷も止まった。


南西旧橋の外側には、昨日退いたヴァンデルの部隊が戻っている。


北口の仮防柵から、百歩ほど先。


新しい炉晶台車が一台。


白い筒が見えた。


まだ使っていない。


でも置かれた。


夕方。


俺たちは地図の前に座った。


鐘楼、取り返した。


旧宿、取り返した。


穀物倉庫、取り返した。


町の中に残る北方兵は、確認できる範囲ではゼロ。


勝っている。


全部。


なのに。


北口。


東高所。


羊道。


南西旧橋外。


外側の赤い石は、昨日より多い。


ガランが腕を組んだ。


「人を中へ回したら外が減る。外へ回したら中へ入られる。道が多すぎる」


「塞ぐ?」


俺が聞く。


「どこを。塞いだら俺らも通れん」


シンが通行板を持ってきた。


今日止まったもの。


北からの麦。


南からの塩。


薬一便。


避難家族二組。


「戦って勝ってるのに、道は昨日より止まってる」


シンが言った。


そこだった。


白嶺は戦場で負けていない。


町の中も取り返した。


でも。


このまま同じ守り方を続けたら。


守る場所が増えるたびに、道が一つずつ死ぬ。


ミオが地図の端へ、黒い石を三つ置いた。


黒枠一。


黒枠二。


黒枠三。


誰も何も言わなかった。


第86話から。


動かさないと決めた設備。


今日初めて。


誰かが、それを地図の上へ戻した。


第117話 動かさないと決めたものを、もう一度見る日


【本文】


黒い石は、朝まで地図の上に残っていた。


誰も片づけなかった。


俺も触らなかった。


第86話。


俺たちは古い設備を見つけて、動かさないと決めた。


動くか分からない。


何が壊れるか分からない。


街道の下にある。


灰色斜面の上にも、抜いたら嫌なことになりそうな溝がある。


一人の好奇心で触る物じゃない。


その判断は、今でも間違っていないと思う。


でも。


あの時と今で違うことが一つある。


今は、触らなくても壊れそうだ。


朝の広場。


昨日取り返した鐘楼には白嶺の見張り。


穀物倉庫の前には荷運び二人と守備一人。


旧宿通りは店の戸が半分だけ開いた。完全には戻らない。でも猫は昨日と同じところを歩いていた。


外からは、北方兵の旗が見える。


南側六十人もいる。


両方。


白嶺を挟んで。


ユリウスが会議を開いた。


今までで一番、人を減らした会議だった。


理由は簡単。


店を閉め続けられない。


見張りも必要。


荷運びも必要。


毎回全員で集まっていたら、その間に町が止まる。


代表だけ。


ユリウス。


ミオ。


エダン。


シン。


ガラン。


俺。


ロム。


鍋屋。


パン屋。


南側からオルザ。


北側の民間側からナディア。


それと、宿の主人。


「何で俺?」


宿の主人が聞く。


ユリウスが答えた。「避難時に宿を使うからです」


「会議に出たら宿見れないんだけど」


「代理を一人置いてください」


「もう置いてる。だから来た」


なら聞くな。


ユリウスは紙を四枚置いた。


一枚目。


《今のまま通常防衛を続ける》


二枚目。


《南側軍を白嶺へ全面入域させる》


三枚目。


《北側条件を受け、南側軍を大幅後退させる》


四枚目。


何も書いていない。


俺はそこを見る。


「四枚目は?」


ユリウスが言う。「古代防衛施設」


言葉にすると重かった。


鍋屋のおばちゃんが腕を組む。


「動くかも分からないやつ?」


ガランが答える。「分からん。だから今すぐ使う話じゃない。使う選択肢を調べるかどうかの話だ」


パン屋が聞く。「使ったら道どうなる?」


「分からん」


「町は?」


「分からん」


「地下は?」


「分からん」


パン屋が俺を見る。


「分かることある?」


「三つ黒いのがある」


「それは知ってる」


役に立たなかった。


ミオが地図を広げる。


「分かっている範囲だけ」


三つの黒枠。


横の並行路。


南北の監視位置。


排水。


高所構造。


灰色斜面。


崩落候補。


「施設全体が、防衛用途を含む可能性は高い。主通路を複数箇所で止める構造がある。人用の並行路は残る可能性がある。でも、実際の作動範囲は未確認。市街へ影響するかも未確認」


