第91話 赤い紐は、何も証明しなかった
【本文】
朝。俺たちは、泥の中で見つけた赤い紐を机の上に置いていた。正確には、置いたのはエダンだ。俺が持とうとしたらミオに止められた。
「昨日、拾わなかった意味なくなるでしょ」
「今は拾っていいんじゃない?」
「場所を書いてから」
「もう書いた」
「ならいい」
許可が細かい。
南入口の机には、ハルドもいる。ユリウスは通行記録。シンは朝から一台目の荷車を止めて、荷主と「その鶏は荷物なのか同行者なのか」で揉めていた。
「鶏は個人です」
荷主の男が真顔で言う。
シンが振り返った。
「レン。個人の鶏って何」
「俺に聞くなよ」
ハルドが咳払いした。
「生体貨物、という扱いにしましょう」
鶏が鳴いた。
朝から制度が鶏に負けている。
俺は赤い紐を指した。
「で、これ。昨日、羊道に落ちてた」
ハルドが手に取る。結び目。切れ方。泥。かなり長く見たあと、首を傾けた。
「こちらで使っている紐ではあります」
「じゃあ確認済みの荷が羊道通った?」
「それは分かりません」
即答だった。
「何で?」
ハルドは机の下から赤い紐の束を出した。同じ色。同じ太さ。どう見ても同じ。
「確認した荷の外側の縄へ結んでいます。印が見えれば、入口の先で同じ荷を何度も止めずに済むので」
ミオが一本取らずに覗く。
「一本ずつ違う印は?」
「ありません」
「番号も?」
「ありません」
俺は昨日の紐を見る。
「じゃあ、これだけじゃ誰の荷か分からない」
「はい」
「いつの荷かも?」
「昨日のものとは思いますが、断定はできません」
「何積んでたかも?」
「分かりません」
何も分からない。
昨日の夜は、すごく怪しく見えたのに。
ユリウスが記録から顔を上げた。
「見つけた物が証拠になるとは限らない」
「言い方が先生みたいで嫌だ」
「なら、勝手に犯人を作るよりいい」
それはそう。
羊道へ行く。
今日は追跡じゃない。昨日の跡がどこへ出たかを見るだけ。
エダンが先。俺。ミオ。
道はまだ濡れていた。昨日置いた板は片づけてある。羊の足跡が多い。二輪車の跡は、その上に一本だけ残っている。
南向き。
沢を越える。
昨日危なかった斜面。
その先で、跡は急に見えやすくなった。土が柔らかい。
「軽い」
エダンがしゃがんだ。
「何が?」
「車。深く沈んでない。荷なしに近い」
俺も見る。昨日、食料を載せた二輪車の跡はもっと深かった。
ミオが地図の端へ小さく線を引く。
「空で南へ戻ったなら、検査を避ける意味は薄いね」
「でも無記録」
「羊道の通行記録は、昨日の緊急便だけ」
そうだった。
道として昔から使われている人まで、俺たちが全部記録しているわけじゃない。
少し進む。
羊の柵。
その横に、小さな納屋。
二輪車が一台、壁へ立てかけてあった。
幅。
たぶん同じ。
車輪に新しい泥。
俺は納屋へ近づこうとした。エダンが先に声を出す。
「誰かいる?」
中から、昨日会ったドーガが出てきた。歯が三本ない羊飼い。
今日はパンを噛んでいる。
どうやって噛んでいるのか少し気になる。
「朝から何だ」
エダンが二輪車を指した。
「昨日の雨上がり、これ通した?」
ドーガは車を見た。
「ああ。甥が北から戻った」
俺たちは三人とも止まった。
「北から?」
「昨日、お前らの食料運び手伝ったろ。荷下ろしたあと、空で戻った」
俺は車へ近づく。
外側の縄。
切れた跡。
赤い繊維。
あった。
「これだ」
エダンが言う。
ドーガが眉を寄せる。
「何が」
俺は赤い紐の話をした。
昨日、泥の中で見つけた。確認済みの荷につけるやつ。無記録の二輪車跡。
ドーガは最後まで聞いた。
それから。
「空で帰った車追ってきたのか」
「……うん」
「暇だな」
違う。
でも反論が弱い。
ミオが横で顔を逸らした。肩が少し動いている。
「笑ってる?」
「笑ってない」
「肩」
「朝、寒いから」
絶対違う。
ドーガの甥も出てきた。昨日、沢で縄を張ってくれた男だ。
「赤いの、荷下ろしても付いたままだったんだよ。帰りに枝へ引っかけた。取ろうと思ったけど雨だったし」
「何で主道じゃなく羊道で帰ったの?」
俺が聞く。
男は変な顔をした。
「家、こっちだから」
終わった。
抜け道でも何でもない。
その人には、こっちが普通の帰り道だった。
俺はしゃがんで二輪車の泥を見る。
昨日の夜。
赤い紐を見た瞬間。
俺の頭の中では、もう誰かが検査を抜けていた。
ミオが隣へしゃがむ。
「見つけた物を、答えにしすぎたね」
「言い方が優しい分、刺さる」
「次、同じことしなければいいでしょ」
エダンが立ち上がった。
「じゃあ戻るか」
「せっかく来たのに?」
「羊でも追う?」
「帰ります」
昨日で十分だ。
白嶺へ戻る。
南入口。
机の横に、紙が並んでいた。
三日分。
シンが数字を丸で囲んでいる。
「遅い」
「空車追ってた」
「何それ」
「聞かないで」
ハルドが三日分の記録を見せる。
大きい荷車。
中くらい。
小さい荷車。
背負子。
商用。
個人。
食料。
炉晶。
その他。
数字が並ぶ。
俺は数字を見ると眠くなる。
でも一つだけ分かった。
「小さい商用荷、減ってない?」
初日より二日目。
二日目より三日目。
少ない。
ハルドが頷く。
「はい。大きい便はあまり変わっていません」
ミオが紙を覗く。
「全部が羊道へ流れたとは言えない」
「来る日がずれただけかもしれない」
ユリウスも続ける。
「手数料案を聞いて、まとめ待ちにした可能性もある」
エダンが南側の斜面を見る。
「でも羊道、人増えてる」
ドーガも言っていた。
昨日から、背負子で通る人が増えた。
荷付き二輪車は、あの女と緊急便以外にも一台見たらしい。
