第58話 吹雪のあとで、火を拾う
【本文】
朝、窓を開けたら世界が平らになっていた。
昨日まで道だったところも。
市場の端も。
巡回所の前に積んであった薪も。
全部、雪の下だ。
俺は二階の窓からしばらく眺めていた。
「……荷物、埋まってない?」
後ろで外套を着ていたエダンが答える。
「埋まってるだろうな」
「炉晶も?」
「石は逃げないだろ」
「小麦は?」
「袋が破れてなければ」
「薬は?」
「知らん」
全部、昨日助けた輸送隊の荷物だ。
人は帰った。
次は物。
言葉にすると、冒険というより本当に仕事だ。
でも俺は昨日から、崖の下で見た橙色の石のことが気になって仕方なかった。
食堂へ下りると、ミオはもう地図を広げていた。
パンは昨日と同じ。
固い。
俺は迷わずスープへ入れた。
「学んだね」
ミオが言う。
「北方二日目だから」
「昨日、石を拾わなかったのも偉かったよ」
「それ何回言うの」
「顔に出てたから」
俺が反論しようとしたところへ、カイルが入ってきた。
今日は救助装備じゃない。
短い外套。
腰の剣。
雪靴。
手には木札が三枚。
嫌な予感がする。
「東谷、風が落ちた。見張り小屋までの道も確認できた」
俺はパンを飲み込む。
「回収行く?」
「行く。ただし順番がある」
やっぱり。
カイルが木札を机へ置いた。
一枚目。
《薬》
二枚目。
《小麦》
三枚目。
《炉晶・工具》
「炉晶、最後?」
俺が言うと、カイルは椅子へ座った。
「人が今すぐ必要としてる順だ」
「炉晶も暖房にいるでしょ」
「町の在庫は今日明日で切れない。薬は患者が待ってる。小麦は市場が待ってる」
正しい。
正しいけど、俺が見たい順と逆だ。
エダンが笑う。
「顔に出てるぞ」
「みんな俺の顔読みすぎじゃない?」
ミオがスープを一口飲む。
「分かりやすいんだよ」
荷回収は、昨日よりずっと楽だった。
空が見える。
道が見える。
石柱も見える。
ただし、雪は深い。
昨日の足跡は全部消えていた。
カイルは巡回兵四人。
俺たち三人。
輸送隊から動ける護衛二人。
九人で出た。
救助の時より少ない。
「荷物運ぶのに人数減らすんだ」
俺が言うと、カイルは前を歩いたまま答える。
「今日は人が自分で歩ける」
「そっか」
「荷物は文句言わない」
「昨日の商人は言う」
後ろの護衛が吹き出した。
東谷の途中。
最初の横倒し荷車。
救助した二人がいた場所だ。
雪を払う。
車輪は片方が割れている。
小麦袋が十五。
薬箱が三。
全部は一度に無理だ。
カイルが荷を分ける。
「薬全部。小麦は八袋。残りは目印を立てて二便目」
護衛の一人が言う。
「麦、もう七袋積めます」
「積める。戻れるかは別だ」
「昨日より天気いいですよ」
「昨日より雪が深い」
そこで終わる。
俺たちは薬と小麦を橇へ載せた。
帰りは巡回兵二人が先に町へ戻る。
残りで次の場所へ。
昨日温穴へ避難した六人の荷車。
ここは横倒しだけで、谷へ落ちていない。
雪を払うと、小麦袋。
工具箱。
薬箱。
私物。
そして、熱角獣へ撃った弓。
弦は切れていた。
俺はそれを見て、少し黙った。
矢を射った護衛も今日は来ている。
名前はヨルン。
昨日、温穴で短剣を持っていた男だ。
ヨルンも弓を見た。
「……矢、残ってたな」
俺が頷く。
「肩に」
「抜けると思うか」
「分かんない」
ヨルンは弓を雪から拾った。
弦を指でつまむ。
「俺が撃った」
「知ってる」
「怖かったからな」
言い訳じゃない。
説明でもない。
ただ言った。
俺は少し考える。
「俺もあそこに最初からいたら撃ってたかも」
「お前、昨日は撃たなかっただろ」
「子ども見えた後だったから」
それで会話は終わった。
どっちが悪い、にはならなかった。
温穴はあとで行く。
今日は荷物。
カイルが俺たちを呼ぶ。
「谷へ行くぞ」
昨日、俺が崖を下りた場所。