ナディアが聞く。「北側の軍だけ止められる?」


ミオは首を振った。


「北だけ、南だけという使い方ができる保証はありません」


オルザも地図を見る。


「南側部隊にも影響する可能性がある」


「あります」


「なら軍事的には危険です」


鍋屋のおばちゃんが言った。


「軍事的じゃなくても危ないよ。うちの鍋割れたら困る」


小さい。


でも町にはそういう物がいっぱいある。


鍋。


窯。


宿。


麦。


井戸。


人。


道だけ守っているわけじゃない。


俺は一枚目を見る。


通常防衛。


「これ、どれくらい持つ?」


オルザが答える前に、ユリウスが言った。


「分からない。だから昨日までの記録で見る」


ミオが石を並べた。


昨日。


市街三地点占拠。


取り戻すために市街へ人を回す。


その間に東高所、羊道、南西へ北側が再展開。


町を取り戻した時点で、外の民間通行がさらに減る。


「同じ人数、同じ道、同じ守り方を続けた場合、北側が同時に二か所以上へ圧力をかければ、白嶺側はどこかを薄くする必要がある」


「昨日みたいに?」


シン。


「そう」


「じゃあレン増やせば?」


鍋屋のおばちゃんが言った。


俺は吹き出した。


「増えないよ」


「知ってるよ」


冗談だった。


ミオも少し笑った。


その後、二枚目。


南側軍の全面入域。


短期的には守りやすい。


でも白嶺は南側軍事拠点と見なされる可能性が高い。北方側の攻撃理由を強める。南側軍が撤退しない場合、自治も変わる。


三枚目。


北側条件を受ける。


今の戦闘は下がる可能性がある。


でも武装占拠で条件を変えられた前例が残る。南側との関係も悪化。次の要求を断れる保証はない。


全部。


利点がある。


全部。


嫌なところがある。


「四枚目だけ、分からないが多すぎる」


ロムが言った。


ガランが答える。「だから調べる時間が必要だ」


「時間あるのか?」


今度は誰もすぐ答えなかった。


北口から伝令が来た。


北方の炉晶台車。


百歩線からさらに二十歩前へ。


まだ軍事境界は越えていない。


でも近づいた。


南口からも。


南側本隊が、入域許可を再要求。


理由は北方台車前進。


どっちも。


少しずつ。


白嶺へ近づいている。


ユリウスが伝令へ言う。「現状維持。返答は会議後」


伝令が走って戻る。


宿の主人が小さく言った。「会議してる間にも進むんだな」


そう。


待ってはくれない。


俺は四枚目を見る。


古代防衛施設。


本当なら、一番見たいものだった。


黒枠が動くところ。


地下の仕組み。


山の中の古い設計。


でも今は。


見たいから開ける話じゃない。


使うかもしれないから調べる。


使ったら誰かの道を壊すかもしれない。


それを俺が決めるのも違う。


「俺は」


声が出た。


皆が見る。


言い直す。


「俺は、決めない」


鍋屋のおばちゃんが眉を寄せた。「何も?」


「いや、意見は言う。でも俺が見つけたからとか、俺が戦えるからとかで決めない。これ動かしたら、俺だけの道じゃなくなるから」


ロムが言った。「元からお前だけの道じゃない」


「うん。知ってる」


知るのに、ずいぶん時間かかった。


ユリウスが四枚目の紙へ書く。


《作動可否調査を再開するか》


まだ。


《使う》ではない。


ガランが条件を出す。


「触らない。まず見る。第85話までに見た場所をもう一回確認する。崩れが増えてないか。黒枠三つ。操作小部屋。高所。外から見える構造。作動試験はしない」


ミオが続ける。「市街、並行路、生命線になり得る細道への影響範囲を先に重ねる」


シンが言った。「逃げ道なくなるなら、使えない」


オルザは少し考えてから言った。「南側軍としては、未知の大規模設備を作動させることには反対です。ただし調査自体は止めません」


ナディアも言う。「北側の民間としては、北の帰路まで全部潰れるなら困ります。何が残るかを先に知りたい」


北と南。


両方から。


同じ種類の言葉が出た。


自分たちの道を全部消すな。


当たり前だ。


話はそこで一回止まった。


決めるには、町全体へ知らせる必要がある。


でも全員を広場へ集めるのは危ない。


だから、各区へ紙を回す。


シンが一番嫌な顔をした。


「何枚?」


ユリウスが数える。「最低二十四」


「手書き?」


「手書き」


「戦争って紙多すぎない?」


俺もそう思う。


パン屋が笑った。「手伝うよ。字汚いけど」


「レンよりはまし」


