第64話 荷車は、人より道にうるさい
【本文】
白嶺が近づくにつれて、荷車の音が気になるようになった。
ゴロゴロ。
石の道なら普通。
ガタン。
ちょっと怖い。
ガタッ。
俺は反射で箱を見る。
「今の大丈夫?」
荷車を引いていた商人が振り返った。
「三回目だぞ」
「三回も鳴ったから三回聞いてる」
「炉晶より先に俺の心配をしろ。引いてるの俺だぞ」
後ろでエダンが笑った。
「代わる?」
商人は綱を離さない。
「いい。お前らに任せると速く引くだろ」
否定しようと思った。
やめた。
たぶん速くする。
北の町を出た時は、道があるだけで気持ちよかった。
荷車一台。
炉晶一箱。
工具。
交換用の車輪。
毛布。
それだけ。
人間だけで歩いた時よりずっと荷物は少ないはずなのに、荷車が一台あるだけで道の見え方が変わる。
人なら跨げる石。
荷車は跨げない。
人なら身体をひねれば通れる曲がり角。
荷車はひねれない。
人なら泥を避けて端を歩ける。
車輪は二つとも同時に別の場所へ行けない。
俺は白嶺の北入口を見上げた。
「道って、荷物持つと別物だな」
ミオが前を歩きながら地図へ何か書く。
「それ、今日の一個目」
「何が?」
「レンが今さら気づいたこと」
「一個目って数えるの?」
「面白かったら」
基準がひどい。
入口の緩い斜面までは順調だった。
問題は、中へ入ってすぐ来た。
ゴン。
荷車が止まる。
商人の身体だけ前へ行って、綱が腹へ食い込んだ。
「ぐっ」
俺たちは全員、足元を見る。
左の車輪。
石床の浅い溝に、ちょうど落ちていた。
前にも見た二本の平行溝。
昔、何かの車輪が通ったかもしれない。
今の俺たちの車輪幅とは少し違う。
片側だけ入ると、斜めになる。
エダンがしゃがんだ。
「持ち上げれば出るな」
商人が即座に答える。
「箱下ろしてからだ」
俺は荷台へ手をかけたところで止められた。
「レンは箱」
ミオだった。
「荷車持つ方じゃなくて?」
「箱を見て。炉晶割れたら何しに来たのか分からなくなる」
俺は少し不満だった。
でも正しい。
商人とエダン、護衛二人で荷車を傾ける。
ミオは右の車輪と床を見る。
俺は炉晶箱を押さえる。
「せーの」
車輪が上がる。
ガリ。
溝から外れた。
そこで箱が一度、滑った。
俺は抱える。
重い。
「うおっ」
中で石同士が鳴った。
カン。
全員止まる。
商人が俺を見る。
俺も商人を見る。
「……今の俺じゃないよね」
「お前が抱えた時に鳴った」
「でも滑ったのは荷車」
「先に紐確認しとけ」
言い返せない。
箱を地面へ下ろす。
蓋を開ける。
普通炉晶。
割れてはいない。
たぶん。
商人は一つずつ見た。
ミオも横から確認する。
俺は触ろうとして、二人に同時に見られた。
触らなかった。
「詰め方が甘い」
商人が言う。
「町ではこれで運んでる」
エダンが箱の中を覗く。
「町の道、こんな揺れないだろ」
その一言で、全員少し黙った。
炉晶箱が悪いんじゃない。
白嶺が悪いんでもない。
町用の詰め方を、山道へそのまま持ってきた。
それが合ってない。
毛布を一枚出した。
細く畳む。
箱の隙間へ詰める。
工具袋の中から余った革紐も出す。
石を一個ずつ縛るほどではない。
でも箱の中で大きく動かないようにする。
商人が嫌そうな顔をした。
「毛布一枚減った」
「炉晶一箱割れるよりいいでしょ」
ミオが言う。
商人は黙って残りの紐を結んだ。
再出発。
次は、俺が荷車のすぐ横を歩いた。
カタン。
さっきより小さい。
ガタ。
まだ鳴る。
でも箱の中の音はほとんどしない。
「これ、帰ったら詰め物から考えないと駄目だな」
俺が言うと、商人が前を向いたまま返す。
「帰れたらな」
縁起でもない。
白嶺の中は、もう知らない場所じゃない。
水場。
待避板。
虫が通る低い隙間。