今日は吹雪がない。
初めて全体が見えた。
谷は思ったより狭い。
崖下には壊れた荷車。
片方の車輪が外れ、荷箱が雪へ刺さっている。
そこだけ、俺の目にはやけに橙色に見えた。
「ある」
ミオが横を見る。
「声大きいよ」
「だってある」
カイルが崖の縁まで来る。
昨日使った固定場所を確認する。
雪を払う。
縄の擦れ跡が残っていた。
「同じ場所は使わない」
「何で?」
「昨日削れた分がある」
なるほど。
少し横の岩へ布を当てる。
二本。
また二重。
昨日は人を上げた。
今日は荷物を上げる。
俺が下へ降りる。
エダンも来る。
二人。
荷車の下へ着く。
橙色。
近くで見る。
箱は完全に割れていた。
炉晶が十数個、雪の中へ散っている。
全部が強く光っているわけじゃない。
黒っぽいもの。
細い橙線だけのもの。
でも三つ。
明らかに違う。
黒い部分が少なく、内部の橙色が広い。
一つは雪へ半分埋まっているのに、その周りだけ溶けていた。
俺は手を伸ばす。
上からミオの声が降ってくる。
「布!」
聞こえてたらしい。
俺は袋から厚い布を出した。
包んで持つ。
温かい。
というか、ちゃんと熱い。
「昨日からここだよね」
エダンも触らずに覗く。
「吹雪の中で一晩」
「なのにこれ」
俺は雪へ置く。
じわっと沈む。
熱で。
エダンが眉を寄せた。
「荷車に火でもあった?」
周りを見る。
焚き火跡はない。
燃えた荷もない。
箱の木も焦げていない。
俺は上へ向かって叫んだ。
「カイル! これ、昨日から熱かった?」
「知らん!」
当然だった。
俺たちはまず散った炉晶を全部集めた。
普通に見えるものと、強く光る三つを分ける。
箱の側面。
焼き印。
ミオが上から降りてきて確認した。
「第57話で見た積荷表の支坑名と同じ」
俺が言う。
「支坑名、覚えてるの?」
「地図に書いたから」
「ずるい」
「記録だよ」
カイルも下りてきた。
三つを見る。
触らない。
「町へ戻るまで分ける。ほかの炉晶と混ぜるな」
「やっぱ変?」
「一晩雪の中で熱いなら普通ではない」
俺はちょっと嬉しくなる。
「高純度?」
「まだ言うな」
ミオと同じことを言われた。
「二人とも厳しくない?」
「お前が早い」
エダンが雪の中から別の物を拾った。
細い金具。
荷箱の留め具。
その下に、紙。
濡れている。
文字が半分消えていた。
ミオが慎重に広げる。
「選別……前?」
「読める?」
「『未選別粗晶』。その下は消えてる」
未選別。
つまり町で選別する前。
商人はそう言っていた。
それなら、この三つが良い炉晶なのかどうかも、まだ誰も確定していない。
俺は布越しに一つを持つ。
熱い。
「これ、持って帰ったら冷めるかな」
カイルが答える。
「それを見る」
何か急に実験みたいになってきた。
崖から荷を上げる。
炉晶。
工具。
残っていた布。
壊れた車輪。
拾えるものは拾う。
小麦で雪に散った分は無理だった。
鳥がもう来ていた。
白い雪の上で、小さな黒い鳥が麦を食べている。
エダンが見て言う。
「全部は戻らんな」
カイルが荷を確認する。
「戻らないものを数えるのも回収だ」
また変な言い方。
でも昨日より分かる。
町へ戻る頃。
布で包んだ炉晶は、まだ温かかった。
俺は何回も触って確かめた。
ミオが三回目で言う。
「ずっと触ると比較にならないよ」
「何で」
「手の熱が移るかもしれない」
「俺の手、そんな熱くない」
「条件そろえたいの」
条件。
ユリウスが聞いたら喜びそうだ。
巡回所へ着く。
商人が待っていた。
小麦より先に炉晶箱を見る。
「それだ!」
「薬が先だろ」
カイルが言う。
商人が止まる。
「あ、いや。もちろん薬が先だ」
言い直した。
ちょっと人間らしい。
薬箱を渡す。
小麦を倉へ。
工具。
最後に炉晶。
俺は強く光る三つだけ、別の布の上へ置いた。