誰かは分からない。
何を運んだかも分からない。
赤い紐より、こっちの方がずっと嫌だった。
人の動きが変わっている。
まだ手数料は取っていない。
税も決まっていない。
検査だけ。
それでも。
午後。
羊道側から、一人の男が出てきた。
背負子。
羊毛の束。
俺たちの机を見る。
足を止める。
逃げない。
そのまま普通に歩いてきた。
ハルドが声をかける。
「北からですか」
「そうだよ」
「商用ですか」
男は羊毛を肩で直した。
「南で売るつもり」
「主道を通らなかった理由を聞いても?」
男は俺たち全員を見た。
怒ってもいない。
悪びれてもいない。
「今度、金取るんだろ?」
ハルドが言う。
「まだ決まっていません」
「なら、今のうちに道覚えとこうと思って」
その答え。
誰もすぐ返せなかった。
男は続ける。
「羊道は昔からある。歩いて通るなって札もない。荷車じゃない。俺が背負ってる。何か駄目なのか?」
現時点では。
たぶん。
駄目とは言えない。
ハルドも言わなかった。
「危険箇所だけ気をつけてください」
「見たよ。羊にかじられた札だろ」
まだ跡残ってるのか。
男は南へ歩いていく。
俺は背中を見る。
昨日の赤い紐は、何も証明しなかった。
でも。
何も決まっていない制度が。
もう人の道を変えていることだけは。
紐がなくても見え始めていた。
第92話 四枚をやめたら、今度は値段を聞かれた
【本文】
三日分の記録を南へ持っていったハルドは、昼前に戻ってきた。
紙を五枚持って。
増えてる。
「嫌な予感する」
俺が言うと、ハルドは少し疲れた顔で答えた。
「私もです」
役人と気持ちが一致した。
宿の広間。
今回は、前より人が多い。
ロム。
南の商人。
パン屋。
炉晶を扱い始めた鍛冶屋。
荷運び。
ユリウス。
ミオ。
エダン。
シン。
俺。
ガランはまた来ていない。
「金の話は斧より切れ味悪い」
と言って、本当に斧を研いでいる。
たぶん逃げた。
ハルドが一枚目を出す。
「まず、一台四枚の案は取り下げです」
ロムがすぐ椅子へもたれた。
「よし」
南の商人も息を吐く。
俺も少し嬉しい。
シンが手を上げた。
「俺、三日いっぱい書いたから、そこは褒めて」
「助かりました」
ハルドが真面目に言う。
シンは一瞬困った顔をした。
たぶん軽く言ってほしかったんだと思う。
ハルドは記録を見せた。
小さい便が多い。
大きい便は少ない。
空車もある。
家ごとの少量便。
個人と商用が同じ荷に混ざる便。
食料。
炉晶。
毛皮。
豆。
木馬。
木馬まで集計されている。
「何で木馬あるの」
俺が聞く。
シンが俺を見た。
「レンが『その他・個人』って書いたから」
「消してよ」
「記録だから消さない」
ユリウスに似てきた。
ハルドが二枚目を出す。
「ただし、費用をどうするかは残ります」
来た。
「検査を続けるなら、人も紙も必要です。また、南側では白嶺交易そのものが大きくなっているので、入口で一定の負担を求めるべきだという意見が強くなりました」
ロムの顔が戻る。
「一定って?」
ハルドが紙を裏返す。
《申告価格 二十分の一》
俺は読む。
もう一回読む。
「何これ」
ミオが横から言う。
「荷の値段二十に対して一を取る案」
「何で急に算数難しくなったの」
「一台四枚が雑だったからでしょ」
雑じゃない案は、分かりにくい。
南の商人がすぐ紙へ手を伸ばす。
「売る前なのに、値段をどう決めるんです?」
ハルドが答える。
「荷主の申告額を基準にする案です」
「なら安く書く」
ロム。
即答。
ハルドが黙る。
ロムは肩をすくめた。
「俺だけじゃねえぞ。誰でも考える」
パン屋が笑った。
「正直で助かる」
南の商人は笑わない。
「炉晶はどうします。南で高く売れる時と、北で安く仕入れた時で値段が違う」
鍛冶屋も入る。
「割れた炉晶は? 新品と同じか?」
エダンが聞く。
「麦は?」
ロムが答える。
「北で売るなら冬は上がる。夏は下がる」
シンが紙を見ながら言った。
「じゃあ毎日値段変わるの?」
「市場なら変わる」
南商人。
「検査する人が市場の値段まで決めるんですか?」
部屋がまた静かになる。
ハルドが三枚目を出した。
「その問題も出ています」
三枚目には、品目ごとの基準価格案。
麦。
豆。
塩。
毛皮。
炉晶。
布。
俺は途中で見るのをやめた。
「これ、全部決めるの?」
「全部ではありません。主要品だけです」
「主要じゃないやつ来たら?」
「申告」
「また戻った」
パン屋が吹き出した。
ハルドも目を閉じた。
困ってるのは、こっちだけじゃないらしい。
ミオが二枚目と三枚目を並べる。
「これ、検査の費用を払う話と、交易そのものから取る話が混ざってない?」
その言葉で。
ハルドが少し姿勢を変えた。
「はい」
声が固くなる。
「南側でも同じ指摘があります。最初は検査費用の回収でした。ただ、今は『北方産品が南市場へ入るなら、入口で負担を求めるべきだ』という案が別に出ています」
「別?」
俺が聞く。
「別です。本来は」
ハルドは五枚のうち、一番下を出した。
紙の上。
大きく一行。
《北方産品 南側流入負担案》
ロムが読んで。
机を指で叩いた。
「つまり北の物だけ取るのか」
「案では」
「南の麦を北へ持ってく時は?」
「この紙では対象外です」
空気が一段冷えた。
外は晴れているのに。
南の商人が口を開く。
「待ってください。南側の商人全部が賛成しているわけじゃない。炉晶が入らなくなれば、こっちも困る」
パン屋も頷く。
「うち、窯の残り熱を炉晶へ移すやつ、もう使ってるよ。冬前に値段上がったら困る」
鍛冶屋が腕を組む。
