第103話 同じ道を守るのに、立つ側が変わった
【本文】
朝、白嶺の入口に行ったら、札が増えていた。俺が書いたんじゃない。シンの字でもない。
《凍結時、上部集落への単独移動禁止》
《帰還予定を必ず残す》
《予定を一刻過ぎたら捜索判断》
《自力下山できない者は、危険条件成立前に移動を始める》
四枚。俺は一枚目から読み直した。
「これ、誰が決めたの?」
横で荷車の車輪を見ていたガランが、顔も上げずに答えた。
「昨日の夕方。お前が東斜面から戻る前に」
「俺いないじゃん」
「いなかったから何だ」
返す言葉が、一瞬出なかった。入口の机では、ユリウスが昨日の通行記録を束ねている。その横で鍋屋のおばちゃんが、何故か大根を切っていた。俺はそっちを見る。
「おばちゃんもいた?」
「いたよ。三枚目は私。腹減った人間は時間守らないから、一刻過ぎたら探せって言った」
「それ、腹減るの関係ある?」
「ある。あんたら若いの、飯抜くと判断雑になるから」
たぶん俺のことだ。シンが北口から戻ってきた。肩に白い布を巻いている。今日の通行担当の印。
「あと、上の家の鍵」
「鍵?」
「降りた人が預けてった。春まで見回りするなら、勝手に戸を壊さなくていいようにって」
シンは腰の袋から、木札のついた鍵を三本見せた。名前と家の位置。誰に返すかまで書いてある。俺が知らない間に、増えていた。ルールも。役割も。鍵を預かる人も。少しだけ変な感じがする。置いていかれたような。でも、嫌じゃない。
「俺、何すればいい?」
シンが俺を見る。
「今日は北の便。荷車六台来る予定」
「それだけ?」
「それだけじゃ駄目?」
言い方が、ちょっと生意気になった。たぶん、いいことだ。午前の二刻目。北から荷車が見えた。六台。予定通り。その前後に、武装した人間がいる。二人。二人。合計四人。第102話で決めた上限そのまま。剣は鞘のまま。槍は穂先を布で包んである。白嶺の入口手前で速度を落とし、先頭の男がハルドの机へ紙を出した。登録。人数。武器。荷主。食料の行先。紙どおり。何も問題ない。なのに。空気だけが、昨日までと違った。荷運びの人が、護衛の槍を見る。南側の役人が、北側の紋を見る。
見物人は今日は少ない。たぶん、誰かが「兵が来る」と言ったんだと思う。最後尾に、カイルがいた。服が違う。鎧になったわけじゃない。いつもの厚い上着。でも肩に、黒い帯。俺は近づく。
「それ何」
カイルは帯を指でつまんだ。
「臨時護衛指揮」
「昇進じゃん」
「だから、まだ祝うなって言っただろ」
「昨日よりは、おめでとうでよくない?」
「今日の便が帰るまで待て」
真面目だ。その横で、ロムが荷台から顔を出した。
「祝うなら帰りにしろ。麦袋一つ破けてる。今はそっちが先だ」
全員そっちを見る。本当に破けている。麦が少しずつ落ちている。シンが袋を持ってくる。エダンが荷台へ上がる。カイルの護衛の一人も、何も言わずに縄をほどく。兵が来た最初の仕事は。麦袋の穴を縫うことになった。ちょっと安心した。でも。昼前。南側から新しい紙が来た。三日間の実測を受けた、通行負担の修正案。食料。塩。薬。冬用燃料。避難者の生活物資。この辺は負担なし。高価格の炉晶。大量の商用鉱材。南側で転売される大型商荷。そこには負担。しかも、一台ごとじゃない。
荷の種類と量で見る。俺でも、前の案よりましだと思う。ハルドは机の端を指で叩いた。
「恒久ではありません。十四日間の試行です。実測は続けます」
ロムが紙を見る。
「十四日なら飲める」
別の北側商人が聞く。
「炉晶の値段が下がったら?」
「見直します」
「南で買い叩かれた時も同じ?」
ハルドが少し止まった。
「そこは追加条件が必要ですね」
また増える。一回で完璧にはならない。それでいい気がしてきた。鍋屋のおばちゃんが紙を覗き込む。
「鍋の鉄は?」
「量によります」
「曖昧だねえ」
「すみません」
「謝らなくていいよ。決めたら教えて。高いなら木の柄を長く使うから」
制度の話が、鍋の柄へ落ちる。こういう時。俺は白嶺が好きだと思う。午後。十四日試行。食料と生活物資は負担なし。危険時の停止条件。武装護衛の上限。武器を抜かない場所。理由記録。救助優先。羊道は緊急時のみ。一つずつ。白嶺側の札へ書き直した。俺はほとんど口を出していない。シンとユリウス。ハルド。ロム。荷運び。店の人。ガラン。エダン。勝手に、と言うと変だけど。ちゃんと進んだ。
「レン」
ミオが呼ぶ。
「何?」
「さっきから札見て笑ってる」
「笑ってない」
「口の端だけ」
「気のせい」
たぶん。少し嬉しかった。俺がいなくても。道は止まらない。夕方。北へ戻る便の前。カイルが俺を呼んだ。
「少し歩くか」
北口の外。街道脇。人の声が小さくなるところまで行く。カイルは紙を一枚持っていた。開かない。封がついたまま。
「何それ」
「帰ってから読む命令」
「読んでないの?」
「内容は口頭で聞いた」
嫌な言い方だ。俺は待つ。カイルは北の山を見る。
「食料路を、北の軍が守ることになった」
「今日みたいに?」
「最初はな」
「最初は?」
「止められた時の権限も俺に来た」
風が冷たい。昨日より。たぶん気温はそんなに違わない。
