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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第109話 三つの鐘が、同じ時刻に鳴った



【本文】


朝の鐘が鳴った直後、別の鐘が三つ鳴った。


一つ目は西水場。


二つ目は東高所。


三つ目は羊道側。


俺はパンを半分くわえたまま立ち上がった。


「どこから行く?」


シンが通行板を抱えて広場へ飛び込んできた。寝癖はない。今日は起きていたらしい。


「西は水桶ひっくり返って道塞いでる。東は人影四。羊道は北側兵が三人、線の手前まで来て止まってる」


「じゃあ西」


俺が走ろうとしたら、ユリウスに襟を掴まれた。


「待て」


「水止まるよ」


「だから待て。昨日、何を測られた」


止まった。


俺が何分で動くか。


何人ついてくるか。


どの道を使うか。


昨日の棒。


十四本。六本。二十三本。


ミオが地図を机へ広げる。三か所へ、小さな赤石を置いた。


「距離がいや」


「何が?」


「三つとも、レンが走れば七分から十二分くらい。昨日の西斜面とほぼ同じ」


エダンが東を見る。


「呼んでるな」


「俺を?」


「お前じゃなくても、白嶺の主力を」


それは同じようで、少し違う。


俺はもう一回、西を見る。


水場は生活に直結する。


東高所を取られれば見られる。


羊道は北側への細い生命線。


どれも放っておけない。


だから三つ。


「じゃあ分ける」


俺が言うと、ユリウスはすぐ紙を出した。


「西はガランと工兵二。水路の確認だけ。敵影がなければ復旧して戻る。東はエダンと守備四、接触しない。羊道はシン、白布で状況確認。レンは広場」


「俺、何するの」


「動かない」


ひどい。


「それ仕事?」


シンが通行板を抱え直した。


「たぶん今日一番難しいやつ」


むかつくけど否定できない。


オルザも南口から来た。十二人常駐のうち、今日入っている救護二、工兵二、伝令二だけ連れている。


「南側兵は?」


俺が聞くと、オルザは首を振った。


「外で待機させます。三件とも警戒線越境ではない。昨日決めた条件のままです」


昨日までなら、兵が多い方が安心したと思う。


今日は。


向こうが人数を数えているなら、増やすこと自体が情報になる。


「分かった」


言った。


でも、足が落ち着かない。


西へ行きたい。


東も見たい。


羊道でシンが変なこと言わないか心配。


俺は広場を三歩歩いて戻った。


また三歩。


鍋屋のおばちゃんが鍋をかき回しながら言う。


「そこ歩かれると邪魔」


「戦ってるんだけど」


「ここでは歩いてるだけだよ」


その通りだった。


十分。


西から伝令。


水桶が二つ、坂へ転がされていた。縄が切れている。ただし水路そのものは無事。人影なし。ガランたちが戻して終わり。


十五分。


東。


北側兵らしい四人は、見える場所へ一度立ったあと後退。追わない。


十八分。


羊道。


シンが戻らない。


俺は立つ。


ユリウスが見る。


「まだだ」


「十八分だよ」


「連絡予定は二十分」


「二分くらい」


「二分待て」


長い。


十九分。


十九分半。


走りたい。


二十分ちょうど。


シンが坂の向こうから歩いてきた。


走ってない。


片手に紙。


片手に、なぜか大根。


「何それ」


俺が聞くと、シンは大根を見た。


「北から来たばあちゃんにもらった」


「何しに行ったの?」


「確認」


「大根を?」


「違うって」


説明。


羊道の北側兵三人は、線を越えていない。通行人を止めてもいない。ただ、白嶺側が何人来るか見ていた。シンが一人で来たら、少し驚いた顔をしたらしい。


「何て言った?」


ユリウスが嫌そうに聞く。


「『今日は俺だけ』って」


「余計な情報を出すな」


「でも本当だし」


「本当なら全部言っていいわけじゃない」


また教育が始まる。


その横で、ミオが三つの時刻を書き並べた。


西。鐘。


東。鐘。


羊道。鐘。


ほぼ同時。


それから、昨日の棒に残っていた刻みと、北側見張りの合図時間。


「やっぱり試してる」


ミオが言った。


「白嶺が同時に三か所動いた時、何人ずつ出すか」


エダンも戻ってきた。


「東の四人、戦う気なかった。こっちが近づいたら下がった。追えば、たぶんまた時間測られた」


俺は大根を持つシンを見る。


「羊道も?」


「うん。俺見て、紙に何か書いてた」


分かりやすい。


でも。


一個だけ分からない。


「何で大根?」


シンがちょっと怒った。


「ばあちゃんが『朝から立ってるなら食え』ってくれたんだよ。北の兵にも一本渡してた」


戦争中でも大根は配られる。


それで少しだけ笑った。


昼。


今度は鐘が二つ。


南西旧橋。


北口外。


俺は立たなかった。


代わりにシンが通行板の横へ、昨日までなかった小さな板を置く。


《西》《東》《北》《南》


四つ。


その下に、その区域の担当の名前。


西はガラン。


東はエダン。


北はユリウス側の守備。


南はオルザと白嶺運営。


俺の名前はない。


「俺、外された?」


「全部」


シンが答える。


「何かあったところにレンが行くんじゃなくて、手が足りないところに行く」


ミオが横から付け足す。


「呼ばれるまで中央」


「何か俺だけ暇人みたいじゃん」


エダンが笑う。


「一番強い暇人なら便利だろ」


納得したくない。


でも。


その日の午後。


二件目も、俺は動かなかった。


南西旧橋は、石が一つ転がされただけ。工兵が処理。


北口外は北側兵五人が姿を見せただけ。ユリウス側の二人が距離を保って確認。


どちらも戦闘なし。


夕方。


鐘が鳴らなかった。


その代わり、東高所の見張りから伝令が来た。


「北側の観測員、下がった」


「何人?」


ミオ。


「二人。ずっと白嶺見てた。今日、レンが一回も出ないの確認してから帰った」


俺は何とも言えない気分になった。


出ないことが勝ち。


ゲームなら、ボタンを押さないで報酬が出たみたいだ。


夜。


俺たちは昼の記録を見直した。


三つ同時。


二つ同時。


反応。


人数。


時間。


北側は、俺たちを壊していない。


調べている。


そして。


こっちも。


北側が何を知りたがっているかを、少しずつ知り始めている。


ミオが最後に言った。


「明日から、鐘の鳴らし方も変える」


「何で?」


「外から聞いて、場所が分かるから」


そこまでか。


シンが大根を机の端へ置いた。


「これ、どうする?」


誰も答えなかった。


戦争の作戦会議は。


最後、大根の行き先で終わった。


第110話 カイルは剣を置いて、条件を持ってきた


【本文】


次の朝。


北口へ、白い布を持った一人が来た。