「俺は最初、炉晶要らんと思ってたけどな。今は乾燥に使える。高くなるなら使い方考え直す」
ロムが南側の三人を見る。
「じゃあ何でこんな紙出る」
ハルドが答えた。
「南側にも、荷運び、倉庫、市場、既存の燃料商があります。交易が急に増えたことで、利益が出る人だけではなく、仕事が減ると考える人もいる」
分かる。
分かるから困る。
誰かが悪いなら、その人を止めればいい。
仕事が減るかもしれない人。
冬の食料が足りない人。
炉晶が欲しい人。
小さい荷を自分で運びたい人。
検査する人。
全部、それぞれ困っている。
俺は聞いた。
「ハルドは、これ賛成?」
ハルドは少し考えた。
「私は貨物確認を任されています」
「逃げた」
「逃げています」
認めた。
その場で少し笑いが出た。
ハルドは続ける。
「個人として思うことはあります。ただ、私の意見を南側全体の判断みたいに見せるのは違うので」
それも分かる。
ユリウスが紙を一枚ずつ分けた。
「混ぜない方がいい」
皆が見る。
「貨物確認が必要か。確認の費用を誰が持つか。北方産品へ負担をかけるか。三つは別」
「でも紙は五枚」
俺が言う。
「黙ってろ」
怒られた。
三日間の記録で、一台四枚は消えた。
そこまでは進んだ。
でも。
四枚をやめたら。
今度は荷の値段を聞かれた。
そして。
値段の話を始めたら。
誰が得して、誰が困るかまで出てきた。
会議は結局、決めなかった。
決められなかった、の方が近い。
貨物確認は当面続ける。
食料と薬は優先。
手数料の徴収はまだ始めない。
北方産品への負担案は、北側にも正式に見せてから再協議。
そこまで。
午後。
ロムが北へ戻る荷車を見送っていた。
炉晶の箱が二つ。
いつもより少ない。
「今日、これだけ?」
俺が聞く。
ロムは箱を見たまま答えた。
「北で止めてる」
「何を?」
「炉晶」
「何で」
ロムが俺を見る。
「南で金取るかもしれんって話、もう向こう回ってる」
早い。
「まだ案だよ」
「案でも、来週値段変わるかもしれんなら、今日安く出す必要ないだろ」
市場。
そういうことか。
南のパン屋が後ろから来る。
「明日の分、箱四つ頼んでたんだけど」
ロムが申し訳なさそうに頭を掻く。
「俺に言われてもな。持ってる家が『待つ』って」
「困るよ。乾燥室、もうあれ前提で回してる」
「北は北で麦欲しいんだよ」
二人とも怒鳴らない。
でも笑ってもいない。
白嶺を通して。
北の炉晶が南へ来た。
南の穀物が北へ行った。
便利になった。
売れるようになった。
必要になった。
だから。
紙の上にまだあるだけの負担案で。
荷が止まる。
その日の夕方。
入口を通った炉晶は、昨日より少なかった。
一枚も金は取っていない。
それでも。
値段は、もう道の上を歩き始めていた。
第93話 羊道の出口に、カイルが立った
【本文】
次の日。
羊道の入口に、十二人いた。
羊じゃない。
人。
あと二輪車が三台。
「何これ」
俺が言うと、ドーガがこっちを睨んだ。
「俺が聞きてえ」
朝から機嫌が悪い。
三台のうち一台は北から来た。
炉晶の小箱。
羊毛。
干し肉。
南へ売りに行く荷。
一台は南から。
豆。
塩。
乾燥野菜。
北へ持っていく。
最後の一台は空。
たぶん帰りに何か積む。
人もばらばらだった。
小さい商人。
荷運び。
羊毛を背負った男。
昨日の人とは違う。
杖をついた婆さんまでいる。
「何で並んでるの?」
俺が聞く。
北から来た商人が言った。
「順番」
「何の?」
「道狭いだろ」
知ってる。
でも。
順番ができるほど使う道じゃなかった。
ドーガが杖で地面を叩く。
「昨日は食いもんだけだって言ったよな」
炉晶の商人が振り返る。
「昨日の話だろ」
「今日、誰がいいって言った」
「誰の道でもないんだろ?」
空気が悪い。
エダンが間へ入る。
「誰の道でもない、って言ったのは、好きに壊していいって意味じゃないって昨日も――」
「壊してない」
商人が言う。
「まだ通ってもいない」
そこは正しい。
ミオが人の数を数えている。
「昨日より増えすぎ」
「関税の紙出たから?」
俺が聞く。
羊毛の男が答えた。
「紙が出たなら、そのうち取るだろ」
「まだ案」
「案が決まってから道探したら遅い」
昨日と同じ。
人は、決まってから動くとは限らない。
未来の不便を先に避ける。
それ自体は。
俺もやる。
たぶん一番やる。
「でもここ、商用路じゃない」
ドーガが言う。
「羊の道だ」
炉晶の商人が斜面を見る。
「羊、今いないじゃないか」
ドーガの顔が変わった。
「朝の放牧、こいつらで止めてんだよ」
その時。
上から羊の声がした。
いっぱい。
ドーガの甥が、群れを止めている。
人と二輪車が入口を塞いでいるから、下りてこられない。
俺はやっと分かった。
道を使っているのは、通る時だけじゃない。
通れなくなる側もいる。
「一回、荷どけよう」
俺が言う。
空の二輪車を持つ男が聞く。
「で、俺たちは通れるのか?」
「まだそこ決めてない」
「誰が決める?」
「……この道使ってきた人」
ドーガを見る。
商人が鼻を鳴らした。
「じゃあ既得権か」
言葉が難しい。
でも意味は分かる。
昔から使っている人だけが決めるのか。
新しく必要になった人は?
白嶺の主道だって、俺たちが開いたあと、皆が使う道になった。
羊道だけ、昔の人のものと言い切れるのか。
俺が考えている間に。
後ろからもう一台来た。
南から。
二輪車。
若い男が引いている。
「通れない?」
「見れば分かるだろ!」
ドーガが怒鳴る。
男がびっくりする。
「俺、食料なんだけど」
それで。
列がもっとややこしくなった。
食料なら昨日は通した。
今日は?
食料だから優先?