シンが言う。


そこは言わなくていい。


午後。


白嶺の各所へ紙が貼られた。


《古い防衛設備について、調査再開を検討します》


《今すぐ動かしません》


《使う場合、街道・周辺施設へ重大な影響が出る可能性があります》


《意見を入口・広場・南宿・北荷場で受けます》


人が読む。


怖いと言う人。


早く使えと言う人。


絶対触るなと言う人。


道が壊れたら商売どうするんだと言う人。


人が死ぬよりいいと言う人。


北の家族へ帰れなくなると言う人。


南の兵に任せろと言う人。


南の兵を入れる方が嫌だと言う人。


全部ある。


夕方。


地下入口の札の前に立った。


第86話から置いてある五行。


《街道通行を最優先》


《地下・南北監視所候補は登録者のみ》


《古い設備は動かさない》


《新しい発見は、その日の運営担当へ》


《事故・危険があれば即変更》


三行目。


古い設備は動かさない。


シンが新しい札を持ってきた。


「外す?」


俺は首を振る。


「まだ」


「じゃあ?」


「横に足す」


シンが書く。


《明朝、住民判断》


字は相変わらず、俺よりうまい。


二枚の札が並ぶ。


動かさない。


明朝、住民判断。


矛盾している。


今の白嶺も、たぶん同じだった。


道を開けていたい。


でも人も守りたい。


北とも南とも切れたくない。


でも軍にはしたくない。


全部を残したい。


昨日までなら、それを頑張ればいいと思っていた。


今日。


初めて。


全部は残せないかもしれないと、町全体が知った。


夜。


北口の炉晶台車は、それ以上進まなかった。


南側六十人も入ってこなかった。


一晩だけ。


まだ道は開いている。


地下の黒枠も動いていない。


明日の朝。


それを続けるかどうかを。


今度は俺じゃなく。


この町が決める。




第118話 道を壊す票は、誰も軽く入れなかった


【本文】


朝、広場へ行くと、昨日より人が少なかった。


集まらなかったんじゃない。


集めなかった。


北口の見張りもいる。南口の荷場も動かす。パンも焼く。怪我人の包帯も替える。町じゅうを一か所へ寄せたら、その瞬間だけ白嶺が空っぽになる。


だから、決める場所を四つに分けた。


広場。

北荷場。

南宿。

東の井戸前。


それぞれに三つの箱が置いてある。


《使う方向で進める》

《調査だけ続ける》

《使わない》


シンが箱を見て、俺の隣で鼻を鳴らした。


「結局また紙じゃん」


「昨日より木が多い」


「慰めになってない」


昨日二十四枚書いた男の顔だった。


俺たちは広場の箱の横に立っていた。投票を見張るためじゃない。質問された時に答えるためだ。


一人目は、鍋屋のおばちゃんだった。


木札を持ったまま、三つの箱を順番に見る。


「これさ。使うに入れたら、今日動かすの?」


ユリウスが答える。


「いいえ。使用を前提に、非作動調査と避難路確保へ進みます。実際の作動は条件確認後です」


「条件って?」


ミオが地図を指した。


「町へ崩落が届かないこと。人が逃げられる道を残せること。北と南、どちらにも退く時間を出せること。操作する人が帰れない仕組みなら、それも先に知らせること」


最後だけ、少し声が低くなった。


まだ誰が操作するかなんて決まっていない。


そもそも、そんな仕組みかも分からない。


でも昨日までの俺たちは、分からないことを理由に触らなかった。


今日は、分からないまま使わないために調べる。


似てるけど、全然違う。


鍋屋のおばちゃんは「ふうん」と言って、まだ札を入れない。


「うちの裏の窯、揺れたら割れる?」


ガランが首を横に振った。


「分からん」


「昨日からそればっかりだね」


「分からんのに分かったと言うよりましだ」


「それはそう」


おばちゃんは一番右の箱へ手を伸ばしかけた。


止まった。


「……いや」


今度は左。


また止まる。


後ろで誰かが笑う。


「早くしろよ、スープ冷めるぞ」


「うるさいね。あんたの家の屋根から先に落としてやろうか」


「俺んちは借家だ」


「じゃあ大家が泣くよ」


いつもの白嶺だった。


戦争の最中でも、こういうどうでもいい会話がなくならない。


結局、おばちゃんは《使う方向で進める》へ入れた。


「鍋は買い直せるから」


それだけ言って帰った。


次に来たのは荷馬車屋のロムだった。


この町で道が消えたら、一番困る人間の一人だ。


「俺は反対に入れるぞ」


誰に断るでもなく言った。


俺は頷く。


