第61話 婆さんは獣より先に人をどかした
【本文】
温穴へ向かう朝。
俺たちの荷物は、昨日より変だった。
炉晶の入った鉄箱が二つ。
毛布。
砂時計。
木の板。
長い火ばさみ。
薬草袋。
そして、一番後ろを歩く小柄な婆さん。
「遅い」
婆さんが言った。
俺は振り返る。
「俺たち?」
「山が」
意味が分からない。
カイルは慣れているらしく、そのまま歩いている。
ヨルンだけが少し緊張した顔で、婆さんの隣を歩いていた。
「トア婆。昨日話したのが、あの温穴だ」
「聞いた。でかい牛がいるって言ったのはお前だね」
「……最初はそう見えた」
「角が二本あれば全部牛か。じゃあお前は足が二本だから鶏だな」
エダンが横で吹き出した。
ヨルンは何も言い返さない。
たぶん昨日、一回もう怒られている。
俺はミオに小声で聞いた。
「強そう」
「声が?」
「全部」
トア婆はこちらを見ないまま言った。
「聞こえてるよ、白嶺の」
「すみません」
最近、北では俺の名前より先に白嶺が来る。
温穴の前。
昨日作った人用退避区画は残っていた。
低い仕切り。
毛布。
壁に掛けた注意札。
《吹雪時退避》
《巣側へ入らない》
《火を焚かない》
その下に、昨日はなかった文字が増えている。
《食べ物を置かない》
俺はカイルを見る。
「増えた?」
「昨日の夜、干し肉を置いていった馬鹿がいた」
「何で」
「獣にやれば仲良くなれると思ったらしい」
ミオが額を押さえた。
「誰?」
「名乗らなかった」
「賢いね」
褒めてはいない。
入口の雪には、太い足跡があった。
熱角獣。
親。
子。
昨日と同じ二頭。
少なくとも、見える範囲では増えていない。
俺たちは中へ入った。
人用区画までは静か。
奥。
熱のある岩壁の近くに、大きな影がいる。
親の熱角獣。
子どもはその腹の向こう。
ヨルンの呼吸が少し変わった。
トア婆は獣より先に、俺たちを見た。
「多いね」
「何が?」
俺が聞く。
「人が」
今日は俺、ミオ、エダン、カイル、ヨルン、トア婆。
六人。
炉晶の試験もあるから仕方ないと思っていた。
トア婆は杖で床を叩いた。
「怪我した獣を見るのに六人で囲む気かい。出口の前にも二人。横にも三人。これで暴れたら『魔物が襲ってきた』って言うんだろ」
誰も答えない。
婆さんは続けた。
「先に人をどかしな」
カイルがすぐ動いた。
「エダン。入口。ミオは退避区画。レンは俺と炉晶。ヨルンだけ残る」
俺は聞き返した。
「俺、傷見なくていい?」
「見るのはトア婆だ」
正しい。
ちょっと見たいけど。
俺とカイルは人用区画へ戻った。
ミオが地図袋を置き、鉄箱を開ける。
中には、同じくらいの大きさに揃えた炉晶が一個ずつ。
普通の炉晶。
昨日の強く光る炉晶。
どちらも今は冷えている。
マレナが箱へ印を彫ってくれた。
一つは丸。
一つは三角。
「どっちがどっちか知ってると、俺たちが勝手に良く見ちゃうから」
ミオが言った。
「目隠し試験?」
「完全じゃないけどね。石の色見たら分かるし」
「じゃあ箱閉めたまま?」
「最初は」
昨日、マレナに言われた通り。
二つの箱を、温穴の同じ熱溝の上へ置く。
距離も同じ。
時間も同じ。
砂時計を返す。
俺は箱を見た。
「待つの?」
ミオが頷く。
「待つ」
「また?」
「試験ってだいたい待つんじゃない?」
ゲームなのに。
でも嫌いじゃない。
昨日より少しだけ。
奥ではトア婆とヨルンが、熱角獣を見ている。
近づいてはいない。
婆さんはしゃがみもしない。
立ったまま、長いこと見る。
俺は我慢できず、カイルに小声で聞いた。
「何見てるんだろ」
「聞くな。今は見る時間だ」
「カイルも分からない?」