でも昨日は緊急だった。
今日も北は必要としている。
炉晶は南で必要。
羊はここを生活に使う。
空車は帰りたいだけ。
全部理由がある。
「主道へ戻せる荷は戻そう」
俺が言う。
炉晶の商人がすぐ返す。
「明日から金取るかもしれないだろ」
「今日取ってない」
「今日通れる道あるなら、こっち使う」
「狭い」
「だから並んでる」
会話が回る。
ミオが俺の袖を引いた。
「レン。先に羊」
上。
群れ。
甥がもう一人では押さえにくくなっている。
「分かった」
俺は列の人たちへ言う。
「二輪車、全部端。人も岩側。羊通す」
「そのあと?」
「そのあと話す!」
強引。
でも今はこれしかない。
エダンが一台ずつ位置を変える。
ミオは道幅を見る。
シンも主道から走ってきた。
「何でこっちに列できてるの!」
「俺も聞きたい!」
羊。
下りてくる。
最初の十頭くらいは普通。
十一頭目。
炉晶の箱を嫌がる。
横へ避ける。
後ろが詰まる。
羊毛の男が箱へ布をかける。
少し落ち着く。
「羊、炉晶嫌い?」
俺が聞く。
ドーガが言う。
「箱が光るからだ」
「中見えてないじゃん」
「隙間から見えてる」
羊の方が目いい。
何とか群れを通す。
最後の数頭。
その時。
後ろ。
ガタン。
二輪車。
空車じゃない。
食料を積んだやつ。
端へ寄せすぎた。
右の車輪が柔らかい土へ沈む。
若い男が反射で引く。
「引くな!」
俺とエダンが同時に叫んだ。
遅い。
車体が傾く。
豆袋が一つ落ちる。
道の端。
袋が斜面へ転がる。
シンが飛びつく。
届かない。
俺がその後ろから腕を掴む。
「シン、行くな!」
袋は二回跳ねて。
下の灌木へ引っかかった。
止まる。
人は落ちていない。
全員、息を吐いた。
シンが俺の腕を見る。
「痛い」
「ごめん」
「でも今のは掴んでよかった」
珍しく素直。
二輪車はエダンと商人二人で戻す。
豆袋は後で縄で回収する。
ドーガが地面を見る。
「もう駄目だ」
声は怒鳴っていない。
だから余計に聞こえた。
「今日は荷、通すな。土が持たん」
炉晶の商人が言う。
「俺はまだ一歩も――」
「一歩も通ってねえのに沈んだろ」
返せない。
でも。
「ドーガが決めるの?」
空車の男が言った。
「道は誰のでもないんだろ」
またそこ。
俺は口を開こうとした。
その前に。
北側から、馬の音がした。
一頭じゃない。
三頭。
道の入口で止まる。
先頭の男が降りる。
黒に近い髪。
腕に青い紐。
見覚えがある。
カイル・ヴァレド。
北巡回隊の隊長。
「何してる」
最初の一言。
久しぶりなのに挨拶がない。
「見れば分かる?」
俺が返す。
カイルは列。
二輪車。
沈んだ車輪。
上の羊。
泥。
主道側から来たシン。
全部見る。
「分からないから聞いた」
そうだった。
俺たちは順番に説明した。
昨日の緊急食料路。
三軒の合意。
今日の商用利用。
関税案の噂。
羊が止まった。
車輪が沈んだ。
ドーガが今日の荷利用を止めたい。
最後まで聞いたカイルは、ドーガを見る。
「この道を普段使ってるのは?」
「うちと、上の二軒。あと羊」
「今日の商用荷を許した?」
「許してねえ」
カイルは次に、並んでいる商人を見る。
「じゃあ荷は戻せ」
炉晶の商人が眉を寄せる。
「何の権限で」
カイルはすぐ答えた。
「俺の権限じゃない」
商人が止まる。
カイルはドーガを指した。
「ここを生活に使ってる人間が、今日は荷を入れるなと言った。理由は地面が持たない。実際、今一台沈んだ。俺は事故を増やさないよう手伝う」
「でも道は――」
「人は歩けばいい」
カイルが道を見る。
「背負子も、地面を壊さない量なら止めない。羊も通す。止めるのは荷付き二輪車だけ。今日、この土で」
全部閉じない。
必要なところだけ。
商人が言う。
「主道で金取られるようになったら?」
カイルの顔は変わらない。
「まだ取ってない」
「でも取るかもしれない」
「決まってから争え」
短い。
「今日、崖から落ちる理由にはならない」
何人かが黙る。
ドーガの甥が、羊を全部下へ通し終えた。
カイルの巡回兵二人が、二輪車を一台ずつ主道側へ戻すのを手伝う。
怒鳴らない。
押さえつけない。
でも動きが早い。
俺はそれを見ながら、前に北の雪山で会った時を思い出した。
カイルは、助けに行く人数を減らした。
吹雪の中で。
皆を行かせる方が勇敢に見えるのに。
帰ってこられる人数だけ出した。
今も同じ。
自由な道を全部閉じたわけじゃない。
壊れそうな使い方だけ止めた。
俺が隣で言う。
「相変わらず、止めるの早いね」
カイルがこっちを見る。
「お前は相変わらず、止めるの遅いな」
久しぶりの再会でそれ?
「俺、最近かなり止まれるようになったけど」
ミオが後ろで言った。
「前よりは」
エダンも頷く。
「前よりは」
味方が弱い。
羊道の混雑が解けたあと。
カイルは主道へ来た。
北から連れてきた馬には、荷がほとんどない。
「食料?」
俺が聞く。
「買い付けの護衛」
「早霜、そんなに?」
カイルは少しだけ北を見る。
「昨日より悪い」
ロムから聞いた話より。
谷の低い畑だけじゃない。
上の集落で、朝の水桶が薄く凍った。
まだ冬じゃない。
それでも。
「食料は足りる?」
「買えるなら」
「買えなかったら?」
カイルは答えなかった。
代わりに。
「ユリウスは?」
「入口」
「呼んでくれ」
俺たちは戻る。
ユリウスが北側の備蓄記録を持ってくる。
カイルはそれを見て、三つの集落名へ指を置いた。
「この二つは南から補えば冬を越せる。問題はここ」
一番上。
山に近い小集落。
道が細い。
雪が深くなれば、荷車は入らない。
ユリウスが聞く。
「人口」
「二十七世帯」
「歩けない人」
「今は三人。高齢二、怪我一」
「家畜」
「多い」
質問が速い。
俺は二人の間で、嫌な予感がした。
ユリウスが紙を出す。
「避難候補を作る」
俺が見る。
「まだ早くない?」
ユリウスは顔を上げる。
「避難するとは言ってない。誰をどう動かせるか、今出す」
カイルが頷いた。
「賛成だ」
俺は北を見た。
「本人たちは?」
カイルが答える。
「聞く」
少し安心した。
でも。
次の言葉。
「ただ、雪が来てから『行きたくない』と言われても、全員を残す気はない」
俺はカイルを見る。
「嫌だって人も?」
「いるだろうな」
「それでも?」
カイルは、机の上の羊道図を一度見た。
「今日、お前は二輪車が落ちるまで待たなかっただろ」
「それと人の家は違う」