「うん」


ロムが俺を見る。


「止めないのか」


「何で?」


「お前、使う方だろ」


「まだ意見言ってない」


「顔に書いてある」


最近そればっかり言われる。


ロムは《使わない》へ札を落とした。


「道で食ってる。道を壊して町だけ残しても、半年後に干上がると思ってる」


「分かった」


「ただし」


ロムは指を一本立てた。


「北口のあれが動いたら、もう一回来る」


炉晶台車。


百歩線の手前に止まっている。


昨日より近い。


使われてはいない。


それが余計に嫌だった。


昼前まで、人は途切れなかった。


三つの箱に入る札より、箱の横に置かれた紙の方が増えていく。


《北へ帰る道を一本残して》

《南の実家へ子どもだけでも出せるようにして》

《店はどうでもいい。井戸を残して》

《牛が通れる道は?》

《使うなら先に墓へ行かせてほしい》

《絶対反対。古い物は触るな》

《南軍全部入れるよりはまし》

《北の軍が退くなら使わなくていい》


正反対の紙が同じ机に積み上がる。


エダンは途中から箱を見なくなった。


紙ばかり読んでいる。


俺が聞いた。


「どう?」


「数より、条件の方が多い」


「条件付きばっか?」


「うん。使うって人も、道全部なくせって言ってるわけじゃない。使わないって人も、今のままでいいって意味じゃない」


エダンは一枚を俺へ渡した。


子どもの字だった。


《お父さんが北にいるから北はのこして》


短い。


きれいでもない。


でも、町を二色に分けるのが馬鹿らしくなるには十分だった。


正午。


北口で鐘が一回鳴った。


全員がそっちを見る。


二回目は鳴らない。


警戒の合図じゃない。


伝令だった。


若い見張りが走ってくる。


「北方台車、さらに十歩前進! 護衛二十六! まだ境界線の外!」


ロムが広場へ戻ってきた。


本当に戻ってきた。


「どの箱?」


俺が聞く。


「うるせえ」


ロムは《使わない》の箱の前で止まった。


さっき自分が入れた札は取り出せない。


代わりに机の紙へ書く。


《北側へ退去期限を出す。守らないなら使う》


字が太かった。


「これなら変えていい」


エダンが言う。


「反対から条件付き?」


「道は飯だ。でも、道を残すために人が死んだら、荷車に誰を乗せるんだよ」


笑わなかった。


俺も。


午後。


四か所の箱が集められた。


数だけなら、《使う方向で進める》が一番多かった。


でも、ユリウスはそこで終わらせなかった。


紙を床いっぱいに並べる。


「条件を先にまとめます」


シンがげんなりした。


「まだ紙増える?」


「増える」


「戦争終わったら紙屋やろうかな」


「儲かるぞ」


パン屋が言う。


ちょっと笑いが起きた。


条件は五つに絞られた。


一つ。市街を崩落範囲に入れない。


二つ。軍がまとまって通れない、人が逃げるための細い道を最低一本残す。


三つ。北側・南側へ同じ時刻に退去通告を出す。


四つ。作動前に、怪我人・子ども・移動困難者を優先退避させる。


五つ。調査で条件を満たせないと分かったら、使用決定を一度止める。


全部、当たり前に見える。


でも当たり前を先に書かないと、戦争の時は消える。


最後にユリウスが聞いた。


「この条件で、防衛機構を使用する方向へ進む。異議がある人は?」


手が上がる。


何本も。


反対は残った。


賛成の人の中にも、不安そうな顔がある。


全員一致じゃない。


誰も拍手しない。


宿の主人が手を上げたまま言った。


「俺は反対。でも決まったなら、宿は避難所にする。そこは別だ」


鍋屋のおばちゃんが返す。


「ありがと。鍋は貸さないけどね」


「何でだよ」


「割れるかもしれないから」


「俺の宿もだよ」


そこで、少しだけ笑った。


ユリウスは紙の一番上へ大きく書いた。


《白嶺住民決定》


その下。


《古代防衛機構を、上記五条件を満たす範囲で使用する》


俺はそれを見た。


第86話。


動かさないと決めた。


第117話。


もう一度見ると決めた。


今日。


使う方へ進むと、町が決めた。


俺じゃない。


そのことが、思ったより嬉しかった。


でも、胸は軽くならなかった。


ミオが地図を畳まずに言う。


「次は、残す道を探す」


「装置じゃなく?」


俺が聞く。


「装置を先に見たら、装置で残せるものしか考えなくなるから」


そう言って、ミオは鞄から一冊の薄い帳面を出した。


俺が見たことのない帳面だった。


