第97話 荷車が通れなくても、食料は通せた
【本文】
白嶺へ戻った時、橋の前には人が増えていた。
荷車はまだ横向きのまま。
片方の車輪が橋の縁へ乗り上げて、反対側は溝へ落ちている。馬はもう外されていた。人に怪我はない。
でも荷台には、麦袋。
その後ろにも、食料便が四台。
シンが俺を見つけた。
「遅い」
「北から戻ってきたんだよ」
「知ってる。だから遅い」
説明が成立していない。
シンは炭筆を耳へ挟んだまま、橋の左右を指した。
「南から来る人は旧広場で止めた。北へ行く荷はここ。歩く人だけ、あっちの板」
橋の端。
人一人分だけ、板が二枚渡してある。
ハルドの部下が立って、片側ずつ通していた。
俺は横向きの荷車を見る。
「引けない?」
ガランがいない。
代わりに、荷運びの男が二人、車軸の下を見ていた。
一人が首を振る。
「荷を載せたまま引いたら、右の車輪が落ちる。先に軽くするしかねえ」
「じゃあ下ろそう」
「下ろした袋、どこ置く」
橋の南側は、後続の荷車で埋まっている。
北側は渡れない。
一瞬。
俺は橋の端の板を見る。
「袋だけ渡せない?」
シンがこっちを見る。
「人の板だよ」
「人が一袋ずつ持つ」
「麦だぞ」
「全部じゃなくていい。持てる重さに分ける」
後ろでミオが言った。
「袋を開けるなら、数は残した方がいい」
「開ける?」
「一袋が重いなら、小袋に分ける」
エダンが食料便の荷台を覗く。
「空袋ある。帰りの豆袋が畳んである」
シンは橋を見る。
荷車。
人用の板。
空袋。
それから、俺を見る。
「先に食料通すってこと?」
「荷車じゃなくて」
「道を開ける前に?」
「食べる方が先でしょ」
シンは少し考えた。
「……それならできる」
そこから早かった。
横向き荷車の麦袋を、一つずつ下ろす。
大きい袋は二つに分ける。
ミオが元の袋数と分けた袋数を書く。
エダンは北側で受け取る人を集める。
シンは橋の歩行列を止めないよう、食料を渡す時間と人を通す時間を交互にした。
ハルドが来る。
「貨物確認は?」
俺が一瞬止まる。
シンが先に答えた。
「もう南で確認済みの荷。紐もある」
ハルドは麦袋を見る。
「分けた後も、元の荷と分かるようにしてください」
「止めないの?」
俺が聞く。
「止める理由がありません」
それだけ。
助かった。
最初の小袋。
俺が持つ。
重い。
思ったより。
「これ半分?」
エダンが笑う。
「お前、剣ばっか振ってるからだ」
「剣の方が軽いんだよ!」
「知ってる」
板を渡る。
下に水。
凍ってはいない。
でも夜の橋は嫌だ。
北側へ。
袋を置く。
戻る。
二つ目。
三つ目。
途中で、鍋屋のおばちゃんが来た。
何で。
「夜食持ってきたよ!」
今?
鍋。
湯気。
味噌っぽい匂い。
全員の速度が少し上がった気がする。
「おばちゃん、橋の近く危ないよ」
俺が言うと、鍋屋のおばちゃんは鼻で笑った。
「私は橋渡らないよ。渡るのはあんたたち。食べるのは戻ってきてから」
合理的だった。
横向き荷車の荷が半分になったところで、車体が少し戻った。
荷運びの男が言う。
「これなら上げられるかも」
「全部下ろさなくていい?」
「あと三袋」
下ろす。
縄。
木の棒。
てこ。
俺は引く側へ回った。
シンが前で言う。
「一気にやらないで。車輪上がったら止める」
「分かってる」
「レンに言ってる」
「俺も分かってるって!」
三人で引く。
車輪が少し浮く。
一度止める。
板を差す。
もう一度。
ギッ。
嫌な音。
全員止まる。
車軸を見る。
折れてない。
続ける。
右の車輪が橋の板へ戻る。
その瞬間。
後ろから拍手が一回だけ鳴った。
誰。
見る。
ロム。
「続けろ。終わってねえ」
自分で拍手しておいて。
荷車を橋の北側へ寄せる。
通れる幅。
できた。
でも。
食料はもう半分以上、先に渡っている。
俺は橋を見る。
荷車が通れるようになったから、道が開いた。
そう思うところだった。
違う。
食料は、その前から通っていた。
道って。
荷車が通る形に戻すことだけじゃない。
必要なものを、必要なところへ届かせられたら。
それも開いたって言っていい気がした。
最初の十袋を渡したところで、別の問題が出た。
北側へ積んだ袋を、誰が上まで運ぶのか。
橋を越えただけでは、上部集落へは届かない。
ロムが荷車の後ろを叩いた。
「こっちは一台空いてる。北側までなら載せる」
「でも帰り荷は?」
俺が聞く。
ロムは空の荷台を見た。
「今はねえ。だから食料だけ運んだら赤字だ」
「じゃあ何でやるの」
「上に知り合いがいるからだよ」
それだけ。
商売の話をしていた人が。
今は知り合いのために荷車を出す。
こういうところが、数字だけ見ていると分からない。
ミオが記録板に小さく書いた。
《北側臨時輸送 ロム車一台》
ロムが気づく。
「名前まで書くなよ」
「あとで誰が運んだか分からなくなる」
「恩着せがましいだろ」
「じゃあ車番号」
「番号あるのか?」
「今つける」
「増やすな」
ユリウスがいないのに、ミオがユリウスみたいになっている。
その直後。
麦袋の一つが裂けた。
ざっ。
粒が板の上へ広がる。
全員止まる。
「うわっ」
俺が手で集めようとすると、ミオが叫んだ。
「踏まないで!」
分かってる。
エダンが空袋を広げる。
シンは人の列を一度止める。
ハルドの部下までしゃがんで、板の隙間へ落ちる前の麦を集めた。
五分。
たった五分。
でも。
その五分で、橋の向こうにいた旅人が一人、文句を言った。
「まだかよ」
シンが顔を上げた。
「麦踏んで通る?」
旅人は麦を見る。
「……待つ」
怒鳴り返さない。
説明もしない。
一言で終わった。
俺にはできないやり方だ。