商人の顔が変わった。
「こんなの入ってたのか」
「知らなかった?」
「未選別だからな。支坑から町へ回して、ここで割れと筋を見る」
「良いやつ?」
「見た目だけなら、かなり」
カイルが言う。
「一晩雪の中にあったのに熱い」
商人が黙った。
布越しに触る。
一つ。
二つ。
三つ。
「……おかしい」
「良すぎる?」
俺が聞く。
「それ以前に、粗晶は採掘しただけなら冷たい。熱を入れてないなら、こんなに持たない」
「じゃあ誰か熱入れた?」
「輸送前にわざわざやらん。重くはならんが、扱いにくくなる」
ミオが口を挟む。
「箱、焦げてませんでした。火の跡もなし」
商人は炉晶を見る。
「支坑で熱を食ったか」
俺は聞き返した。
「食った?」
「職人が言うんだ。炉晶は火を食うって」
「本当に食べるの?」
「言い方だよ。熱を溜める」
分かってる。
でも、その言い方は好きだった。
商人が一つを持ち上げる。
橙色が、薄暗い巡回所でゆっくり光る。
「これ、普通の炉晶より長く持つかもしれん」
俺は笑う。
「調べよう」
「簡単に言うな。比べる道具いるぞ」
「どこにある?」
「工房」
「行こう」
商人が少し引いた。
「今?」
「今」
後ろでカイルがため息をついた。
「荷回収の報告が先だ」
止められた。
でも。
俺は布の上の炉晶から目を離せなかった。
吹雪のあと。
崖の下で拾った石は、
まだ火を持っていた。
誰かが入れた火じゃないなら。
どこで食べたんだろう。
第59話 人の場所を、先に作る
【本文】
炉晶の工房へ行く前に、俺たちは温穴へ戻ることになった。
順番が逆だと思った。
口にも出した。
「石の方、先に見たい」
カイルは巡回所の外で縄をまとめながら答えた。
「温穴は次の吹雪でも人が入る」
「炉晶も気になる」
「石は逃げない」
エダンが笑う。
「昨日も聞いたな、それ」
俺は知っている。
こういう時のカイルは変わらない。
だから諦めた。
今日は救助じゃない。
作る日だ。
温穴の入口近くへ、人だけが退避できる場所を作る。
巣のある奥まで入らなくても、吹雪を避けられる場所。
カイルが考えたというより、昨日みんなで話して決めた。
巡回所。
輸送隊。
宿の主人。
山を知っている人。
俺たちも混ざった。
一番面白かったのは、全員が違うことを言ったことだ。
入口を塞げと言う人。
獣を追い出せと言う人。
別の穴を探せと言う人。
目印だけでいいと言う人。
最後に決まったのは、全部の中間みたいな案。
入口から最初の広い場所までだけ、人が使えるようにする。
奥へ入れない低い仕切り。
道具箱。
毛布。
湯袋。
吹雪用の印。
そして巣側は触らない。
「それ、人も獣も得してる?」
俺が聞いた時、カイルは言った。
「得しなくていい。ぶつからなければいい」
ユリウスとはまた違う。
最適化じゃない。
衝突を減らす。
北のやり方なのか、カイルのやり方なのかは分からない。
温穴へ向かう。
今日は人数が多い。
カイル。
巡回兵三人。
俺。
ミオ。
エダン。
それから、ヨルン。
矢を撃った護衛。
ヨルンは背中に弓を持っていない。
代わりに、長い木板を二枚担いでいた。
俺が横へ並ぶ。
「来たんだ」
「俺が矢撃ったからな」
「矢抜く?」
「できるなら」
「近づけるかな」
「知らん」
俺たちは少し黙って歩いた。
吹雪の後の空は青い。
昨日の白い世界が嘘みたいだ。
ただ、道の両側には雪が積もり、木の枝が何本も折れている。
ミオが途中で立ち止まった。
折れた木へ黄色い布を結ぶ。
俺が聞く。
「昨日と違う位置?」
「昨日の入口布、雪で半分隠れてたから。遠くから見える方にも」
「増やすんだ」
「増やしすぎないようにね。黄色ばっかりになったら、逆に入口が分からなくなる」
何でも、増やせばいいわけじゃない。
最近そればっかり覚えている。
温穴の前。