表紙に、何も書いていない。


「それ何?」


ミオは少しだけ嫌そうな顔をした。


「公開してない地図」


俺とシンが同時に言った。


「あるの?」


ミオが眉を寄せる。


「あるよ。地図屋が全部出してると思わないで」


第118話の最後に。


白嶺で一番地図を公開してきた人が。


初めて。


隠していた道を、机の上へ置いた。




第119話 ミオが隠していた道は、一列でしか歩けなかった


【本文】


ミオの帳面は、地図というより傷跡の集まりだった。


線が細い。


消してある。


途中で途切れる。


端に小さく書いてある。


《雨の日×》

《荷物片手まで》

《冬、北壁凍る》

《ロープ必要》

《子ども単独不可》


俺が言った。


「何で隠してたの?」


ミオは帳面を押さえたまま答える。


「道として出したくなかったから」


「通れるんでしょ?」


「通れる、と、道にしていい、は違う」


その言い方。


前なら俺が言われる側じゃなかった気がする。


ミオは一つの細い線を指でなぞった。


白嶺の西側。


染物屋の裏。


排水の石溝に沿って上がり、古い炭焼き段を横切る。そこから岩壁の縁を半周して、北西の薬草斜面へ抜ける。


白嶺街道とは別。


羊道とも別。


「これ、いつ見つけた?」


「第六十話台の後半」


「だいぶ前じゃん」


「だから出してない」


「理由になってない」


ミオが俺を見る。


「一人で歩くなら面白い。十人が使ったら危ない。百人が知ったら、崖に手すり付けたくなる。手すり付けたら荷物増える。荷物増えたら道幅広げる。広げたら――」


「街道になる」


「そう」


白嶺街道を作った俺には、よく分かった。


一本の線を地図へ引くだけで、人が来る。


人が来れば、線が太くなる。


太くなった線は、いつか町を作る。


便利になる。


そして、狙われる。


シンが帳面をのぞき込む。


「軍、通れる?」


「まとまっては無理。鎧で横向きになる場所が二か所。荷車は絶対無理。馬も無理。北壁は一人ずつ」


「一人ずつなら兵も通れるじゃん」


「通れる。でも二十人通すのに、たぶん白嶺の人なら四十分以上。知らない人ならもっと。途中で前後入れ替えもできない」


エダンが口を挟む。


「待ち伏せされたら?」


「弱い」


「避難路としてどうなの、それ」


「だから隠してた」


話が戻った。


でも今は。


太い道を残せないかもしれない。


なら、細い道が意味を持つ。


午後すぐ、俺たちは現地へ向かった。


ミオ。

エダン。

シン。

ガラン。

俺。


それと、なぜか鍋屋のおばちゃん。


「何で来るの?」


俺が聞くと、おばちゃんは背負い籠を叩いた。


「逃げ道って、若いのが剣だけ持って走れる道じゃ駄目でしょ。鍋持って通れるか見る」


「鍋いる?」


「いるよ」


即答だった。


シンが小声で言う。


「鍋、重要度高すぎない?」


「白嶺はスープでできてるんだよ」


たぶん違う。


染物屋の裏。


普段は青い水が流れる細い排水溝の横を上がる。


今は染料を止めているから、水は透明だった。


最初の十分は普通だった。


その後。


普通じゃなくなった。


「狭っ」


シンの声が岩に返る。


両側が肩幅くらい。


俺は正面を向いて歩けた。


ガランは無理だった。


横を向く。


鍋屋のおばちゃんも横向きになる。


背負い籠が岩に当たる。


カン。


「ほら」


おばちゃんが言う。


「鍋当たる」


「鍋外せば?」


「避難は手ぶらじゃないんだよ」


それはそうだった。


ミオが帳面へ書き足す。


《背負い籠・幅制限》


道を残すって、線を残すことじゃない。


人が使えることを残す。


子ども。

怪我人。

老人。

荷物。


昨日まで俺は、道を見る時、通れるかどうかを自分で試していた。


今日は、それじゃ足りない。


北壁へ出る。


景色だけは最高だった。


眼下に白嶺の屋根。


向こうに北方の陣。


もっと遠くに、雪の残る山。


足元は最悪だった。


幅、靴二つ半。


左は岩。

右は落ちる。


ロープを張る古い穴が三つある。


ミオが言う。


「ここ。昔は何かの作業道だったと思う」


ガランが穴を見る。


「自然穴じゃないな」


「古代施設?」


俺が聞く。


「決めつけるな。新しい可能性もある」


止められた。


今日はそっちを掘らない。


東斜面の人工入口もまだ放置してある。


面白い穴を見つけるたびに潜ってたら、町が先に終わる。


成長した。


たぶん。