「違う」
すぐ認めた。
「だから今から話す。今なら選べることが多い。雪が積もったら、選べることが減る」
言い返せない。
でも。
全部納得もできない。
ユリウスが横で、二十七世帯の欄を作り始めている。
名前。
人数。
歩けるか。
家畜。
備蓄。
移動手段。
俺は紙を見る。
白嶺では。
道を自由にする話をしていた。
その北では。
今度は、人を動かす準備が始まっていた。
カイルが俺へ言う。
「明日、北へ来るか」
俺はすぐ答えなかった。
ミオを見る。
エダンを見る。
二人とも、俺が決めるのを待っている顔じゃない。
自分で考えている顔。
それが少し嬉しかった。
「行く」
俺は言った。
カイルが頷く。
「なら朝。遅れるな」
「久しぶりに会ったのに、それだけ?」
「パン食うか?」
「北の固いやつ?」
「嫌なら食うな」
「あれスープあれば美味しい」
カイルが一瞬だけ笑った。
本当に一瞬。
明日。
俺たちは北へ行く。
今度は道を見つけるためじゃない。
その道を使って。
誰を動かすのかを、見に行くために。
第94話 二十七軒には、二十七個の残る理由があった
【本文】
カイルは、朝の約束に三分早く来た。
俺は五分早く来た。
勝った。
「顔がうるさい」
カイルが言った。
「まだ何も言ってないけど」
「言わなくても分かる」
久しぶりに会ったのに、扱いが雑だ。
北へ行くのは、俺だけじゃなくなった。ミオは地図板を背負い、エダンは上の集落までの道を知っているから同行。ユリウスは昨日作り始めた避難候補台帳を抱えている。
シンは白嶺に残った。
「通行記録と羊道、両方空けたらまた列できるから」
本人がそう言った。少し前なら、俺が「一緒に来る?」と聞いていた気がする。今は聞かなかった。シンにはシンの場所がある。
北側へ下り、そこからさらに山沿いの細道を上がる。
問題の集落は、白嶺から見えていた北の谷よりさらに高い。荷車が通れるのは途中まで。最後は人と小さな橇だけ。
「冬、どうやって食料入れるの?」
俺が聞くと、カイルが前を歩きながら答えた。
「雪が浅いうちに入れる。あとは備蓄」
「今年は?」
「霜が早すぎた」
それだけで十分だった。
畑へ着く前から分かる。
葉が黒い。
端だけじゃない。低い場所から斑に枯れている。豆はまだ残っている。大麦は場所によって違う。でも、余裕がある畑には見えなかった。
エダンが一枚の葉を裏返した。
「夜だけじゃなく、朝も冷えたな」
ミオは地図じゃなく、畑の場所へ印をつけていく。
「低い畑ほど強い?」
「たぶん」
カイルが答える。
「風が溜まる窪地がひどい」
上の集落へ着く。
家は二十七。
昨日聞いた数字と同じ。
石と木の低い家。家畜小屋。干し草。細い煙突。広場と呼ぶには狭い土の空き地。
人が集まっていた。
もう話は届いている。
最初に出てきたのは、白髪の女だった。腰は曲がっているけど歩くのは速い。
「避難させに来たのかい」
カイルが答える。
「話をしに来た」
「役人は皆そう言うよ」
「俺は役人じゃない」
「兵隊はもっと嫌だね」
強い。
俺が少し笑ったら、女がこっちを見た。
「何がおかしい」
「すみません」
「誰だい」
「レン」
「ああ。道掘った子」
掘ってはいない。
でも訂正すると長そうなのでやめた。
ユリウスが台帳を開く。
「二十七軒、一軒ずつ話を聞く」
白髪の女が眉を上げた。
「今日中に?」
「終わらなければ明日も」
「急がせに来たくせに、のんびりだね」
ユリウスは表情を変えなかった。
「急ぐから、先に聞く」
一軒目。
夫婦二人。
移る気はある。
ただし鶏十二羽を連れていけるなら。
二軒目。
若い家族。
子ども三人。
母親は下へ行きたい。父親は干し草を置いていけない。
三軒目。
一人暮らしの男。
「絶対行かん」
理由。
「ここが家だから」
ユリウスが聞く。
「食料は?」
「一月半」
「薪」
「冬半ばまで」
「水」
「井戸」
「凍ったら」
「割る」
「体調」
「お前よりいい」
ユリウスは黙って書いた。
俺が横から台帳を見る。
《残留希望》
一言。
でも、その一言の中に家一軒分が入っている。
四軒目。
怪我人がいた。
昨日カイルが言った三人のうち一人。右足を木板で固定している。屋根から落ちたらしい。
本人は言った。
「動かした方が痛い」
妻は言った。
「ここに置く方が怖い」
二人で意見が違う。
五軒目。
婆さん一人。
「下の宿の飯、塩辛いから嫌」
それが第一理由だった。
俺は思わず聞いた。
「そこ?」
婆さんは俺を睨む。
「毎日食うんだよ。大事だろ」
大事だった。
六軒目。
羊十八頭。
七軒目。
牛が一頭、もうすぐ仔を産む。
八軒目。
墓。
九軒目。
借金を返すまで畑を離れたくない。
十軒目。
下に行く親戚と仲が悪い。
十一軒目。
普通に行く。
「え、行くの?」
俺が聞いた。
家の男が変な顔をした。
「寒いし」
そういう人もいる。
昼。
半分も終わっていない。
広場の端には、小さな共同倉があった。ユリウスが中を見たいと言うと、管理している男が鍵を持ってきた。
中身は、思っていたより少ない。
麦袋。豆。塩。干し肉。薬草。薪油。
でも全部が同じ家の物じゃない。袋ごとに紐の色が違う。
「共同備蓄じゃないの?」
俺が聞くと、管理の男が首を振った。
「半分共同、半分預かり。赤は共同。青は西の三軒。黄色はマーサ婆さんたち」
「何で一緒に置くの?」
「屋根が一番ましだから」
合理的だけど、ややこしい。
ユリウスが袋を勝手に数えようとする。管理の男が手を出した。
「触るな。昨日数えた」
「記録は?」
「頭」
ユリウスの顔が、ほんの少しだけ嫌そうになった。
俺は笑う。
「相性悪そう」
「お前ほどじゃない」
ひどい。
ミオは倉の位置を地図へ足した。でも中身の量までは書かない。
「公開地図に備蓄量まで載せたら、別の問題になるから」
「ああ」
北が足りない。南から買う。炉晶は南で欲しがられている。今、誰がどれだけ持っているか。地図に書けば便利。でも便利すぎる情報もある。
エダンが倉の裏へ回った。
「雪、こっち溜まりそう」
壁際に去年の泥跡。腰より少し下。
管理の男が言う。
「去年は扉が半分開かなくなった」
「じゃあ避難しない場合、倉も掘り出す人いる?」
俺が聞く。
「いる。誰かがな」
その『誰か』も、たぶん住民だ。
一人残るということは。
自分一人の飯だけ守ればいい、ではない。
でも、まだそこまで決めつけたくなかった。
広場へ戻る。