昨日の足跡は消えかけていた。
大きな熱角獣の跡も。
新しい跡がある。
中から外へ。
一頭分。
また中へ。
カイルがしゃがむ。
「出て戻ってる」
エダンが周りを見る。
「餌?」
「たぶん」
ヨルンの顔が少し硬くなる。
「外にいる可能性もあるな」
「ある」
全員、少し間隔を狭めた。
入口。
白と黄色の布。
まだ残っている。
中へ。
ぬるい空気。
橙色の苔。
俺は今日は触らない。
ミオが見た。
「成長したね」
「見ただけで言わないで」
最初の広い場所。
ここを人用にする。
奥の巣までは、まだ距離がある。
前回の救助では通り道だった。
今日は、場所として見る。
天井。
壁。
床。
水。
右側に岩壁の窪みがある。
五人くらい座れる。
そこへ板を立てる。
低い。
腰くらい。
獣が本気なら簡単に越える。
だから柵じゃない。
「境目?」
俺が言うと、カイルが頷く。
「人にも獣にも、こっちから先へ行くなって分かれば十分」
「獣、分かる?」
「分からなければ作り直す」
すごく普通に言う。
作って終わりじゃない。
試す。
板を二枚。
柱三本。
釘は使わない。
穴を開けた木へ縄を通し、外せるようにする。
吹雪のあとに崩落や水が出たら、組み替えるため。
ミオが板の端へ印を書く。
《人》
俺は見た。
「獣、読めないよ」
「人向け」
「知ってる」
毛布を二枚。
乾いた薪。
火種は置かない。
「何で?」
俺が聞く。
巡回兵が答えた。
「勝手に火を焚くやつがいるから」
「寒いのに?」
「煙が奥へ回る。獣が暴れたことある」
なるほど。
じゃあ何で温める。
湯袋だけじゃ、長時間は無理だ。
そこで俺は炉晶を思い出した。
「炉晶置けば?」
カイルが俺を見る。
「盗まれる」
「そこ?」
「そこも。あと、過熱したまま布の横へ置くやつがいる」
「じゃあ箱」
「箱を作れば使えるかもしれない」
話が一個増えた。
俺はちょっと楽しくなる。
エダンが板を押す。
「これくらいなら荷物も置けるな」
「入口塞がない範囲」
カイルが床へ線を引いた。
人用の場所ができていく。
本当に小さい。
でも昨日はなかった。
奥から、低い音がした。
グゥゥ……。
全員の手が止まる。
熱角獣。
いる。
カイルが合図する。
武器は抜かない。
でも手は届くところ。
俺たちは仕切りの手前に残る。
奥の暗がり。
灰色の巨体が出てきた。
昨日と同じ。
背中の黒い板。
太い角。
子どもは見えない。
右肩。
矢。
まだある。
ヨルンの息が変わった。
「……あれだ」
熱角獣が止まる。
距離は二十メートルくらい。
こちらを見る。
昨日より近づいてこない。
俺たちが荷袋を積んでいないからか。
子どもが奥にいるからか。
分からない。
ヨルンが一歩前へ出た。
カイルが腕で止める。
「何する」
「矢、見たい」
「ここから見ろ」
「刺さったままだ」
「見れば分かる」
「俺が撃った」
カイルはヨルンを見る。
「だからって、お前が今近づいたら抜けるのか」
ヨルンが黙る。
俺は熱角獣の肩を見る。
矢の軸は昨日より短い。
たぶん岩に擦った。
周りの毛が少し黒く濡れている。
血。
でも立っている。
歩ける。
食べにも出ている。
ミオが小声で言った。
「抜けばいいとも限らないよね」
「え?」
「先が中で折れてたら、引っ張る方が悪くなるかもしれない」
俺は黙った。
人間なら、治療する人に任せる。
魔物だからって、抜けば解決とは限らない。
ヨルンが聞く。
「じゃあ何もできない?」
「今ここでは、かも」
ミオは熱角獣から目を離さない。
「でも、傷が悪くなってるかどうかは見たい」
カイルが言う。
「近づかずに?」
「歩き方。食べに出てるか。血の量。昨日と比べる」
ミオが地図袋から紙を出す。
絵を描く。
上手くはない。
熱角獣の右肩。
矢の位置。
血の範囲。
俺が覗く。
「角、短くない?」
「傷を見る絵だから」