「分からない」
短い。
でも、分からないって普通に言う。
そこはちょっと好きだ。
しばらくして、トア婆が戻ってきた。
ヨルンも一緒。
婆さんは人用区画へ入るなり、俺たちの毛布の上へ座った。
「尻が冷える」
ミオが毛布を一枚渡す。
「どうでした?」
「肩は使えてる。脚も引きずってない。飯も食ってる」
ヨルンがすぐ聞く。
「じゃあ抜ける?」
トア婆はヨルンを見る。
「お前の矢だね」
「うん」
「返しは?」
「ない。雪鹿用。先は細い」
「なら、まだまし」
ヨルンの肩が少し下がった。
でもトア婆は、そこで安心させてくれなかった。
「ただ、抜けば血は出る。暴れりゃ別の傷も増える。お前が楽になるために今すぐ抜くなら、やめときな」
ヨルンが黙った。
火ばさみを持っていた手を下ろす。
俺も何も言えない。
言われてみればそうだ。
矢が残っているのを見ると、抜きたくなる。
たぶん、俺も。
獣のためというより、残っている問題を消したい。
トア婆が俺を見る。
「白嶺の」
「はい」
「何で返事がそんなにいい」
「怒られそうだから」
婆さんが鼻で笑った。
「正直でよろしい」
そこへ、奥から低い音がした。
ゴゥ、と喉の奥を鳴らすような音。
全員の視線が向く。
熱角獣が立った。
ヨルンの身体が固くなる。
カイルは剣へ手をやらない。
代わりに、入口側を見た。
逃げ道。
俺も真似する。
空いている。
誰も塞いでいない。
親獣はこっちを見た。
一歩。
もう一歩。
子どもも動く。
「来る?」
俺が小声で言う。
トア婆は座ったままだ。
「お前が動かなきゃね」
「俺?」
「一番動きそうな顔してる」
今日何回目だろう。
俺は両手を膝へ置いた。
動かない。
熱角獣は人用区画までは来なかった。
途中。
昨日、低い仕切りを置いた少し手前で止まる。
鼻を上げる。
何かを嗅いでいる。
炉晶の箱?
俺も見る。
熱溝の上。
二つの鉄箱。
片方の蓋の隙間から、薄い橙色が見えていた。
三角の印。
強く光る方だ。
「反応してる?」
ミオが聞く。
トア婆がすぐ返す。
「石か、人か、毛布か、知らんよ。勝手に決めな」
「はい」
ミオは素直だ。
親獣は少しだけ鼻を鳴らした。
それから、こっちへ来ずに右へ曲がった。
熱い岩壁。
昨日より人用区画から離れた場所で、ゆっくり身体を伏せる。
傷のある右肩が、こちら側になった。
トア婆が立った。
「今なら見やすい」
ヨルンも立つ。
「行く?」
「行かない」
婆さんは長い火ばさみを指した。
「まず道具を長くしな」
エダンが入口から戻ってきた。
「棒なら外にある」
昨日、仕切りを作った余り材。
俺たちは人用区画の中で、火ばさみの柄へ棒を当てた。
縄で巻く。
一回。
持つ。
ぐらつく。
やり直し。
二回目。
まだ回る。
エダンが結び方を変える。
三回目。
ようやく一本の長い道具になった。
俺は持ち上げる。
「重い」
「お前が使うんじゃないよ」
トア婆が取った。
片手で。
強い。
ヨルンが言う。
「俺がやる」
「角度を知ってるのはお前だ。持つのはあと」
婆さんは熱角獣を見る。
「今日は抜かない」
「え」
俺の声が出た。
トア婆が振り返る。
「何だい」
「いや、今いい感じだったから」
「物語じゃないんだよ」
ゲームです。
とは言わなかった。
婆さんは続ける。
「今日は、届くかを見る。獣が立った時に、人が逃げられる位置も決める。抜くのはそのあと」
カイルが頷いた。
「一度で終わらせようとしない」
「そういうこと」
俺は鉄箱を見る。
こっちも同じだ。
炉晶も。
矢も。
一回で答えは出ない。
砂時計が落ちた。
ミオが二つの箱を熱溝から外す。
同時。
人用区画の石台へ置く。