夜中。
北へ向かう最初の食料便を組み直す。
主道を上がる荷車二台。
その先は凍結があるので、小型橇へ積み替える予定。
羊道は使わない。
昨日の雨で足場が悪い。
シンが記録板へ書く。
《麦》
《豆》
《塩》
《乾燥野菜》
その下。
《北上開始》
俺は荷車の横へ行く。
一緒に上がろうとしたら。
シンに襟を掴まれた。
「レンは寝る」
「何で」
「朝から北で人下ろして、今橋やった。次倒れたら邪魔」
「まだ動ける」
「倒れる人、だいたいそう言う」
ミオまで頷く。
味方がいない。
エダンが荷車へ乗る。
「俺行く。道知ってるし」
「じゃあ俺も」
「寝ろ」
三人目。
仕方なく。
鍋を食べる。
うまい。
悔しい。
荷車の灯りが、北へ小さくなる。
上にはまだ十二軒。
明日下りる人もいる。
残る人もいる。
どっちにしても。
朝までに食べ物が届く。
今日は。
そこまで開けた。
第98話 食料を運ぶには、帰りの荷物も必要だった
【本文】
朝。
食料は届いた。
麦。
豆。
塩。
乾燥野菜。
上部集落まで全部ではない。
途中の受入所まで。
そこから橇で運ぶ。
でも。
届いた。
俺は寝不足のまま、その報告を聞いた。
「じゃあ次も」
と言ったら、ロムが首を振った。
「次が少ねえ」
「何が?」
「運ぶやつ」
宿の外。
朝の白嶺。
南へ戻る荷車が三台並んでいた。
空。
一台は本当に空。
二台は空袋だけ。
俺は分からない。
「帰るなら、そのまま南行けばいいじゃん」
ロムが俺を見る。
「そのまま帰ったら、次来ねえぞ」
「何で」
南側の商人が横から答えた。
「往復で商売だからです」
昨日もいた男。
名前はオルド。
炉晶を買って南へ運ぶ。
北へ来る時は穀物や塩を持ってくる。
南へ戻る時は炉晶や毛皮を積む。
「今、北側が炉晶を出し渋ってるでしょう」
オルドが空荷台を叩いた。
「食料だけ北へ運んで、帰りが空なら、運賃を上げないと続かない」
「炉晶出せば?」
俺が言ってから。
ロムの顔を見る。
あ。
簡単じゃない。
北方産品への負担案。
まだ案。
徴収も始まっていない。
でも噂で、北側は出荷を控えている。
今南へ出したら、後から何か取られるかもしれない。
安く買われるかもしれない。
待てるなら待つ。
その結果。
帰り荷がない。
食料を運ぶ便も減る。
「まだ取ってないのに」
俺が言う。
ハルドが少し離れたところから答えた。
「制度は、決まる前から人を動かすことがあります」
嫌なこと言う。
でも目の前にある。
空の荷車。
シンが荷台を覗いた。
「じゃあ食料、運べなくなる?」
オルドが首を振る。
「運べます。ただ、高くなる」
「どれくらい?」
「帰り荷がある時の一・五倍くらい」
俺はすぐ分からない。
シンが顔をしかめる。
「半分増える?」
「だいたい」
分かった。
高い。
北側の避難所では、食べる人が増えている。
上から下りてきた十五軒分。
昨日までなら自分の家で食べていた人たち。
今は宿。
倉庫。
仮の寝床。
全部、白嶺側の食料を使う。
上にも十二軒。
そのうち七軒は朝から下り始めていると、カイルから連絡が来た。
残るのは五軒。
五軒。
少ない。
でもゼロじゃない。
俺は聞く。
「炉晶、全部止めてるの?」
ロムが答える。
「全部じゃねえ。村で決めた分だけ止めてる。冬前に値段が読めなくなったから」
「食料のためなら少し出せない?」
言った瞬間。
自分でも分かる。
俺が決めることじゃない。
「……北の人がいいなら」
付け足す。
ロムが鼻で笑った。
「成長したな」
「うるさい」
オルドは、荷車の車輪を足で軽く蹴った。
「一往復で考えると、北へ食料だけ持っていく便は、帰りの分まで行きの値段に乗せるしかないんです」
「それ、北の人が払う?」
「最終的には誰かが払います。北か、南の買い手か、商人か。無料にはならない」
俺は嫌な気分になる。
食料を届けたいだけなのに。
食料以外の話がついてくる。
エダンが言った。
「前は逆だったよな」
「何が?」
「北の炉晶持って南へ行くついでに、南の食いもん持って帰るって話だった」
そうだった。
最初はついで。
今は。
食料の方がないと困る。
ついでだったものが、必要なものになっている。
ミオが紙へ一本線を引いた。
「依存が増えた」
ロムが嫌そうな顔をする。
「言い方が悪い」
「便利になった、とも言える」
「そっちにしろ」
「でも意味は同じ部分がある」
ロムがもっと嫌そうな顔をした。
俺も。
便利になった。
だから止まると困る。
それだけだ。
昼前。
避難してきた人たちがいる倉庫へ行った。
食料の減り方を見たかった。
パンを焼いている女が、俺を見るなり言う。
「麦増やして」
「今運んでる」
「増やして、じゃなくて、粉にできる麦」
「違うの?」
「昨日来たの、粒が硬い。パンにはできるけど時間かかる」
知らない。
麦は麦だと思っていた。
隣でシンが笑う。
「レン、食べるの専門だもん」
「お前もだろ」
「俺、最近倉庫見てるから知ってる」
負けた。
避難者が増えると、量だけじゃない。
粉にしやすい麦。
塩。
乾燥野菜。
子どもが食べやすい豆。
必要な物が細かくなる。
俺はまた、道を開けば終わりだと思っていた。
開いた道の先で、何を運ぶかまで続いている。
午前。
北側の代表が集まる。
大げさな会議じゃない。
荷車の横。
立ったまま。
ロム。
炉晶を掘る二人。
避難してきた家の代表。
カイルは上部集落なので、伝令だけ。
ユリウスは北で避難台帳。
俺は聞く側。
ハルドもいる。
「今出した炉晶に、あとから負担かけるのか」
鉱夫の一人が聞く。
ハルドは答える。
「決まっていない制度を遡って適用する案は、私は聞いていません」