兵じゃない。


前にも使者をやった男だった。


紙には短く書いてあった。


《正午。北口外、古い境界石。双方四名まで。武器なし。話したい》


署名。


カイル。


俺は二回読んだ。


「来るんだ」


エダンが紙を覗く。


「やっとボス出てくるな」


「ボス言うなよ」


「お前が一番そういう顔してる」


してたかもしれない。


でも、決闘じゃない。


武器なし。


四人。


ユリウスが聞く。


「行く人間を決める。レン、ミオ、私。あと一人」


「エダン」


俺が言うと、エダンは首を振った。


「俺じゃなくてロム」


意外だった。


「何で?」


「北の話するなら、北に住んでるやつ入れた方がいいだろ。俺は白嶺側だ」


ロムは横で嫌そうな顔をした。


「俺、兵隊の話嫌いなんだけど」


「だからいい」


ミオが言った。


ロムはもっと嫌そうになった。


正午。


古い境界石。


白嶺から北へ少し。北側兵の線より手前。昔、街道管理の境を示しただけの腰くらいの石。


俺たち四人。


向こうも四人。


カイル。


記録役らしい男。


北側の年配の兵。


それと、知らない女性一人。服装は軍人じゃない。


カイルは剣を持っていなかった。


正確には。


腰にあるはずの鞘ごと外して、境界石の北側へ置いた。


俺も剣を外す。


石の南へ。


「久しぶり」


カイルが言った。


普通すぎて、ちょっと困る。


「周り囲ってる人が言う?」


「囲ってはいる」


否定しない。


「でも、落とすつもりなら昨日までに別のことをしてる」


「何」


「それを今、説明しに来た」


ユリウスが先に入った。


「条件を聞きます」


俺が余計なこと言う前に。


カイルも分かっていたみたいで、俺じゃなくユリウスへ紙を出した。


三項目。


一つ。


南側の六十人を白嶺南口から一日行程以上下げる。


二つ。


高純度炉晶を、南側軍用へ回さない。白嶺の生活利用と通常商取引は止めない。


三つ。


白嶺を通る食料・薬・避難民は、北側も南側も妨げない。


その代わり。


北側は東高所と南西旧橋上から兵を下げる。


羊道北出口は武装監視を減らす。


破砕台車は北口八十歩線へ近づけない。


読めば読むほど。


むちゃくちゃではない。


むしろ。


俺が昨日まで困っていたことが、かなり減る。


ロムが紙を読んだ。


「北の荷は?」


カイルの横の女性が答えた。


「通常交易は戻したいです。北でも麦が足りない。炉晶を止め続ければ、南から買う金も減る」


商人か。


ロムが聞く。


「名前は?」


「ナディア。北側の交易組合です」


軍だけで来なかった。


その辺も、カイルっぽい。


ミオは紙の二つ目を指した。


「『南側軍用へ回さない』を誰が判断するの」


カイルが答える。


「白嶺」


「北側じゃなく?」


「北が判断したら、白嶺の意味がない」


「南も同じ」


「そう思ってる」


俺はカイルを見る。


何か変だった。


敵と話している感じが薄い。


第4章で一緒に吹雪の中を歩いた時みたいに。


問題を並べて、どうするか考えている感じ。


でも。


兵は外にいる。


水場を見た。


道を塞いだ。


反応を測った。


「昨日の十四人」


俺が言った。


カイルの目が少しだけ変わった。


「俺の指示だ」


「何のため」


「白嶺の守り方を見るため」


「人使って?」


「兵だ」


「足くじいたやついた」


「報告は受けた。治療したそうだな」


「それも計算?」


カイルはすぐ答えなかった。


ここで「違う」と言ってくれたら楽だった。


「レンなら、置いていかない可能性が高いとは思ってた」


腹が立った。


「じゃあ、怪我するかもしれないやつ置いて、俺がどうするか見た?」


「怪我させろとは命令してない」


「同じだろ」


「同じじゃない。でも、責任がないとも言わない」


カイルは目をそらさなかった。


それが余計にむかつく。


俺は境界石の上へ手を置いた。


冷たい。


「俺、お前と戦えばいいと思ってた」


「俺は思ってない」


即答。


「何で」


「強いから」


「そこ?」


「そこも。お前に勝つために兵を減らしたら、北を守れない」


カイルは少し間を置いた。


「それに、俺がここでお前と戦って勝っても、麦は増えない」


分かる。


分かるから腹が立つ。


ロムが鼻を鳴らした。


「二人で喧嘩するなら後にしてくれ。こっちは冬越す麦の話しに来てる」


俺とカイルが同時に黙った。


ロム、強い。


そこからは条件の話になった。


南側兵六十を一日下げる。


オルザたちは、たぶん嫌がる。


俺も、北側が囲んでいる間に味方だけ遠ざけるのは怖い。


高純度炉晶の軍用停止。


目的は分かる。


でも荷物を開けて全部判断するのか。


誰が「軍用」と決めるのか。


鍛冶用の鉄筒が、後で破砕台車に使われたら?


食料・薬・避難民を止めない。


これは賛成。


でも武装護衛は?


今の北では、護衛なしで通れない場所もある。


条件を細かくすると、すぐ穴が出る。


カイルは途中で笑った。


「白嶺、面倒になったな」


俺は言い返す。


「お前が面倒にしてるんだろ」


「半分はな」


「残り半分は?」


「人が増えた」


それは本当。


昔なら。


俺とカイルが決めて終わったかもしれない。


今は。


白嶺に住んでる人。


北の人。


南の人。


商人。


軍。


荷運び。


皆が同じ道を使っている。


最後。


ユリウスが聞いた。


「回答期限は?」


「明日の朝まで」


「短い」


「軍を置いたまま三日待つ方が危ない」


それも分かる。


ミオが条件書をたたんだ。


「返事するまで、位置を動かさない?」


カイルは年配の兵を見る。兵が一度頷く。


「今夜から明日の朝まで。北側は新しい高所へ出ない。白嶺側も北方位置へ接近しない。南側六十も現位置から北上させない。それなら約束できる」


「破砕台車は?」


俺が聞く。


「今の場所」


「八十歩線には?」


「入れない」


決まった。


一晩だけ。


戦争を止めたわけじゃない。


場所を動かさないだけ。


帰る前。


カイルが剣を拾う。


俺も拾う。


「レン」


「何」


「白嶺を南の砦にしたいわけじゃないなら、話はできる」


俺は鞘を腰へ戻した。


「北の砦にもしたくない」


カイルは少し笑った。


「だから、話しに来た」


俺は笑えなかった。


でも。


剣は一回も抜かなかった。


それはたぶん。


今日の一番大きな結果だった。


第111話 返事を書くのに、町じゅうが喋った


【本文】


白嶺へ戻ったら、話がもう広がっていた。


速い。


俺たちが北口から戻るより先に、誰かが「カイルと停戦するらしい」と言い、別の誰かが「南の兵を追い返す」と言い、鍋屋のおばちゃんのところでは「炉晶が禁止になる」まで進んでいた。