「どこまで?」
俺が聞く。
「必要な道を確保するところまで」
「白嶺も?」
「命令に名前はない」
「それ、答えになってない」
カイルは少しだけ顔をしかめた。
「だから、今言ってる」
俺は黙った。カイルが、俺に先に言う。それ自体は。友達だからだ。でも。
「次も教えてくれる?」
聞く。カイルはすぐ答えなかった。遠くで、荷車の鈴が鳴る。北へ帰る便。今日の食料は通った。ルールも守った。誰も剣を抜いていない。それでも。カイルは言った。
「次からは、言えないことが増える」
胸の奥が、少しだけ重くなる。怒ってはいない。カイルも。俺も。同じ道を守りたい。北の人を飢えさせたくない。白嶺を壊したくない。たぶん。そこまでは同じ。
「カイル」
「何だ」
「俺、白嶺にいるから」
「知ってる」
「遺跡も行かない」
「それも聞いた」
「誰から?」
「シン」
あいつ。カイルは初めて少し笑った。
「お前が遺跡を後回しにしたって聞いて、雪でも降るかと思った」
「もう降ってる」
「じゃあ吹雪だな」
ちょっと笑う。普通に。そのあと。カイルは北へ帰った。兵四人と。空になった荷車と。今日決めた十四日分の札の写しを持って。俺は白嶺の北口に立ったまま、その背中を見る。昨日まで。カイルは、道を通る側だった。今日から。道を守る側になった。俺も同じ。ただ。守る側が。同じ側とは限らなくなった。
第104話 戦いは、北口から来なかった
【本文】
四日後。朝のパンが、二十個減った。俺が気づいたんじゃない。鍋屋のおばちゃんが気づいた。
「パン屋、今日少ないよ」
白嶺の広場。いつもの時間。いつもの匂い。でも籠が一つ少ない。パン屋は窯の前から顔を出して、粉のついた手を振った。
「麦が一便遅れてるんだよ。昼には来るって話だから、朝だけ減らした」
それだけ。最初は。シンが通行板を見る。
「北からの便?」
「南から」
「予定、朝一刻」
「今、三刻」
三時間。遅れている。事故なら連絡が来る。検査ならハルドのところに残る。橋なら、誰かが走ってくる。何もない。俺はパンを一つ買った。最後の一個。シンが見る。
「俺のは?」
「先に買えばよかったじゃん」
「昨日食べられた分、まだ返してない」
「それはお前が食べたんだろ」
いつもなら、そのまま言い合う。今日は。シンが先に北と南を見る。俺も見る。南。来ない。ユリウスが広場へ入ってきた。歩くのが速い。
「南側の中継所から連絡。麦便は出ている」
「じゃあ途中?」
俺が聞く。
「白嶺南西の旧橋で止まった。橋そのものは壊れていない。手前の坂に倒木」
エダンがちょうど宿から出てくる。
「雪で?」
ユリウスが首を振る。
「切られている」
空気が変わった。俺はパンをシンに投げた。
「食べといて」
「レンは?」
「後で」
「そういうのやめろって、おばちゃん言ってた」
正しい。でも今は行く。南西旧橋。白嶺の本線じゃない。本線が混んだ時に、小型荷車だけ回す迂回路。ミオの公開地図にも載っている。俺。エダン。ガラン。南側の護衛二人。現場へ着く。木が三本。道を横切って倒れていた。自然じゃない。切り口がある。でも。雑。斧。大きさもばらばら。
「兵の仕事に見えない」
俺が言うと、ガランが切り口を触った。
「兵だから綺麗に切るとは限らん」
エダンは地面を見る。
「人、多い。十人以上」
「荷車は?」
「ない。徒歩」
倒木の向こう。足跡は北西へ上がっている。白嶺の外周。高い方。俺は追いたくなる。でも。先に麦。
「どかす」
ガランが頷く。切る。引く。荷車を通す。一時間。その間に、別の連絡。北口。羊道の北出口。武装した北側の兵が立っている。止めてはいない。ただ、通る人間を記録している。さらに。東側の高所。第84話で見つけた監視所候補の外側。そこにも人影。白嶺へ入ってこない。門にも来ない。でも。外の道にいる。俺は木を引きながら、嫌な感じがした。カイル。北口から来ると思っていた。兵を連れて。話す。揉める。最悪、戦う。そういう形を勝手に想像していた。違う。昼。麦便は入った。
朝のパン不足は、それで終わった。誰も飢えていない。でも、次の便。南から来る塩。その荷車が、別の場所で止まる。理由。橋の手前に石。大きい。一個。落石にも見える。ただ。道の端に、足場が組まれていた痕がある。人が動かした可能性。ガランが言う。
「壊すんじゃない。遅らせてる」
何のため。答えは夕方に来た。北側からではない。白嶺の東見張りから、シンが走ってきた。
「北の兵、三か所」
息を切らしている。
「北口の外。羊道の出口。東の高所。全部、白嶺には入ってない」
「人数」
ユリウスが聞く。
「見えたのは二十七。まだいるかも」
「旗は?」
「北側の旗。カイルは見てない」
俺は地図を出す。ミオも来る。紙を広げる。三か所。北口。羊道。東高所。俺は指で結ぶ。白嶺の中心じゃない。周り。ミオが、何も言わずに別の印をつける。南西旧橋。塩便が止まった岩場。
「これ」
ミオが言う。
「全部、迂回に使う場所」
ユリウスが顔を上げる。
「本線を止めた時の代替路か」
「そう」
俺が言う。北口を取る。羊道を見張る。東高所から動きを見る。南側の迂回を遅らせる。白嶺へ攻め込まなくても。動ける道が減る。エダンが低い声で言った。