「でも別の動物に見える」
「レン描く?」
「やめとく」
ヨルンが少し笑った。
空気が戻る。
熱角獣はまだこっちを見ている。
その後ろ。
小さい影が一つ。
子ども。
親の脚の後ろから顔を出す。
俺は動かない。
親も動かない。
しばらく。
たぶん一分もない。
でも長かった。
やがて親が身体を反転させた。
奥へ戻る。
矢は残ったまま。
ヨルンが息を吐く。
「嫌われたかな」
俺は言う。
「昨日撃ったからね」
「お前、慰める気ないだろ」
「あるけど、嘘は下手って言われるから」
カイルが少し笑った。
今日は抜かない。
矢は残す。
代わりに、人の場所を先に作る。
俺たちは作業へ戻った。
板。
毛布。
水。
案内札。
ミオは入口側の壁へ簡単な地図を描く。
《ここまで》
《奥は巣》
《吹雪時退避》
《火を焚かない》
最後にカイルが一行足した。
《獣を追わない》
俺は聞く。
「襲われたら?」
「逃げる」
「それでも来たら?」
「戦う」
「じゃあ書かなくていい?」
「書く。最初から戦うやつがいる」
ヨルンが何も言わず、視線を逸らした。
ちょっと気まずい。
でも、本人も板へ縄を結んでいる。
作業が終わる。
人用の窪み。
小さい。
暖かくはない。
外よりましなだけ。
俺は座ってみる。
岩が冷たい。
「ここ、炉晶あったら全然違うね」
エダンも隣へ座る。
「一個じゃ足りないんじゃないか」
「昨日の明るいやつなら?」
「まだ何も分かってないだろ」
その通り。
でも、考える。
もし長く熱を持つ炉晶を箱に入れて置けたら。
火を焚かずに暖かい退避場所が作れる。
吹雪のたびに薪を運ばなくていい。
温穴の奥まで入らなくてもいい。
人と熱角獣が近づかなくて済む。
俺は立ち上がった。
「工房行こう」
カイルが片付けながら言う。
「帰ってからだ」
「今帰る」
「急に素直だな」
「石の方が待ってるから」
ミオが呆れた顔をする。
入口を出る前。
俺は一度だけ奥を見た。
熱角獣は見えない。
矢も。
子どもも。
今日できたのは、人間の場所だけ。
それでいい。
相手の場所まで、
今日一日でどうにかしなくていい。
帰り道。
ヨルンが俺の横へ来た。
「矢さ」
「うん」
「抜けるやつ、探す」
「誰かいる?」
「家畜の傷見る婆さんがいる。牛の角折れとか縫う人」
「強そう」
「怖いぞ」
そこが大事なのか。
俺は少し笑った。
矢は、次に持ち越し。
でも次は、
近づく理由じゃなくて。
ちゃんと助ける方法を持って行けるかもしれない。
第60話 炉晶は火を食べる
【本文】
炉晶の工房は、町の端にあった。
近づく前から分かった。
雪がない。
正確には、屋根にはある。
道の端にもある。
でも工房の前だけ、石畳が濡れていた。
熱で溶けている。
「ここ?」
俺が聞くと、商人が頷いた。
「北で炉晶扱うなら、まずここだ」
工房の扉を開ける。
暑い。
昨日の温穴より暑い。
中には炉が二つ。
金属箱が六つ。
棚に黒い石がずらっと並んでいる。
橙色。
赤。
ほとんど黒。
同じ炉晶でも、見た目が全然違う。
奥から、腕の太い女が出てきた。
髪は短い。
片方の眉が途中で切れている。
商人を見るなり言った。
「箱割ったって?」
「俺じゃない。荷車が谷へ落ちた」
「同じだ。運んでる途中ならあんたの責任」
「人は全員助かった」
女の表情が少しだけ変わる。
「なら石は後だ」
カイルと同じことを言う。
北の人、順番が似てる。
商人が俺たちを紹介する。
「炉晶師のマレナ。こっちは白嶺から来た――」
マレナが手を上げた。
「名前は後でいい。変なのどれ」
俺は布包みを出した。
三つ。
机の上へ。
マレナはすぐ触らない。
灯りを近づける。
裏返す。
細い鉄棒で軽く叩く。
音。
普通の炉晶も横へ置いて比べる。
コン。
カン。
俺には違いが分からない。
