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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第67話 泥に沈んだのは、左の車輪だけだった


【本文】


白嶺の入口で、荷車はきれいに斜めになっていた。




左の車輪だけが泥へ沈んでいる。




右はまだ石の上。




荷台の上では、小麦二袋、大麦一袋、豆一袋、その隙間に詰めた藁袋が、全部こっちを見ている気がした。




もちろん袋に目はない。




でも、今ここで車軸を折ったら、たぶん俺はしばらく麦袋を見るたび思い出す。




商人が綱を地面へ置いた。




「まず上を下ろす」




俺は豆袋を見た。




「捨てる?」




「誰が捨てるって言った」




商人は本気で嫌そうな顔をした。




「一回下ろすんだよ。車輪抜いて、また積む」




「ああ」




「何だその安心した顔」




「北へ持って帰る物、減らしたくないから」




「俺だって減らしたくない。金払ってるんだぞ」




そこは完全に同じだった。




ミオは荷車の横へしゃがんだまま、泥を指で押している。




「待って。全部下ろす前に見たい」




商人が止まる。




「何をだ」




「右は沈んでない。左だけ。荷物の重さだけなら両方沈むはず」




エダンもしゃがんだ。




靴の先で泥の端を削る。




その下から、水がじわっと出た。




「こっちだけ水走ってるな」




昨日の雨。




入口脇の斜面から落ちた水が、低いところへ集まっている。




見た目は同じ土でも、左の車輪が踏んだ場所だけ中がゆるい。




俺は荷車の前へ回った。




「じゃあ右側へ寄せれば?」




ミオがすぐ答えず、荷台を見る。




「寄せすぎると今度は倒れる。先に左を上げたい」




商人が腕を組む。




「どうやって」




俺は周りを見る。




石。


泥。


入口の屋根。


水桶。


薪。


通行札を書く机。




人が増えてから、ここには前より物がある。




道だけだった時にはなかった物。




そして、格子修理の時に使った短い板が、屋根の壁へ何枚か立てかけてあった。




俺は一本取ろうとした。




「勝手に持ってくな」




声が飛んだ。




机の向こう。




シンだった。




俺は板に手をかけたまま振り返る。




「使いたい」




「見れば分かる」




「貸して」




「壊したら?」




「直す」




シンは少し考えた。




「それ、昨日ガランさんが削ったやつだから、レンが直すとたぶん別の物になる」




信用がない。




エダンが笑っている。




シンは机の下から、もっと短い板を二枚出した。




「こっち。古いやつ。あと楔」




木の三角形。




「何であるの?」




「荷車、増えたから。昨日ユリウスが置いてった」




名前を聞いた瞬間、少しだけ腹が立った。




先に考えられていた。




ミオがこっちを見て、口元だけ笑う。




「何その顔」




「別に」




「悔しい?」




「便利だからいい」




「悔しいんだ」




いい。




今は荷車だ。




商人とエダンが豆袋だけ下ろす。




全部じゃない。




一番上だけ。




重さが少し減ったところで、板を泥へ差し込む。




入らない。




先が土に当たる。




俺は短剣を抜こうとして、ミオに止められた。




「道具違う」




「薄くしたいだけ」




「刃こぼれする」




シンが今度は鉄の平たい棒を持ってきた。




「こっち」




「何でそんなにあるの?」




「通る人が増えると、壊れる物も増えるんだよ」




前世で死んで、今は入口の記録をしている少年が、もう普通に道具を選んでいる。




少し前まで靴も片方しかなかったのに。




俺はそれを口にはしなかった。




鉄棒で泥の下を探る。




固いところ。




そこへ板の先を入れる。




エダンが大きめの石を持ってくる。




板の下へ噛ませる。




てこの形になる。




「一回だけ上げるぞ」




商人が言う。




護衛二人が荷車の反対側へ回る。




俺とエダンが板を押す。




ミオは車輪を見る。




「ゆっくり。右へ倒さないで」




「分かってる」




力を入れる。




板がしなる。




石が少し沈む。




左の車輪が、ほんの指一本ぶん上がった。




「今!」