「聞いてないだけ?」
「はい。なので、ないとは断言しません」
正直すぎる。
鉱夫が嫌そうな顔をする。
でも俺は、分からないのに大丈夫と言われるよりいいと思った。
ロムが言う。
「三日分だけ出す」
「三日?」
「食料便の帰り荷にする分だけ。炉晶だけじゃなく、毛皮と干し肉も混ぜる」
オルドが聞く。
「量は?」
「荷車が空で帰らない程度。満載にはしない」
「商売になる?」
「ならないなら来なくていい」
「強いなあ」
オルドが笑う。
怒ってはいない。
計算している顔。
シンが横で聞く。
「その炉晶、誰の分か書く?」
ロムが少し考える。
「書く。食料便と交換した分だけ別」
また記録が増える。
ユリウスがいたら喜びそう。
いや。
喜ばないか。
必要だから書くだけだ。
昼。
《緊急三日》
という札ができた。
格好悪い名前。
誰が書いた。
シン。
「分かりやすいでしょ」
分かりやすい。
南から来る食料便。
北へ。
帰り。
北側が出す限定量の炉晶と毛皮。
南へ。
三日だけ。
手数料案はまだ保留。
貨物確認はする。
食料は優先。
帰り荷は普通列。
一つの荷車が。
行きと帰りで、別の意味を持つ。
俺は面白くて、しばらく見ていた。
ゲームっぽい。
でも。
人が本当に食べる。
値段が動く。
誰かが待つ。
そこが、前より重い。
午後。
俺たちは北へ上がった。
食料が届いた後の上部集落を見るため。
七軒はもう下りていた。
残り五軒。
家畜。
荷整理。
どうしても今日だけ仕事を片づけたい。
理由はそれぞれ。
昨日までより落ち着いている。
食料が来たから。
それが分かる。
ある家の男が、俺へ言った。
「これなら二日くらい待てるな」
俺の胸が少し引っかかった。
「下りる予定じゃなかった?」
「明日だった。でも食い物来るなら、牛の子が落ち着くまで待てる」
隣の家も。
「うちも、薪あるし」
道を開けた。
食料が届いた。
助かった。
そのはずなのに。
食料が届いたことで。
残る選択が、また現実的になっている。
カイルが俺の顔を見る。
「嫌そうだな」
「うれしいよ」
「そうは見えない」
俺は上部集落を見る。
煙。
家畜の声。
人。
「道開けたら、下りる理由一個減った」
カイルは少し黙った。
「そうだな」
「じゃあ開けない方がよかった?」
聞く。
カイルはすぐ答えなかった。
それが珍しい。
「開けるべきだった」
最後には言った。
「それと、ここに残っていいかは別だ」
同じこと。
何回も出る。
一つの正解で全部は決まらない。
帰り。
五軒のうち二軒は、明朝下りると決めた。
三軒。
残る。
食料がある。
井戸は仮復旧した。
道も、歩行者なら通れる。
昨日より条件は少し良い。
だから。
三軒に「今すぐ下りろ」とは言えない。
言いたくもない。
俺はそう思った。
その時は。
第99話 食料の札で、炉晶を運んだ
【本文】
三日限定の仕組みは、二日目の朝には慣れられていた。
早い。
《食料 優先》
南から来た荷車につける赤い札。
確認が終わったら北へ。
北で食料を下ろす。
帰りは札を外す。
普通列へ。
簡単。
そのはずだった。
シンが一台を止めた。
「札、外してない」
北から下りてきた荷車。
赤い札が前にぶら下がっている。
御者の男が言う。
「行きに食料運んだ」
「帰りは?」
「空袋」
荷台には麻袋が六つ。
潰れている。
確かに空に見える。
でも。
シンが車輪を見る。
「空袋だけで、こんな沈む?」
俺も見る。
右の車輪。
少し深い。
泥に。
御者が目を逸らす。
シンは怒鳴らない。
「普通列、あっち」
「急いでる」
「みんな急いでる」
「南まで今日中に行きたい」
「じゃあ札外して並んで」
男が動かない。
俺は横から言った。
「何入ってるの」
ミオが俺を見る。
聞き方。
でももう遅い。
男は黙る。
ハルドが来る。
赤い札。
沈んだ車輪。
荷台。
一度見る。
「確認していいですか」
御者が言う。
「食料便だ」
「北向きはそうでした」
「同じ荷車だ」
「帰りの荷は別です」
男の顔が硬くなる。
「税はまだ決まってないんだろ」
「決まっていません」
「なら何が悪い」
ハルドはすぐ答えなかった。
俺も分からない。
炉晶を運ぶこと自体は違反じゃない。
手数料もまだない。
ただ。
食料優先の札をつけたまま、普通列を飛ばそうとしている。
そこは違う。
シンが言った。
「札」
男を見る。
「それ、食料を早く通すためのやつ。帰りも早く通るためじゃない」
男は少し黙った。
それから。
「分かった」
赤い札を外す。
終わるかと思った。
でも。
荷車を普通列へ動かした時。
麻袋の一つがずれた。
ゴン。
空袋の音じゃない。
俺たちは全員止まった。
男も。
シンが言う。
「空?」
男が目を閉じた。
「……空じゃない」
袋を上げる。
下。
木箱。
小さい。
三つ。
蓋の隙間から青白い光。
炉晶。
しかも。
見たことのある普通の石じゃない。
透明に近い。
高純度のやつ。
第4章で、俺たちが使い方を見つけたやつ。
俺の腹が嫌な感じになる。
「何で隠したの」
男は俺を見る。
「隠したかったから」
開き直りじゃない。
疲れた声。
ハルドが聞く。
「誰の荷ですか」
「俺が買った」
「どこで」
「北の鉱夫から」
「記録は」
「ない」
「なぜ」
男は少し苛立った。
「負担が決まる前に売りたいってやつがいる。南で今なら高く買うやつもいる。俺は運ぶ。それだけだ」
「食料優先札を使って?」
シンが聞く。
男がシンを見る。
「朝、食料運んだ。嘘じゃない」
「帰りは食料じゃない」
「分かってる」
「じゃあ何で札つけた」
男は答えない。
答えなくても分かる。
早く通りたかった。
