第52話 壊れた格子は誰が直す
【本文】
「ここは、誰の土地なんです?」
南側の男がもう一度聞いた。
誰もすぐには答えなかった。
俺は手の中の玉ねぎを見た。
どう考えても、今それを持っている意味はない。
そっと荷車へ戻そうとしたところで、鍋屋のおばちゃんが言った。
「そこ置くなら、うちの籠に入れといて」
「これ、北から来た商品の玉ねぎじゃない?」
「転がしたのはあんたたちだろ。土落として返すから」
話がややこしいのに、玉ねぎの行き先だけ先に決まった。
南側の男が咳払いをする。
灰色の上着。
革筒。
四十前後だろうか。
「私はオルド。南境三村の境界役をしている。勝手に取り上げに来たわけじゃない。ただ、屋根も倉庫も道も増えているのに、土地の扱いが分からないままでは困る」
北側の男も名乗った。
「北巡回所のレイヴです。こちらも同じです。人が通るだけなら山道でした。でも今は取引がある。怪我もある。通行記録まである。何かあった時、誰に聞けばいいのかを確認したい」
二人とも怒鳴ってはいない。
むしろ困っている。
それが一番面倒だった。
悪い奴なら追い返せる。
困っている人同士は、追い返しても問題だけ残る。
ユリウスが木札の束を持ったまま一歩出た。
「通行記録は俺が作った。ただ、管理権を持ってるわけじゃない」
「では、あなたの許可で通行を止めることは?」
レイヴに聞かれて、ユリウスが少し黙った。
「昨日までは、危険がある時に止めてた」
「法的な許可は?」
「知らない」
珍しく早い。
俺は横から小声で言った。
「数字で何とかならない?」
「土地の境界は足し算じゃない」
ミオが地図袋を開いた。
「そもそも、今いるこの場所の境界線が正確に引かれているかも分かりません。古い地図だと白嶺の稜線を境にしているものと、沢を境にしているものが混じってます」
オルドが地図へ顔を寄せる。
「その地図は誰が?」
「私が実測して足したものです。古い公図の写しも重ねてます。でも、これで権利が決まるとは言いません」
ミオは先に釘を刺した。
レイヴが感心したように頷く。
「そこまで分けて話してもらえると助かる」
俺も助かる。
俺だったらたぶん、今の一言の中で三回くらい決めつけていた。
その時。
旧道の入口から、鐘が鳴った。
一回。
二回。
間を置かず、三回。
通行停止の合図だ。
ユリウスの顔から、話し合いの顔が消えた。
木札をオルドへ押しつける。
「持ってて」
「え?」
「三回は即停止」
そのまま走る。
俺たちも続いた。
後ろで鍋屋のおばちゃんが叫ぶ。
「玉ねぎ踏むんじゃないよ!」
何で今それを言う。
旧道入口では、シンが通行板を横にしていた。
最近作った板だ。
赤い布を結ぶと、入口を止める合図になる。
その前で荷運び人が三人、押し問答していた。
「北へ急ぐんだよ。まだ何も出てきてないだろ!」
「三回鳴ったら止める決まりだって言ってる!」
シンが声を張る。
前のジンだった頃より、声は少し高い。
身体も小さい。
でも立ち方は妙に慣れている。
俺が横へ入った。
「何があった?」
シンが旧道の奥を指す。
「虫道との格子。片側が外れたって。水桶を取りに行った人が戻ってきた」
「怪我は?」
「ない。虫は一匹だけ人道側へ出たけど、追わずに戻った」
ユリウスが通行板の前へ立つ。
「今、中にいる人数」
「南側から入った二人が水場より手前。北側から一人。格子の外れを見た人は全員出た」
「三人残ってる?」
「うん。止める前に入ってた」
ユリウスはすぐ振り返った。
「エダン、北口へ。入れるな。残り一人を外へ出して。レン、ミオ、俺で南側二人を回収する」
レイヴが追いついた。
「私も行く」
ユリウスが一瞬だけ迷う。
「道、分かります?」
「昨日一度通った。北巡回所は事故確認に来てる。現場を見ない方が困る」
「じゃあ後ろ。俺たちより前に出ないで」
言い方は偉そうだ。
でもレイヴは文句を言わず頷いた。
オルドも来た。
「私は?」
俺が振り返る。
「玉ねぎ見てて」
「何でだ!」
少し空気が戻った。
旧道へ入る。