「ここから保持を見る」
丸。
三角。
蓋は閉じたまま。
表面の温かさを、同じ薄い鉄片と蝋で比べる。
最初はほとんど同じ。
しばらくすると丸の蝋が固まり始めた。
三角はまだ柔らかい。
さらに待つ。
丸は手袋なしでも触れそうになる。
三角は、まだ熱い。
昨日の工房と同じ。
偶然一回、ではなくなった。
俺は少し嬉しくなる。
「これ、やっぱ――」
ミオが横を見る。
俺は止めた。
「長く持つ可能性、高くなった?」
「うん。少なくともこの条件では」
言えた。
トア婆が三角の箱へ手をかざす。
「夜番にはこっちがいいね」
カイルが聞く。
「理由は?」
「火を足す回数が減る。眠い奴に火を触らせる回数も減る」
それは、工房では出なかった答えだった。
暖かい時間が長い。
だから便利。
じゃない。
人が失敗する回数を減らせる。
カイルが三角の箱を見る目が変わる。
俺はそれを見て、ちょっと笑った。
「好きそう」
「何が」
「失敗減るやつ」
「嫌いな奴いるのか?」
たしかに。
温穴を出る前。
トア婆は熱角獣をもう一度見た。
親獣はまだ横になっている。
矢は残ったまま。
でも明日は、ただ「抜きに行く」じゃない。
どこに立つか。
どこへ逃げるか。
どの長さの道具なら届くか。
少し分かった。
問題が一つ減ったというより、
問題の形が見えた。
最近、それがかなり楽しい。
第62話 矢を抜くのに、剣はいらなかった
【本文】
翌日。
トア婆は長い火ばさみを見て、一言だけ言った。
「短い」
昨日、三回も結び直したやつだ。
エダンが肩を落とす。
「届いたぞ」
「届くのと、近づかなくていいのは別だよ」
「あとどれくらい?」
トア婆が手を広げた。
「腕一本」
また作り直しだった。
朝から地味だ。
でも、こういう地味な作業が最近増えた。
そして大体、あとで助かる。
エダンが昨日より長い棒を持ってくる。
今度は継ぎ目を二か所にしない。
一本の長い柄。
先に火ばさみ。
縄だけじゃ回るので、薄い木片を噛ませる。
ヨルンが握って試す。
「重いな」
「片手でやるな」
トア婆が言う。
「両手?」
「片手で格好つける必要あるのかい」
「ない」
ヨルンは素直になっている。
俺たちは温穴へ入った。
今日は人を減らした。
俺。
エダン。
カイル。
ヨルン。
トア婆。
ミオは入口側。
地図を描くためじゃない。
外から人が入ってこないようにするためだ。
「私だけ置いてくんだ」
出発前、少しだけ不満そうだった。
カイルが答えた。
「中で五人も多い」
「分かってるけど言いたかっただけ」
珍しい。
俺は笑ったら睨まれた。
温穴の奥。
熱角獣はいた。
子どもも。
昨日とほぼ同じ場所。
ただ、親獣の肩の周りが少し黒く濡れている。
トア婆の顔が変わった。
「昨日より出てるね」
ヨルンが小声で聞く。
「血?」
「膿かもしれない。近くで見ないと分からん」
「じゃあ今日やる?」
「できる形になれば」
それ以上は言わない。
俺たちは人用区画へ入った。
昨日の強発光炉晶は、もう一度温穴で熱を入れている。
試験は続ける。
でも今日は全員、石より獣を見ていた。
親獣は立っている。
こっちを警戒している。
俺たちは動かない。
十分。
二十分。
長い。
ヨルンの手が火ばさみの柄を握ったり、離れたりする。
トア婆がそれを見た。
「手ぇ離しな」
「でも」
「今持ってると、行けそうに見えた瞬間に行くだろ」
ヨルンは黙って床へ置いた。
俺にはよく分かる。
道具持ってると使いたくなる。
三十分近く経った頃。
子どもの熱角獣が先に伏せた。
親はまだ立っている。
それから、親も身体の向きを変えた。
右肩が岩壁側。