全部違う。


「誰が言ったの」


俺が聞くと、おばちゃんは鍋をよそいながら言った。


「知らないよ。朝から三人くらい違うこと言ってた」


噂は足が速い。


しかも途中で育つ。


宿の広間。


また人が増えた。


ユリウス。


ミオ。


エダン。


シン。


ガラン。


俺。


ハルド。


オルザ。


ロム。


パン屋。


鍋屋。


南側商人二人。


北側から白嶺へ避難している家族の代表。


薬売り。


荷運び。


全員に条件書を見せた。


最初にオルザが言った。


「南側部隊を一日行程下げる条件は受けられません」


予想通り。


「理由は?」


ユリウス。


「北側が現在位置を維持したまま、こちらだけ後退する。軍事的には一方的です。東高所と旧橋上から兵を下げても、北口外と羊道を残すなら再展開は容易です」


ロムが言う。


「でも六十人が門の前にいるのも、北から見たら怖いぞ。昨日も荷車一台、見て帰った」


オルザはロムへ向く。


「そこは理解しています。だから白嶺内へ入れていない」


「門の中じゃなくても槍六十本は槍六十本だ」


「では北側兵も同数以上下がるべきです」


「それを決めるのは俺じゃない」


話がぐるぐるする。


パン屋が手を上げた。


「麦は通るの?」


全員が一度止まった。


「条件どおりなら、通る」


俺が答える。


「なら、そこ先に決めて。兵の話してる間に粉なくなる方が困る」


鍋屋のおばちゃんも頷く。


「薬もね。兵隊の話は長い」


正しい。


ユリウスが紙を三枚に分けた。


《今日止めないもの》


《軍の位置》


《炉晶》


一枚ずつ。


ミオが地図を出す。


「線を三つにする」


赤い線。


白嶺の町そのもの。


その外へ、黄色い線。


民間の通行帯。


食料、薬、避難、通常商荷。


さらに外。


軍が入らない線。


「北と南、同じ線?」


俺が聞く。


「地形が違うから距離は同じにできない。でも考え方は同じ」


ミオは北側、南側、それぞれに線を引く。


オルザが見る。


「南側部隊をこの線の外へ?」


「今の野営地より百五十歩南」


「下げることにはなる」


「一日行程じゃない」


「北側は?」


「東高所と旧橋上から下がる。羊道北出口は武装監視をやめて、民間確認二人まで。北口外は今より後ろ」


ロムが地図へ顔を寄せた。


「これなら北の荷も来れる」


ハルドが聞く。


「誰が民間通行帯を管理します?」


シンが通行板を抱えたまま言った。


「白嶺」


全員が見る。


シンは一瞬だけ困った顔をした。


「だって北にやらせたら南が嫌で、南にやらせたら北が嫌なんだろ。じゃあ今やってる俺たちでいいじゃん」


言い方は雑。


でも、それしかない気がした。


ミオが小さく笑う。


「書く」


シンが付け足す。


「あと、麦袋に旗つけるのやめようよ」


「旗?」


「北の麦とか南の塩とか言ってるけど、食う時どっちでもいいだろ」


ロムが吹き出した。


「そりゃ北の麦は今少ないけどな」


「そういう意味じゃない!」


広間が少し笑う。


戦争の話なのに。


笑えるうちは、まだ大丈夫な気がした。


次。


炉晶。


ここが一番揉めた。


オルザは、軍用へ流れない保証がなければ南側は炉晶の北行きも南行きも厳しく確認したいと言う。


ガランは怒る。


「確認してる間に炉止まる。箱だけ見ても軍用かどうかなんて分からん」


薬売りは言う。


「薬草乾燥にも使ってます。止められたら冬場は困る」


宿の主人は二階の暖房。


鍛冶屋は焼き入れ。


北側商人は売上。


一つの石に用途が多すぎる。


結局。


炉晶そのものは止めない。


代わりに。


白嶺の民間通行帯へ、炉晶を組み込んだ軍用台車、盾付き加熱具、攻城用と判断できる完成装備を入れない。


材料の鉄筒や木材まで禁止しない。


高純度炉晶の大量輸送は記録する。


完璧じゃない。


抜け道はいくらでもある。


でも。


今の白嶺が見分けられる範囲だけ決める。


夕方。


返事ができた。


カイルの条件を、そのまま受けない。


白嶺からの逆提案。


北も南も、軍は民間通行帯の外。


食料・薬・避難・生活物資は白嶺管理で通す。


炉晶の生活利用は止めない。


完成した軍用装備は通さない。


北側の羊道武装監視は外す。


南側六十人は百五十歩だけ下げる。


白嶺内十二人常駐は救護・工兵・伝令に限定したまま。


それを紙へ書く。


ここまでで、三回書き直した。


一回目。


字が小さすぎる。


二回目。


ユリウスが「敵」という言葉を全部消した。


三回目。


シンが勝手に《麦袋に旗はない》と端へ書いた。


消された。


「いい言葉じゃん」


「正式文書へ書くな」


「じゃあ札にする」


「それも待て」


たぶん後で書く。


日が落ちる前。


使者が北へ持っていった。


返事は早かった。


全部は受けない。


北側は東高所と南西旧橋上から兵を下げる。


破砕台車はさらに百歩後ろへ下げる。


食料・薬・避難民の通行は白嶺管理を認める。


ただし。


羊道北出口の確認は残す。


北口外の兵も下げない。


南側六十人は、白嶺案の百五十歩では足りない。


つまり。


半分合意。


半分そのまま。


カイルから一行だけ追加があった。


《明日の正午まで、新規前進なし。話は継続できる》


勝ったのか。


負けたのか。


分からない。


でも、その夜。


東高所の北側兵が本当に下りた。


南西旧橋の上も空いた。


破砕台車も見えなくなった。


広場で、それを聞いた人たちが少しだけ歓声を上げた。


俺も。


ちょっと安心した。


「減ったじゃん」


シンが言う。


「うん」


「話した方が早かった?」


「それはまだ分からない」


ミオが地図を見たまま言った。


返事が固い。


「何?」


俺が覗く。


ミオは北側配置の記録を並べていた。