ミオの声。




シンが楔を滑り込ませる。




車輪の下。




入らない。




「もうちょい!」




「こっちは限界!」




俺の腕が震える。




身体補助が姿勢を整えようとしてくる。




でも足元は泥だ。




きれいな姿勢に戻すと滑る。




少し外す。




腰を低くする。




エダンが横で息を吐いた。




「レン、三つ数えたらもう一回」




「今数えて」




「一、二、三!」




押す。




板がさらに沈む。




車輪が上がる。




シンの楔が入った。




ゴッ。




止まった。




全員で息を吐く。




商人が俺たちを見る。




「それで終わりじゃないぞ」




分かってる。




むしろここからだった。




楔の上へ、もう一枚の板を差し込む。




今度は車輪が乗る道にする。




藁袋を開ける。




商人が止めた。




「待て。それ帰りの詰め物だぞ」




「全部使わない。下に敷くだけ」




エダンが藁を一掴み取る。




泥の上へ広げる。




俺もやる。




でも、一掴み目はそのまま泥へ沈んだ。




「消えた」




俺が言うと、商人が頭を抱えた。




「そりゃそうだ。藁だけ置いてどうする」




藁の上へ細い枝。




その上へ板。




今度は沈まない。




完全ではない。




でも車輪が一回転するぶんだけ、固い面ができた。




ミオが荷台を見る。




「豆、戻さない方がいい。抜けてから積む」




「北へ持ってくよね?」




俺が聞くと、商人が睨んだ。




「だから捨てないって何回言わせる」




豆袋は俺が持つことになった。




重い。




交易は荷車を使うためにやってるのに、最後は人が担いでいる。




ちょっとおかしい。




綱を前へ二本。




商人と護衛。




後ろをエダンともう一人が押す。




俺は豆袋。




ミオは車輪と板を見る。




シンは入口側で通行を止める。




「今から荷車抜く! 五分待って!」




後ろに来ていた旅人が文句を言う。




「昨日は通れたぞ!」




シンが返す。




「昨日はこの荷車より軽かった!」




俺は思わず笑った。




昨日、俺たちが言われた言葉だ。




道の入口で覚えたことが、一日で他の人の言葉になっている。




商人が綱を握り直す。




「引くぞ」




板の上で車輪が動く。




ゴロ。




泥へ落ちそうになる。




ミオが叫ぶ。




「左、そのまま! 右だけ少し前!」




荷車が斜めに向きを変える。




もう一回。




ゴロ。




板の端。




「止めて!」




止まる。




後ろの板を抜く。




前へ持っていく。




また敷く。




一メートル。




止まる。




板を移す。




また一メートル。




遅い。




ものすごく遅い。




旅人の列が長くなる。




途中で、パン屋の荷物を背負った男が座り込んだ。




「昼までかかるか?」




シンが言う。




「たぶんかからない」




「たぶんか」




「道で絶対って言う人、最近信用してない」




俺は豆袋の下で笑った。




その言い方、ちょっと俺たちのせいな気がする。




最後の板を越えた。




左の車輪が固い石へ戻る。




商人が止める。




誰もすぐ動かなかった。




荷車を見る。




傾いていない。




車軸も折れていない。




麦袋もある。




豆袋は俺が持っている。




藁は少し減った。




商人が大きく息を吐いた。




「一時間」




ミオが砂器を見る。




「四十八分」




「似たようなもんだ」




「十二分違う」




「今そこ大事か?」




「次は大事」




商人が口を閉じた。




次。




その言葉が普通に出てくるようになっていた。




試験一回で終わらせない前提。




豆袋を戻す。




藁袋の口を縛る。




シンが使った板と楔を並べる。




俺は見た。




短板二枚。


楔二個。


鉄棒。


縄。




「これ、荷車に積んどいた方がよくない?」




商人がすぐ答える。




「重い」




「でも四十八分止まるよりいい」




ミオが横から言う。




「短板はもっと薄くできる。楔も二つで足りた。鉄棒は街道側に常備でもいい」




エダンが泥だらけの藁を蹴る。




「藁は毎回使い捨てになるぞ」




「枝で代用できる場所もある」