昨日と逆。
ヨルンが息を吐く。
届かない。
俺もがっかりした。
トア婆だけは普通だった。
「今日は駄目かもね」
「待つ?」
カイルが聞く。
「待てる時間までは」
カイルが砂時計を見る。
「半刻」
それ以上はしない。
外の天気もある。
巡回もある。
獣一頭のために全部を止めない。
少し冷たく聞こえるけど、カイルは昨日の吹雪で十人を助けた。
たぶん、その順番なんだ。
俺は強発光炉晶の箱へ手をかざした。
まだ温かい。
普通の炉晶は、もうかなり弱い。
「今日も持ってる」
エダンが隣で頷く。
「こっちはほぼ冷めたな」
試験としては、また同じ結果。
三回目。
これなら、かなり信用していい気がする。
その時。
子どもの熱角獣が立った。
親も顔を上げる。
俺は反射で剣の位置を確認した。
抜かない。
昨日から何回も決めた。
子どもが熱い岩壁の奥へ歩く。
親が追う。
その途中で、右肩がこちらへ向いた。
トア婆が小さく言った。
「ヨルン」
ヨルンが柄を取る。
「まだ」
一歩。
親獣が止まる。
身体を岩へ擦りつけた。
矢の軸が石に当たる。
ガッ。
熱角獣が低く鳴いた。
ヨルンの顔が歪む。
「今?」
「まだ」
トア婆は動かない。
獣がもう一度、肩を岩へ擦る。
矢が邪魔なんだ。
自分でも取ろうとしている。
トア婆が立つ。
「カイル。左」
カイルが人用区画の仕切りを一枚外した。
出口側が広くなる。
「レン。後ろへ」
俺は二歩下がる。
「エダン。棒の尻」
エダンがヨルンの後ろへ入る。
二人で長い火ばさみを支える。
「ヨルン。矢の角度だけ見な。獣の顔は見るな」
「分かった」
親獣はこっちを見ている。
俺は見返さないようにした。
視線を肩へ。
火ばさみの先がゆっくり進む。
遠い。
長い柄が少し震える。
「止め」
トア婆。
全員止まる。
親獣が鼻を鳴らした。
子どもが奥で振り返る。
十秒。
長い。
親獣が顔を戻した。
「次」
火ばさみが進む。
矢の軸。
挟む。
カチ。
音がした。
親獣の耳が動く。
ヨルンの腕が固まった。
トア婆が言う。
「引かない」
「でも挟んだ」
「知ってる。呼吸しな」
ヨルンが一度、大きく息を吐いた。
俺まで一緒に吐いた。
「矢先、どっち向き」
トア婆が聞く。
「前。少し下」
「返しなし?」
「ない」
「真っ直ぐ。途中で捻るな」
ヨルンが頷いた。
「引くよ」
「獣に言っても分からん」
「俺に言った」
エダンが後ろで小さく笑った。
その笑いで、少しだけ空気が緩んだ。
ヨルンが引く。
ゆっくり。
一寸。
親獣の身体が動く。
止める。
また。
矢の軸が出てくる。
黒い液。
血も。
俺の身体補助が、前へ踏み込める位置を勝手に出してくる。
もし突っ込んできたら。
でも今は、出された位置へ動かない。
出口は空いている。
人も下がっている。
戦う準備より、戦わなくていい形を残す。
ヨルンがもう一度引いた。
スポッ。
思ったより軽い音だった。
矢が抜けた。
次の瞬間。
親獣が立ち上がった。
速い。
ヨルンとエダンが棒を放す。
カイルが二人を引く。
俺も下がる。
剣は抜かない。
親獣がこちらを向いた。
鼻から白い息。
角の根元が赤い。
一秒。
二秒。
長い。
子どもが奥で鳴いた。
親獣の顔がそっちへ向く。
そのまま、奥へ行った。
誰も追わない。
誰も声を上げない。
見えなくなってから。
俺は膝へ手をついた。
「こわっ」
エダンも壁へ背中をつける。
「今、剣抜くと思った」
「俺も思った」
「自分で?」
「身体がね」
ヨルンは何も言わない。
抜いた矢を見ている。
先に黒い汚れ。
トア婆が布を巻いた手で受け取った。
「折れてない。先もある」
ヨルンが聞く。