「囲ってる」
誰も否定しなかった。そこへ、ハルドが来る。南側の役人二人と。顔が固い。
「南側から確認要請です。北方軍が白嶺周辺へ展開したという情報があります。南側護衛を増員する案が出ています」
最悪だ。北に兵。南も兵。間に白嶺。俺は言う。
「待って。増やしたら、向こうも増やす」
ハルドが疲れた顔で返す。
「私もそう思います。ただ、こちらだけ増やさない判断をするには、白嶺が守られる根拠を出せと言われています」
「俺がいる」
口から出た。ハルドは俺を見る。少し困った顔。
「それは、現場では強い根拠です」
「現場では?」
「上へ出す書類に『レンがいます』だけでは通らない」
ちょっと腹が立つ。でも。たぶん正しい。俺一人で全部守る。前なら、それでいいと思った。今は。トヴァンの木札を思い出す。一人の判断が外れた時。全部外れる。
「じゃあ何がいる」
俺が聞く。ハルドは言う。
「誰が、どこを、何人で守るか。避難路。食料。北側が動いた時の連絡。南側が入る条件。白嶺側の意思」
面倒。ものすごく。でも。やる。その夜。俺たちは地図を囲んだ。戦う地図じゃない。通す地図。食料。水。避難。怪我人。火事。狭い場所。荷車の旋回。雪崩が起きた時。そして。北の兵がいる場所。ミオが線を引く。シンが通行板を横へ置く。ユリウスが人数を数える。エダンが冬に使えない道を消す。ガランが橋の耐荷重を言う。俺は。どこへ行けば一番強いか。最初にそれを考えた。でも。二番目に考えた。俺がいない場所を、誰が守る。そっちの方が大事になっていた。夜半。北口から一人来た。
武器なし。白い布を腕に巻いている。使者。紙。宛先は白嶺の運営側。俺宛てじゃない。ユリウスが読む。
《北方食料輸送の安全確保のため、北側接続路および高所監視点を一時管理する。白嶺内部への進入意思なし。食料便の通行を妨げないこと。南側武装部隊の北上は敵対行為とみなす》
最後。署名。カイル。俺は紙を見た。ちゃんと。カイルだった。攻め込んでこない。俺を呼び出さない。決闘もしない。ただ。俺たちが動くための場所を。先に取った。戦いは。北口から来なかった。道の外側から。少しずつ。白嶺を囲み始めていた。
第105話 公開した地図に、包囲線が重なった
【本文】
朝。ミオが自分の地図を三枚並べた。古い版。新しい版。商人向けの簡略版。俺は横から見る。違いが分からない。
「何探してる?」
「北側が取った場所」
ミオは赤い石を置く。北口外。羊道北出口。東高所。南西旧橋へ降りる斜面。塩便が止まった岩場。五つ。それから、古い版を俺へ押した。
「見て」
見る。分からない。
「全部載ってる」
言われて、やっと分かる。北口。羊道。高所。迂回路。橋。全部。ミオが公開した地図にある。
「そりゃ地図だから載ってるだろ」
俺が言うと、ミオは首を振った。
「違う。載ってるだけじゃない。『本線が止まった時に使える』『見晴らしがいい』『冬でも通れる』『荷車二台まで退避できる』って書いてる」
俺は黙った。その地図。商人が使った。遭難者を助けた。南から初めて来た人が、迷わず白嶺まで来た。食料便も。避難者も。カイルも見ていた。ミオは地図の端を指で押さえた。
「私が書いた」
声が小さい。俺は何か言おうとした。大丈夫とか。悪くないとか。でも。たぶん違う。ミオは大丈夫かどうかを聞いていない。事実を言っただけ。エダンが机の向こうから地図を覗く。
「公開しなかったら、去年の吹雪で死んだやつ増えてる」
ミオが顔を上げる。
「分かってる」
「なら消すなよ」
「消さない」
返事が速い。そこはミオだった。
「公開したことと、今どう使われるかは別。次を考える」
俺より立ち直るのが早い。いや。落ち込んでいないわけじゃない。手が。地図の端をずっと押さえている。シンが入ってきた。寝癖。片方だけすごい。緊張してたのが、ちょっと抜ける。
「北口、変化」
「何」
ユリウスが聞く。
「兵増えた。昨日の倍くらい。でも、門からは離れてる」
「南は?」
「ハルドが止めてる。まだ増援入れてない」
よかった。今は。シンが赤い石を見る。
「そこ全部、地図の場所?」
「そう」
ミオ。シンは少し考える。それから。
「じゃあ載ってない道、あるよ」
全員、シンを見る。
「どこ」
俺が聞く。
「パン屋の裏」
「道って言わないだろ」
「通れるよ」
「人だけだろ」
「人が通れれば、薬は運べる」
言われた。パン屋の裏。宿の裏。古い排水溝の上。家と家の間。住んでる人しか使わない細い抜け。地図に載せていない。危ないから。私有地だから。行き止まりが多いから。商人へ教える意味がなかったから。ミオが紙を一枚出す。
「白嶺の中だけなら、かなりある」
エダンが笑う。
「外から来たやつほど知らんやつな」
ユリウスが言う。
「ただし避難路として使うなら、所有者の同意がいる」
「そこから?」
俺が言う。
「そこから」
全員。また面倒。でも。今度はちょっと楽しい。戦争なのに。そう思う自分が嫌だけど。道を探すのは好きだ。昼まで。白嶺の中を歩いた。パン屋の裏。薪置き場。洗濯場の脇。地下入口の横。昔の倉庫と崖の間。人だけ。担架ぎりぎり。荷車不可。雪が積もると消える。家主に怒られる場所。犬が噛む家。一つ一つ。