昨日。


北口外。


羊道。


東高所。


南西旧橋。


尾根。


西側。


確認できた人数。


時間ごと。


「下がった人数が少ない」


「どういうこと?」


「見えてた位置が空いた数と、北へ戻るのを見た数が合わない」


エダンが来る。


「どれくらい」


ミオが計算する。


「正確じゃない。交代もある。でも、昨日まで白嶺周囲で確認した最大が六十前後。今日、北へ戻ったのを目視できたのは三十八」


俺は地図を見る。


「残りは?」


「分からない」


その時。


シンが、窓の外を見た。


「鐘、鳴ってないよね」


誰も鳴らしていない。


静か。


昨日まで、人影があった場所が空いている。


話が進んだから。


そう思いたい。


でも。


第108話。


勝った場所だけが静かだった。


今日。


話が進んだ場所まで、静かになった。


エダンが地図の東側を指でなぞる。


「北へ帰ってないなら、横へ動いたか」


「どこへ?」


俺が聞く。


エダンは答えなかった。


地図に載っている道には、もう赤い石がほとんどない。


それが。


安心より先に。


怖かった。


第112話 兵が減ったんじゃなく、見えなくなった


【本文】


朝。白嶺は、昨日までより静かだった。


東高所に北側兵はいない。南西旧橋にもいない。破砕台車も見えない。北口外と羊道北出口にはまだ人影があるけれど、数は少ない。昨日の話し合いが、ちゃんと形になったように見える。


それなのに、ミオは朝飯を半分残したまま地図から顔を上げなかった。


「まだ数えてるの?」


俺が聞くと、ミオは紙を一枚こっちへ滑らせた。昨日まで見えた北方兵の人数。交代した人数。北へ戻るところを確認できた人数。時刻ごとに並んでいる。


「最大で六十前後。戻ったのを見たのが三十八。重なって数えた可能性もあるし、見落としもある。でも、二十人前後が説明できない」


「別の場所で休んでるとか」


「ある。でも、北へ帰ったなら北口か尾根のどこかで見えるはず」


エダンがパンをちぎりながら言った。「横へ動いたなら見えない。北へ戻る道だけ見てるからな」


それで、朝の仕事が決まった。


追うんじゃない。昨日の暫定停止は正午まで続いている。北側の線を越えて探し回ったら、こっちが約束を破ることになる。だから白嶺側から見える範囲だけ、足跡と地形を確認する。


俺は行きたかった。でもユリウスに止められた。


「レンは中央」


「また?」


「まただ」


「俺、昨日から置物なんだけど」


横でシンが通行板に新しい紙を挟みながら言った。「高い置物だから大事に置いとくんだよ」


「お前、最近ほんと口悪くなったな」


「誰のせいだと思ってる」


結局、エダンとミオ、それに白嶺の見張り二人が東側へ。ガランは南西旧橋。ユリウスは北口。シンは通行と伝令。俺は広場。


鍋屋のおばちゃんに、また邪魔だと言われた。


「今日も歩くだけなら、薪割って」


「戦争中なんだけど」


「薪も戦争中だよ。勝手に割れてくれないから」


斧を渡された。


俺は薪を割った。


三本目を割ったところで、宿の主人が椅子を抱えて広場を横切った。


「何してるの?」


「見張り台」


「椅子じゃん」


「立ちっぱなしは腰にくるんだよ」


戦時の見張り台が、宿の食堂椅子になった。しかも座面に穴が開いている。主人は「これが一番軽い」と言って気にしていない。


南側の兵が二人、それを見ていた。軍人の見張りは立つ。白嶺の見張りは座るらしい。どっちが正しいかは知らない。長く続けられる方が正しい気もした。


しばらくして、南口からハルドが来た。後ろにオルザ。二人とも顔が固い。


「南側から、六十名を白嶺内へ入れるよう再要請が来ています」


昨日、北側が見える場所から下がった。その直後に、今度は南側が入りたがる。


「理由は消えた兵?」


俺が聞くと、オルザが頷いた。「二十人前後の所在が分からない。軍事的には、最悪を考えます。陽動部隊、迂回部隊、先行潜入。どれでも白嶺にとって危険です」


「でも全部入れたら、昨日の話が壊れる」


「その通りです。だから、私は要請を持ってきただけです」


オルザはそこを勝手に決めない。


助かる。でも、決めるのはこっちになる。


昼前。宿の広間に人が集まった。昨日より少ない。毎日こんな会議をやっていたら店も荷運びも止まるから、今日は代表だけ。


南側兵を全部入れるべきだという声は、昨日より増えていた。


パン屋が言う。「兵が町の中にいる方が安心なのは安心だよ。北の二十人がどこにいるか分からないんだろ?」


一方でロムは首を振る。「南の兵が六十入ったら、北から普通の荷が来なくなる。昨日やっと話が動いたのに、今日ひっくり返したら誰も信用しない」


北側から避難している女性は、もっとはっきり言った。「私は北の兵が怖くて白嶺まで来た。でも南の兵六十人の中で暮らしたいわけでもないです」


どっちも分かる。


俺はオルザを見る。「六十人全部じゃなくて、今の十二人を増やすなら?」


「軍としては二十人、できれば三十人。ですが、増やすだけで北方側への見え方は変わります」


ユリウスが紙へ書く。人数。食料。寝床。指揮。外からの見え方。


シンが途中で手を上げた。「兵増やす前に、見張り増やせばいいんじゃない?」


全員が見る。


「町の人で?」と俺。


「戦うんじゃなくて、見るだけ。北の兵が町に入ったら戦う人がいる。でも、入る前に見つける人が足りないんだろ」


雑な言い方。でも、その通りだった。


その場で、店主、荷運び、宿、鍛冶屋、北から避難している人から、二時間交代の見張りを出すことになった。武器は持たせない。見る。数える。変なら鐘じゃなく、近い運営担当へ走る。昨日から鐘の鳴らし方自体が北側へ情報になると分かったからだ。


決め始めると、すぐ現場の問題が出た。


鍛冶屋は「昼は炉から離れられない」と言う。パン屋は「朝四刻までは無理」。北から避難している老人は「目は悪いけど耳はいい」と言い張る。ユリウスが止めようとすると、その老人は机を叩いた。