記録されたくなかった。
荷を見られたくなかった。
まだ税はない。
だから税逃れじゃない。
でも。
検査を避けている。
記録を避けている。
優先の仕組みを、別の目的へ使っている。
ミオが小さく言った。
「二日でこれか」
本当に。
俺が作ったわけじゃない。
でも。
食料を早く通す仕組みを作った。
赤い札。
人は、それを食料以外にも使う。
男が言った。
「俺だけ悪いやつみたいに見るなよ」
見てない。
たぶん。
男は続ける。
「北で掘ってるやつら、冬前に金がいる。南は炉晶欲しい。俺が運ぶ。誰か困るか?」
ロムが後ろから来た。
いつからいた。
「困る」
男が振り向く。
ロムの顔は怒っている。
「今、食料便の帰り荷に出す量を村で決めてる。勝手に高純度だけ抜いたら、次の便に載せる分が減る」
「売った本人がいいって言った」
「本人だけの話じゃなくなってんだよ」
その言葉。
第96話の老人と同じ。
自分の家。
自分の炉晶。
自分の判断。
でも。
今は物流につながっている。
男は口を閉じる。
俺は気持ち悪い。
全部同じ答えに見えてくるから。
自由より管理。
皆のため。
だから止める。
簡単にそっちへ行きそうになる。
でも。
ユリウスの正しさが全部の正しさじゃない。
俺は聞いた。
「その炉晶、盗んだ?」
「盗んでない」
「売った人、分かる?」
「分かる」
「値段は?」
男は言う。
高い。
でも異常じゃない。
南側で利益が出るくらい。
「じゃあ、炉晶そのものを取り上げる理由はない?」
俺はハルドへ聞く。
ハルドが答える。
「現時点では、合法な売買である可能性が高いです。ただし貨物確認を避けたことと、優先札を不正に利用したことは別です」
「別にするんだ」
「別です」
そこは大事。
全部一緒に罰したら、分からなくなる。
シンが赤い札を持つ。
「これ、帰りに外すだけじゃ駄目だね」
「どうする?」
俺が聞く。
シンは札の端を見る。
穴。
紐。
「北で切る」
「切る?」
「食料下ろしたら、紐切る。札は北で回収。帰りは絶対つかない」
簡単。
ハルドが頷く。
「今日からできます」
ミオが言う。
「札番号も記録。誰が持っていったかじゃなくて、どの荷車に付いたか」
男がため息をつく。
「また面倒になる」
「あなたが増やしたんだよ」
シン。
強い。
俺は笑いそうになった。
男も少しだけ笑った。
怒ってるのに。
変な空気。
炉晶は普通列で確認する。
買った相手も後で照合する。
没収はしない。
赤い札の優先は失効。
男は並び直す。
それで終わる。
大事件じゃない。
誰も捕まらない。
剣も抜かない。
でも。
俺は木箱の青白い光が、しばらく頭から離れなかった。
ハルドはその場で罰を決めなかった。
「今日の記録には、優先札目的外使用と貨物確認回避の疑い、とだけ残します」
男が眉を寄せる。
「疑い?」
「売買相手の確認がまだです」
「俺が嘘ついてると思ってるのか」
「嘘だと決めていないから疑いです」
言葉が硬い。
でも。
俺には分かりやすかった。
決めてから調べるんじゃない。
調べるまで決めない。
ミオが横で小さく言う。
「珍しくレンと相性いいかもね」
「どこが」
「候補って言うところ」
やめてほしい。
男は木箱をもう一度覆った。
「これで南の買い手に間に合わなかったら、どうする」
ハルドが答える。
「補償は約束できません」
男の顔がさらに険しくなる。
そこへロムが口を挟んだ。
「買い手、誰だ」
「言わねえ」
「北の誰から買った」
「それも今は言わねえ」
「じゃあ確認終わらんぞ」
「お前に言う必要あるか?」
二人の声が上がる。
俺が止めようとすると。
シンが先に言った。
「道の真ん中で喧嘩しないで」
二人がシンを見る。
「喧嘩するなら待機場所」
「待機場所って喧嘩するとこじゃねえぞ」
ロムが言う。
「じゃあ喧嘩しないで」
終わった。
強い。
男は結局、荷車を端へ寄せた。
買い手へ遅れることを知らせる使いを頼む。
ロムも少し離れる。
問題は消えていない。
でも道は空いた。
そういう終わり方もある。
昼。
赤い札は北側で回収する方式へ変わった。
二日目。
また一個、ルールが増えた。
俺は札を見て言う。
「道って、使う人の分だけ増えていくね」
ミオが横で答える。
「道じゃなくてルールが」
「同じくらい増えてない?」
「今はね」
その時。
北から伝令が来た。
カイルの兵。
馬じゃない。
走っている。
嫌な走り方。
俺たちは全員、そっちを見る。
兵は息を整える前に言った。
「上部集落、残り三軒」
昨日の五軒から、二軒下りた。
そこまではいい。
兵が続ける。
「一人、いません」
空気が変わった。
「誰?」
俺が聞く。
「東端の家の男です。牛を二頭残してた家」
昨日。
食料が来たから、二日待てると言っていた男。
胸が冷たくなる。
「家は?」
「空です。牛もいません」
「どこ行った」
カイルの兵は首を振った。
「東の斜面に、牛の足跡があります」
エダンがすぐ顔を上げる。
「東斜面、昨日の霰で上は凍ってるぞ」
俺はもう立っていた。
ミオが言う。
「レン」
「分かってる」
走る。
でも今回は。
一人で先へ行かない。
「エダン。道」
「行く」
「ミオ、地図」
「持った」
シンが入口の札を見ている。
「俺は?」
俺は一瞬迷う。
「ここ頼む」
シンが頷く。
昨日までなら。
全員連れて行ったかもしれない。
今は。
誰かが残らないと、道が止まる。
北へ走る。
食料は届いた。
だから。
残れると思った人がいた。
その人が今。
道の外へ出ている。
第100話 牛の鈴は、道のない方から鳴った
【本文】
東斜面へ向かう途中で、雪が変わった。
白い。
見た目は普通なのに、踏むと固い。