北壁を渡る前に、試す。


鍋屋のおばちゃんが先頭になった。


「何で?」


「若いのが先に渡って、後で『おばちゃん無理でした』じゃ意味ないだろ」


反論できない。


ミオがロープを結ぶ。


エダンが反対側を確認。


俺が中央。


シンは最後。


「俺、落ちたら誰が拾う?」


「下の北方兵」


俺が答える。


「嫌すぎる」


おばちゃんが一歩。


二歩。


三歩。


遅い。


でも進める。


籠が岩に当たるたび、鍋がカン、カンと鳴った。


途中で止まる。


「ちょっと待って」


全員止まる。


「どうした?」


「鼻かゆい」


命に関係なかった。


おばちゃんは片手をロープから離さず、肩で鼻をこすった。


また進む。


こういうのだ。


本物の避難は、きっとこうなる。


怖くても鼻はかゆい。


荷物は重い。


誰かが靴紐を踏む。


子どもは泣く。


作戦図の矢印みたいには進まない。


全員が渡り切るまで、二十二分かかった。


たった六人。


軍道にはならない。


でも、生命線にはできる。


その先の炭焼き段には、低い石小屋が二つ残っていた。


雨なら二十人くらい詰められる。


水はない。


火跡はある。


北西の薬草斜面まで行けば、そこからさらに二つに分かれる。


北へ下る細道。


西へ回って南へ戻る猟師道。


どちらも荷車は無理。


でも人は抜けられる。


エダンが地形を見て言った。


「これ残せるなら、町の両側に逃げられる」


ミオが頷く。


「古代施設の崩落線と重ならなければ」


「分かる?」


「これから重ねる」


戻る途中。


北壁の上で、人影が見えた。


北方兵。


一人。


遠い。


こちらを見ている。


俺が手を剣へやる。


ミオが止めた。


「見られた」


「うん」


「どうする?」


エダンが聞く。


ミオはしばらく黙った。


公開すれば、北側も知る。


公開しなくても、今見られた。


そもそも、この道を避難路にするなら白嶺の人へ教えなきゃいけない。


秘密のまま救命路にはできない。


ミオは帳面を閉じた。


「出す」


声は小さかった。


俺が聞き返す。


「全部?」


「全部。ただし、普通の地図には混ぜない」


「何で?」


「便利な道じゃないから。避難用。使う条件と一緒に出す」


「敵も見るよ」


「見るね」


「いいの?」


ミオは一度、北方兵の方を見た。


「私、公開した地図を戦争に使われて、ちょっと後悔した」


初めて聞いた。


「消したいって思った?」


「思った。三回くらい」


「三回なんだ」


「もっとかも」


ミオは苦笑した。


「でも、地図を出さなかったら助からなかった人もいる。だから今度は、出すか隠すかじゃなくて、何のための地図かまで書く」


それは地図に書けるのか。


たぶん書ける。


白嶺へ戻ると、ミオは自分で掲示板の前に立った。


誰かへ渡さなかった。


自分で貼った。


《緊急避難路・西細道》


《荷車不可》

《馬不可》

《鎧集団不可》

《北壁は一人ずつ》

《雨天原則使用禁止》

《子ども・負傷者は必ず補助者同行》


その横に、簡単な図。


そして一番下。


《軍事利用を防げる道ではありません。避難のために残します》


誰かが読む。


「そんなの書くの?」


ミオは答えた。


「書く。安全だって嘘つくよりいい」


ユリウスが地図を見る。


「崩落範囲との照合は?」


「今から地下図と重ねる」


「北南双方への通知に、この避難路は?」


ミオは少し考えた。


「場所までは出さない。民間避難路を確保する、とだけ」


全部公開する。


でも全部同じ相手へ、同じ時刻に、同じ細かさで出すわけじゃない。


前より難しくなっている。


たぶん、だからいい。


夕方。


古代施設の入口へ戻った。


ガランが新しい札を持っている。


昨日まで。


《古い設備は動かさない》


その横に。


《明朝、住民判断》


今日。


三枚目が増えた。


《使用決定・条件付き》


シンがそれを見て言った。


「また札増えた」


「戦争って紙多いからな」


俺が言う。


「お前まで言うようになったじゃん」


その時、ガランが地下の鍵を回した。


カチン。


扉はまだ開けない。


先に振り返る。


「確認する。今日は作動させない。触るのは、外から分かる構造と操作室まで。異常があったら戻る」


全員頷く。


ミオが地図を抱える。


エダンがランタンを持つ。


シンは縄。


俺は剣。


必要か分からない。