「ここ通るなら先に声かけて」
「夜は駄目。ばあちゃん寝てる」
「この柵は外せる。でも戻して」
「牛いるから開けっぱなし禁止」
戦時地図。というより。町内会みたいだ。でも。こういうのが。外から見えない白嶺なんだと思う。ミオは地図へ全部は書かなかった。別の紙。運営側だけ。俺が聞く。
「公開しないの?」
「今は」
「前は全部出してたのに」
ミオが少し考える。
「全部じゃない。必要なものを出してた。今も同じ」
確かに。俺が勝手に、公開地図は全部だと思っていただけ。午後。最初の問題が起きた。羊道の北出口。白嶺の薬売りが、北側の村へ薬を届けようとして止められた。北の兵は言う。食料路保護中。登録のない商用通行は確認が必要。白嶺側は言う。薬は生活物資。十四日試行では負担なし。北側は言う。南側ルールは北側軍の通行管理と別。言ってること。全部分かる。だから面倒。俺が行こうとする。ユリウスが腕を掴んだ。
「待て」
「薬だよ」
「分かっている。だからまず使者を出す」
「時間かかる」
「何の薬だ」
薬売りが答える。
「熱冷ましと、傷薬。今日中ならいい。今すぐじゃない」
止まる。今すぐじゃない。俺は行ける。五分で。たぶん。でも。行ったら。全部俺になる。
「……シン」
呼ぶ。シンが嫌な顔をする。
「何で俺」
「昨日から偉そうだから」
「理由になってない」
「使者やって」
「もっとなってない」
文句を言いながら。行く。白い布。紙。薬の箱。北の兵と話す。遠いから声は聞こえない。十分。二十分。シンが戻る。
「通るって」
「何て言った?」
「熱出してる人に、規則読ませる気かって」
ユリウスが額を押さえた。
「もう少し別の言い方を覚えろ」
「通ったよ」
「結果だけで評価しない」
「レンに言って」
俺を見るな。薬売りは笑いながら羊道へ向かった。一つ。通る。でも。夕方。別の場所は通らなかった。南西旧橋。北側兵が、橋そのものじゃなく。橋へ降りる上の斜面を取った。そこ。公開地図に、
《荷車の退避可・見通し良》
とある。兵を置くにも。いい。俺は遠くから見る。十二人。盾。弓。少し後ろに、炉晶の箱。
「炉晶?」
俺が言う。ガランが目を細める。
「箱だけじゃ分からん」
嫌なものを見た。炉晶。俺たちが生活用に広げた。乾燥。暖房。加工。南へ売った。北の稼ぎになった。第4章から。便利だった。今。兵の横にある。まだ何に使うか分からない。決めつけない。ミオが言う。
「記録だけ」
「うん」
俺は頷く。その時。北側の斜面から合図旗。三回。兵が動く。俺は反射で剣へ手をやった。でも。こっちへ来ない。十二人のうち四人が下がる。別の四人が上へ。残り。動かない。交代。それだけ。俺は手を離す。カイルは。俺がどこにいるか、たぶん知っている。公開地図。見張り。人の流れ。全部見れば分かる。それでも来ない。俺と戦わない。俺が強いから。たぶん。そこも使っている。俺を避けて。道を取る。高い場所を取る。迂回を減らす。町の外を少しずつ狭くする。ゲームなら。
ボスを倒しに行く。強い敵がいる場所へ。今は逆。敵が、俺のいる場所へ来ない。
「ずるいな」
俺が言う。エダンが横で聞く。
「何が」
「カイル」
「頭いいって言えよ」
「言いたくない」
「じゃあずるいでいい」
少し笑った。その直後。南口の鐘が鳴った。二回。緊急じゃない。大きな来訪。俺たちは振り返る。南側。旗。兵。一列。二列。まだ白嶺の中には入っていない。ハルドが走ってくる。
「止めています!」
「何人?」
ユリウス。
「六十。南側は『白嶺防衛のための派遣』と」
北。兵。南。兵。間。白嶺。俺はミオの地図を見る。赤い石。北側の五か所。そこへ。南側の印を置く場所が増えた。包囲線は。地図の外から来たんじゃない。俺たちが。人を迷わせないために。助けるために。開いた道の上へ。そのまま重なってきた。
第106話 六十人を入れたら、守る相手が増える
【本文】
南口の外に、兵が六十人いる。朝になっても、まだいた。昨日と同じ平地に天幕が並び、槍はまとめて立てられ、南側の旗だけが冷たい風にはためいている。夜のうちに勝手に入ってこなかった。それだけで少し安心した。でも、朝飯を食べた兵が六十人いる景色は、安心とは別の意味で圧があった。
広場の鍋屋のおばちゃんが門の方を見ながら言った。「六十人って、朝だけでパン何個食べるんだい」
戦争の最初の心配が、そこだった。パン屋が窯の奥から粉だらけの顔を出す。「一人二個なら百二十。無理だよ。今日の麦便まで食わせたら、昼に町の分がなくなる」
南側の兵が敵という話じゃない。俺たちを守るために来た。でも町に入れれば、寝る場所がいる。食べる。水を使う。馬もいる。怪我人が出たら治療する。六十人分の味方は、六十人分の生活でもあった。
昼前、宿の広間で話すことになった。ハルド。ユリウス。ミオ。エダン。シン。ガラン。俺。北側の荷運びを代表してロム。店側から鍋屋のおばちゃんとパン屋。それに南側から、昨日の六十人を率いてきた隊長が一人。名はオルザ。四十を少し過ぎたくらいで、声が大きそうな体なのに、話し方は思ったより静かだった。