広場で固いパンを食べる。
カイルのやつ。
スープがあると、本当に普通にうまい。
ミオが台帳を覗いた。
「理由、ばらばらだね」
「もっと『家を守る』みたいなのばっかりだと思ってた」
俺が言うと、エダンがパンをちぎった。
「家を守る、の中身がばらばらなんだろ」
それか。
ユリウスは食べながら数字をまとめる。
「現時点。すぐ移ってもいい五軒。条件付き七軒。残りたい六軒。未確認九軒」
「残る人、多い?」
「まだ途中」
ミオみたいな返事。
午後。
二十七軒、全部回った。
すぐ移ってもいい七軒。
条件が整えば九軒。
今は残りたい十一軒。
でも。
十一軒の中でも違う。
何があっても残る。
今週は残る。
家畜を先に動かせるなら考える。
雪を見てから。
息子が帰るまで。
一緒じゃない。
俺は台帳を見ながら言った。
「《拒否》って一個の欄じゃ足りないね」
ユリウスが俺を見る。
「だから作ってない」
見る。
本当だ。
《今の希望》
そう書いてある。
「変わる前提?」
「天気も、食料も、人も変わる」
少し悔しい。
ちゃんと考えている。
帰る前。
朝の白髪の女が井戸から水を汲んでいた。
名前はマーサ。
聞いた。
「マーサさんは?」
「残るよ」
「理由は?」
「聞いたろ。ここが家だ」
「それだけ?」
「それだけじゃ足りないのかい」
言葉が止まる。
足りる。
たぶん。
でも。
カイルが井戸の縁を見る。
薄い氷。
昼を過ぎている。
マーサも見た。
「昨夜より厚い」
声が少しだけ変わった。
ユリウスが台帳を開く。
「水が止まったら?」
マーサはすぐ答えなかった。
初めて。
「……その時は、また聞きに来な」
帰り道。
俺は二十七軒を振り返った。
避難するか。
残るか。
二つじゃなかった。
二十七軒には。
二十七個の、残る理由があった。
第95話 選ばせるなら、選べるうちに聞かなきゃいけない
【本文】
次の日。
マーサの井戸が、半分凍った。
完全じゃない。
桶は下りる。
ただ、昨日より水が遅い。
もう一つの共同井戸は普通に出る。
だから。
今すぐ全員逃げろ、にはならない。
そういう微妙な悪化が、一番話を難しくした。
俺たちはまた上の集落へ来た。
今日はカイルの巡回兵が二人増えている。荷物を運ぶため。剣は腰にあるけど、一度も抜かない。
広場に、大きな布を敷く。
ユリウスが三枚の札を置いた。
《今日移る》
《準備してから移る》
《今は残る》
マーサが札を見た。
「選挙かい」
「違う」
ユリウス。
「なら字をもう少し大きくしな。婆さん舐めるんじゃないよ」
シンがいたら喜びそうだ。
ユリウスは本当に書き直した。
俺はちょっと好きになりそうになって、やめた。
一軒ずつ昨日の話を確認する。
変わった家がある。
子ども三人の家。
今日は移る。
理由。
一番下の子が夜に咳をした。
昨日は残ると言っていた父親が、自分で荷をまとめている。
逆もある。
昨日、移っていいと言った家。
牛が仔を産みそうで、二日待ちたい。
「昨日と違う」
俺が言うと、家の女が睨んだ。
「牛に言いな」
無理。
ミオが小さく笑った。
ユリウスは黙って台帳を書き換える。
前の記録を消さない。
昨日。
今日。
両方残す。
「何で古いの残すの?」
「気が変わった理由が後で分かる」
「気が変わるの、悪いみたいに見えない?」
ユリウスの手が止まる。
少しだけ。
「なら理由も残す」
《牛の出産間近》
書いた。
それならいい。
昼前。
今日移る家は九軒になった。
昨日より二軒増えた。
荷は多い。
服。
乾物。
毛布。
鍋。
鶏。
本当に鶏を連れていく。
籠がうるさい。
マーサが見て言う。
「下で卵売れるよ」
鶏の持ち主が言う。
「避難する前から商売の話するな」
「食わなきゃ死ぬだろ」
強い。
怪我人の家も移ることになった。
昨日は本人が嫌がっていた。
今日は妻が勝った。
本人は板に乗せられながら文句を言っている。
「俺の足だぞ」
妻が荷紐を締める。
「だから私が困るんだよ」
理屈が強い。
最初の一団を下ろす。
荷車は来られない。
橇。
背負子。
歩ける人は歩く。
カイルが先頭。
エダンは最後尾。
ミオは途中の曲がり角ごとに位置を記録。
俺は怪我人の橇の横。
ユリウスは残る。
「何で来ないの?」
俺が聞く。
「残る十一軒をもう一度回る」
「今日?」
「今日」
「嫌がられない?」
「嫌がられる」
普通に言った。
カイルが横から言う。
「嫌がられても聞け」
二人。
似ているところある。
でも違う。
カイルは決めるのが早い。
ユリウスは決める前に全部書く。
下り道。
最初は順調。
途中の石段で、怪我人の橇が一度傾く。
俺が持つ。
後ろの巡回兵も持つ。
何とか戻す。
怪我人が言った。
「家で寝てた方が楽だった」
「今戻る?」
俺が冗談で聞く。
妻が後ろから言う。
「戻したらレンも一緒に置いてくよ」
「進みます」
全員笑った。
少しだけ。
山を下りる避難なのに。
笑う時間はある。
白嶺の北入口へ着く。
仮の受け入れ場所。
宿二軒。
空いている倉庫一つ。
前に交易用の荷を置く話が出た場所。
今は人が入る。
また用途が変わった。
ロムが受け入れを手伝っている。
「鶏まで来たのか」
「家族だって」
俺が言う。
籠の中から鳴く。
ロムが顔をしかめる。
「夜、外置け」
現実的。
午後。
受け入れ場所では、別の問題が始まっていた。
九軒分の人間を入れれば、寝る場所が足りない。
倉庫に敷いた毛布は十二枚。宿の空き部屋は四つ。家族を分けるか、知らない家族と同じ部屋へ入るか。
怪我人の妻が言う。
「うちは倉庫でいいよ。この人いびきうるさいから」
怪我人が橇の上から抗議する。
「怪我人を倉庫に捨てるのか」
「宿の人に迷惑かけるよりいいだろ」
「俺は迷惑なのか」
「今気づいたの?」
ロムが笑いながら、倉庫の奥を空ける。
鶏の籠をそこへ置こうとしたら、宿の主人が飛んできた。
「鶏は外!」
持ち主が言う。
「寒い!」
「中で糞されたら客が逃げる!」
避難者と客。
宿も無料の空間じゃない。
ユリウスがいたら紙を増やしそうな場面だ。
俺はシンが前に作った荷置きの屋根を思い出した。
「荷置き場、布で囲えない?」
ロムが見る。
「風よけならなる。夜だけなら」
エダンが縄。俺が板。宿の主人が古い布。鶏の持ち主が自分で杭を打つ。
二十分。
立派じゃない。
でも鶏は入った。
宿の主人が言う。
「朝、卵一個くれ」
「金取るよ」
「避難者だろ!」
「鶏は働いてる!」