人が休む場所。
一個ずつ、自分たちで増やしたものがある。
でも荷車を連れてくると、知らない道に戻る。
水場の手前。
また止まった。
今度は車輪じゃない。
荷台の角が、岩壁に当たる。
「人は通れたよね」
俺が言う。
ミオが岩と荷車の隙間へ手を入れる。
「人はね」
エダンが反対側を見る。
「右を少し持ち上げて、斜めに入れれば抜けるかも」
商人が首を振った。
「炉晶載せたまま傾けすぎたくない」
また箱を下ろす。
一箱だけで良かった。
三箱だったら、たぶんこの時点で商人と喧嘩していた。
炉晶箱を四人で手渡しする。
荷車だけ斜めに通す。
向こう側でまた積む。
時間がかかる。
ミオが砂時計を見る。
「ここ、十二分」
「十二分も?」
俺が聞く。
「箱下ろして、車体通して、また積んだ時間」
商人の顔が少し悪くなる。
「一日に何台も来たら詰まるな」
その言葉で、俺は岩を見る。
削れる。
たぶん。
少し広げれば、荷車ごと通れる。
腰の工具へ手が行った。
カイルの声が頭に出てきた。
――道を直したくなっても勝手に止まるな。
俺は手を離した。
エダンが気づいた。
「やらないの?」
「帰りに考える」
「珍しい」
「俺だって成長する」
ミオが壁へ小さな白印を付ける。
「第二区画。荷台接触。積み下ろし十二分」
「それ書くと俺が我慢したこと残らないよ」
「必要?」
「ちょっと」
書いてくれなかった。
午後。
南側の入口が近づいた。
最後に待っていたのは、シンだった。
入口脇の机。
木札。
通行記録。
前に剣を振っていた時より、少し顔が日に焼けている。
俺たちを見るなり、炉晶箱じゃなく荷車を見た。
「本当に持ってきたのか」
「何を?」
「荷車」
「炉晶じゃないんだ」
「石は歩かないだろ」
言い方がジンっぽい。
たぶん、前からこういう言い方をしていた。
シンは立ち上がり、荷台を一周した。
「どこで止まった?」
ミオが地図を開く。
「大きく二回。細かいのは四回」
「壊れた?」
商人が先に答えた。
「今んとこ無事」
シンは箱の紐を見る。
「出る時こんな巻いてなかったよな」
「途中で変えた」
俺が言う。
「揺れるから」
シンが少し笑う。
「人が通れる道と、荷物が通れる道は違うか」
俺は指を立てた。
「今日それ、俺も気づいた」
「遅いな」
ミオが横で頷いた。
「二人目」
「数えるなって」
シンは記録へ何か書いた。
それから炉晶箱を見る。
「帰りは何積むんだ?」
「麦。たぶん」
商人が答える。
シンは一度だけ荷車の車輪を見る。
「それ、炉晶一箱より重くない?」
誰も答えなかった。
俺たちは全員、同じことを考えた。
行きに通れた。
だから帰りも通れる。
とは限らない。
シンが木札を一枚、商人へ渡した。
「帰り、荷の重さも書いてくれ。袋数だけでもいい」
商人が木札を受け取る。
「細かいな」
「死んでから細かくなった」
一瞬だけ空気が止まる。
シン本人は普通の顔だった。
「前は勢いで行って死んだからな。今は数える側も悪くない」
俺は返事を探した。
見つからなかった。
代わりに、荷車の車輪を蹴る。
軽く。
「じゃあ帰りも見てて」
シンが肩をすくめた。
「仕事ならな」
南へ抜けた。
炉晶一箱。
割れなし。
荷車も無事。
でも、通れたから成功ではない。
積み下ろし二回。
止まった場所六か所。
詰め方変更一回。
帰りはもっと重くなる。
白嶺は、まだ交易路じゃない。
交易路になれるかを、今から試している。
第65話 炉晶を買ったのは鍛冶屋じゃなかった
【本文】
南へ戻って最初に行ったのは、鍛冶屋だった。
商人がそう決めていた。
炉晶。
鍛冶。
たしかに合いそうだ。
俺もそう思っていた。
だから、鍛冶屋の親父が箱を見て最初に言った言葉は予想外だった。
「いらん」
商人の顔が止まる。
「まだ開けてもないぞ」