でも持っていく。


ガランが扉を開けた。


冷たい空気が出てきた。


第86話から閉じていた。


町が使うと決めたあとで。


初めて。


俺たちは、古代防衛機構の中へ戻った。




第120話 壊す装置には、先に開ける場所が三つあった


【本文】


地下は、前より狭く感じた。


壁が動いたわけじゃない。


知っていることが増えたからだと思う。


第86話の時は、面白い場所だった。


今は、この壁の向こうに町の行方がある。


そう思うと、石一枚が重い。


先頭はガラン。


その後ろにミオ。


エダン。


俺。


シン。


ユリウスは地上に残った。


誰かが地下へ入りすぎると、外で決める人がいなくなる。


それも昨日までとは違う。


「灯り、二つ落とすなよ」


ガランが言う。


シンが後ろから返す。


「落としたことない」


「お前はない。レンはある」


「一回」


「二回」


ミオが訂正した。


「二回だっけ?」


「二回」


こういう記録だけ正確に残っている。


最初の黒枠。


床に埋まった太い輪。


前に見た時と変わっていない。


ガランが手を近づける。


触らない。


「亀裂増えてない」


ミオが帳面と照合する。


「東側、前回二本。今も二本」


「錆は?」


「増えてるように見える」


「見えるだけかもしれん。記録」


「書いた」


俺は横で見ている。


前なら一番先にしゃがみ込んでいた。


今日は手を出さない。


シンが俺を見る。


「触らないの?」


「触らない」


「成長した」


「お前に言われたくない」


二つ目。


三つ目。


どちらも大きな変化なし。


問題は操作小部屋だった。


石扉を開ける。


前に見た、半円の盤。


三本の古い把手。


読めない文字。


床の溝。


壁の図。


ガランがしゃがむ。


「前はここまでで止めた」


「うん」


「今日は見える物を外す。動力につながってない覆いだけ」


ミオが確認する。


「作動試験じゃない?」


「違う。動力棒には触らん」


シンが俺へ小声で聞く。


「どれが動力棒?」


「俺に聞くな」


ガランが聞いていた。


「赤錆のない太いやつ。触るな」


「分かった」


シンは一歩下がった。


分かりやすい。


石板の端に、小さな固定具が四つ。


ガランが一本ずつ外す。


硬い。


二本目で止まる。


俺が手を出す。


「力いる?」


「いる。でも急に回すな。三分の一ずつ」


一緒に回す。


ギ、ギ、と乾いた音。


俺の方が強い。


でも強い方が勝手に回したら壊す。


変な作業だった。


最後の一本が外れる。


石板を手前へ倒す。


その裏。


空洞じゃなかった。


細い金属棒が束になっている。


三方向へ。


北。

南。

上。


ミオが息を止めた。


「これ……地図」


俺には棒にしか見えない。


「どこが?」


「配置が同じ」


ミオが自分の地図を床へ置く。


白嶺。


主街道。


三つの黒枠。


灰色斜面。


棒の分岐が、だいたい同じ場所にある。


ガランが古い棒の根元を照らす。


小さな板が三枚。


そこに記号。


文字じゃない。


図だ。


一枚目。


太い線が切れている。


二枚目。


太い線の横に、細い線だけ残っている。


三枚目。


丸の中に三つの点。


シンが言う。


「壊す説明書?」


「たぶん」


ミオが答える。


「たぶんって言った」


「今日はたぶんが多い」


俺が言う。


ガランが鼻で笑った。


「古代人が親切に現代語で書いとくわけないだろ」


壁の図を掃除する。


埃を布で払う。


線が増えた。


最初は山に見えた。


違う。


断面だ。


白嶺街道の下。


太い通路。


その左右に細い通路。


さらに下に、何か大きな空間。


エダンが言う。


「町はここ?」


ミオが指を置く。


「たぶん上。崩す場所は、町の北と南の二か所。真ん中じゃない」


俺は少し息を吐いた。


市街を直接落とす構造には見えない。


まだ確定じゃない。


でも一つ目の条件に近づいた。


次。


細い通路。


ミオが西細道の図を横へ置く。


重ねる。


完全には重ならない。


「外れてる」


エダンが言う。


「うん。少なくとも今見えてる崩落線からは外」


「残せる?」


「可能性高い」


シンが小さく拳を握った。


「二つ目」


条件二。


人が逃げる細い道を残す。


一つずつ。


分からないが減っていく。