その下だけ、つるっと滑る。
俺は二回目で転びかけた。
前を歩くエダンが振り返る。
「そこ、昨日の霰が凍ってる。白いとこ全部同じに見えるけど、少し青い場所は踏むな」
「先に言ってよ」
「さっき一回言った」
「聞いてない」
「それは俺のせいじゃない」
ミオが後ろで何か書いた。
「今の記録しなくていいからね」
「してない。凍結帯の位置」
信用できない。
上部集落に着くと、カイルが東端の家の前にいた。
家の戸は開いている。
中に人はいない。
牛小屋も空。
柵の一本が外れていて、雪の上に蹄の跡が残っている。
カイルがしゃがみ、跡を指でなぞった。
「二頭。人は一人」
「東端の人、名前は?」
俺が聞くと、カイルは立ち上がった。
「トヴァン。四十三。ここで生まれて、ずっと牛飼ってる」
「何で出たんだろ」
「分からん」
短い。
いつものカイル。
でも今日は、その後があった。
「昨日の夜は、下りる気はなかった。今朝もう一度話す予定だった」
俺は答えなかった。
昨日。
食料が来た。
井戸も仮に戻った。
歩ける道もあった。
だから三軒は、すぐ下りなくてもいいという話になった。
俺も、それでいいと思った。
カイルが俺を見る。
「今は探す」
「うん」
それだけで助かった。
ユリウスは集落側へ残った。
残り二軒と、捜索に出る人数を分けるため。
全員で山へ入ったら、また同じことになる。
捜索は俺、ミオ、エダン、カイル。
それと北方巡回隊から二人。
六人。
シンは白嶺。
地下も、橋も、食料便も止めない。
東斜面へ入る。
牛の足跡は分かりやすかった。
人より大きい。
ただ。
途中から二方向へ分かれた。
一頭は斜面の上。
もう一頭は下。
人の足跡は、下へ続いている。
エダンがしゃがんだ。
「滑ってる」
雪が削れている。
長い線。
その横に、手をついた跡。
俺の胸が速くなる。
「走る?」
カイルが首を振った。
「この足場で走ったら、捜索対象が増える」
「分かってる」
「なら歩け」
言い方はきつい。
でも速度は速い。
俺たちは縄で間をつなぐ。
先頭はエダン。
二番目が俺。
ミオ。
巡回隊。
最後がカイル。
下へ。
二十歩。
三十歩。
足跡が一度消える。
岩。
雪が薄い。
その時。
カラン。
小さい音。
全員止まる。
もう一度。
カラン。
牛の鈴。
右。
道じゃない。
低い木と岩の間。
エダンがそっちを見る。
「いた」
牛。
一頭。
角に縄が絡んでいる。
木の根へ引っかかって、動けない。
でも立っている。
俺は行こうとした。
ミオが袖を掴んだ。
「人が先」
分かってる。
牛は鳴いた。
一回だけ。
そこから下へ、切れた縄が続いていた。
トヴァンのものだ。
エダンが拾う。
端が切れたんじゃない。
擦れている。
岩で削れたみたいに。
さらに下。
斜面が急になる。
人の足跡はない。
代わりに。
雪が大きく崩れた跡。
俺の喉が鳴った。
「落ちた?」
誰も答えない。
カイルが巡回隊の一人へ言う。
「牛を固定。戻る道を作れ。もう一人はここ」
「隊長は?」
「下を見る」
人数を減らす。
四人。
俺、ミオ、エダン、カイル。
縄を二本にする。
斜面を横へ切る。
真下へ行かない。
雪の薄い岩を選ぶ。
途中。
ミオが止まった。
「これ」
岩じゃない。
石積み。
雪の下から、直線が出ている。
古い。
でも自然じゃない。
東斜面にも。
俺は反射で目を追った。
石積みは斜面へ埋まり、途中で黒い穴になっている。
人が入れる。
たぶん。
ミオが俺を見る。
「今は違う」
「分かってる」
本当に。
今は違う。
白い布を一本結ぶ。
位置だけ。
その先へ。
牛の鳴き声。
今度は低い。
二頭目。
下にいる。
倒れてはいない。
小さな平らな場所で立っている。
その横。
「おい!」
声。
人。
俺は止まった。
もう一度。
「上にいるなら、牛から何とかしてくれ!」
生きてる。
トヴァン。
俺は返事をする。
「レン! 今行く!」
「誰だ!」
「レン!」
「知らん!」
そうだった。
ほとんど話したことない。
こんな時にちょっと笑いそうになる。
「白嶺の! 道の!」
「英雄か!」
「それやめて!」
下から、咳みたいな笑いが返った。
声がある。
それだけで足が軽くなる。
近づく。
トヴァンは岩壁のくぼみにいた。
左脚が、膝より上まで石の下。
大きな岩じゃない。
でも一人では動かせない。
顔は青い。
右手で牛の縄を握っている。
カイルが先にしゃがむ。
「トヴァン」
「遅い」
「勝手に出たやつが言うな」
「牛が柵出たんだよ」
「だから一人で追った?」
「朝には戻るつもりだった」
よくある言葉。
俺も何回も言ってきた気がする。
トヴァンが俺を見る。
「お前がレンか」
「うん」
「食料、ありがとな。もう一晩いけると思った」
胸の奥が、変な音を立てた気がした。
俺は何も返せなかった。
カイルが石を見る。
「話は後だ。足の感覚は?」
「ある。痛い」
「それなら文句言える」
「ずっと言ってる」
ミオが周りを見る。
石。
雪。
上の割れ目。
「この石だけ動かしたら、上が来る可能性ある」
エダンもしゃがむ。
「右から支え作る。直接持ち上げない方がいい」
「道具は?」
「短い棒二本。縄。楔」
足りない。
でも戻れば時間がかかる。
カイルが俺を見る。
「できるか」
「やる」
「できるかを聞いた」
一瞬。
言い直す。
「四人なら、石を上げるんじゃなくて横へずらせる。先に上を縄で押さえる。エダンが支え。俺とカイルで引く。ミオがトヴァンの脚を見る」
ミオが頷く。
エダンも。
カイルが言った。
「それでやる」
縄を上の岩へ回す。
石の下へ棒。
一度。
動かない。
二度。
砂が落ちる。
止める。