話が勝手に続いていく。




誰かが「街道用荷車道具」と決めたわけじゃない。




ただ、一回沈んだから、次は何を持つかを考える。




俺はそういうのが好きだった。




地味だけど。




ゲームの攻略法が、攻略本じゃなくて道具箱へ入っていく感じがする。




白嶺の中へ入る。




昨日まで何度も通った石床。




今日は重い。




曲がり角で一度止まる。




低い場所で袋を押さえる。




水場の前で、鍋屋のおばちゃんに捕まる。




「何積んでる?」




「麦」




「一袋売って」




商人が即答する。




「北へ持ってく」




「じゃあ帰り」




「まだ次の話するな」




言いながら商人は少し笑っていた。




中ほど。




前から人が来る。




シンの札では、今は北向き優先の時間だったはずだ。




相手は老人一人。




道具籠を背負っている。




老人は荷車を見て、壁際へ寄った。




「でかくなったな、この道」




荷車のことか。




白嶺のことか。




たぶん両方。




北側の入口が見えた時、俺は少しだけ先へ出た。




空気が冷たい。




雪の匂い。




見慣れてきた北の町。




荷車の車輪が、最後の石を越える。




ゴロ。




外へ出た。




商人は止まらない。




そのまま町まで引く。




俺も止まらない。




まだ終わってない。




北の人が食うまで。




売れるまで。




次にまたやると言うまで。




交易は、たぶんそこまで行かないと成功じゃない。




町の最初の家が見えた。




宿の煙。




市場の屋根。




俺が横を歩きながら言う。




「豆、ちゃんとある?」




商人が怒鳴った。




「さっき積んだだろ!」




「確認」




「お前はまず自分のパン確認しろ。南でもらったやつ、途中で食ってただろ」




俺は袋を見る。




半分になっていた。




いつ食べたんだっけ。




ミオが後ろから言った。




「泥で止まってる時」




「見てた?」




「記録してた」




それは記録しなくていい。




でも。




重い荷車は、北まで来た。




麦も。


大麦も。


豆も。


少し減った藁も。




全部一緒に。




白嶺を越えた最初の帰り道が、やっと終わった。


第68話 南の麦は、北のパンになれなかった

【本文】


北へ戻った日の夜。




宿の女将は、小麦袋を開けた。




俺はその場にいた。




正確には、いたというより、追い出されずに残った。




厨房の隅。




ミオもいる。


エダンもいる。


商人もいる。




カイルまで来た。




全員、南の小麦で焼く最初のパンを見たい。




女将は嫌そうだった。




「見世物じゃないんだけどね」




「試験」




俺が言う。




「食いたいだけだろ」




「それもある」




女将は粉を量る。




北の粉より少し白い。




水を入れる。




混ぜる。




そこで手が止まった。




「軽いね」




「何が?」




「粉が水を持たない」




南の穀物屋が言っていた。




北の麦より、水を食わない。




俺には言葉で聞いてもよく分からなかった。




でも生地を見ると分かる。




いつもの量の水を入れたはずなのに、柔らかすぎる。




女将が粉を足す。




「最初から少なくすればよかった」




商人が聞く。




「焼ける?」




「焼けるよ。食えるかは別」




その言い方が怖い。




一回目。




焼けた。




見た目は普通だった。




少し低い。




匂いも悪くない。




俺はちぎった。




女将に叩かれた。




「まだ熱い」




「熱い方がうまい」




「指も焼ける」




それでも食べる。




噛む。




硬くはない。




でも、何か違う。




いつもの北のパンより、口の中でほどけるのが早い。




それだけなら悪くない。




次に、喉へ引っかかる。




俺は水を飲んだ。




エダンも同じ顔をしている。




「まずい?」




ミオが聞く。




俺は考えた。




「まずくはない」




エダンも言う。




「でも、これ毎朝なら俺はいつもの方がいい」




女将が腕を組む。




「だろうね」




商人の顔が落ちる。




「売れない?」




女将が商人を見る。




「何で一回焼いただけで全部決めるんだい」