俺は少しだけ、装置が好きになりそうだった。


すぐに嫌いになった。


ガランが三本の把手を見て言った。


「これ、中央だけじゃ動かん」


「何で?」


「遊びがない」


俺には分からない。


ガランは一本目を、動かない範囲でほんの少し押す。


カツ。


止まる。


「噛んでる。たぶん安全錠。外のどこかを先に開けないと中央操作できない」


ミオが壁の三点を見る。


丸の中の三つの点。


「三か所?」


「可能性ある」


俺は嫌な予感がした。


だいたい、こういう時の三か所は遠い。


ガランが棒の束を辿る。


一本。


北へ。


一本。


南へ。


一本。


上。


「北と南、それぞれ現地解除がいるかもしれん」


「上は?」


「町側。たぶん高所の何か」


エダンがすぐ言った。


「灰色斜面?」


「あり得る」


俺たちは顔を見合わせた。


条件を決めた。


町を守る。


細道を残す。


北と南へ退去時間を出す。


避難させる。


無理なら止める。


そこまでは、町で決められる。


でも。


装置を動かすには。


町の外へ出なきゃいけないかもしれない。


しかも今、町の外には北と南の軍がいる。


「場所、特定できる?」


俺が聞く。


ミオは壁図と公開地図を見比べる。


「北側は……黒枠一からさらに北。古い監視所候補の近く」


俺の頭に場所が浮かぶ。


第百十六話から、北方が押さえ直している高所。


「今、誰いる?」


エダンが答える。


「北方側。昨日の見張りだと二十前後」


「南は?」


「南口外。オルザの本隊より少し東。こっちは話せる」


北。


話せるかもしれない。


話せないかもしれない。


カイルがいる。


シンが俺を見る。


「行く顔してる」


俺は否定しようとした。


ミオが先に言った。


「行くでしょ」


「まだ何も言ってない」


「第何回だと思ってるの」


数えなくていい。


ガランが石板を戻す。


「まだ行くな」


「何で?」


「北だけ見つけて南が違ったら意味ない。三か所全部を特定する。それと、この装置が本当に崩落装置なのか、もう一段見る」


「今日中?」


「できるところまで」


その時。


地上から、三回。


鐘が鳴った。


警戒。


一回。


間。


もう一回。


北口。


俺たちは同時に顔を上げた。


シンが数える。


「北、二回」


エダンはもう扉へ走っている。


地下を出る。


階段を上がる。


外の光が眩しい。


伝令が入口まで来ていた。


息が切れている。


「北方から使者!」


「誰?」


俺が聞く。


伝令は一度呼吸してから言った。


「カイル本人です」


昨日まで。


北方軍は、白嶺へ圧力をかけていた。


今日。


白嶺は、道を壊すと決めた。


そして装置を動かすために必要かもしれない場所の一つが。


カイルのいる側にある。


俺は地下の鍵をガランへ返した。


「今度は、俺が決める話じゃないよな」


ガランが受け取る。


「ああ」


ミオが地図を抱え直す。


「でも話すのは、たぶんレンがいい」


エダンも頷く。


「友達だったから」


「今も友達だよ」


自分で言ってから。


少しだけ、言いにくかった。


北口へ向かう。


道の向こうに。


カイルが一人で立っていた。


剣は腰にある。


抜いていない。


俺を見る。


いつもの顔だった。


だから余計に嫌だった。


「レン」


カイルが先に言った。


「白嶺が、道を閉じると聞いた」


噂が速い。


俺は門の内側で止まる。


「決めた。条件付きで」


「そうか」


怒らない。


驚かない。


カイルは北の道を一度見た。


それから俺へ戻す。


「なら、一つ確認したい」


「何?」


「閉じる前に、北へ帰る人間を通す気はあるか」


住民が決めた五つの条件。


その中にある。


北と南へ同じ時刻に退去通告を出す。


でもカイルが聞いているのは、軍じゃない。


人だ。


俺が答える前に。


カイルが続けた。


「北方兵の話じゃない。白嶺にいる北方出身者と、南側へ避難している北方民間人だ」


戦争の話をしていたはずなのに。


また、人の話へ戻った。


そして、その方がたぶん難しい。


第120話の終わり。


装置を動かす場所は三つ。


その一つは敵側。


でも次に開くのは。


扉じゃなく。


帰る道の話になった。


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