何の話だ。
でも。
こういうので少し空気が戻る。
避難って、家を出れば終わりじゃない。
下りた先にも、場所と飯と人間関係がいる。
俺たちは上へ戻る。
空が暗い。
雪じゃない。
雲。
でも昨日より低い。
途中でカイルが止まる。
岩の影。
薄い白。
「霜?」
「昼に?」
ミオがしゃがむ。
触らない。
最近、本当に触らない。
カイルは北の斜面を見る。
「風が変わった」
俺には分からない。
エダンには少し分かるらしい。
「冷たいな」
上へ着く。
ユリウスが広場にいる。
顔がいつもより悪い。
「どうした?」
俺が聞く。
ユリウスは台帳を閉じた。
「三軒、返事が変わった」
「移る?」
「残る」
逆。
「何で?」
「今朝、南から食料便が上がると聞いた。備蓄が増えるなら冬を越せると考えた」
交易。
道があるから。
残れると思った。
俺たちが開いた道。
「実際、運べる?」
エダンが聞く。
カイルが答える。
「今なら」
「冬も?」
「分からない」
それが全部。
残る判断が間違いとは言えない。
食料が来るなら。
でも、来なくなるかもしれない。
ユリウスが言う。
「今夜、条件を決める」
「何の?」
俺。
「本人の希望を待たずに動かす条件」
空気が変わった。
俺はすぐ言った。
「それ、昨日の話と違わない?」
「昨日は、選べるうちに聞く話だ」
「今日も選べる」
「今日は」
強く言わない。
でも。
ユリウスは続けた。
「明日も同じとは限らない」
カイルは口を挟まない。
マーサが少し離れたところで聞いていた。
「勝手に連れてく気かい」
ユリウスはマーサを見る。
「勝手にはしない。条件を先に見せる」
「条件?」
「共同井戸が二つとも止まる。主道が凍って橇が下りなくなる。備蓄搬入が二日以上止まる。自力移動できない人の家で暖房が維持できない」
一つずつ。
具体的。
マーサは黙る。
俺は聞いた。
「その条件になったら?」
ユリウスが答える。
「避難対象を動かす」
「嫌だって言っても?」
「対象による」
「逃げるなよ」
「逃げてない」
ユリウスは台帳を開いた。
「歩けない三人。幼児。介助がなければ越冬できない人。まずそこからだ。元気な大人を縛って運ぶ話じゃない」
少し違った。
俺が頭の中で作ったより。
でも。
「それでも本人が嫌って言ったら?」
ユリウスは俺を見る。
「その時、俺が嫌われる」
短い。
部屋じゃない。
広場。
人も聞いている。
言い切った。
マーサが鼻を鳴らした。
「大した覚悟だね」
「覚悟で水は出ない」
ユリウス。
本当に可愛げがない。
俺はまだ納得していない。
人の家。
人の選択。
昨日、一軒ずつ聞いた。
それを条件一つでひっくり返していいのか。
でも。
その日の夕方。
共同井戸の二つ目にも。
薄い氷が張った。
マーサが桶を下ろす。
水は出る。
まだ。
出る。
俺はその「まだ」を見ていた。
選ばせるなら。
選べるうちに聞かなきゃいけない。
そして。
選べる時間そのものが。
俺たちを待ってくれるとは限らなかった。
第96話 朝になったら、選べる道が一つ減っていた
【本文】
夜中。
宿の戸を叩く音で起きた。
三回。
強い。
俺は靴を片方逆に履いたまま外へ出た。
寒い。
昨日までと違う。
息が白い。
カイルがいた。
肩に白い粒。
「雪?」
「霰だ」
どう違うのか聞く前に、カイルが言った。
「上の道で人が転んだ」
眠気が消えた。
「誰?」
「巡回兵。骨はたぶん無事。だが石段が凍り始めてる」
ユリウスも来る。
服を着ながら。
髪が珍しく乱れている。
「井戸」
最初にそれを聞いた。
カイルが答える。
「上から来た兵の話では、共同井戸一つ停止。もう一つも縄が凍る」
昨日決めた条件。
一個。
二個。
俺は言う。
「見に行こう」
「行く」
カイル。
ユリウスも。
ミオとエダンを起こす。
シンは起こさない。
白嶺側を空にできない。
あとで伝える。
北へ。
夜道。
昨日何度も歩いた道が、別の場所みたいだった。
石が光っている。
薄い氷。
足を置く場所を選ぶ。
カイルが先。
俺。
ミオ。
ユリウス。
エダンが最後。
途中。
巡回兵が一人座っていた。
足首を布で巻いている。
「歩ける?」
俺が聞く。
「下りなら。上は無理です」
強がっていない。
その言い方が怖い。
昨日、怪我人の橇を下ろした石段。
そこが凍っていた。
完全じゃない。
でも橇を真っすぐ下ろすには危ない。
カイルがしゃがむ。
「今日の昼まで持つか」
エダンが端の土を見る。
「陽が出れば」
ミオが空を見る。
真っ暗。
雲しかない。
「出なかったら?」
誰も答えない。
上の集落。
人が起きていた。
明かり。
声。
昨日の広場に集まる。
マーサも。
「朝まで待てなかったのかい」
カイルが答える。
「朝になった」
確かに。
まだ暗いけど。
ユリウスは台帳を開いた。
昨日決めた条件を読む。
共同井戸。
移動路。
自力移動できない人。
「歩けない三人は、今動かす」
すぐ言った。
怪我人の家の妻は頷く。
本人は嫌そう。
でも昨日一度下へ行って、荷を取りに戻っていた。今度は文句が少ない。
残り二人。
高齢者。
一人は普通に受け入れた。
もう一人。
老人の男。
拒否。
「昼になれば溶ける」
ユリウスが言う。
「溶けるかもしれない」
「なら待て」
「待って溶けなかったら、今より下ろしにくくなる」
「俺の家だ」
「あなたの家です」
「なら決めるのも俺だ」
そこ。
俺は老人を見る。
言っていることが分かる。
昨日までの俺なら。
たぶん。
「本人がそう言うなら」
と、すぐ言った。
今も言いたい。
でも。
ユリウスが先に聞いた。
「一人で立てますか」
老人は答えない。
「水を汲めますか」
答えない。
「薪を運べますか」
「隣がいる」
隣の男が困った顔をした。
自分の家族がいる。
昨日、条件付きで避難すると言っていた家。
ユリウスがその男を見る。
「毎日、何回ここへ来る?」
「朝と夕方……できれば」
「路面が今より凍っても?」
男が黙る。
老人が怒鳴った。
「こいつに聞くな!」
初めて声が大きくなった。
俺は一歩出る。
「ユリウス」
「何」
「もう少し――」
待て。
話せ。
選ばせろ。
言いかけた。
外で音がした。
ガン。
木が割れる音。
誰かが叫ぶ。
「井戸!」
全員、外へ出る。
二つ目の共同井戸。
滑車を支える横木が、凍った縄を引いたまま割れていた。
桶が下へ落ちている。
井戸そのものが壊れたわけじゃない。
でも。