入口を開けてから数日。
床はかなり歩きやすくなった。
それでも荷車の車輪が何度も通った場所は、細かい石が端へ押し出されている。
昨日とはもう違う。
水場の分岐手前で、残っていた二人に会った。
商人と荷運び人。
どちらも無事。
「何があった?」
商人が後ろを指す。
「荷車の車輪が格子の脚に当たったみたいだ。倒れかけてる。小さい虫が一匹こっちへ来た」
「何で荷車があそこまで?」
ユリウスが聞く。
商人が気まずそうな顔をした。
「水桶を三つ積むのに、近い方が楽だと思って」
ミオが息を吐く。
「手押し車まで、って決めてた場所だよね」
「荷車でも入れたから……」
入れる。
通れる。
使える。
全部、同じじゃない。
昨日の俺なら「入れたならいいじゃん」と言っていたかもしれない。
いや、たぶん言っていた。
ユリウスは怒鳴らなかった。
「外へ戻って。荷車はそのまま。今動かすと格子が完全に倒れるかもしれない」
「商品が」
「人が先」
言い切った。
商人は何か言いかけたが、レイヴの青い紐を見て口を閉じた。
二人を入口側へ返す。
俺たちは格子のところまで進んだ。
昨日、虫道と人道を分けた木格子。
左の脚が浮いている。
横木が斜めになり、床との間に猫一匹くらいの隙間。
向こう側の暗がりで、硬い殻が動いた。
一匹。
二匹。
すぐには来ない。
灰の上に足跡がある。
ミオがしゃがんだ。
「人道側へ出たのは、本当に一匹っぽい。戻った足跡もある」
俺は格子を見る。
「直せば終わり?」
ガランがいない。
工具はある。
俺とエダンで作った部分もある。
できなくはない。
手を伸ばしかけたところで、レイヴが言った。
「誰の判断で?」
止まる。
「今、虫が来るから」
「それは分かります。直すなと言っているんじゃない。直したあと、その格子がまた外れて誰かが噛まれた時、誰が『安全だと判断した』ことになるんです?」
言い方は静かだった。
だから余計に刺さる。
ユリウスが格子の脚を見たまま答えた。
「今までは、その場にいる人間で確認してた」
「それでここまで道ができたのはすごいと思います。でも、昨日まで十人だった場所に今日は百人来るかもしれない。同じやり方でいいかは別です」
俺は木格子を見る。
昨日まで、直すことしか考えてなかった。
壊れたら直す。
危なければ止める。
道がなければ探す。
それで進めた。
でも人が増えると、「誰がやったか」が残る。
ミオが格子の足元を指した。
「先に倒れないよう仮固定しよう。それは安全確保。恒久修理とは分ける」
ユリウスが顔を上げる。
「賛成」
レイヴも頷いた。
「それなら私も記録に残せます」
俺は縄を出す。
「じゃあ、まず倒れないようにする」
作業は十分で終わった。
格子を起こし、岩側へ二本の縄で引く。
脚そのものは直していない。
虫が押しても、人道側へ倒れにくくしただけ。
外へ戻る。
入口では、もう別の問題が増えていた。
荷運び人が怒っている。
「止めるなら金返してくれ!」
鍋屋のおばちゃんが怒鳴り返す。
「誰から金取られたんだい!」
「待ってる間の飯代だよ!」
「食ったもん返せるか!」
それは無理だ。
オルドが額を押さえている。
俺たちを見ると、心底ほっとした顔をした。
「現場よりこっちの方が危険だぞ」
ユリウスが通行板の横へ立つ。
「今日は旧道を閉じる。水は元の街道側から最低限運ぶ。荷車は止める」
商人たちから不満が出る。
「いつまで?」
「誰が決めた?」
「北へ今日着かないと困る!」
言葉が飛ぶ。
ユリウスは口を開きかけた。
でも一度閉じた。
たぶん、自分が決めていいのかを考えた。
その間にエダンが北口から戻ってきた。
「北も止めた。中は全員出た。兄貴がガランさん呼びに行ってる」
「じゃあ修理はできる」
俺が言う。
エダンは頷いた。
「できる。でも兄貴に言われた。木も釘もタダじゃないって」
そこだった。
誰が直す。
誰が払う。
誰が止める。
三つが一気に来た。
オルドが革筒から紙を出した。
「南境側の村費から出すなら、村が管理する道だという話になる」