「兵の顔を見る仕事じゃないんだろ。荷車の音と、普段しない足音くらいは分かる」


結局、昼の見張りじゃなく夜の宿裏担当になった。代わりに、若い荷運び二人が北側の屋根を見る。店ごとに無理な時間を出して、空いたところへ別の人を入れる。


きれいな当番表にはならなかった。


でも、空白はなくなった。


シンが最後に紙へ書いた。


《眠かったら交代を呼ぶ》


ユリウスが眉を寄せる。


「当然だ」


「当然のこと書いとかないと、我慢する人いるだろ」


誰も消さなかった。


南側十二人はそのまま。六十人本体も外。警戒線越境時の二十人即時入域もそのまま。


増やさなかった。


正しいかは分からない。


でも、昨日決めたことを怖くなっただけで全部捨てるのも違う気がした。


会議が終わる頃、エダンたちが戻った。


ミオの靴に、黒い泥がついている。白嶺の雪道ではあまり見ない色。


「どこ行ったの?」


「東じゃない」


ミオが紙を広げる。


エダンは椅子へ座らず、壁際に立ったまま靴底の雪を落とした。


「最初は北へ戻る跡だった。二十人くらい。途中で二つに分かれて、一つは普通に北。もう一つが西へ曲がってる」


「何人?」


「雪が重なってる。十五以上、二十五以下。そこまでしか言えん」


ミオが頷く。


「人数を一つに決めない。今は範囲で残す」


二人は、停止線を越えないぎりぎりまで行ったらしい。岩の斜面へ足跡が上がる。そこから雪が薄くなる。代わりに、岩の窪みに黒い泥。古い炭の粉。新しく折れた枝。


「焚き火は?」と俺。


「ない。灰は古い。でも枝は今日か昨日」


「荷物の跡は?」


エダンが首を振る。


「車輪なし。橇もなし。人だけ」


大きい装備は持っていない。


でも、人だけなら動ける。


それが、逆に嫌だった。


ミオが紙の端へ、小さく《兵とは未確定》と書いた。


「ここまで来て?」


俺が聞く。


「軍靴っぽい跡はある。でも北の山仕事も同じ靴を使う。決めるのは早い」


本当に、こういう時のミオはしつこい。


でもそのしつこさが、今は必要だった。


北へ戻る足跡は途中まである。そこから西へ曲がる跡。岩の多い斜面。雪が薄く、足跡が途切れる。その先でエダンが見つけたのが、黒い泥と炭の粉。


エダンが地図の北西を指した。「昔の炭焼き場がある。今は冬で誰も使ってない。道ってほどじゃないけど、北側の山仕事してたやつなら知ってる」


「公開地図には?」


俺がミオを見る。


「ない。危険だから載せてない」


初めて、少し安心した。


全部ミオの地図のせいじゃない。


でも次の言葉で、その安心は消えた。


「炭焼き場から先が分からない。岩棚が続いてる。白嶺側からは見えない」


エダンも腕を組んだ。「二十人くらいなら、列を細くすれば動ける。荷車は無理。大きい装備も無理」


「人だけなら?」


「行ける」


そこへ北口の使者が来た。


カイルから。


《正午まで新規前進なし。約束は守った。話し合いは継続する》


時刻。


正午の少し前。


文面どおりなら、嘘はない。


新しく前へ出ていない。


見えていた場所から下がった兵が、北へ帰ったとも書いていない。


俺は紙を読み返した。


「これ、ずるくない?」


ユリウスが答える。「約束の範囲では、ずるくない」


「もっと嫌だ」


正午の鐘。


暫定停止が終わる。


すぐには何も起きなかった。


一分。


二分。


三分。


シンが広場で大根をかじっている。昨日のやつだ。


「それ生で食うの?」


「食えるよ」


「辛くない?」


「辛い」


何してるんだ。


その時。


北西の見張りから人が走ってきた。


「煙!」


全員がそっちを見る。


白嶺の北西。冬は使わない炭焼き場の向こう。岩棚のさらに先。


細い煙が一本。


次に二本。


合図なのか。


ただの火なのか。


まだ分からない。


そこへ、北から来た小さな荷車が一台、北口へ入ってきた。兵じゃない。薪を積んだ夫婦。昨日も通った顔で、シンがすぐ名前を思い出した。


「今朝、北西で人見た?」


シンが聞くと、御者の男は首を傾げた。


「道では見てない。山側に煙はあったな。炭焼き再開したのかと思った」


隣の妻が口を挟む。


「この時期にやらないよ。雪深いもん。それより兵隊、北の広場には戻ってなかったよ。昨日いた連中、朝には半分くらいしかいなかった」


「どこ行ったか知ってる?」


「知るわけないでしょ。兵隊追いかける趣味ないよ」


普通の答えだった。


薪の値段の話になって、夫婦はそのまま中へ入った。戦争中でも薪は売る。白嶺は買う。


その荷車が通り過ぎてから、ミオが地図へ赤い石を置いた。


昨日まで、そこには何もなかった。


「兵が減ったんじゃない」


ミオが言った。


「見えなくなっただけかもしれない」


第113話 勝てそうな場所に、敵が集まった


【本文】


正午を七分過ぎたところで、北側が動いた。


最初に見えたのは、旗だった。北西の岩棚。その下。白嶺から南西旧橋へ抜ける斜面に、北側の旗が一つ出る。


次に盾。


五枚。十枚。さらに後ろ。


エダンが望遠筒を奪うみたいに俺の手から取った。「三十……いや、もっといる。四十前後」


「消えた二十人?」


「分からん。こっちは普通に鎧着てる」


つまり、見失った連中とは別かもしれない。


北側兵は隠れなかった。


むしろ見せるように斜面へ出てくる。


前に盾。後ろに弓。そのさらに後ろ。低い台車。


炉晶破砕台車。


昨日下げたはずのものが、別の一台なのか、回り込んだ同じ台車なのか。そこまでは分からない。ただ、白い筒と盾付きの形は同じだった。


ガランが舌打ちする。「南西旧橋へ降ろす気だ。あそこ抜かれたら、南からの荷車が本線しか使えなくなる」


ミオが地図へ線を引く。


本線。


南西旧橋。


西側の水場。


北側が今いる斜面を取れば、白嶺の南西側の迂回がほぼ一本に絞られる。


しかも。


そこは公開地図に《荷車退避可》《見通し良》《冬季も比較的安定》と書いた場所の上だった。


「また地図」


俺が言う。


ミオは頷くだけだった。


落ち込む時間はない。


北側の先頭が、白嶺で決めた軍事境界へ近づく。


あと二十歩。


十歩。


越えた。


南口のオルザがすぐ言った。「条件成立です。二十名、入れます」


昨日までなら、ここで俺が「行く」と言って終わっていた。


今日は、先に役割が決まった。


ユリウスは町に残る。避難と食料、南側との入域管理。ミオは東高所の監視所候補から全体を見る。シンは広場。各区域からの伝令を受けて、人と物の通り道を変える。ガランは旧橋の工兵側。オルザは南側二十名を率いる。