「傷は?」
「今は追うな。血が止まるかは遠くから見る。明日も歩けて飯食ってりゃ、あとは獣の身体に任せる」
「薬とか」
「塗りに行くのかい?」
「……無理」
「なら無理なことを治療に数えない」
強い。
俺はちょっと笑った。
トア婆が見る。
「何がおかしい」
「いや。分かりやすいなって」
「お前らが難しくしたがるんだよ」
外へ出る前に、炉晶の試験結果を確認した。
普通の炉晶。
ほぼ冷たい。
強発光炉晶。
まだ暖かい。
昨日と同じ。
一昨日とも同じ。
マレナに見せる記録として、ミオが入口で時間を書いた。
「これで三回」
俺が言う。
「条件は少しずつ違うけどね」
「でも使える?」
ミオは箱へ手を当てた。
「『退避区画の保温に使える可能性が高い』なら、私は書く」
「高純度は?」
「まだ書かない」
分かってた。
聞いただけ。
温穴の入口で、ヨルンが抜いた矢を雪へ突き刺した。
捨てるのかと思った。
違う。
折った。
二つに。
俺が見ると、ヨルンは少し困った顔をした。
「もう使わん」
「熱角獣には?」
「いや。この矢を」
それ以上は言わなかった。
俺も聞かなかった。
帰り道。
カイルが俺の横へ来た。
「今日は何を倒した?」
急に聞く。
俺は考えた。
「何も」
「そうだな」
「でも、かなり疲れた」
「戦わない方が難しい時もある」
それだけ言って、カイルは前へ戻った。
格好いいこと言ったくせに、説明しない。
ずるい。
でも今日の俺は、剣を一回も抜かなかった。
矢は抜けた。
獣は生きている。
人も怪我していない。
ゲームの勝ち方って、
たぶん一個じゃない。
第63話 炉晶一箱、帰りは麦で
【本文】
町へ戻ると、パンが小さくなっていた。
本当に。
昨日より、指一本ぶんくらい。
俺は朝食の皿を見た。
パン。
スープ。
干し肉。
もう一度パンを見る。
「小さくない?」
ミオが隣のパンと並べた。
「気のせいじゃないね」
エダンが自分のを裏返す。
「俺のだけ小さいとかじゃない?」
「全員同じ」
宿の女将が向こうから言った。
「測るんじゃないよ」
聞こえていた。
俺はパンを持ち上げる。
「何で?」
「麦が上がった」
「吹雪で?」
「それもある。東の荷が二日遅れた。倉の残りを見て、粉屋が値を上げた」
女将は鍋をかき回しながら続ける。
「別に今日食うもんが無いわけじゃないよ。だから今のうちに小さくするんだ」
なるほど。
なくなってから困るんじゃない。
減ってきた時点で、パンが小さくなる。
カイルが来た。
いつもより遅い。
手に紙袋を持っている。
俺はパンを見せた。
「小さい」
「知ってる」
「町の人みんな?」
「兵も同じだ」
「カイルのも?」
「俺のパンを何だと思ってる」
隊長専用で大きい可能性を少し考えた。
カイルが紙袋を机へ置く。
中身は麦。
粒。
昨日救助した輸送隊から回収したものだ。
「これでも足りない?」
俺が聞く。
「足りる、足りないの話なら、今は足りる」
カイルは椅子へ座った。
「問題は、毎回吹雪の後に同じことをやるかだ」
またそれだ。
一回助かった。
じゃあ次も助かる。
では終わらない。
ミオが麦粒を一つ指で転がす。
「南は?」
「この時期なら余ってる地域もある」
「白嶺なら近い」
エダンが言った。
カイルはすぐ頷かない。
「道は近い。荷が安くなるとは限らない」
「何で?」
俺が聞く。
「通行料。護衛。積み替え。壊れた時の修理。南側の管理がどう決まるかもまだ途中だ」
白嶺街道。
開けた時は、距離が短くなれば全部良くなる気がしていた。
実際は、短くなった道の上に、あとからいろんなものが乗ってくる。
飯代まで。
そこへ宿の扉が開いた。