「普通の炉晶だろ」
「普通だから何だ」
親父は炉の横に積んである黒炭を指した。
「こっちは炭が安い。薪も北ほど困らん。わざわざ石に熱食わせて、箱に入れて、こっちまで運んで、何に使う」
商人が箱を開ける。
「鍛冶の補助」
「補助したいほど火に困ってない」
終わった。
速い。
俺は炉晶箱を見る。
白嶺を越えてきた。
毛布一枚使った。
二回積み下ろした。
止まった場所六か所。
着いたら、いらない。
ちょっと面白い。
商人は全然面白そうじゃない。
「一個くらい試せ」
「ただなら」
「金払え」
「いらん物に払うか」
二人の声が大きくなる。
ミオが俺へ小声で言った。
「記録していい?」
「何を?」
「南の鍛冶場では、普通炉晶の優先度低い」
「商人の前で書かない方がいいと思う」
すでに書いていた。
エダンは店先の剣を見ている。
全然関係ない。
「これ、白嶺の店より安い」
「今それ言う?」
俺が返すと、鍛冶親父がこっちを見た。
「白嶺に鍛冶屋できたのか」
「できたっていうか、増えたっていうか」
「誰だ」
そこから親父とエダンが鍛冶屋の話を始めた。
炉晶商人はまだ箱の前で腕を組んでいる。
売りに来た本人だけ会話から外れていた。
人の商売って難しい。
結局、鍛冶親父は一個だけ買った。
「比較するだけだぞ」
値段は、商人が期待していたより安かった。
たぶん。
顔で分かる。
店を出る。
商人が箱の蓋を閉めた。
「鍛冶屋なら使うと思った」
俺は言う。
「俺も」
「お前と同じだったのが腹立つな」
「何で」
ミオが地図袋を直しながら口を挟んだ。
「売る相手、決めてから持ってきたんじゃないの?」
商人は歩きながら答える。
「候補は三軒あった。鍛冶屋、湯屋、宿。鍛冶屋が一番使うと思っただけだ」
「湯屋行こう」
俺が言う。
「次は宿だ」
「何で?」
「俺の順番」
カイルと同じことを言う人が増えた。
宿へ向かう途中、市場を抜ける。
昼前。
パン屋の前に人が並んでいた。
焼けた匂い。
北のパンより柔らかそう。
俺は足が少し遅くなる。
エダンが言った。
「買う?」
「試験」
「何の」
「南のパン」
「食いたいだけだろ」
商人まで振り返る。
「荷物売ってからにしろ」
厳しい。
パン屋の横を通り過ぎようとした時だった。
店の奥から女の人が出てきた。
四十くらい。
腕に粉。
手に木べら。
俺たちじゃなく、荷車を見ている。
正確には箱。
「それ、北の炉晶?」
商人の足が止まった。
「そうだ」
「熱、まだ入ってる?」
「入ってない。売り物は冷ましてある」
女は木べらを腰へ差した。
「一個見せて」
商人の顔が生き返った。
さっきまで鍛冶屋に要らないと言われた人とは思えない。
箱を開ける。
女は石を触らない。
筋を見る。
大きさを見る。
「これ、何刻くらい持つ?」
「質と大きさによる。熱の入れ方にもよる」
「このくらいなら?」
「家用の普通品だ。しっかり熱入れれば、湯沸かしの補助なら数刻。暖めるだけならもっと」
女は考える。
俺は聞いた。
「パン焼くの?」
「焼くなら窯があるよ」
当然だった。
女は店の奥を指した。
「生地置く部屋」
俺たちは見る。
扉。
その向こう。
「寒いと朝の膨らみが遅い。夜ずっと火を残すと、誰か見てないといけない。窯は夕方まで使うから、最後の熱でこれ温めて、部屋へ持ってけるなら楽になる」
俺の頭の中で、一回止まった。
炉晶。
火を作る石だと思っていた。
違う。
熱を運ぶ石だ。
北では暖房。
鍛冶の補助。
湯沸かし。
南では、パンの生地を休ませる部屋。
「試していい?」
俺が聞くと、商人が言った。
「俺の台詞だ」
女が笑う。
「一個貸して。今日の窯の最後に入れる。夕方まで待てる?」
商人は少し悩んだ。
「買うなら」
「使えたら」
「壊したら」
「買う」