オルザは最初に言った。「先に明確にします。こちらから白嶺を接収する命令は受けていません。目的は北方武装部隊が南へ抜けるのを防ぎ、白嶺を守ることです」
「じゃあ、外にいるままでもいい?」と俺が聞くと、オルザは少しだけ困った顔をした。「守る側としては、中へ入った方が動きやすい。負傷者の回収も、北口への移動も早い。ただし、白嶺側が拒むなら無断では入りません」
ちゃんとしている。ちゃんとしているから、逆にこっちが決めないといけない。俺は最初、入ってもらえばいいと思った。北に兵がいる。南にも味方が六十人いる。強い方が安心する。でも、ミオが地図へ北側の赤石と南側の青石を置き、間に白嶺を残した。
「六十人がここへ入ると、外から見た白嶺は南側の軍事拠点に見える」
オルザが頷く。「北方がそう解釈する可能性はあります」
「可能性っていうか、するだろうな」エダンは椅子の背にもたれたまま、北側の赤石を指で転がした。「向こうは『南側武装部隊の北上は敵対行為』って紙を出してる。門の中へ六十人入ったら、向こうから見れば答え合わせだ」
ロムも腕を組む。「北から食いもん買いに来る連中だって、南の兵が門に立ってたら入りづらい。こっちは北方軍の兵じゃない。北側に住んでるだけだ」
オルザはロムへ向き直った。「承知しています。だから白嶺の判断を待っています」
その横で、シンが机の端に指を並べて何か数えていた。「寝床、足りないよ。宿の空き十八。倉庫二つ使っても二十人くらい。残りは天幕。馬は南側の草地。水場は今でも朝混む。それと便所」
オルザが一瞬だけ黙った。シンは気にせず続ける。「六十人入れるかって、兵だけ入れる話じゃないだろ。六十人が一日いる話だよ」
俺はちょっと感心した。昨日までこいつは、使者で「熱出してる人に規則読ませる気か」と言っていたのに。
ユリウスが紙へ項目を書いていく。《軍事上の利点》《白嶺が南側拠点と見なされる危険》《生活負荷》《北側民間通行への影響》《指揮権》。最後の一つで、俺は手を上げた。
「指揮権って?」
「中へ入った六十人に、誰が指示を出す」ユリウスが答える。
「オルザさんじゃないの?」
「戦闘はそうだろう。では避難路を閉じるか、店を退かせるか、家を使うか、荷車をどかすかは誰が決める?」
止まった。兵が町を守るなら、町を動かす必要が出る。それを全部軍が決めるのか。全部住民が決めるのか。戦っている最中に毎回集まるのか。面倒。でも、ここを曖昧にすると後でもっと面倒だ。
鍋屋のおばちゃんが手を上げた。「私の店、勝手に壊すのは嫌だよ」
オルザは真顔で答えた。「通常なら壊しません」
「通常じゃない時の話してるんだよ」
強い。オルザも一度言葉を止めた。「火が回る、敵が入る、負傷者を通す。そのような緊急時は、壊す判断が必要になる場合はあります」
「なら先に言っといて。後で『戦だったから』だけじゃ納得しないよ」
「分かりました」
軍隊と鍋屋が、店の壊し方を相談している。白嶺らしい気がした。
話は昼を越えた。途中でパンが出た。六十人分はないので会議の十数人だけ。一個余り、俺とシンが同時に手を出した。シンが先に取った。「さっきレン、朝も食っただろ」
「昨日の分まだ返してないくせに」
「戦争中に昔のパンの借り持ち出す?」
オルザが笑った。初めてだった。
結論は、六十人全員は入れない。南側部隊は南口外の野営地を維持する。白嶺の中へ常時入れるのは、救護・伝令・工兵から合計十二人まで。名前を入口へ残す。武器は護身用を除き門の外。それとは別に、北側武装部隊が白嶺側で決めた三つの警戒線を越えた場合、南側兵を二十人まで即時に入れられる。二十人を超える増員は、その時点の運営側が判断する。
オルザは紙を読み終えてから、隠さず言った。「軍としては、もっと入れたい。正直に言います」
「うん」と俺は頷く。
「ただ、白嶺を守るために来て、白嶺が決める権利を先に奪うのもおかしい。暫定で受けます」
そこは好きだった。
午後、南口の前に新しい札が立った。《南側部隊 白嶺内常駐十二名まで》《北側武装部隊 警戒線越境時 二十名まで即時入域可》《全軍入域は別判断》。長い。シンが読んでから言った。「これ、読んでる間に攻めてきそう」
俺もユリウスを見る。「短くして」
睨まれた。結局、下に大きく一行増えた。《勝手に入らない。勝手に入れない》。こっちの方が分かりやすい。
夕方、南側の十二人が入った。救護四人。工兵四人。伝令四人。最初にやったのは防壁を作ることじゃなかった。水桶を運ぶ。怪我人用の空き部屋を見る。南口から広場まで担架で何分か測る。工兵の一人はパン屋の裏の細道を通ろうとして犬に追いかけられ、シンが笑いすぎてしゃがみ込んだ。
そこへ北側から、小さな荷車が一台来た。兵じゃない。夫婦と子ども一人。塩と豆を買いに来たらしい。門の外に南側兵が六十人いるのを見て、夫が手綱を止めた。ロムが気づいて歩いていく。
「入れるぞ。今日は昨日と同じだ」
夫は南側の旗を見る。「中にもいるって聞いた」
「十二人。水運んで犬に追われてる」
「何だそれ」