商人が黙った。




俺も少し黙る。




最近、その言い方をいろんな人からされている気がする。




女将は二回目を始めた。




今度は南の粉だけじゃない。




北の粉を混ぜる。




七対三。




どっちが七か聞いたら、「食って当てな」と言われた。




たぶん俺には無理。




水を減らす。


捏ねる時間を変える。


火を少し弱くする。




二回目。




膨らみが少し戻る。




俺はちぎる。




今度は叩かれる前に一秒待った。




女将が見ている。




もう一秒待つ。




「食べていい?」




「子どもか」




食べる。




さっきより北のパンに近い。




でも同じじゃない。




ミオも小さくちぎる。




「こっちの方が好きかも」




女将が見る。




「何で?」




「少し軽い」




エダンは首を振る。




「俺はいつもの」




「好み分かれた」




俺が言う。




商人が急に元気になる。




「なら売れる」




女将がまた止める。




「パン一個で商売全部決めるなって言ってるだろ」




この人、強い。




大麦は次の日の朝、スープへ入った。




これは早かった。




北でも大麦は食べる。




ただ、今までより少し安い南の大麦が混ざっただけ。




豆は昼の煮込み。




藁は宿の裏で乾かしている。




輸送用だったはずなのに、女将が一部を床へ敷いた。




「濡れた靴置くのにいい」




何でも使われる。




俺は市場を歩いた。




小麦二袋で町が変わるわけじゃない。




パンが急に大きく戻るわけでもない。




でも、宿の朝だけは昨日より少しだけ違った。




パンの大きさは同じ。




ただ、女将が粉袋を見て、値段表を書き直すのをやめた。




それだけ。




カイルは市場の入口で俺を待っていた。




「来い」




短い。




相変わらず。




「どこ?」




「炉晶師」




マレナの工房。




中へ入ると、例の強く光る炉晶が三個、鉄台の上に並んでいた。




第58話で雪の中から拾ったやつ。




今まで何度か試した。




熱を入れるのが遅い。


でも抜けるのも遅い。




温穴でも使った。




俺はもう、普通より長持ちする炉晶だと思っている。




でもマレナは、ずっと言い切らなかった。




今日も一個を持ち上げる。




端を光へ透かす。




小さな金槌で、コン、と叩く。




音を聞く。




別の普通炉晶も叩く。




コン。




俺にはほとんど同じに聞こえる。




「分かる?」




俺が聞く。




「お前には無理」




「即答」




マレナは石を置いた。




「普通品より筋が少ない。黒い混じりも少ない。欠け方も違う」




ミオが聞く。




「純度が高い?」




「たぶんな」




その言葉に、商人の顔が前へ出た。




今日は呼んでないのに来ている。




交易一往復の当事者だから、と本人は言っていた。




たぶん金の匂いもある。




「高純度なら値段は?」




カイルが先に遮った。




「まだ売らない」




商人が不満そうにする。




「三個しかないからか」




「場所も量も分からん。採ったら次があるかも分からん。今売る理由がない」




「価値は?」




「使える価値はある」




「金の価値を聞いてる」




「それはお前が後で決めろ」




カイルは商売の話になると少し雑だ。




マレナが三個のうち一つを炉へ入れた。




火。




熱。




普通炉晶より時間がかかる。




待つ。




待っている間、俺は工房の工具を見た。




同じ形のやっとこが四本。




一個だけ柄に布が巻いてある。




触ろうとした。




「それ熱いぞ」




マレナが言う。




手を引っ込めた。




「何で置いてあるのに熱いの」




「さっき使ったからだ」




見れば分からなかった。




一刻ほどして石を出す。




今度は、町の北側にある小さな見張り小屋へ持っていく。




公開試験。




大げさな発表会じゃない。




カイルが呼んだのは、宿の女将、パン屋、巡回隊の人、荷運びの人、マレナ、それから白嶺へよく行く何人か。




十数人。




商人は勝手にいた。




「何でパン屋?」




俺が聞くと、カイルが答える。




「普通炉晶を南で使う話をしたら、自分も見たいと言った」




北のパン屋が言う。