レイヴも腕を組む。
「北巡回所が出せば、北側施設として扱う根拠にされるかもしれない」
鍋屋のおばちゃんが言う。
「じゃあ使ってる連中で出せばいいだろ」
商人が返す。
「毎回取る気か?」
「壊した時だけだよ!」
「誰が壊したか分からないだろ!」
また始まりそうになる。
ミオが手を上げた。
大声じゃない。
でも俺たちが黙ったので、周りも少しずつ静かになった。
「今、決めなくていいものまで一緒に決めようとしてます」
オルドが見る。
ミオは指を三本立てた。
「今日の通行停止。今回の修理費。ここの土地と今後の管理権。別です」
ユリウスがすぐ木札へ書く。
一。
二。
三。
「今日の停止は?」
レイヴが答える。
「差し迫った危険がある。南北どちらの権利でもなく、安全措置として異論なし」
オルドも頷く。
「俺も止めろとは言わん」
「修理費は?」
エダンが壊れた荷車を見た。
「車輪が当たったなら、使った側も少しは出すべきだと思う。でも作りが弱かったなら全部押しつけるのも違う」
荷車の持ち主が渋い顔をする。
「俺だけか?」
俺は格子を作った時のことを思い出す。
虫を分けられればいいと思っていた。
荷車が横まで来るなんて考えてない。
「俺も作った。荷車のこと考えてなかった」
エダンも手を上げる。
「俺も」
ユリウスが俺たちを見る。
「だからって二人が払うのも違う。格子は通る全員のために使ってる」
鍋屋のおばちゃんが鍋の柄で木箱を叩いた。
「じゃあ今日ここにいる店と荷運びと商人で、出せる分出す。足りないなら後で考える。釘一本で日が暮れるよ」
雑だ。
でも進む。
オルドが苦笑した。
「それを正式な税にするなよ」
「誰が税なんて言った。釘代だよ」
強い。
結局、その日の修理費は、その場の利用者から任意で集めた。
銅貨。
釘。
木材。
縄。
金だけじゃない。
ガランが戻ってきた時には、必要な物の半分が地面に並んでいた。
石工はそれを見て言った。
「何だこの市」
「格子修理市」
俺が答える。
「二度と開くな」
夕方。
格子は前より丈夫になった。
荷車が近づきすぎないよう、床へ低い石を二つ置いた。
車輪止めみたいなものだ。
水桶用の手押し車だけ通れる幅を残す。
通行再開。
ユリウスは新しい木札を入口へ掛けた。
《危険時は、その場の誰でも鐘を三回鳴らしてよい》
《停止後、入退場記録で全員の退出を確認する》
《再開は、修理した者と入口担当の二者確認》
オルドが読む。
「これ、誰の規則だ?」
ユリウスは木札を見た。
「今日使う規則です」
「明日は?」
「明日、駄目なら変える」
オルドが少し笑った。
「役人が一番嫌う答えだな」
「じゃあ正式なものを作ってください」
「簡単に言うな」
レイヴも横で笑った。
土地の話は、結局決まらなかった。
税も決まらない。
管理者も決まらない。
ただ、誰でも危険を止めていいこと。
止めたら全員が出たか確かめること。
直した人と入口の人が再開を確認すること。
今日必要だった三つだけは残った。
夕暮れ。
北巡回所へ戻るレイヴが、俺たちへ一枚の紙を差し出した。
「明日、北へ来る予定はありますか」
俺はミオを見る。
ミオはエダンを見る。
エダンが肩をすくめる。
「ないけど、何?」
レイヴは少し迷ってから言った。
「白嶺の道が開いた件を、巡回所へ正式に持ち帰ります。そのついでに、北側の道を見たいなら案内できます」
俺は紙より、その先の言葉を待った。
レイヴが続ける。
「ただ、今朝から北の空が悪い。輸送隊が二つ動いてる。もし来るなら、遊びの山歩きだと思わない方がいい」
北を見る。
白嶺の向こう。
今日まで、道を作る側だった。
その先に何があるかを、俺はまだほとんど知らない。
面倒な土地の話は残っている。
格子もまた壊れるかもしれない。
水桶だって増える。
全部終わってから冒険へ行くなら、たぶん一生行けない。
でも、全部置いて行くのも違う。
横を見る。
ユリウスは新しい通行札を整理していた。
俺の視線に気づく。
「何」
「明日、北行かない?」