マレナは三つのうち、一番明るいものを見た。
「これ、割るぞ」
俺が反射で言う。
「え」
「中を見る」
「もったいなくない?」
「分からない石を大事に抱えてても分からないままだ」
強い。
商人は少し嫌そうだ。
でも頷いた。
マレナが石を布で包む。
細い槌。
一回。
割れない。
二回。
小さく割れた。
中。
俺は思わず顔を近づける。
「近い」
ミオに襟を引かれた。
割れ目は、外より明るかった。
橙色が細い筋じゃない。
小さな粒みたいに全体へ散っている。
黒い石の中に、火の粉が固まっているみたいだ。
マレナが息を吐く。
「筋じゃないな」
商人が聞く。
「良いのか?」
「良いかどうかは試す」
また。
この世界の人たち、すぐ答えをくれない。
でも最近、それが楽しい。
マレナは同じくらいの大きさに、普通の炉晶も割った。
二つ。
重さを手で比べる。
「本当は量りたいけど、今日は差を見るだけ」
鉄の小箱を二つ用意する。
中へ石。
工房の炉の横。
同じ場所。
同じ時間。
砂時計をひっくり返す。
「何してる?」
俺が聞く。
「火を食わせる」
その言葉。
やっぱり好きだ。
「どれくらい?」
「半刻」
「長い」
「じゃあ帰るか」
「待つ」
即答した。
待つ間。
マレナが炉晶を見せてくれた。
普通の家で使うもの。
鍛冶場用。
湯沸かし用。
同じ石でも、大きさと質で用途が違う。
「炉晶って、何回でも使える?」
俺が聞く。
「割れなきゃな。熱を入れる。使う。冷める。また入れる」
「減らない?」
「少しずつ鈍る。筋が濁る。割れやすくなる」
「電池みたい」
「何だそれ」
危ない。
現実の言葉が出た。
「何でもない。繰り返し使う箱みたいなもの」
マレナは変な顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
ミオは棚を見ている。
「南へあまり流れないのは、量が少ないから?」
商人が答える。
「量もだが、運ぶ意味が薄かった。白嶺を大回りして南へ持っていくより、北で使う方が値がつく」
「新道なら?」
「小型荷車なら、話は変わるかもな」
俺は横を向く。
ミオも俺を見る。
何も言わない。
まだ早い。
白嶺街道は管理権でも揉め始めてる。
荷物が増えれば、もっと壊れる。
でも可能性はある。
エダンは別のことを見ていた。
炉の下。
「これ、熱どこから取ってる?」
マレナが足元を指す。
「薪。あと、下に熱溝」
「熱溝?」
工房の床へ細い格子がある。
手を近づける。
温かい。
「地面の熱?」
「町の下を通ってる。深いとこから上がってくる熱を、昔の溝で引いてる」
俺はカイルを見る。
カイルもこっちを見た。
温穴。
地熱。
白嶺。
つながる。
でもカイルは言った。
「あとで」
先走るな、の顔。
分かってる。
半刻。
長い。
俺は三回立ち上がり、二回座らされた。
一回は外へ雪を見に行った。
戻ったら、まだだった。
ようやく砂が落ちる。
マレナが二つの石を取り出す。
布と金ばさみ。
同じくらい赤く光っている。
「ここから」
今度は炉から離れた金属台へ置く。
その上に、小さな水差しを二つ。
同じ量の水。
石の上へ直接置かない。
薄い鉄板を一枚挟む。
「湯になるまで?」
俺が聞く。
「それも見る。あと冷めるまで」
普通の炉晶側。
すぐ湯気。
変な炉晶側。
少し遅い。
俺は首を傾げる。
「弱い?」
マレナが黙っている。
湯気が増える。
普通側の方が早い。
商人が残念そうな顔をした。
俺もちょっと。
でもマレナは何も言わない。
水を下ろす。
次。
待つ。
今度は温度を見る。
手じゃない。
薄い金属片に塗った蝋を使う。
熱で溶ける。
普通側。
先に暗くなる。
変な炉晶側。
まだ橙色。
さらに待つ。
一刻。
普通側は触れそうなくらいまで下がった。
変な炉晶側は、まだ布越しでも熱い。
俺は笑った。