「長持ちするなら夜の発酵にも使えるだろ」




考えることが南のリサと似ている。




知らないところで同じ困り事を持っている。




見張り小屋の火を落とす。




高純度らしい炉晶を一個置く。




普通炉晶を一個。




同じくらい熱を入れてある。




ただしマレナが言うには、完全に同じ条件にはできない。




「石は一個ずつ違う。数字だけ見て同じだと思うなよ」




ミオがそれをそのまま書いた。




商人が横から覗く。




「何て書いた?」




「同条件ではない」




「それだけ?」




「それ大事だから」




時間が過ぎる。




普通炉晶が先に弱くなる。




強い方は残る。




一刻。




二刻。




外が暗くなる。




見張り役の男が手をかざす。




「こっちはまだ使えるな」




マレナが石を見る。




「今までの三回も同じだった」




ミオが聞く。




「じゃあ、高純度で確定?」




マレナは少し考えた。




「炉晶師の呼び方なら、高純度品でいい。別物じゃない。同じ炉晶で、混じりが少なくて、熱持ちがいい」




商人がすぐ言う。




「値段――」




カイルが見る。




止まった。




俺は笑いそうになる。




マレナは続けた。




「ただし、割れにくいとは言ってない。火を入れすぎて安全とも言ってない。まだ三個しか見てない」




ミオが全部書く。




「公開するのは?」




カイルが答える。




「性質だけ」




「場所は?」




「出さない」




「量は?」




「分からないで出す」




俺は少し引っかかった。




「分からないって公開するの?」




カイルがこっちを見る。




「分からないものを分かったふりするよりいい」




また少し格好いい。




言わない。




翌朝。




市場の掲示板に紙が一枚増えた。




《炉晶・高純度品》


《通常品より熱保持が長い可能性あり》


《三個で複数回確認》


《産出量・安全上限・価格は未確定》


《試験利用のみ》


《採取場所は非公開》




字はミオ。




内容はマレナとカイル。




最後の一行だけ、商人がすごく嫌そうに見ていた。




「場所くらい」




「駄目」




ミオが即答した。




「じゃあ俺、どうやって仕入れるんだ」




「まだ仕入れないって書いてある」




「商売人に待てって言うのか」




宿の女将が掲示を読みながら口を挟んだ。




「待てない商売人は損するよ」




商人が黙った。




強い。




俺は紙を見る。




高純度。




文字になった。




隠していた物を、全部じゃないけど世界へ出した。




場所は伏せる。


量も分からない。


値段も決まっていない。




でも存在と性質は、もう俺たちだけのものじゃない。




俺は少し不思議な気分になった。




未知を見つけるのは好きだ。




見つけた後、誰にどこまで渡すかを考えるのは、まだ慣れない。




横でミオが掲示板の端を直している。




風で紙がめくれていた。




「何?」




俺が聞く。




「剥がれそう」




「感想じゃなくて」




ミオは押しピン代わりの小釘を打ちながら言った。




「公開したから、次は誰かが使う」




「うん」




「使われ方までは地図に書けない」




それだけ言って、手を離した。




紙は残った。




その日の昼。




宿の女将が南の粉を三割混ぜたパンを出した。




昨日より少し大きかった。




俺は持ち上げる。




「戻った」




女将が鍋の向こうから言う。




「一日だけね」




一日だけ。




でも、一往復した荷車の中身が、ちゃんと今日のパンになっていた。


第69話 白嶺を通る理由が、二つ増えた

【本文】


三日後。




白嶺の北入口に、荷車が二台並んだ。




二台。




大軍じゃない。




市場がひっくり返る数でもない。




でも一台目しか見たことがなかった俺には、十分多かった。




「邪魔」




エダンに言われた。




俺は入口の真ん中に立っていた。




「見てただけ」




「真ん中で見んな」




端へ寄る。




一台目は南向き。




普通炉晶。


革。


乾燥した薬草。




高純度炉晶はない。




まだ試験中。




二台目は北向きで、今朝南側から入った。




小麦。


大麦。


塩。


それから空の木箱。




空箱?