ユリウスは少しだけ考えた。
前なら、一緒に来ると思っていた。
「行かない」
意外だった。
「面白くない?」
「面白いよ」
ユリウスは木札を一枚持ち上げる。
今日、三回鳴った鐘の時刻が書いてある。
「だから残る。全員で面白い方へ行ったら、また誰もここにいなくなる」
言い返せなかった。
俺は北を見る。
道を開く人。
道を残す人。
たぶん、どっちもいる。
「じゃあ、帰ってきたら自慢する」
「数字で頼む」
「絶対やだ」
ユリウスが笑った。
第3章の最後の日。
白嶺の土地が誰のものかは、まだ決まらなかった。
でも俺たちは初めて、道を止める役を誰か一人に押しつけずに済んだ。
そして次の日。
俺たちは、白嶺の向こう側へ行くことにした
第53話 北のパンは、ちょっと固い
【本文】
白嶺を北へ抜けたあと、最初に驚いたのは景色じゃなかった。
パンだった。
固い。
噛んだ瞬間、歯が負けるかと思った。
「これ、武器になる?」
俺が聞くと、宿の女主人が真顔で返した。
「投げたら食べ物がもったいないよ」
怒られた。
隣でミオがパンをスープへ浸している。
「最初からこう食べるんじゃない?」
「先に言って」
「レンが嬉しそうにかじったから」
「止めてよ」
「体験も大事かなって」
最近、ミオが少し悪い。
エダンは俺たちを見ながら、もう二切れ目をスープへ沈めていた。
「南の村でも冬のパンは固いぞ」
「ここまでじゃない」
「ここは北だからな」
説明になっているようで、何も説明していない。
レイヴが向かいへ座る。
昨日の青い紐は、今日は外套の下。
「麦だけだと足りない時期があるんです。豆粉や根菜粉を混ぜるので、焼きたてはいいんですが、冷めると固くなる」
俺はパンを見る。
昨日まで、北は「山の向こう」だった。
煙が見える。
羊がいる。
商人が来る。
それくらい。
実際に来ると、パン一つでも違う。
宿の壁には、乾燥させた魚。
細長いチーズ。
見たことのない黒い豆。
窓の外では、人が低い橇へ薪を積んでいる。
雪はまだ薄い。
でも南側より準備が早い。
「北巡回所って、ここから遠い?」
俺が聞く。
レイヴがパンをちぎる。
「歩いて半刻くらい。今日は市場を通ります。道を知りたいなら、その方がいいでしょう」
「市場あるんだ」
「ありますよ。北を何だと思ってたんです?」
ちょっと失礼だった。
宿を出る。
集落は、白嶺の南側より石の家が多かった。
屋根が低い。
壁が厚い。
軒先に薪が積まれている。
市場は広場というより、道が少し広くなった場所だった。
羊毛。
塩漬け魚。
革。
鉄の小物。
乾燥茸。
穀物袋もある。
ただ、思ったより少ない。
代わりに、根菜の山が大きい。
ミオが地図を出す。
俺が覗くと、道を書いているんじゃない。
店の位置を小さな点で入れている。
「市場まで地図にする?」
「全部はしない。薬、食料、修理、宿だけ。知らない町で必要になる場所」
「便利地図」
「冒険者向けなら、それでいいでしょ」
エダンが皮屋の前で止まった。
「これ、南より安い」
「何が?」
「厚革。代わりに布が高い」
店主が聞きつけて笑った。
「南から布を持ってくるなら買うぞ。白嶺の新道、本当に荷車通るんだろ?」
もう知られている。
俺は少し嬉しくなった。
「小さいやつなら」
「でかいのは?」
「まだ」
「じゃあ、でかいの通してくれ」
簡単に言う。
でも、昨日までなら俺は「任せろ」と言っていたかもしれない。
今日は一回考えた。
「通したいけど、道壊したら止まるから、順番に」
店主が変な顔をした。
「冒険者にしては慎重だな」
エダンが横で言う。
「最近覚えた」
余計なことを言う。
広場の端で、子どもが木の輪を転がして遊んでいた。
一人が失敗して、輪が俺の足元まで来る。
拾う。
渡す。
「白嶺から来た?」
子どもが聞いた。
「そう」
「山の中、火の川ある?」
「ない」
「竜は?」
「見てない」
「つまんない」
ひどい。
後ろでミオが笑う。
俺は子どもへ言った。
「虫は猫くらいある」
「ほんと!?」
急に目が輝いた。