ちょうど、その工兵がまた犬に吠えられた。子どもが笑った。夫婦は少し迷ってから荷車を進めた。門ではハルドが普通に品目を確認し、南側の救護兵は道を空けた。何も起きない。その「何も起きない」を作るために、昼まで話したんだと思った。
でも、日が落ちる前。東高所から合図が来た。北側兵が一か所、動いた。白嶺の中じゃない。南西旧橋の上。昨日、炉晶の箱が置かれていた場所。
箱が開いている。
ガランが望遠筒を覗いたまま、低い声で言った。「……あれ、暖房じゃねえな」
六十人を入れるか決めた日。北側では、別のものが組み立てられ始めていた。
第107話 炉晶は、門を暖めるために使われた
【本文】
次の朝、南西旧橋の上に車輪が四つ増えていた。荷車じゃない。低い台車。前に木の盾、後ろに人が入れる空間、真ん中に昨日まで箱の中だった炉晶が据えられている。その周りを、焼き物みたいな白い筒が囲んでいた。
俺は東の監視所候補から望遠筒を覗いた。「何あれ」
横でガランが答えない。もう一回聞く。「ガラン」
「見てる」
「俺も見てる」
「じゃあ黙って見ろ」
朝から機嫌が悪い。ミオは紙へ形を写し、エダンは北側の斜面を見て人の数を数える。「十五……いや、奥に四人。十九。カイルは見えん」
またいない。
北側兵は台車を旧橋の手前へ寄せた。橋を攻めるわけじゃない。そこには昨日、白嶺側が置いた大きな石が二つある。荷車が一気に上がってこられないよう、路肩へ寄せたものだ。北側の工兵らしい人間が石と石の間へ鉄の棒を差し込み、その根元へ白い筒を向けた。
炉晶が光る。爆発はしない。音もほとんどない。ただ、筒の先の空気が揺らぎ、鉄の棒がゆっくり赤くなった。
俺は望遠筒から目を離す。「熱?」
ガランがやっと答えた。「熱だな。それも、かなり絞ってる」
「炉晶って、あんな使い方できた?」
今度はミオが俺を見る。その顔で分かった。できる。俺たちが、できるようにした。
第4章。北方の地熱洞窟で見つけた炉晶。純度が高いほど少ない量で長く安定して熱を出せる。割れにくい保持具。乾燥炉。宿の暖房。鍛冶の補助。冬の貯蔵。俺たちは便利だと思った。便利だった。南へ売れるようにもした。北の仕事になった。
今、同じものが鉄の棒を赤くしている。
北側兵が木槌で叩く。一回、二回、三回。石の継ぎ目へ赤い鉄が入る。そこへ水。白い蒸気。少し遅れて、ぱき、と石の端が割れた。遠くても聞こえた気がした。
もう一度。熱。鉄。水。割れる。二十分もしないうちに、昨日四人で動かせなかった石が半分の大きさになった。
ガランが望遠筒を下ろす。「破砕用だ」
「門も?」
「石の継ぎ目。蝶番。留め金。木なら焼く。時間はかかるが、盾付きで近づけるなら使える」
攻城用。言葉にすると嫌だった。
ミオは紙へ《炉晶加熱式の破砕台車。用途:石・金具・木材への継続加熱。推定》と書いた。
「推定っている?」と俺が聞く。
「まだ門には使ってない」
「でも、使えるだろ」
「使えると、使ったは別」
いつものミオ。その区別に、今日はちょっと救われた。
エダンが斜面を見たまま聞く。「北の連中、これ前から持ってたと思う?」
ガランは首を振った。「完成品なら箱の中で組み立てる必要はねえ。現地合わせだろ。炉晶だけ運んで、台車と筒は別」
「じゃあ最近作った?」
「可能性は高い」
誰も俺を見なかった。見ないのが逆に分かる。炉晶の高純度利用を広げたのは、俺たちだ。ミオが地図を広げたのも、俺が道を開いたのも。便利にしたものが、全部こっちへ向いている気がする。
「俺たちが教えなかったら」と言って、そこで止まった。
ミオはすぐ答えなかった。紙へ一本線を引いてから言う。「乾燥庫もなかった。冬の死亡も増えてた。南との交易も、たぶんここまで伸びてない」
「分かってる」
「うん」
「分かってるけど、嫌だ」
「それも分かる」
短い返事なのに、今日はそれでよかった。
昼、南側のオルザが台車の報告を聞いて言った。「破壊すべきです。まだ白嶺へ向けて使用していないのは承知しています。ただし、攻城に転用できる装備を射程へ入れられてからでは遅い」
ハルドが確認する。「南側部隊で攻撃するという意味ですか」
「可能なら。少なくとも夜間に工兵を出して、使用不能にしたい」
俺も、ちょっと思った。壊した方が早い。今ならカイルはいない。十九人。俺が行けば、たぶん壊せる。
その時、シンが言った。「向こうの場所、警戒線の外だよ」
オルザが見る。「だから何だ」
シンは一瞬ひるんだ。でも続ける。「こっちが決めた線、まだ越えてない。昨日『勝手に入らない、勝手に入れない』って書いたばっかりなのに、今日こっちから出て壊すの?」
広場が静かになった。俺まで刺された。昨日、皆で決めた。敵が嫌だから線を変えるなら、ルールじゃない。
オルザは怒らなかった。「正しい。軍なら敵の攻城装備を見て待つ方がおかしい。だが、ここはまだ白嶺の判断が上にある」
ユリウスが紙を出す。「監視を増やす。装備が警戒線へ入った時点で、破壊行動を許可する条件を先に決める」
ガランが地図へ指を置いた。「北口の石門まで百二十歩。熱を当てるなら、もっと近づく必要がある。八十歩より内側へ台車が入れば、門への直接脅威と見ていい」