俺は荷台を覗く。




「これ何」




南の商人が言う。




「帰りに炉晶詰める」




「もう帰りのこと考えてる」




「商売だからな」




前回の商人とは別人だ。




前の商人もいる。




今日は北向きの荷車についてきた。




「こいつ、俺の話聞いて来た」




「何て話したの?」




「白嶺は通る。でも道具持て。軽く見たら沈む」




少し盛ってない。




むしろ正しい。




荷車の横には、短板二枚。


楔。


縄。


鉄棒。




本当に積んである。




俺はちょっと嬉しくなった。




自分たちが泥にはまって覚えたことが、もう知らない荷車の道具になっている。




ミオが道具を見て、紙へ書く。




「何書いてる?」




「普及一件」




「その言い方、固い」




「じゃあ『真似された』」




「それはちょっと嬉しそう」




「少しね」




エダンは入口側の通行札を見ている。




最近、こっちにいる時間が増えた。




北へも南へも行く。




でも俺たちと一緒に未知を見に行くより、荷車の順番を決めたり、板を直したり、怪我人を水場へ運んだりしている時間が長い。




俺は前に一度、聞いた。




「退屈じゃない?」




エダンは縄を結びながら答えた。




「レンはここが出来た時、嬉しかっただろ」




「うん」




「俺は、出来たやつがちゃんと残る方も好きなんだよ」




その時は、よく分からなかった。




今は少し分かる。




荷車二台を見る。




一台目が通れることより、二台目も通れること。




昨日いけたことより、今日もいけること。




そういう面白さがある。




ただし。




二台が同時に来ると、普通に邪魔だった。




白嶺の中ほど。




前から北向き。


後ろから南向き。




待避所まで、どっちも微妙な距離。




俺たちは立ち止まった。




向こうも止まる。




荷車同士が見つめ合う。




もちろん目はない。




今日はそう見えるものが多い。




商人が言う。




「どっち戻す?」




ミオが距離を見る。




「北向きが戻った方が近い」




向こうの荷引きが叫ぶ。




「こっち重いぞ!」




こっちの商人も叫ぶ。




「こっちも重い!」




知らない人同士の会話なのに、内容が同じ。




エダンが間へ出た。




「北向き、何積んでる!」




「麦と塩!」




「南向き!」




「炉晶と革!」




「車輪幅!」




そこまで聞くのか。




両方答える。




エダンは壁際の石を見て、ミオの地図を借りた。




「こっち一台、十五歩戻って待避。そっち十歩前。炉晶車から先」




北向きの荷引きが不満そうにする。




「何でそっち」




「南向きの方、後ろの曲がりで戻せない。そっちは直線」




一瞬。




荷引きは白嶺の後ろを見る。




「……分かった」




動く。




ちゃんと通った。




俺はエダンを見る。




「今の、いつ覚えた?」




「毎日見てれば覚える」




「地図見てたじゃん」




「確認したんだよ」




ミオが地図を返してもらう。




「レンより使い方うまいかも」




「俺、地図持ってないし」




「持たせても見ないで行くでしょ」




否定しづらい。




待避所ですれ違う。




炉晶車が南へ。


麦車が北へ。




ほんの少し前まで、白嶺の中で荷車がすれ違う未来なんて考えていなかった。




最初は人一人通すだけで大仕事だった。




それが今は、どっちを先に通すかで揉めている。




外へ出る。




北の市場では、南の塩を見た人が値段を聞く。




南へ向かう炉晶は、パン屋と宿から追加注文が来ているらしい。




普通炉晶。




高純度じゃない。




普通の石が、普通に欲しいと言われている。




そっちの方が何となく本物っぽかった。




珍しい物を一個高く売るより、


毎日使う物がまた欲しいと言われる。




交易って、たぶんそういう方が強い。




夕食のあと、商人が宿の卓へ銅貨を並べた。




売れた炉晶。


買った麦。


南側の宿代。


護衛代。


白嶺で使った板の弁償。


途中で切れた革紐。


パン。




最後のパンは自分の分らしい。




俺は横から見ていた。




「儲かった?」




商人はすぐ答えなかった。




銅貨を三つ右へ。


二つ左へ。