「背中固くて、前脚太くて」
ミオが袖を引いた。
「レン、それ以上言うと今度、子どもが見に来るよ」
止めた。
たしかに来そうだ。
世界へ話すって、そういうこともある。
巡回所へ着く。
石造りの二階建て。
入口に馬が四頭。
壁に長い橇が二台。
中は思っていたより普通だった。
机。
棚。
濡れた外套。
湯気の出る鍋。
そして、人が多い。
十人くらいが地図の前に集まっていた。
レイヴが足を止める。
「何かあったな」
俺たちを連れたまま中へ入る。
青い紐の男が何人か振り向く。
その奥。
大きな地図の前に、一人だけ紐を肩ではなく腕へ巻いている男がいた。
年は二十代後半くらい。
黒に近い髪。
背は俺より少し高い。
剣はある。
でも最初に目についたのは剣じゃない。
手に、濡れた手袋を二組持っていた。
「レイヴ」
男が呼ぶ。
声は低い。
怒鳴らない。
それでも周りが聞く。
「白嶺は?」
「新道は通っています。昨日、一度事故停止がありましたが復旧。こちらが道を開いた側の――」
「後で聞く」
男は地図へ手袋を置いた。
「東谷の輸送隊が戻らない。予定より一刻半遅れ」
空気が変わる。
レイヴがすぐ聞く。
「何台?」
「四台。護衛六。御者四。荷は小麦と薬。途中の見張り小屋までは確認済み」
小麦。
市場で少なかった袋を思い出した。
男が机の上の札を動かす。
「吹雪が来る前に出す。馬二。橇一。八人」
壁際にいた若い巡回兵が言う。
「隊長、俺も」
「お前は残れ」
「でも昨日も東谷――」
「だから残れ。昨日、足を捻っただろ」
若い男が黙る。
別の兵が手を上げる。
「なら俺が」
「お前は西側の交代がある」
次々に人を減らす。
俺には不思議だった。
人が足りないなら、増やせばいい。
口を挟みかける。
ミオが俺の袖をつまんだ。
待て、の合図。
隊長と呼ばれた男は、今度は鍋の横にいた女へ向いた。
「救助食、十二食」
「八人じゃないの?」
「見つけた側に食わせる」
「足りなかったら?」
「乾パンを追加で六。湯袋は四」
何か、全部が人数とつながっている。
ユリウスの数字とは少し違う。
紙の上じゃない。
誰が何を持つかまで、その場で決まっていく。
レイヴがようやく俺たちを紹介した。
「隊長。この三人、白嶺の新道を見つけて通した中心です。レン、ミオ、エダン」
男が俺たちを見る。
目が速い。
装備。
靴。
荷物。
たぶん全部見た。
「カイル・ヴァレド。北巡回隊を預かってる」
正式マスターでまだ知らない人物じゃない。
俺にとっては、ただの初対面だ。
カイルが聞く。
「山は?」
俺は一瞬、何を聞かれたか分からなかった。
「白嶺?」
「北側斜面。今朝の雪」
エダンが答える。
「入口近くは薄いです。風は西から。稜線は雲で見えませんでした」
カイルが頷く。
「東谷も同じなら、吹雪は二刻以内」
俺は地図を見る。
「輸送隊、探しに行くんですよね」
「行く」
「俺たちも行ける?」
ミオが横を向いた。
言うと思ってた顔だ。
カイルはすぐに答えなかった。
「東谷を知ってるか」
「知らない」
「雪崩地形は?」
「北側は知らない」
「吹雪の中で橇を扱った経験は?」
「ない」
三つ負けた。
でも引く気はない。
「白嶺の吹雪なら一回撤退した。地図のない場所を戻るのもやってる。ミオは記録と方角。エダンは山育ち」
カイルがエダンを見る。
「雪山は?」
「南側なら。北は初めてです」
「なら三人とも戦力半分」
言い方は冷たい。
でも「帰れ」とは言わない。
カイルは机の札を一つ動かした。
「荷物持てるか」
「持てる」
「救助される側が増える動きはするな。俺が戻れと言ったら戻れ。それができるなら三人追加」
俺は頷く。
「できる」
ミオが俺を見る。
「レンだけじゃなく、私たちも聞かれてるからね」
「あ、そうか」
エダンが笑う。
「俺は行く。北の山、見たい」
ミオは少し考えてから頷いた。
「行く。でも、私たちが入ることで帰りが遅くなるなら、途中で外して」
カイルが初めて、ほんの少し表情を変えた。
「分かってるならいい」
準備が始まる。