トヴァンが顔をしかめる。
「まだ?」
「今、急かすと置いてくよ」
俺が言う。
「牛だけ連れてくなよ」
普通に返してくる。
大丈夫。
そう思いたくなる。
三度目。
石が指二本分ずれる。
ミオが叫ぶ。
「止めて!」
全員止まる。
「脚抜ける。トヴァン、自分で動かさないで」
「分かった」
俺とカイルが石を支える。
エダンが楔を入れる。
ミオが脚をゆっくり引く。
トヴァンが歯を食いしばる。
声は出さない。
数秒。
長い。
「抜けた!」
石を戻す。
ドン。
全員、息を吐く。
トヴァンは仰向けになった。
俺は笑った。
「帰れる」
トヴァンも、目を閉じたまま笑った。
「最初からそのつもりだ」
俺たちは、上に合図を送った。
救助用の橇。
毛布。
人手。
来るまで。
トヴァンは牛のことばかり聞いた。
一頭は上で固定。
一頭はここ。
二頭とも生きている。
それを伝えると。
やっと黙った。
俺は、その時。
見つけたから、もう大丈夫だと思った。
第101話 帰り道が、急に長くなった
【本文】
橇が来るまで二十分かかった。
長く感じた。
でも、トヴァンは喋っていた。
寒い。
牛の縄が短い。
今年の干し草は出来が悪い。
どうでもいい話ばかり。
だから俺も、どうでもいい話を返した。
「白嶺の鍋屋、最近量増えたよ」
「何の話だ」
「帰ったら食えるって話」
「牛にもくれるか」
「それは自分で聞いて」
「英雄のくせに使えねえな」
「英雄じゃないって」
トヴァンが笑う。
少しだけ。
途中で咳き込む。
カイルが顔を見る。
「寒いか」
「寒い」
毛布を一枚増やす。
ミオがトヴァンの手を触る。
「指、動く?」
「動く」
「気持ち悪い?」
「お前らに囲まれてる方が落ち着かん」
「それならまだ大丈夫そう」
ミオも笑う。
でも。
記録板には何も書かなかった。
橇が来た。
ユリウスも一緒だった。
「何で来たの」
俺が聞く。
「残り二軒、下山開始。人を回せる」
「本人たちは?」
「一軒は自分で決めた。もう一軒は俺が下ろすと決めた」
「強制?」
「今朝から東斜面の凍結が増えてる。井戸もまた止まりかけた。昨日決めた条件を超えた」
迷いがない。
「後で文句は聞く」
トヴァンが横から言った。
「俺の分も聞け」
ユリウスがしゃがむ。
「帰ってから自分で言え」
「それがいい」
二人は、それ以上言わなかった。
橇へ移す。
脚は固定。
上半身も毛布で巻く。
トヴァンが嫌がる。
「動けねえ」
「動くなって巻いてる」
俺が言う。
「牛は?」
「別で下ろす」
「先に」
カイルが即答した。
「お前が先だ」
「牛は自分で歩ける」
「なら後で来る」
「そういう問題じゃ」
「トヴァン」
カイルの声が低くなる。
「今はお前が荷物だ」
「言い方あるだろ」
でも抵抗はやめた。
帰る。
来た道を、そのまま戻れない。
橇がある。
斜面が急すぎる。
エダンが少し北へ迂回する道を選ぶ。
距離は増える。
傾斜は減る。
俺が前の縄。
カイルが後ろ。
ミオは横。
ユリウスと巡回隊が交代しながら押さえる。
十歩。
止まる。
二十歩。
また止まる。
トヴァンは最初、ずっと喋っていた。
「これ、帰りじゃなくて運ばれてるな」
「今さら?」
「歩ける」
「無理」
「片足ある」
「両足使うのが歩くって言うんだよ」
「お前、口悪いな」
「さっきからそっちが先だろ」
本当に。
普通の会話だった。
だから。
途中から返事が遅くなった時。
最初は疲れただけだと思った。
「トヴァン」
ミオが呼ぶ。
「……聞いてる」
「眠らないで」
「寝てねえよ」
「じゃあ目開けて」
「うるせえな」
開ける。
でもすぐ閉じる。
カイルが止めた。
「一回降ろす」
岩陰。
風が弱い場所。
橇を置く。
トヴァンの顔色が、さっきより悪い。
俺は回復薬を出した。
「これ飲める?」
トヴァンが半分だけ目を開ける。
「高いやつか」
「今そこ?」
「安いなら二本くれ」
まだ言う。
少し安心する。
飲ませる。
呼吸。
変わらない。
カイルが腹の横を見る。
服の下。
赤黒い。
石に挟まれていた場所より上。
「内側かもしれん」
ユリウスが言った。
俺は意味を考えないようにする。
「急ごう」
もう一度運ぶ。
今度は休まない。
でも走れない。
走ったら橇が滑る。
道を選ぶ。
一歩ずつ。
下から、迎えが来た。
上部集落にいた治療のできる男。
薬箱。
布。
俺たちは場所を空ける。
トヴァンへ何か聞く。
返事が小さい。
男が俺たちを見る。
「下へ。できるだけ揺らさない」
それしか言わない。
また運ぶ。
白嶺が見える。
遠い。
行きは、こんなに遠くなかった。
トヴァンが途中で目を開けた。
俺を見る。
「牛」
「二頭とも来る」
「一頭、腹に子いる」
「分かった」
「春前」
「うん」
「売るな」
「俺の牛じゃないよ」
「じゃあ、ロムに言え」
「自分で言って」
いつもの返し。
トヴァンの口が少し動く。
笑ったのか。
分からなかった。
それが。
最後に返ってきた言葉だった。
少しして。
ミオが名前を呼んだ。
返事がない。
カイルが橇を止める。
治療の男が前へ出る。
俺は邪魔にならないように離れた。
何をしているか、全部は見なかった。
呼ぶ。
触る。
薬。
胸。
もう一度呼ぶ。
長い。
風の音だけがする。
牛の鈴が、ずっと後ろで鳴っている。
治療の男が手を止めた。
誰も聞かなかった。
聞かなくても分かった。
俺は雪を見た。
白い。
昨日と同じ。
その上に、橇の跡。
ここまで連れてきた跡。
帰るための跡。
なのに。
帰れなかった。
カイルは何も言わなかった。
ユリウスも。
ミオがしゃがみ込む。
記録板を持ったまま。
書かない。
ずっと。
エダンが後ろから来た。