一枚戻す。




「思ったより少ない」




「失敗?」




「失敗なら次やらん」




「成功?」




「大成功なら今日もう一台出してる」




分かりにくい。




ミオが湯飲みを置いた。




「続けるくらいには残った?」




商人は頷いた。




「帰りを空にしなければな。あと白嶺で四十八分止まるのは駄目だ。毎回あれなら護衛代が増える」




エダンが笑う。




「四十八分、覚えてるじゃん」




「金に変わる数字は覚える」




ユリウスとは違う種類の数字好きだった。




商人は銅貨を袋へ戻す。




「それと、南で炉晶を欲しがった店が二軒増えた」




「パン屋?」




「洗濯屋と染め物屋。湯を一気に沸かすんじゃなく、冷めにくくしたいらしい」




俺はちょっと嬉しくなる。




「また用途増えた」




「まだ試すだけだ」




最近みんな、その言葉を使う。




俺が一番先に忘れがちな言葉。




商人は今度は俺を見る。




「北は麦、次も買うか?」




宿の女将が厨房から口を挟んだ。




「値段次第だよ。北麦が戻ったら無理に南を買う必要はない」




「じゃあ安くしろってことか」




「私はあんたから買ってない」




商人が黙る。




俺は笑った。




道ができたから、北が南に全部頼るわけじゃない。




南が北の炉晶なしで暮らせなくなったわけでもない。




でも一つしかなかった選択肢が、二つになる。




その二つ目が使えると分かった瞬間から、


道が閉じる意味も、前とは変わる。




たぶん依存って、ある日いきなり鎖になるんじゃない。




便利だから今日も使う。


昨日使えたから明日も当てにする。




そういう小さい積み重ねなんだと思う。




そんなことを考えていたら、女将が空皿を俺の前へ置いた。




「考える前に片づけな」




「俺の皿じゃない」




「そこにいる人の仕事」




理不尽だった。




でも片づけた。




片づけた皿を厨房へ持っていく途中、豆の煮込みが残っている鍋を見つけた。




「これ、南の豆?」




「そう」




「味、違う?」




女将が木杓子で鍋底をかいた。




「分からん」




「分からないの?」




「肉と根菜と塩入れたら、豆だけ当てられる舌なんか持ってないよ」




それもそうだった。




交易の成果を食べれば何か特別な味がする気でいた。




普通に腹が減って、普通にうまかった。




たぶん、そのくらいが一番長く残る。




食器を置くと、女将に「ついでに水も」と桶まで渡された。交易の英雄扱いは、少なくともこの宿では一日も続かなかった。






宿へ戻ると、女将が帳面を見ていた。




俺はパンを見る。




また少し大きい。




「今日も?」




「今日も」




女将は紙から顔を上げない。




「南麦三割。明日は二割にする。北麦が入るなら戻す」




「南麦いらなくなる?」




「そういう話じゃないよ」




女将はようやく俺を見る。




「北の麦が安い日は北を使う。高い時は混ぜる。吹雪で止まったら南を増やす。選べるのがいいんだ」




選べる。




その言葉が残る。




一つの道に全部頼るんじゃない。




でも、道があるから選べる物が増える。




カイルが夕方に来た。




報告を聞きに。




エダンが今日のすれ違いを書いた紙を渡す。




「時間帯分けた方がいい」




カイルが紙を見る。




「毎日?」




「まだ毎日は要らない。荷車三台以上の日だけ」




「誰が数える」




「入口」




「南側も?」




「シンがいる」




カイルが一瞬俺を見る。




たぶん、シンがどういう少年かは全部知らない。




俺も説明しない。




今は入口で数えている人。




それでいい。




カイルは紙を返した。




「やれ」




エダンが聞き返す。




「俺が?」




「お前が一番見てる」




短い。




決めるのが早い。




エダンは少しだけ困った顔をした。




俺はもっと困った。




「明日、東の沢見に行こうと思ってたんだけど」




「何で俺に言う」




カイルが聞く。




「エダンも誘おうかなって」




エダンがこっちを見る。




一秒。




二秒。




「明日はこっちいる」




俺は少しだけ寂しかった。




たぶん顔に出た。




エダンが笑う。