俺とエダンは前。


そこは変わらなかった。


出る直前、シンが俺の腕を掴んだ。


「帰り道、一個にしないで」


「何?」


「西へ人集めるだろ。帰る時、旧橋だけ使うと詰まる。怪我人は水場側、動ける人は宿裏側へ回す。伝令には言っとく」


俺は一瞬だけシンを見る。


こいつ、もう俺が戦うことより、終わった後の道を考えている。


「分かった」


「あと、勝っても追いすぎないで」


「ユリウスみたいになってきたな」


「嫌だ」


即答だった。


そこはまだシンだった。


「やっと置物終わり?」


俺が聞くと、ユリウスは真顔で言った。「今度は動け。ただし、戻れと言ったら戻れ」


「信用されてるのかされてないのか分からない」


シンが横から言う。「半分くらい」


「お前に聞いてない」


町を出る前。


鍋屋のおばちゃんが俺に包みを投げた。


「何?」


「パン。昨日から食べるの遅いから」


「今?」


「走りながらでも食べな」


オルザが少し驚いた顔をする。


俺は包みを腰へ入れた。


戦争の装備にパンが増えた。


西斜面。


北側兵は、境界を越えてから速かった。


前の盾列が道幅いっぱいに広がる。後ろから炉晶台車。弓は高い場所へ。


真正面から押し返すのは面倒だ。


でも白嶺側も、もう昨日までと違う。


俺一人じゃない。


エダンが右の岩場を指す。「上、六人なら回れる」


オルザは南側兵へ短く指示する。「正面を止める。追うな。境界の外へ出たら止まれ」


白嶺の守備側は水場へ続く横道を塞ぐ。


ガランの工兵は旧橋側に丸太を入れる。壊すためじゃない。台車が一気に下りられないようにするため。


俺は正面へ行かない。


エダンと三人で右の岩場へ上がる。


途中、足が滑った。


「レン!」


エダンに腕を掴まれる。


「大丈夫」


「大丈夫なやつは今落ちかけない」


「雪が悪い」


「雪は昨日からここにいる」


言い返せない。


上へ出る。


北側の弓兵が二人。こっちを見る。


今度は「あ」と言う暇もない。


矢。


俺は岩へ伏せる。一本が耳の横を抜ける。二本目。エダンが盾代わりの木板を上げる。


近づく。


一本。


二本。


三本目を撃つ前に距離が詰まる。


俺は剣の腹で弓を払う。相手が短剣へ手をやる。先に肩へ体を入れて倒す。もう一人はエダンと白嶺守備が押さえる。


下。


正面の盾列が崩れない。


オルザの二十人も押し切れない。


白嶺側の若い守備が一人、盾の端で頬を切った。血を見て一歩下がる。南側の救護兵が引こうとするけれど、本人は「まだ立てる」と抵抗する。


オルザが怒鳴った。


「立てるかじゃない! 見えるか!」


若い守備が瞬きをする。


片目に血が入っている。


「……右が見えにくい」


「下がれ!」


本人は悔しそうにしたけれど、今度は従った。


強いかどうかじゃなく、今使えるか。


オルザはそこを迷わない。


俺は前だけ見ていた自分に気づいた。


北側は、俺たちが上へ回ったのを見ても退かない。


「昨日と違う」


エダンが言う。


「うん」


昨日は見て、測って、下がった。


今日は取る気がある。


俺たちは上から弓位置を外す。弓兵が下がる。正面の北側盾列が一瞬だけ上を見る。


その時、東高所から白布が二回振られた。ミオの合図。


二回は《北口変化なし》。


三回なら《北口増援》。


一回なら《不明》。


昨日まで鐘で町中へ知らせていたことを、今日は見える相手だけに変えた。


俺は白布を確認してから斜面を下りる。


オルザがそこを逃さない。


「前へ!」


南側兵が押す。


白嶺守備も合わせる。


盾と盾がぶつかる音。


正面は押している。


でも左。


水場へ回る細道に、北側の槍兵が六人入った。白嶺守備二人では止めきれない。


俺はそっちへ向きかける。


高所から白布。


一回。


《不明》。


すぐ二回目。


《北口変化なし》。


さらに、広場側から走ってきた伝令が叫ぶ。


「西水路、シンが人回した! 守備五、向かってる!」


俺が行かなくても埋まる。


昨日なら、たぶん自分で走っていた。


今日は前を見る。


俺は斜面を下りる。


走る。


炉晶台車の横へ。


工兵が白い筒を旧橋側の石留めへ向けている。


俺を見る。


二人。


一人が槍。


一人が工具を投げる。


工具の方が怖い。


頭の横を鉄の鍵みたいなものが飛んだ。


「それ投げるものじゃないだろ!」


「敵に言うことか!」


向こうまで返してきた。


普通に喋るな。


槍を避ける。柄を掴む。引く。相手も離さない。


一瞬、綱引きになる。


俺が蹴る。


相手が離れる。


槍がこっちへ来る。


使わない。横へ投げる。


工兵のもう一人が炉晶の保持具へ手を伸ばした。


何かする。


止める。


腕を掴む。


「触るな!」


相手が怒鳴った。


「じゃあ止めて!」


「止めるのに触るんだよ!」


分からない。


俺は手を離さず、ガランを呼ぶ。


「ガラン!」


下から怒鳴り声。


「壊すな! 筒の後ろの板倒せ!」


どの板。


いっぱいある。


「右!」


俺から見て?


ガランから見て?