牛を連れている。
二頭。
どっちも生きている。
「……間に合わなかった?」
俺は頷いた。
エダンは牛の縄を見る。
それから、トヴァンを見る。
「そっか」
それしか言わない。
一頭の牛が、橇の横へ寄ろうとする。
エダンが止める。
「そっちじゃない」
牛は分からない。
また鈴が鳴る。
帰り道が、急に長くなった。
白嶺へ戻ったのは夕方だった。
鍋屋のおばちゃんが、いつもの場所にいた。
俺たちを見て。
鍋の蓋を閉じた。
何も聞かなかった。
それが一番きつかった。
ユリウスは、入口の机へ行った。
朝の木札。
捜索六人。
全員帰還。
救助対象一人。
その欄で手が止まる。
俺は見ないようにした。
少しして。
ユリウスが俺を呼ぶ。
「レン」
「何」
「昨日、残留を認めた判断を変えるか」
いきなり。
怒りそうになる。
今する話か。
でも。
今しかできない気もする。
「残りは?」
「二軒とも下山中。今夜までに無人になる」
「じゃあ、もう」
「次がある」
ユリウスは紙を見る。
「次の集落。次の吹雪。次の病人。次の家畜。『本人が残りたい』はまた出る」
俺は答えられない。
「強制すれば、全部助かる?」
「助からない」
即答。
「今回だって、昨日の時点で強制していればトヴァンが必ず生きていたとは言えない」
少しだけ、息が戻る。
でも続く。
「ただ、今朝ここにいなければ、東斜面には出ていない」
それも正しい。
嫌になる。
ミオが横へ来た。
「昨日の判断が間違い、って一行で書いたら嘘になる」
俺は見る。
「食料が届いた。井戸が戻った。道も歩けた。残る条件は実際に良くなった」
「でも死んだ」
「うん」
そこは薄めない。
ミオは記録板を抱えた。
「だから次は、良くなった条件だけじゃなくて、悪くなった時に間に合う距離も見る」
ユリウスが頷く。
「退避に必要な時間。家畜を置いていけない家。自力移動できない人。そこまで先に入れる」
また項目が増える。
前なら。
面倒だと思った。
今も面倒だ。
でも。
面倒だから消していいものじゃない。
俺は朝のトヴァンの言葉を思い出す。
食料、ありがとな。
もう一晩いけると思った。
俺が食料を通した。
それは間違いじゃない。
きっと。
でも。
食料が届いた後に何が変わるかまで。
俺は見ていなかった。
夜。
牛二頭は、ロムが預かることになった。
腹に子がいる方も。
ロムは俺に言った。
「売らねえよ」
「何で知ってるの」
「エダンから聞いた」
「そう」
「春前だろ」
「うん」
「じゃあ春まで面倒見る」
言ってから。
ロムは牛を見た。
「その後は知らん」
全部を綺麗にしない言い方。
少し助かった。
俺は宿へ戻らず。
しばらく白嶺の入口に座っていた。
地下には古い防衛施設。
南には検査と手数料案。
北には食料不足。
東斜面には。
今日、白い布を結んだままの穴がある。
まだ誰も入っていない。
いつもなら。
頭の半分は、もうそっちへ行っていた。
今日は。
一度も、行きたいと思えなかった。
第102話 入口を見つけて、入らなかった
【本文】
次の日。
東斜面へ戻った。
遺跡を調べるためじゃない。
置いてきた縄と楔を回収するため。
それから。
トヴァンが落ちた場所を、もう一度見るため。
俺。
ミオ。
エダン。
三人。
カイルは北へ戻る準備。
ユリウスは白嶺で、避難条件の書き直し。
シンは入口。
誰も「遺跡見てこい」とは言わなかった。
でも。
白い布は残っている。
昨日つけた印。
石積み。
黒い穴。
近くで見る。
昨日より、はっきりしていた。
雪が少し落ちたから。
人工の入口。
高さは俺より少し高い。
幅は二人分ない。
縁に、古い加工跡。
中から風。
冷たくない。
白嶺地下の古代施設と、似た乾いた風。
ミオがしゃがむ。
「つながってる可能性あるね」
「どこに?」
「分からない」
「入ったら」
言いかける。
ミオは何も言わない。
止めもしない。
その方が困る。
俺は入口を見る。
昨日なら。
トヴァンを見つける前なら。
「見るだけ」
と言って入ったかもしれない。
本当に見るだけのつもりで。
その先が曲がっていたら、曲がり角まで。
階段があったら、一段だけ。
風が来たら、風の元まで。
そうやって何度も進んできた。
それが、俺だった。
嫌いじゃない。
今も。
入口は、ものすごく気になる。
ミオが紙へ形だけ描く。
「名称どうする?」
「未調査」
「それ名称じゃない」
「じゃあ東斜面の穴」
「雑」
「シンの札よりいい」
「本人に言って」
普通の会話。
少し戻ってきた気がする。
エダンが入口の上を見る。
「これ、昨日トヴァンが落ちたのと関係ある?」
「分からない」
ミオ。
「石積みの端が崩れて、雪が薄くなってた可能性はある。でも事故原因って言うには足りない」
「じゃあ書かない?」
俺が聞く。
「書く。『関係不明』って」
そういうところ。
入口は残る。
事故の答えにも。
新しい冒険にも。
まだしない。
縄を回収する。
楔。
切れた牛縄。
これは持ち帰るか迷った。
エダンが言う。
「ロムに渡す?」
「何で」
「牛の物だろ」
「縄はトヴァンのじゃない?」
「じゃあ家」
家は空。
俺たちは三秒くらい黙る。
ミオが言った。
「今はロムに預けよう」
それで決まる。
こういう小さいことの方が、意外と決めにくい。
戻ろうとした時。
下から声がした。
「レン!」
巡回隊の兵。
昨日とは違う人。
息を切らして上がってくる。
俺の胃が縮む。
もう嫌だ。
「今度は何」
言い方が悪かった。
兵が一瞬止まる。
「すみません」
「いや、こっちがごめん。何?」
兵は封書を二つ出した。
一つはカイル宛。
一つは白嶺運営側。