ミオが書く。《炉晶破砕台車:北口八十歩線越境で迎撃対象》
「名前、もう破砕台車で確定?」
ミオは俺を見ずに答える。「仮称」
そこ大事なんだ。
会議が終わりかけた時、南から炉晶の商荷が一台来た。箱は六つ。白嶺の宿と鍛冶屋向け。南側の伝令が、さっきの破砕台車の話を聞いたばかりで箱を見て顔をしかめる。
「今、炉晶を町へ入れるのか?」
荷主の男が怒った。「予約品だぞ。三日前から止められて、やっと来たんだ」
オルザが箱を見る。俺も見る。同じ炉晶。暖房にも使える。攻城にも使える。
「止める?」と俺が聞いた。
ミオが俺を見る。「何を基準に?」
「高純度とか」
鍛冶屋が横から口を出す。「高純度じゃなきゃ冬の炉が持たん。低いやつ何箱も置いた方が危ないぞ」
宿の主人まで来た。「二階の子ども部屋、今朝から冷えてる。あれ待ってるんだけど」
武器にもなる。暖房にもなる。物は同じ。
ユリウスが言った。「炉晶そのものを禁止しない。軍用装備への組み込み、持ち出し、大量移動だけ記録を増やす。白嶺内の生活利用を止める理由にはならない」
オルザは納得していない顔だったが、反対もしなかった。「敵が使ったから全部危険物にするのは簡単です。ただ、町を凍らせて守るわけにもいかない」
箱は通った。その夜、宿の二階は普通に暖かくなった。
午後、北側は昨日の石を全部どかした。でも、台車は白嶺へ来なかった。旧橋の上で止まり、夕方まで動かない。オルザは何度も南口から確認した。俺なら壊せる、と言わない。でも顔に出ている。俺も同じだったと思う。
日が落ちる少し前、北側兵が別のものを持ってきた。厚い木板。鉄の留め金。門の一部みたいな試験材。地面に立て、台車を向ける。白い筒。炉晶。熱。
五分。十分。鉄の留め金が赤くなる。木から煙が出る。十五分。留め金が外れ、板が倒れた。
誰も歓声を上げない。北側も、見ている俺たちも。ただ結果だけ残った。
炉晶は、門を暖めるために使われた。
暖めて。壊すために。
第108話 勝った場所だけ、静かだった
【本文】
北側が動いたのは、その翌朝だった。破砕台車じゃない。兵。西の水場へ向かう斜面、白嶺の外周ぎりぎり。住民が冬でも使う湧水の上へ、北側兵十四人が入った。
警戒線は越えていない。でも、水場を上から見られる場所だ。シンが走ってきて、息を整える前に言った。「西斜面、十四。盾四、弓三、残り槍。台車なし。カイルもいない」
また、いない。
ユリウスが地図を広げる。「目的は水場か、高所確保か。まだ分からない。白嶺側から先に攻撃はしない」
分かる。でも、あそこを取られたままなら水汲みが止まる。鍋屋のおばちゃんが後ろから言った。「水止まったら、昼の汁は薄くなるよ」
戦況説明が急に生活へ落ちた。オルザも南口から来る。「南側兵を二十、入れられます。警戒線越境ではないので自動条件には当たりませんが、白嶺側が要請すれば動かせます」
俺は西斜面を見る。十四人。地形。正面から行けば狭い。上に弓。面倒。でも、シンが昨日作った運営用の生活路がある。パン屋の裏だけじゃない。西側の薪置き場から、古い石垣の裏へ抜ける細道。荷車は無理。人なら行ける。外から来た人間は知らない。
ミオを見ると、もう同じ場所へ指を置いていた。「西裏路」
「使える?」
エダンが先に答える。「昨日歩いた。雪は浅い。最後の十歩だけ急だ」
ガランが眉を寄せる。「弓の上へ出られる。ただし六人以上いっぺんに通すな。石垣が古い。戦う前に道ごと落ちたら笑えん」
ユリウスが俺を見る。「レン。目的は排除ではなく水場の安全確保。追撃は警戒線まで。死人を出す必要はない」
「分かってる」
「今の返事、昔より信用できるようになったな」
「昔どんだけだったの」
シンが横から言った。「かなり」
こいつ。でも、ちょっと笑った。
行く。俺、エダン、シン、白嶺の守備側から三人。合計六人。南側兵は入れない。オルザは不満そうだったが、止めなかった。「必要なら合図を。こちらは南口にいます。それと、無茶はしないように」
「しない」
「先に言う人ほど信用できません」
最近そればっかり言われる。
西裏路。薪置き場。犬の家。昨日工兵を追いかけた犬が、今日は俺たちを見ても吠えない。飼い主のおじいさんだけが窓から顔を出した。「柵、閉めろよ! 昨日の南のやつ、開けっぱなしだったぞ!」
「分かってる!」
戦いに行く途中で怒られる。シンが小声で言う。「これ敵に聞かれない?」
「もう遅い」
でも北側兵には聞こえていなかった。細道は家の裏を抜け、古い石垣の陰へ出る。そこから急斜面。六人で一人ずつ上がる。先頭はエダン。土地勘。その次が俺。その後ろがシン。
「何で俺三番」
「使者やったから」
「関係ないだろ」
「声でかい」
「レンが喋らせたんだろ」
静かにしたいのに会話が止まらない。
上へ出る。北側の弓兵の背中が見えた。距離、十五歩。向こうは正面の水場を見ている。白嶺側が門から来ると思っている。
俺は手を上げる。待つ。弓兵が一人、振り返る。目が合った。
「あ」
向こうが言った。俺もたぶん同じ顔をした。