「長い」
マレナが頷く。
「立ち上がりは遅い。抜けるのも遅い」
「良いの?」
「用途による」
またそれ。
「湯を一気に沸かすなら普通の方が楽。夜通し暖めるなら、こっちがいいかもしれない」
ミオが温穴の人用区画を思い出した顔をした。
俺も同じ。
「退避場所」
カイルが俺を見る。
「考えたな」
「同じこと考えた?」
「たぶんな」
エダンが聞く。
「この石、一晩雪の中で熱かったのも?」
マレナは割れた断面を見る。
「熱を入れた量が多ければあり得る。けど未選別粗晶を輸送前に満充填する理由はない」
商人が頷く。
「しない。危ないし、手間だ」
俺は言う。
「じゃあ支坑で食った?」
マレナが少し笑った。
「言い方だけ覚えたな」
「火を食った?」
「熱を食った可能性はある」
「自然に?」
「支坑が熱いなら」
ミオが地図を開く。
「積荷表の支坑、温穴より北東」
「その辺、地熱ある?」
カイルに聞く。
「ある。小さい噴気口が多い」
俺の頭の中で線がつながる。
炉晶。
地熱。
温穴。
白嶺。
ただ。
つながったから正解とは限らない。
最近覚えた。
俺は一回止まる。
「……じゃあ、同じ石を普通の炉晶と一緒に、温穴の入口近くで充填して比べればいい?」
マレナが俺を見る。
「充填って言葉は知らんが、同じ時間だけ熱へ置くってことなら、そうだ」
「それで長く持ったら?」
「この石が熱を抱えやすい可能性が上がる」
「高純度?」
「可能性が上がるだけ」
カイルとミオが同時に少し笑った。
「何」
ミオが答える。
「やっと『可能性』って言ったから」
俺は最近、成長している。
たぶん。
商人が炉晶を見ている。
目が変わっている。
金の匂いを感じている顔。
でも、すぐ売る話はしなかった。
代わりにマレナへ聞いた。
「三つとも割るか?」
「一つは残せ。比較できなくなる」
その返しがちょっと良かった。
全部使わない。
残す。
次がある。
午後。
俺たちは試験用の小箱を作った。
普通の炉晶一つ。
明るい炉晶一つ。
同じ大きさに近いもの。
鉄箱へ入れる。
明日、温穴へ持っていく。
人用退避区画で、実際にどれくらい暖かさが持つかを見る。
工房を出る。
外は寒い。
息が白い。
俺は手袋の中で指を握る。
「これさ」
ミオが隣を歩く。
「うん」
「もし本当に長く熱持つなら、北だけじゃなくて白嶺の休憩所にも使えるよね」
「使えるかもしれない」
「南へ運べる」
「運べるかもしれない」
「宿でも」
「使えるかもしれない」
「全部『かもしれない』じゃん」
「今はね」
正しい。
でも嫌じゃない。
かもしれない、が増えるのは楽しい。
巡回所の前へ戻る。
カイルがそこで止まった。
「レン」
「何?」
「明日の温穴。試験だけじゃない」
「矢?」
「ヨルンが傷を見る婆さんを連れてくる」
俺は振り返る。
「来てくれるの?」
「『でかい牛みたいなやつ』って説明したら、怒鳴られたらしい」
「何で?」
「牛と一緒にするな、だと」
強そう。
俺は笑った。
炉晶の試験。
人用退避区画。
熱角獣の矢。
三つが同じ場所へ集まり始めている。
その時。
工房の扉が開いた。
マレナが出てくる。
「おい、白嶺の」
俺のことらしい。
「何?」
マレナは割った炉晶の欠片を布で持っていた。
さっき普通より長く熱を持ったやつ。
「これ、もう一個変だ」
「何が?」
「冷めた後の色が戻らない」
「普通は?」
「黒く戻る」
見る。
橙色の粒が、まだ薄く残っている。
熱はもう弱い。
でも光だけが消えきっていない。
マレナの顔は笑っていない。
「明日、これも持ってけ」
俺は布包みを受け取った。
軽い。
ただの石。
なのに。
白嶺を越えた二日目で、
また一個、分からないものが増えた。
俺はそれを手の中で転がさなかった。
落としたら怒られそうだから。
ちゃんと両手で持った。