「北方評議からです。南の交易手数料案について、北側の回答が決まりました」
もう決まったのか。
白嶺へ戻る。
入口には入らない。
白い布はそのまま。
俺は一回だけ振り返った。
暗い。
たぶん道がある。
何かがある。
でも。
置いていける。
そう思った。
白嶺へ戻ると、人が集まっていた。
大人数じゃない。
ユリウス。
シン。
ハルド。
ロム。
オルド。
セドリック。
カイル。
鍋屋のおばちゃん。
何でいる。
「昼だから」
聞く前に言われた。
そうだった。
会議は昼がいい人。
机に二枚の紙。
南からの案。
北からの回答。
南側は、北方産品への一律負担をやめた。
代わりに。
高価格品と大量商用荷だけに、低い率で手数料をかける案。
食料・生活物資は免除。
小口の個人荷も一定量まで免除。
三日実測の数字を見て、変えたらしい。
俺はハルドを見る。
「思ったより変わった」
「実測の意味は、変えるためにあります」
ちょっと格好いいこと言った。
シンが横で聞く。
「それ、最初からできなかったの?」
ハルドが少し黙る。
「できたら、私はここに三日いません」
ちゃんと返すようになってきた。
問題は北側。
ロムが紙を読む。
顔が固い。
「北は?」
俺が聞く。
カイルが答えた。
「手数料の率には反対しない」
意外。
「ただし、食料輸送が止まる判断を南だけでできる状態は認めない」
「どういうこと?」
「冬季の食料便は、北側も通行判断に入れる。検査で止める場合は、理由と解除時刻を北へ伝える。長時間止めるなら、代替輸送を用意する」
ユリウスが紙を見る。
「合理的だな」
「それだけじゃない」
カイル。
声が変わらない。
だから余計に嫌な予感がする。
「北方評議は、食料便へ護衛を付ける」
俺は顔を上げた。
「巡回隊?」
「最初はな」
「最初?」
「足りなければ北方軍」
部屋が静かになる。
オルドが聞いた。
「南側へ兵を入れるつもりですか」
「食料便に付く。白嶺を越えるところまでだ」
ハルドがゆっくり言う。
「南側の検査地点へ、武装した北方部隊が来れば、意味は変わります」
「分かってる」
「それでも?」
「止まって、北で食えなくなるよりはいい」
カイルは俺を見ない。
紙を見ている。
俺は第4章で一緒に戦った時のカイルを思い出す。
大型の魔物。
吹雪。
輸送隊。
同じ人。
今も。
やろうとしていることは、たぶん同じ。
北の人間を生かす。
ただ。
相手が魔物じゃない。
制度と。
南側と。
人間になるかもしれない。
「カイル」
俺が呼ぶ。
「何だ」
「止められたら?」
「話す」
「それでも止められたら?」
少し間。
カイルは俺を見る。
「食料は持って帰る」
答えになっている。
だから怖い。
「戦うの?」
鍋屋のおばちゃんが聞いた。
全員、おばちゃんを見る。
本人は普通に聞いただけの顔。
カイルはすぐには答えなかった。
「戦わないために、先に決めに来た」
「じゃあ決めな」
鍋屋のおばちゃんは立った。
「冷めるから帰る」
何しに来たんだ。
でも。
少し息ができた。
ユリウスが話を戻す。
「白嶺側から提案する。護衛は武装人数を上限付きで事前登録。検査地点では武器を抜かない。食料便の停止時間は最大を決める。超えたら白嶺側が代替輸送を出す」
「誰が金出す」
ロム。
「そこからだ」
ユリウス。
また面倒。
でも。
昨日までより、面倒を嫌だと思わない。
トヴァンの木札が頭にある。
決めなかったことにも、結果はある。
午後まで話した。
全部は決まらない。
護衛人数。
手数料率。
補償。
羊道。
食料優先。
宿代。
避難者の食費。
途中でパンが足りなくなる。
シンが取りに行く。
戻ってきて、俺の分だけ一個少ない。
「何で」
「途中で食べた」
「俺のを?」
「どれがレンのか書いてなかった」
ユリウスが言う。
「次から番号を」
「パンまで管理するな!」
久しぶりに全員が笑った。
トヴァンが死んだ次の日でも。
笑う。
ちょっと嫌で。
でも、たぶん必要だった。
夕方。
会議が終わる。
全部は決まっていない。
でも明日の食料便は動く。
北の護衛は巡回隊四人まで。
南の検査地点では武器を抜かない。
止める場合は理由を紙で残す。
今日はそこまで。
外へ出る。
ミオが俺の横に来た。
「東斜面、行かないの?」
「今日行ったよ」
「そうじゃなくて、中」
やっぱり分かっていた。
俺は白嶺の南北を見る。
荷車。
札。
人。
鍋。
地下入口。
北へ行く食料便。
南へ戻る炉晶。
カイルの巡回隊。
ハルドの机。
シンの通行板。
全部。
俺が開いた道の上にある。
「行かない」
言う。
ミオが俺を見る。
「明日?」
前なら。
たぶんそう言った。
明日。
片づいたら。
一回だけ。
見るだけ。
でも。
今は違う。
「しばらく、行かない」
自分で言ってから、少し驚く。
「白嶺にいる」
ミオは何も褒めなかった。
「じゃあ地図に《未調査》って書いとく」
「名前、結局それ?」
「レンが決めた」
「東斜面の穴よりいいか」
「だいぶ」
それで終わった。
英雄の決意みたいな音楽は鳴らない。
通知も出ない。
レベルも上がらない。
ただ。
未踏の入口を見つけて。
俺は初めて。
自分から、そこへ入らなかった。
その夜。
北へ戻るカイルが、白嶺の北口で俺を呼んだ。
「レン」
「何」
「次に来る時、俺は巡回隊長じゃないかもしれん」
「昇進?」
「たぶんな」
「おめでとうでいい?」
カイルは笑わなかった。
「まだ言うな」
「何で」
「兵を連れて来る役になる」
風が抜ける。
北から。
冷たい。
カイルは続けた。
「それでも、道は通したい」
俺は答えた。
「俺も」
同じ言葉。
たぶん。
もう同じ意味じゃない。