話が早い。
午後。
俺たちは宿へ炉晶を売りに行く予定だったのに、パン屋の裏にいた。
なぜか。
試したいから。
商人は何度も「一軒だけだぞ」と言った。
ミオは砂時計。
エダンはパンを買って食べている。
俺も買った。
試験だから。
南のパンは、北より柔らかかった。
「うまい」
エダンも頷く。
「北のも嫌いじゃないけどな」
パン屋の女――リサは、窯の火を落としたあと、炉晶を鉄のかごへ入れた。
直接火の中じゃない。
窯の端。
残った熱が集まる場所。
「これで熱入る?」
俺が聞く。
商人が答える。
「入る。遅いけど」
「何で北ではこうしないの?」
「する。工房でも家でもやる」
「じゃあ普通なんだ」
「北ではな」
その違いが面白い。
同じ物でも、知らない場所へ持っていくと、使い方から説明が要る。
しばらく待つ。
リサが鉄かごを持ち上げる。
布を二重にしている。
「熱っ」
「だから言っただろ」
商人が慌てる。
「持てるって言ったじゃない」
「布一枚じゃ持つなって言った」
言い合いながら、二人で小さな鉄箱へ移す。
箱には穴がある。
閉じ切らない。
それを生地の部屋へ置く。
俺も入ろうとした。
リサに止められた。
「靴、粉だらけにするから外」
「俺、見るだけ」
「見るなら戸口」
パン屋はダンジョンより入場条件が厳しい。
戸口から見る。
木棚。
布をかけた生地。
部屋は少し冷えている。
鉄箱を床近くへ置く。
十分。
二十分。
ミオが壁際と入口側で温度の違いを手で見ている。
もちろん正確な温度計はない。
でも、入った時より冷たさが減った。
リサが生地へ触れる。
「一個じゃ部屋全部は無理」
商人の顔が曇る。
「でも」
リサは鉄箱を見る。
「火を残してないのに、この辺は暖かい」
俺はしゃがむ。
箱の近く。
確かに暖かい。
「三個なら?」
リサが言う。
商人がすぐ答える。
「置き方次第だな。部屋の広さもある」
「じゃあ三個貸して」
「買え」
「今日一晩持つか分からないだろ」
「二個まで」
「けち」
二人とも楽しそうになってきた。
結局。
リサは二個を試用で預かった。
代金は明日の朝。
壊したら買う。
使えなければ返す。
それだけ。
まだ売れてない。
でも鍛冶屋で「いらん」と言われた後より、商人の歩き方は軽い。
夕方。
予定していた宿へ行く。
宿の主人は炉晶を見て、二個買った。
理由は暖房じゃなかった。
「濡れた靴を乾かす部屋に置けるなら使う」
吹雪帰りの白嶺で、靴を乾かすために炉晶が欲しいと思った。
南でも同じだった。
ただし、こっちは雪じゃなく雨。
商人が値段を出す。
宿の主人が下げる。
商人が上げる。
主人が「じゃあ一個」と言う。
商人が「二個ならこの値段」と返す。
俺には戦闘より難しい。
最後に二個売れた。
鍛冶屋一個。
宿二個。
パン屋試用二個。
箱にはまだ残っている。
「全然売り切れてない」
俺が言うと、商人が睨んだ。
「一日で全部売る前提が間違ってる」
「北ではすぐ使うのに」
「北で当たり前だから南でも当たり前と思うな」
それは、ちょっと痛かった。
俺たちは道でも同じことをやった。
人が通れる。
だから荷車も通れると思った。
北で使える。
だから南でも同じ使い方で売れると思った。
違う。
場所が変われば、困っていることが変わる。
困っていることが変われば、同じ石の価値も変わる。
夜。
パン屋へ戻る。
リサが戸口で待っていた。
機嫌がいい。
「一個追加」
商人の口元が動いた。
笑いそうになったのを我慢した顔。
「朝まで見てからじゃなかったのか」
「生地の端が冷えなくなった。今夜もう一個置く」
「じゃあ二個とも買う?」
「朝まで持ったら」
強い。
リサは銅貨を一部だけ先に払った。
そして言う。
「もっと長く持つのがあるなら、それは欲しい」