迷った瞬間、工兵が笑った。


「そこじゃない」


敵に教えられた。


腹立つ。


結局、ガラン本人が来た。


「どけ!」


台車の後ろへ回り、留め具を一つ外す。白い筒の向きが下がる。


炉晶の光が弱くなる。


「燃料抜くな。急に触るな。熱い」


北側の工兵まで一緒に頷いた。


なんだこの場面。


でも。


台車は止まった。


でも北側はすぐ別のやり方へ変えた。


炉晶台車を捨てるように後ろへ下げ、盾兵だけで旧橋の上へ押し込んでくる。壊すより、人で取る。


オルザが俺へ叫ぶ。


「右は持ちます! レン、中央へ!」


「分かった!」


走る。


途中でパンの包みが腰から落ちた。


拾うか迷う。


迷った。


後ろの白嶺守備が拾った。


「後で返す!」


「食べていいよ!」


「じゃあ食べる!」


食うのか。


中央へ入る。


盾の隙間。


剣を振る場所は狭い。だから柄で押す。足を引っかける。倒れた相手を踏まないよう横へ出る。北側兵も殺し合いに来ているというより、場所を取るために押してくる。


一人を倒しても次がいる。


二人目。


三人目。


疲れる。


強くなったはずなのに、人数は普通に重い。


そこへエダンが上から石じゃなく雪を落とした。屋根から剥がしたみたいな固い雪の塊。北側の盾に当たり、視界が一瞬白くなる。


「石じゃないの?」


俺が聞く。


「当たったら死ぬだろ!」


それもそう。


その一瞬で、正面が半歩戻る。


北側の盾列が押し戻され始める。


上の弓も減った。


水場へ回ろうとした小隊も、白嶺守備に止められている。


勝てる。


そう思った。


たぶん、皆も思った。


だからこそ。


ミオからの伝令が来た時、俺はすぐ意味が分からなかった。


「北口側、静かすぎる」


「昨日からだろ」


「違う。羊道北出口の確認役も減った。北口外も半分以下」


エダンが俺を見る。


俺も見る。


北側の兵が、今ここに集まっているから。


そう考えれば説明できる。


でも。


昨日から足りない二十人は。


ここにはいない。


目の前の北側兵は四十前後。


鎧も旗も普通の部隊。


消えた人数とは別。


「レン」


オルザが呼ぶ。


正面が崩れた。


北側兵が一段下がる。


その横で、さっき止めた炉晶台車の工兵が一人、足を押さえて座り込んでいた。味方は下がっていく。


俺は一瞬だけ見る。


追えば、前へ出られる。


でも置いていけば、また第108話と同じになる。


「ガラン!」


「見えてる!」


ガランが白嶺守備一人へ顎をしゃくる。


「そいつだけ運べ。台車は後!」


北側工兵が驚いた顔をする。


「俺、敵だぞ」


「知ってる。静かに運ばれろ」


ガランの言い方が一番雑だった。


それで十分だった。


今なら押せる。


追えば、旧橋上まで取り返せる。


俺は北口の方を見た。


見えない。


「行くぞ!」


結局。


俺は前を選んだ。


そこに、勝てそうな戦いがあったから。


第114話 大勝した時、町の中で鐘が鳴った


【本文】


北側が下がった。


一段。


二段。


南西旧橋の上まで。


俺たちは追う。


ただし、境界の外までは行かない。ユリウスとオルザが何度も言った線。その線まで。


北側の隊長が振り返る。第108話の若い隊長じゃない。年上。肩に白い毛皮。俺を見て、剣を抜いた。


「レン!」


名前を知っている。


「誰?」


「今聞くのか!」


怒られた。


知らないものは知らない。


剣が来る。


重い。


速さより、一発が重い。


俺は一歩下がる。二発目を受け流す。三発目。足元の雪が崩れる。


また滑る。


今日は本当に足場が悪い。


「さっきも落ちかけたぞ!」


エダンが後ろから怒鳴る。


「見てたの!?」


「見えるわ!」


戦いながら恥ずかしい。


相手の隊長が少し笑った。


その瞬間だけ、力が抜けた。


入る。


剣を横へ払う。


相手の手首へ当てる。


剣が雪へ落ちる。


でも相手は下がらず、肩からぶつかってきた。


俺もぶつかる。


剣の勝負が、急に喧嘩みたいになる。


押す。


押される。


足元。


境界石の手前。


俺は相手の腰をずらし、そのまま雪へ倒した。


剣先を向けない。


「終わり」


男は息を切らしながら俺を見る。


「……強いな」


「名前は?」


「まだ聞くのか」


「知らないまま勝った感じになるじゃん」


男は笑った。


「ヴァンデル」


「分かった。ヴァンデル、下がって」


「言い方が軽い」


でも、下がった。


隊長が下がると、北側の前線も下がった。


北側の若い兵が一人、退きながら仲間の肩を貸している。こっちにも怪我人がいる。雪に落ちた盾、折れた槍、熱の残った炉晶台車。さっきまでの勢いが、急に物の数に戻っていく。


オルザは勝ちに酔わなかった。


「負傷者を分けろ! 北側は線の外まで返せる者を先に返す。白嶺側は町へ。台車の炉晶には触るな!」


ガランも怒鳴る。


「熱残ってるぞ! 水かけるな! 勝手に冷やすな!」


俺は何か手伝おうとして、ガランに追い払われた。


「お前は人見ろ! 機械見るな!」


最近、俺の担当が勝手に決まる。


旧橋上。


その先。


軍事境界の外。


オルザが追撃を止める。


「ここまで! 出るな!」


南側兵が止まる。


白嶺守備も止まる。


エダンが息を切らしながら俺の肩を叩いた。


「勝ったな」


「うん」


今回は。


ちゃんと勝った。


水場は取られていない。


旧橋も使える。


西水場も無事。


南から止まっていた小型荷車が、遠くでこっちを見ながら御者台から手を振っている。まだ通行再開の合図は出ていないのに、もう勝った顔をしていた。


シンからの伝令が来る。


《町内異常なし。北口静か。避難路空き》


俺はその紙を見て、ようやく息を吐いた。


「パンある?」


さっき拾った守備を探す。


少し離れたところで、半分食べていた。


目が合う。


「ごめん」


「いいよ。残りちょうだい」


包みごと投げてくる。


戦場で人が食べた残りのパンを食べることになるとは思わなかった。


でも腹が減っていた。


一口。


冷たい。


それでもうまかった。


炉晶破砕台車は一台、白嶺側の線の内側に残った。北側工兵二人も取り残されたけれど、武器を置いたので拘束だけ。重傷者なし。白嶺側は怪我人七。南側兵四。北側はもっと多い。でも死者は、見える範囲では出ていない。