今すぐ普通には使えない。
マーサが井戸の縁へ行く。
カイルが止める。
「寄るな」
「水だよ」
「縁も凍ってる」
マーサは足元を見る。
本当に白い。
昨日。
水が止まったらまた聞け。
そう言った人。
マーサはしばらく井戸を見る。
それから。
「私は下りる」
自分から言った。
俺は少し安心した。
でも。
老人は違った。
「井戸は直せる」
ガランがいれば、たぶん直せる。
でも今はいない。
凍った道を上がれるかも分からない。
ユリウスが言った。
「あなたは動かす」
老人の顔が変わった。
「誰の許しで」
「昨日、条件を見せた。今、その条件になった」
「俺は同意してない」
「知っている」
「なら触るな!」
声。
周りが静かになる。
俺の胸が苦しくなる。
これ。
嫌だ。
人を荷物みたいに動かすのは。
でも。
老人は一人で歩けない。
水も止まった。
隣人へ任せれば、隣人も残る。
その家族も。
一人の選択が。
一人で終わらない。
俺はやっと、それを目の前で見た。
「レン」
老人が俺を見る。
助けを求めている。
たぶん。
「お前、道を自由にしたんだろ。こいつを止めろ」
きつい。
全員が俺を見る。
ユリウスは何も言わない。
カイルも。
俺が決めるのを待っている。
違う。
俺一人の決定じゃない。
でも。
俺の意見は逃げられない。
「……家に戻りたいですか」
老人へ聞く。
「当たり前だ」
「明日も?」
「明日もだ」
「水なくても?」
「直す」
「自分で?」
老人は黙る。
俺は続ける。
「隣の人に頼む?」
黙る。
「その人の家族もここに残す?」
老人の顔が歪む。
俺も嫌だ。
質問して追い詰めているみたいだ。
でも。
聞かない方が楽なだけだった。
「俺、残りたいって言うのは分かる」
自分でも声が低い。
「俺も、自分の場所を勝手に決められたら嫌だ。でも……今ここで残るって、もう自分一人の選択じゃない」
老人が俺を見る。
「じゃあお前もこいつ側か」
ユリウス。
俺は一度だけそっちを見る。
「側っていうか」
言葉を探す。
「今日は、下りた方がいいと思う」
言った。
老人の顔。
忘れないと思う。
怒っている。
裏切られた顔。
俺に期待していた分だけ。
ユリウスが巡回兵へ合図する。
無理に抱え上げない。
椅子ごと固定する板を持ってくる。
老人は最後まで文句を言った。
でも殴らない。
暴れない。
ただ。
「帰るからな」
何度も言った。
「春になったら帰る」
カイルが答えた。
「道があれば」
老人が睨む。
「作れ」
カイルが俺を見る。
「そいつに言え」
「何で俺」
老人が初めて少し笑った。
本当に少し。
救われる。
避難を始める。
九軒どころじゃない。
井戸が止まったことで、昨日「条件付き」だった家も動く。
家畜は全部無理。
鶏。
山羊。
小さい羊。
連れていける分だけ。
牛は残す家もある。
餌と水を近い家でまとめる。
人が先。
カイルはそう決める。
マーサが怒鳴る。
「この山羊は人より言うこと聞くよ!」
山羊が縄を噛む。
「今やってるじゃん」
俺が言う。
「腹減ってるだけだ!」
こんな時でも普通の会話が出る。
それがありがたい。
下り。
問題の石段。
朝より凍っている。
橇を一台ずつ。
縄を二本。
上と下。
俺たちは交代で運ぶ。
昼になっても陽は出ない。
霰は雪へ変わらない。
細かい氷の粒が、ずっと降る。
白嶺からシンが上がってきた。
息を切らして。
「主道、食料便止まった!」
「何で?」
「南側の橋、一台滑って横向いた。人は無事。荷車だけ詰まってる」
食料。
今日来る予定だった。
上の集落が「補給が来るなら残れる」と判断した理由。
来ない。
少なくとも今日すぐには。
ユリウスが俺を見る。
何も言わない。
言わなくても分かる。
昨日。
食料便を信じて残るへ変わった三軒。
あの判断は、昨日の時点ではおかしくなかった。
今日。
条件が変わった。
だから判断も変えなきゃいけない。
でも。
人は紙みたいに簡単には書き換わらない。
下りの三便目。
また問題が出た。
今度は人じゃない。
山羊。
二頭が凍った石段の手前で完全に止まった。引いても動かない。押したら座った。
マーサが怒鳴る。
「頭いいねえ! 危ないの分かってるよ!」
「感心してる場合?」
俺が縄を持つ。
カイルが石段を見る。
「人と同じ道で下ろすな。横の土側」
「そこ狭い」
エダンが答える。
「でも凍ってない」
俺は少し先を見る。木が二本。間に細い土。昨日ならただの斜面だった。今日は石段よりまし。
「縄張れば行ける」
ガランはいない。だから大きく作らない。木に縄を二本。足場に板一枚。人が先に通る。山羊は一頭ずつ。
最初の一頭。
嫌がる。
マーサが前へ行く。
「こっちだよ。あんた昨日、人の豆食ったろ」
山羊が動く。
「言葉分かるの?」
「私のは分かる」
たぶん嘘。
でも通った。
二頭目も。
その土側を、人の避難にも使えるか確認する。幅は狭い。橇は無理。でも歩ける人なら、凍った石段を避けられる。
俺が言う。
「こっち、歩行者だけにしよう。石段は橇。分ける」
カイルが一度見る。
「採用」
短い。
ミオが地図へ二本線を足す。
昨日まで一つだった下り道が。
危険になったから。
その場で二つの役割へ分かれる。
道を新しく発見したわけじゃない。
使い方を発見した。
それでも、ちょっと嬉しい。
夕方までに。
上の集落から、十五軒分の人が下りた。
残り十二軒。
全員が残るわけじゃない。
荷整理中。
家畜待ち。
明朝出る予定。
それでも。
十二軒。
夜は上で過ごす。
カイルは巡回兵を四人残すと言った。
ユリウスも残る。
俺も言う。
「俺も」
カイルが首を振った。
「お前は白嶺へ戻れ」
「何で」
「主道が詰まってる。羊道も止めてる。食料が動かないなら、お前が開ける方が速い」
言い方。
道を開く。
久しぶりに。
俺が一番得意なやつ。
でも。
今回は。
好きに先へ行く道じゃない。
上に残った十二軒へ、明日もう一度戻るための道。
「分かった」
俺は言った。
老人を乗せた橇が下へ行く。
すれ違いざま。
老人が俺へ言った。
「春、忘れるなよ」
「何を?」
「道」
「忘れない」
「絶対だぞ」
「はい」
今度はちゃんと答えた。
夜。
白嶺へ戻る途中。
朝歩いた道を見る。
同じ道。
でも。
昨日まで、残るか下りるか。
二本あった選択が。
朝になったら。
一つ減っていた。
自由が消えたわけじゃない。
時間が。
選べる道を、先に閉じた。