「一人で行くなよ」




「子ども扱い?」




「前に一人で崖降りただろ」




「ミオいた」




「一人じゃないじゃん」




自分で言ってて気づいたらしい。




俺も気づいた。




ミオは横で普通に地図をたたんでいる。




「私は明日、南側の積み替え場所見たい」




「え」




「レン、一人だね」




「急に全員忙しい」




女将が鍋をかきながら言った。




「町が大きくなるって、そういうもんだよ」




また強い。




次の日。




俺は東の沢へ行かなかった。




別に一人が嫌だったわけじゃない。




たぶん。




白嶺でやることがあった。




待避所を少し広げる。




荷車用の短板を二組に増やす。




水場の桶を一つ移す。




ミオが南側へ行く前に、地図へ「重荷車は雨後注意」と大きく書いた。




エダンは入口で通行札を作り直している。




俺は古い石床の端を掃いていた。




昨日の荷車が落とした泥。




靴で踏まれると滑る。




箒で取る。




地味。




すごく地味。




俺は三回くらい途中で別のことをしたくなった。




でも続けた。




「レン」




エダンが呼ぶ。




「何?」




「そこ、音違わない?」




俺は止まった。




今、箒の柄が石へ当たった。




コン。




もう一度。




コン。




少し横。




カン。




戻す。




コン。




低い。




俺はしゃがむ。




石床。




昔の穴の中で見つけた、古い方の道。




何度も通った場所。




泥を取っただけ。




新しい物は何もない。




ミオはもう南へ向かった。




こういう時に限っていない。




俺は拳で軽く叩く。




コン。




一歩横。




カン。




エダンもしゃがんだ。




「下、空いてないか」




「水路?」




「分からん」




俺は石の継ぎ目を見る。




今まで泥で隠れていたところに、細い直線があった。




自然の割れ目にしては、まっすぐ。




でも白嶺には、そういう物がもういくつもある。




石枠。


平行溝。


水を流す細溝。




何かだと思って掘ると、水抜きだったこともある。




俺は手を伸ばしかけた。




エダンが言う。




「触るなよ」




「まだ触ってない」




「顔が触ってる」




「顔は触れないだろ」




「そういう意味じゃない」




俺は笑った。




その時。




北向きの荷車が一台、入口へ入ってきた。




車輪が石床を踏む。




ゴロ。




一つ目。




ゴロ。




二つ目。




俺たちの前。




ゴン。




音が変わった。




荷引きも気づいて止まる。




石床が、ほんの少しだけ震えた。




砂が継ぎ目へ落ちる。




消えた。




下へ。




穴がある。




小さい隙間じゃない。




砂が落ちる音が、しばらく返ってこなかった。




俺とエダンは顔を見合わせた。




荷引きが不安そうに聞く。




「通っていいか?」




俺は答えそうになった。




でも先にエダンが言った。




「止める。今日はここ使わない」




「迂回は?」




「今の街道側へ回す。人だけなら通れる」




判断が早い。




荷車は戻る。




誰も文句を言わなかった。




石床の下からは、何も聞こえない。




俺は継ぎ目を見た。




白嶺を通る理由は増えた。




炉晶を運ぶため。


麦を運ぶため。




道は少しずつ、みんなの生活に入っている。




だからこそ。




今、ここが落ちたら困る人が、前よりずっと多い。




俺は手を引っ込めた。




「ガラン呼ぼう」




エダンが頷く。




「あとミオも戻せ」




「南行ったばっかだぞ」




「走れば追いつく」




俺を見る。




「何で俺?」




「レン、走るの好きだろ」




そういう好きではない。




でも走った。




白嶺の外へ。




ミオを呼び戻すために。




背中の方で、エダンが荷車へ別道を指示する声が聞こえる。




俺たちが開けた道。




俺たちだけの道じゃなくなった道。




その石床の下に、




まだ誰も地図へ書いていない空間があった。


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