昨日の炉晶商人。
名前を聞いていなかったことに、今さら気づいた。
商人は俺たちの机へ来るなり、言った。
「石、売れるぞ」
カイルがパンを食べながら返す。
「何の石だ」
「炉晶に決まってるだろ」
「普通のか。昨日の変なのか」
商人が一瞬止まった。
「……普通のだ」
俺は少し笑った。
カイルに先に潰された。
商人は椅子を勝手に引く。
「白嶺を小型荷車が通れるなら、普通品でも南へ持っていける。向こうは薪が高い町がある。鍛冶場だってある」
ミオが聞く。
「今まで売らなかったの?」
「売ったことはある。大回りだから儲けが薄い。割れるし、盗られるし、冬は止まる」
「白嶺なら?」
「試す価値はある」
商人の目は、昨日の強発光炉晶を見た時と同じだった。
金の匂い。
でも今日は、俺も少し分かる。
炉晶を南へ運ぶ。
帰りの荷車を空で戻す必要はない。
俺はカイルを見る。
カイルも俺を見る。
たぶん同じところまで来た。
「帰り」
俺が言う。
商人が首を傾げる。
「何だ?」
「炉晶売った荷車、帰り何積む?」
一秒。
商人が笑った。
「麦」
宿の女将が鍋の向こうから言う。
「小麦なら歓迎するよ」
話が早い。
カイルだけは笑わなかった。
「一台」
商人が聞き返す。
「は?」
「最初は一台。小型荷車一台。炉晶一箱」
「少なすぎる。道が通るなら三台は――」
「何を試すんだ」
カイルが遮る。
商人は口を止めた。
「利益か。道か」
「……道だ」
「なら一台」
商人は不満そうだ。
俺は分かる。
三台の方が面白そうに見える。
でも一台なら、止まった場所が分かる。
積み替え時間も分かる。
壊れた時の損も小さい。
ユリウスがいたら、たぶんもっと数字を出す。
カイルは数字を出さない。
でも考えていることは似ている時がある。
そこへマレナが入ってきた。
朝から腕まくり。
「変な石は売らないよ」
商人が顔をしかめる。
「まだ何も言ってない」
「言う顔してる」
北の人も顔を読む。
マレナは俺の前へ、小さな布包みを置いた。
昨日、温穴で三回目の試験をした強発光炉晶の欠片。
「これは工房へ戻す。あと二回は熱入れて、鈍り方を見る」
俺は少し残念になる。
「南に持っていかない?」
「正体も寿命も分からん石を先に売ってどうする」
正しい。
「普通ので道を試せばいい。変なのは変なので調べる」
ミオが頷いた。
「分けた方がいいね」
一つの発見に、全部を乗せない。
炉晶の性質確認。
交易路の試験。
麦の確保。
別々に進める。
俺は前なら、全部一気にやりたがった気がする。
今もやりたいけど。
我慢できるだけ成長した。
たぶん。
昼前。
俺たちは市場へ行った。
商人が試験用の炉晶を選ぶ。
普通品。
割れにくい中くらいのもの。
一箱。
強発光炉晶は入れない。
マレナが一個ずつ叩いて音を聞く。
コン。
コン。
カン。
「それ外せ」
「何で?」
「ひび入ってる」
俺には見えない。
商人も文句を言わず外す。
専門家ってこういう時格好いい。
隣の穀物屋では、女将が値段を聞いていた。
「昨日よりまた上がったの?」
「一袋で銅貨二枚上だ」
「強気だねえ」
「東道が開けば戻すよ」
「開かなかったら?」
「パンをもう一寸小さくしな」
俺は朝のパンを思い出した。
笑い話みたいだけど、毎日一寸ずつ小さくなったら困る。
穀物屋の若い男が、炉晶の箱を見た。
「南へ持ってくのか?」
商人が頷く。
「試しにな」
「帰り、麦?」
「売ってれば」
男は少し考えた。
「南の麦、北のより軽いぞ」
「同じ麦じゃないの?」
俺が聞く。
男が俺を見る。
「育つ場所違えば違う。粉にした時、水の食い方も違う」
宿の女将が横から言う。