そこからは速かった。弓を上げる前に間へ入る。腕を払う。柄で胸を押し、転ばす。殺さない。二人目が短剣へ手をやる。抜く前に手首を打ち、落とす。三人目が叫び、正面の兵が一斉に振り返る。
向きが変われば、水場から目が外れる。そこで白嶺側の守備が正面から上がった。エダンたちが横へ回る。挟む。でも完全には囲まない。下りる道を一つ残す。ユリウスが言った通り。追撃しない。
北側の隊長らしい男が俺を見る。知っている顔じゃない。槍を構える。俺も剣を抜く。
一歩。二歩。槍が来る。避けて柄を叩く。崩す。剣先を喉じゃなく肩へ止める。
「下がって」
男が俺を見る。悔しそう。でも後ろで誰かが叫んだ。「撤収!」
早い。男は槍を拾わなかった。そのまま下がる。十四人のうち負傷三。重傷なし。白嶺側は擦り傷二人。終わった。あまりに早く。
俺が斜面の上で拍子抜けしていると、下から声がした。「一人、足!」
北側の若い兵が退く途中で滑り、足首をひねって立てなくなっていた。仲間はもう警戒線の外へ下がり始めている。白嶺側の守備が迷う。敵兵。でも、放っておけば凍る。
「担架」と俺が言う。
シンが眉を上げる。「連れてくの?」
「歩けないんだからしょうがないだろ」
南側から入っている救護兵二人が走ってくる。昨日、六十人全部は入れないと決めた時に許可した十二人のうちの二人だ。敵味方で一瞬だけ顔を見合わせたあと、普通に足を固定し始めた。
若い北側兵が歯を食いしばりながら言う。「捕虜か」
俺は答えた。「違う。歩けるようになったら帰って」
「……いいのか」
「知らない。後でユリウスに怒られるかも」
後ろからユリウスの声がした。「聞こえている。負傷者は先に処置でいい」
いた。
救護兵が笑いそうになるのを我慢している。北側の若い兵も、少しだけ肩の力を抜いた。処置の間、シンが水を渡す。若い兵は一口飲んでから、西斜面を見た。
「俺たち、もっといると思ってた」
「何が?」とシンが聞く。
「白嶺の守備。南の兵も入ってるって聞いたから」
俺とミオが顔を見合わせる。
「誰から?」
若い兵は首を振った。「知らない。隊長から『上を押さえて、白嶺が何人出すか見ろ』って」
そこまで言って、しまったという顔になった。
俺は聞き返さなかった。もう十分だった。
広場へ戻ると、白嶺から見れば完全な勝ちになっていた。パン屋がパンを一個くれた。「朝の分」
「昨日じゃなくて?」
「どっちでもいいよ。今日は焼けた」
鍋屋のおばちゃんは汁を濃くした。「水場守った分」
戦争の勝利報酬が汁の濃さ。俺は好きだ。
オルザは少し複雑そうだった。「六人で十四人を退かせた。南側兵を入れずに」
「地元の道があったから」
「それも含めて戦力です。ただ、次も同じとは限りません」
そこへ、処置を終えた北側の若い兵が片足を固定したまま運ばれてくる。オルザの顔が固くなった。敵兵だからじゃない。自分の救護兵が治療しているからだ。
「白嶺の中へ入れるのですか」
ユリウスが答える。「治療所まで。歩ける状態になったら北へ返す。尋問はしない」
オルザは少し考え、最後は頷いた。「白嶺の決定なら従います。ただし武器は預かります」
若い兵が腰を見る。剣は斜面に置いてきた。「もうないです」
変なところで会話が普通になった。
広場では、勝った話がすでに大きくなり始めていた。レンが六人で十四人を退かせた。裏道から出た。北側兵が逃げた。南側兵を使わず守った。俺は止めなかった。本当に勝ったから。
でも、ミオは笑っていなかった。地図を見ている。俺は隣へ行く。「何」
「北側の動き」
「退いたよ」
「退くのが早すぎる」
エダンも来る。「尾根の見張り、戦いには入ってない。朝からずっといた」
シンが急に顔を上げた。「旗」
「何?」
「西斜面で戦ってる時、尾根の見張りが旗出してた。最初一回。俺たちが裏から出た時二回。正面の守備が上がった時三回」
ユリウスが振り返る。「時間は?」
シンは通行板の裏へ走り、雑に書いた時刻を見せた。西斜面異常。俺たち出発。正面守備移動。南口から伝令出発。南側兵待機。全部、並んでいる。
ミオが小さく言った。「反応を測られた」
広場の笑い声が、少し遠くなった。北側は十四人を置いた。俺が何分で動くか。どの道を使うか。白嶺から何人出るか。南側兵が入るか。誰が残るか。見ていた。
昨日、破砕台車を見せた。今日は兵十四人。こっちがどう動くか、一つずつ。
エダンが俺の横で言った。「勝ったのは本当だろ」
「うん」
「水場も取られてない」
「うん」
「なら飯は食え。考えるのはその後」
正しい。俺はパンをかじる。まだ温かい。
夕方、北側の若い兵を警戒線まで返した。仲間が迎えに来た。こちらは武器を返さなかった。落とした場所に残っているから、向こうで拾えと言った。若い兵は一度だけ振り返り、何か言いそうになって、結局頭を下げた。
その帰り。俺たちは尾根へ上がった。見張りはもういない。旗もない。雪の上に残っていたのは、細い棒一本。
棒の一面に十四本の刻み。北側兵の数と同じ。別の面に六本。俺たちの数と同じ。さらに別の面には二十三本。正面から動いた白嶺側の人数と、ほぼ同じだった。
俺は棒を抜いた。
勝った場所だけが、やけに静かだった。