俺とミオが同時に商人を見る。
商人も俺たちを見る。
誰も、強発光炉晶の話をしなかった。
まだ調べている途中。
正体も寿命も分からない。
売らない。
言わない。
でも。
南で普通炉晶の使い道が一個増えた。
鍛冶じゃない。
パン屋だった。
俺は焼きたてのパンを一つ買った。
エダンが言う。
「それ、試験?」
「記念」
「何の」
俺は少し考えた。
「売り物って、買う人が決めるんだなって」
エダンはパンを半分ちぎった。
「難しいこと言う前に食え。冷めるぞ」
その方が大事だった。
第66話 帰りの荷車は、麦だけじゃなかった
【本文】
次の朝。
パン屋へ行くと、リサが腕を組んで待っていた。
俺は最初に鉄箱を見た。
「どうだった?」
「朝まで熱かった」
商人の顔が明るくなる。
リサが続ける。
「部屋全部は無理。三個置いて、戸口閉めて、やっと冷えにくいくらい。でも夜番で火を見なくていいのは楽」
「買う?」
「三個」
「四個」
「三個」
「じゃあ三個半」
「石半分に割る気?」
商人が黙った。
俺は笑った。
交渉の負け方もあるらしい。
結局三個。
鍛冶屋一個。
宿二個。
パン屋三個。
六個売れた。
残りは、別の町へ持っていく候補として商人が残した。
試験としては十分らしい。
「で、麦」
俺が言う。
商人が銅貨袋を持ち上げた。
「分かってる」
南の穀物市場は、北より大きかった。
袋が山みたいに積んである。
小麦。
大麦。
豆。
乾燥した根菜。
俺は全部積めそうな気がした。
商人に言った。
「いっぱい積めるじゃん」
「荷車がいっぱいでも、道が持つとは限らん」
昨日と同じことを言われた。
俺は学んでいるはずなのに、見た目に負ける。
穀物屋で、北へ持ち帰る話をする。
店主は白嶺と聞いて、最初に荷車を見る。
次に俺たちを見る。
「何袋?」
商人が答える。
「四。小麦」
俺は思わず商人を見る。
「もっとじゃなくて?」
「帰りの道を試すんだ」
カイルと同じ言葉。
商人自身が言うようになった。
店主が袋を一つ引き寄せる。
「北ならこっちより、こっちだな」
二袋。
見た目は同じ麦。
俺には違いが分からない。
ミオが粒を手へ取る。
「昨日の話だと、南の麦は軽いんだよね」
店主は頷いた。
「こっちの方が粒が硬い。粉にすると北のより水を食わん。パン屋によって嫌がる」
俺は昨日のパン屋を思い出す。
「じゃあ北でパン焼けない?」
「焼ける。違うだけだ」
その答えが気に入った。
使えないじゃない。
違う。
北の女将も同じことを言っていた。
商人が値段を聞く。
高い方。
安い方。
四袋全部小麦にすると、昨日売れた炉晶の金だけでは少し足りない。
商人が顔をしかめる。
「思ったより上がってるな」
穀物屋が肩をすくめた。
「南も無限にあるわけじゃない」
当たり前だった。
北から見れば、南は麦が余っているように見える。
南から見れば、南にも食う人がいる。
俺は袋の山を見る。
「じゃあ三袋?」
商人は返事をしない。
店主が横の棚を指す。
「パンだけ考えるなら小麦だ。腹を満たすなら大麦混ぜた方が安い」
大麦。
俺は袋を見る。
「北でも食べる?」
「知らん。北の人に聞け」
正しい。
エダンが言う。
「白嶺の鍋屋なら入れるんじゃないか。麦の粒そのまま煮てたし」
「あれ大麦?」
「たぶん」
「たぶんで買う?」
ミオが聞く。
エダンは黙った。
俺も黙る。
北の町の女将がここにいれば早い。
いない。
連絡する方法もない。
昔なら、ここで全部小麦にしていた気がする。
分かりやすいから。
でも今回は一台。
試すための一台。
商人が店主へ言う。
「小麦二。大麦一」
俺は聞く。
「三袋?」
「あと一つ、豆にする」
「豆?」
「北の宿は煮込みが多い。パンだけ増やしても、麦の値段が下がらなきゃ同じだ。別の食い物が安く入れば、その分だけ麦を食わずに済む日もある」