「パンは焼けるよ」
「焼けるけど、同じにはならん」
なるほど。
交易って、持ってくれば終わりじゃない。
食べる側の好みまである。
俺は店先の麦袋を見た。
北の麦。
近くで作ってるなら、もっと増やせばいいんじゃないか。
そう思って、口に出した。
「こっちで畑増やすのは駄目なの?」
穀物屋の若い男が、変な顔をした。
「畑は急に増えんよ。雪解けも遅いし」
「人増やすとか」
「人なら炉晶場に取られてる」
「取られてる?」
男は自分の指を見せた。
爪の間に黒い粉が入っている。
「俺も朝は選別場。昼から店。兄貴は去年からずっと支坑。畑やるより銭になる」
「麦屋なのに?」
「麦屋だからだよ。麦だけじゃ冬越せん年がある」
横で女将が鍋を混ぜるみたいに手を回した。
「銭になる仕事が増えるのは悪いことじゃないさ。ただ、畑から手が減る」
若い男が苦笑する。
「親父は毎日文句言ってる。兄貴戻せって」
「戻る?」
「給金倍出すなら」
それは戻らなそうだ。
「炉晶が売れれば売れるほど、畑の人は減る?」
俺が聞くと、若い男は首を傾げた。
「そこまでは知らん。炉晶場が暇な季節は畑へ戻る奴もいるし、家ごと両方やってるとこもある。町ごとに違うだろ」
簡単な式にはならないらしい。
誰かが悪いわけじゃない。
炉晶が売れる。
炉晶場で働く人が増える。
畑に出る人が減る。
まだ、それだけ。
でも朝のパンが少し小さくなった理由の一つは、吹雪だけじゃないのかもしれない。
ミオが小さくメモした。
「何書いた?」
「南麦、北麦と同じ扱いにしない。それと、麦の値段は道だけで決まらない」
「地図じゃないよね?」
「記録は地図だけじゃないよ」
そうだった。
午後。
小型荷車が一台、町の南門へ来た。
炉晶一箱。
工具。
交換用の車輪。
毛布。
荷物は少ない。
商人は最後まで不満そうだった。
「空きがもったいない」
カイルが答える。
「余裕も荷物だ」
「売れんだろ」
「事故の時に使う」
また格好いいことを短く言う。
俺は真似してみた。
「余裕も荷物」
エダンが横で言う。
「レンが言うと急に薄くなるな」
「何でだよ」
ミオが笑った。
今日は俺たちも行く。
俺。
ミオ。
エダン。
商人。
護衛二人。
カイルは残る。
北の巡回隊長だから。
出発前。
カイルが荷車の横へ来た。
俺は聞く。
「来ないんだ」
「俺が南へ遊びに行ったら、誰が巡回する」
「遊びじゃないよ」
「お前の顔は半分遊びだ」
否定できない。
カイルは荷箱を叩いた。
「売れなくてもいい。壊さず南まで持っていけ。それで帰りに何が積めるか見ろ」
「麦」
「麦だけに決めるな。値段も質も見ろ」
ミオが横から言う。
「了解」
カイルは最後に俺を見る。
「あと、道を直したくなっても勝手に止まるな」
「何で俺だけ」
「止まりそうだから」
エダンが頷く。
ミオも頷く。
味方がいない。
荷車が動く。
ゴロゴロ。
北の町を出る。
白嶺は遠くに見える。
こっち側から見ると、もう「向こう側」じゃない。
帰る道でもある。
荷車には炉晶一箱。
帰りに何を積むかは、まだ決まっていない。
麦かもしれない。
別の物かもしれない。
そもそも炉晶が売れないかもしれない。
でも、その分からなさがちょうどいい。
俺は荷車の横を歩きながら、朝より少し小さかったパンを思い出した。
南で炉晶が売れたら、北のパンが元の大きさに戻るのか。
そんな単純じゃない気もする。
でも、答えが分からないから見に行く。
地図を作った時と同じだ。
道を開けた時は、
向こうへ行けるだけで楽しかった。
今は、
向こうから何を持って帰れるかまで考えている。
世界がまた、少しだけ広くなった。