俺たちは歓声を上げた。


南側兵も。


白嶺の守備も。


旧橋の向こうで見ていた荷運びも。


俺まで剣を上げた。


その時。


町の方から鐘が鳴った。


一回。


長い。


全員が止まる。


二回目。


短い。


三回目。


また長い。


俺はオルザを見る。


オルザも知らない顔。


エダンが言う。「あの鳴らし方、決めたやつじゃない」


そう。


第109話から、鐘の鳴らし方は変えた。


外から場所を読まれないように。


区域ごとの異常は鐘じゃなく伝令。


今、町の中心にある大鐘を鳴らすのは。


火事。


市街内の直接危険。


それだけ。


俺は走った。


オルザが何か言う。


聞かなかった。


坂を下りる途中、最初の避難者とすれ違った。パン屋の弟子二人。手に粉袋。戦いから逃げる荷物としては変だ。


「何してる!」


俺が叫ぶと、片方が叫び返した。


「粉庫の方に北の人いるって! これだけ持って出ろって親方が!」


「人は?」


「裏道で南側へ出してる! シンが回してる!」


動いている。


俺がいなくても。


昨日作った生活路。パン屋の裏。薪置き場。家の間。地図に全部は出していない白嶺の細道。


今度は戦うためじゃなく、人を外すために使われていた。


少しだけ呼吸が戻る。


でも走る。


境界を戻る。


坂を下る。


パンの包みが腰で揺れる。


まだ食べていない。


白嶺の屋根が見える。


煙はない。


火事じゃない。


じゃあ何。


南口側から、南側兵が動くのが見える。でも六十人本体じゃない。中にいる十二人。救護と工兵と伝令。武器を持って広場へ向かっている。


広場の手前。


いつもなら人で詰まる細い通りが、逆に空いていた。戸が閉まっている。窓の隙間から目だけが見える。犬が一匹、綱を引っ張って吠えている。飼い主のおじいさんが家の中から「静かにしろ!」と怒鳴っているけれど、犬は静かにならない。


洗濯場の脇では、南側の救護兵が子ども二人を裏路へ誘導していた。


「お母さんは?」


俺が聞く。


「後ろにいます! 三人とも無事!」


答えが返る。


白嶺の細い生活路が、ちゃんと動いている。


戦う人が前へ。


住民は横へ。


混ぜない。


昨日まで皆で歩いて決めたことが、今使われている。


その事実だけは、少し嬉しかった。


広場の手前。


人が走ってくる。


シン。


顔が白い。


転びそうになりながら。


「レン!」


「何!?」


「中!」


「何が!」


「北の兵!」


止まった。


「どこ」


「穀物倉庫。鐘楼の下。それと北側の古い宿通り。少なくとも十七。まだいるかも」


意味が追いつかない。


北側兵は外にいる。


今、俺たちが押し返した。


「どうやって」


「分からない! 服、普通だった。薪の荷車とか、北から来た人の中にいた。鐘楼の前で急に腕章出した」


「今日入った?」


シンは首を振る。


「それも分からない。見たことある顔が二人いた。昨日から荷運び手伝ってたやつかもしれない。北の人、全員の顔なんて覚えてない」


そこが刺さった。


白嶺は、通る人を敵か味方かで全部登録していない。


北の人は北の人。


南の人は南の人。


商人。荷運び。家族。避難。


兵じゃなければ通す。


そうやって道を開いてきた。


その中に、兵を混ぜられたのかもしれない。


まだ、かもしれない。


断定するには早い。


でも町の中にいる。


民間通行帯。


食料。


薪。


避難民。


止めないと決めた道。


「武器は?」


「短いのだけ。長い槍とか弓はない。でも倉庫の入口押さえてる。人は外へ出してる。今のところ、住民には手出してない」


少しだけ。


本当に少しだけ安心した。


そのすぐ後。


腹が立った。


「ユリウスは?」


「広場。ミオも。南側の十二人と白嶺守備で、道を三つ塞いでる。追い込むなって。町の中で戦ったら店も家もあるから」


正しい。


正しいけど。


走りたい。


俺は広場へ入る。


いつもと同じ場所。


鍋屋。


パン屋。


通行板。


でも人がいない。


店の戸が閉まっている。


広場の北側だけ、盾を持った白嶺守備が並ぶ。


その向こう。


鐘楼の下。


普通の冬服を着た男たち。


腕に、北側の白い帯。


武器は短剣と小盾。何人かは斧。薪割りに使うのと、見た目は大きく変わらない。


その一番前の男が、俺を見る。


知らない顔。


男は短剣を下へ向けたまま、大声で言った。


「住民は家へ入れ! 出てこなければこちらから入らない!」


白嶺守備がざわつく。


敵なのに、言っていることだけ聞けば住民を守るみたいだ。


ユリウスが低く返す。


「穀物倉庫と鐘楼を占拠して、その言葉を信用しろと?」


男は答える前に、後ろの一人へ何か言った。北側兵が倉庫の戸から離れる。中から白嶺の荷運びが二人、両手を上げたまま出てきた。怪我はない。


「中にいた民間人は出す。倉庫の物にはまだ触れていない」


「まだ?」


俺が聞く。


男はこっちを見る。


「命令が来るまで動かさない」


命令。


誰から。


聞かなくても一人浮かぶ。


でもミオが俺より先に言った。


「カイルとは限らない」


俺の顔を見ただけで分かったらしい。


「北方軍の指揮系統は一人じゃない。今は決めつけない」


「分かってる」


「今の顔、分かってない」


「分かってるって」


こういう時まで言われる。


「信用しろとは言わない。離れろと言っている」


会話が成立する。


だから余計に怖い。


暴れているだけなら、俺が倒せばいい。


目的があって動いている。


知らない顔。


でも靴。


黒い泥。


ミオが朝、持ち帰ったのと同じ色。


炭焼き場。


消えた兵。


俺が西で戦っている間に入った?


いや。


もっと前から?


「レン」


ユリウスの声。


俺はそっちを見る。


「突っ込むな」


「分かってる」


返事をした。


今日は。


本当に分かってる。


町の中だ。


後ろに家がある。


横に店がある。


逃げ遅れた人もいる。


俺が強くても、剣を振れば全部守れる場所じゃない。


ミオが低い声で言う。「西斜面の部隊、私たちを外へ出すためだった」


「カイルが?」


「まだ断定しない。でも、時間が合いすぎる」


俺は外を見る。


さっきまで戦っていた西斜面。


勝った。


隊長を倒した。


破砕台車も残した。


旧橋も守った。


ちゃんと大勝だった。


その歓声が上がった瞬間に。


町の鐘が鳴った。


鍋屋のおばちゃんが、店の裏から顔だけ出した。


「レン!」


「出ないで!」


「分かってるよ! 鍋だけ火止めたいんだよ!」


今それ。


でも、そういう町だ。


シンが俺の横へ来る。


息はまだ整っていない。


通行板を抱えている。


こんな時まで。


「レン」


「うん」


シンは鐘楼の方を見たまま言った。


「勝ったの、外だけだ」


一拍。


「中、取られてる」


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