俺は商人を見る。
昨日まで、空きがもったいないと言っていた人だ。
今日は荷物の中身まで変えている。
「頭いい」
「商人だからな」
「昨日は鍛冶屋に外したけど」
「それは言うな」
穀物屋が笑った。
四袋。
小麦二。
大麦一。
豆一。
全部同じ大きさじゃない。
重さも違う。
ミオが一袋ずつ確認する。
「北へ着いたら、値段だけじゃなく使い方も聞こう」
「パン、大麦、豆」
俺が指で数える。
「それと、空き」
商人が言う。
荷車を見る。
まだ少し余裕がある。
俺は昨日の白嶺を思い出した。
炉晶箱。
中で石が鳴った。
毛布を詰めた。
「藁ほしい」
全員が俺を見る。
俺は穀物屋の床を指した。
袋の下。
藁。
細かい籾殻。
「炉晶箱の詰め物。帰り空いてるなら、軽いやつ持って帰れば次は毛布使わなくていい」
商人が少し考えた。
「藁を白嶺越えて運ぶのか?」
「売るためじゃなくて」
「分かってる」
ミオが荷台を見る。
「重さ増やさず、体積の余りを使える」
エダンが言う。
「白嶺の水場でも敷けるな。濡れたら終わりだけど」
穀物屋の店主が聞いていた。
「藁なら持ってけ。袋詰める手間だけ払え」
「安い?」
俺が聞く。
「捨てる分だ」
商人が急に元気になった。
「二袋」
「一袋でいい」
「空いてるだろ」
「帰り道の試験って自分で言ったよね」
ミオが止める。
商人が黙った。
一袋になった。
昼。
荷車へ積む。
下に小麦。
左右へ大麦と豆。
空いた隙間に藁袋。
工具。
交換車輪。
昨日より、明らかに沈む。
車軸と地面の距離が近い。
俺はしゃがむ。
「重そう」
商人が言う。
「見れば分かる」
最近これをよく言われる。
護衛の一人が車輪を蹴る。
「町道なら問題ない」
「白嶺は?」
俺が聞く。
「行ってみないと分からん」
それが答えだった。
出発前。
パン屋のリサが来た。
紙包みを一つ持っている。
「北へ行くんだろ」
「うん」
「これ」
パン。
昨日より少し固い種類。
「長持ちする方。柔らかいのは今日中に食え」
俺は受け取る。
「炉晶の代金?」
「違う。試験の礼」
商人が横から言う。
「それ俺には?」
リサは一秒考えた。
「石、安くしたら次」
商人が文句を言う。
俺はパンを隠した。
取られそうだから。
南の町を出る。
昨日は炉晶一箱。
今日は小麦二袋。
大麦一袋。
豆一袋。
藁一袋。
帰りの荷車は、麦だけじゃなかった。
北でパンを大きく戻すなら、小麦だけが正解に見える。
でも実際に町を歩いて、値段を聞いて、重さを考えると、少しずつ違う答えになる。
俺は荷車の横を歩く。
車輪の跡が昨日より深い。
白嶺が見えてきた。
入口の手前。
最初の緩い泥道へ車輪が入る。
ズブッ。
左が沈んだ。
荷車が傾く。
全員で止める。
「動かすな!」
商人が叫ぶ。
俺は炉晶箱じゃなく、麦袋を見る。
一番上の豆袋が少しずれた。
エダンが肩で押さえる。
ミオはすぐ地面を見る。
「昨日ここ通ったよね」
「通った」
護衛が車輪の横へしゃがむ。
「昨日は軽かった」
誰も何も言わない。
シンの言葉が戻ってくる。
――炉晶一箱より重くない?
行きに通れた道。
帰りは、同じ道じゃなかった。
俺は沈んだ車輪を見る。
白嶺は目の前。
荷物は北へ持って帰るために買った。
ここで減らしたら、何の試験か分からない。
でも無理に引けば、車軸を折るかもしれない。
俺は少し笑った。
「やっと本番っぽくなってきた」
商人が本気で嫌そうな顔をした。
「お前、こういう時だけ楽しそうだな」
否定できなかった。
南で売れるかは、一個分かった。
北で欲しい物も、一個分かった。
でも交易は、売買だけじゃない。
重い荷物を、ちゃんと帰すところまでだ。
白嶺の入口で、最初の帰り道が止まった。