俺たちにも荷物が渡された。
俺は縄。
エダンは湯袋。
ミオは予備の灯りと布。
「武器は?」
俺が聞く。
カイルが自分の剣を腰へ差す。
「持ってるだろ」
「追加ないんだ」
「輸送隊を助けに行く。魔物狩りじゃない」
分かってる。
分かってるけど、ちょっとだけ冒険らしくない。
その考えが顔に出たらしい。
カイルが俺を見る。
「つまらないか?」
「いや」
「嘘が下手だな」
初対面で言われた。
カイルは濡れた手袋を一組、若い巡回兵へ投げた。
「乾かしとけ。帰ったら使う」
残された兵が悔しそうに受け取る。
でも、何も言わなかった。
外へ出る。
さっきまで市場では子どもが木の輪を追っていた。
今も音が聞こえる。
同じ町なのに、巡回所の前だけ違う。
馬二頭。
橇一台。
十一人。
予定の八人から増えた。
俺たち三人分。
カイルが全員を見る。
「東谷見張り小屋まで通常なら半刻。今日は一刻を見る。そこから先、隊の痕跡がなければ二手に分けない。全員で帰る」
一人が聞く。
「見つからなくても?」
「吹雪の中で捜索隊まで消したら、次に探す人数が倍になる」
それで終わり。
英雄っぽい台詞はない。
でも俺は少し好きになった。
出発する。
北のパンは固かった。
市場は南と違った。
そして、山の向こうにも当然、人がいて。
その人たちは今、四台の荷車を待っている。
白嶺を開いた時とは違う。
今度は、俺たちが誰かの道へ入っていく。
東の空は、もう白く霞み始めていた。
第54話 隊長は助けに行く人数を減らした
【本文】
東谷へ向かう道は、最初の二十分くらい普通だった。
普通、というのは雪が靴の甲までしかないという意味だ。
白嶺へ行く前の俺なら、十分おかしい。
今はそうでもない。
道の両側に低い石柱が並んでいる。
雪で半分埋まっても分かる高さ。
ミオが歩きながら数えていた。
「何してる?」
俺が聞くと、彼女は前を見たまま答えた。
「柱の間隔。吹雪で道が消えた時、次の柱を探す距離になるかもしれないから」
「もう地図あるんじゃないの?」
「地図があっても目の前が白かったら足元は見えないでしょ」
白嶺で一回痛い目を見た。
だからその言葉はよく分かる。
先頭のカイルが手を上げた。
全員止まる。
道の右側。
雪の上に黒いものがある。
布。
巡回兵が拾う。
「荷覆いです」
カイルが受け取る。
端が裂けていた。
「輸送隊の?」
「同じ色です」
カイルは周りを見る。
風は強くなっている。
まだ会話はできる。
でも細かい雪が横から当たり始めた。
「ここから速度を落とす。馬を前に出すな。痕跡を潰す」
俺は少し驚いた。
急ぐのに遅くする。
巡回兵二人が先へ出る。
歩いて雪を見る。
轍。
蹄。
人の足跡。
ところどころ風で消えている。
エダンが俺の隣へ来た。
「北のやり方、違うな」
「うん」
「南なら雪降る前に帰ること考える」
「こっちは雪の中でも動く前提なんだろうな」
俺たちが小声で話していると、カイルが振り返った。
「喋れるうちに喋っとけ。あとで口開けると雪入るぞ」
冗談なのか本気なのか分からない。
その十五分後、本当に口へ雪が入った。
風が一段強くなる。
世界から色が減っていく。
白。
灰色。
近くの人の外套。
それだけ。
道の石柱も、三本先は見えない。
カイルが隊列を短くした。
「縄」
俺が持っていた束を渡す。
全員を一本につなぐのかと思った。
違う。
三人ずつ。
間に余りを取る。
「全員一本じゃないんだ」
俺が聞く。
カイルが結び目を作りながら答えた。
「一人落ちた時に全員持っていかれる」
なるほど。
ミオがすぐ覚える。
自分の腰へ結ぶ前に、余りの長さを確認する。
エダンは雪へ棒を刺して硬さを見る。
俺は何をする。
少し焦る。
知らない山では、俺の得意な「先に行く」が役に立たない。
むしろ邪魔になる。
カイルがそれに気づいたのかは分からない。
「レン」
「はい」
「最後尾と話せ」
「え?」
「三分ごと。返事があるかだけ確認。お前、声通る」
地味。
でも役目が来た。
俺は後ろへ向く。
「最後尾!」
少し遅れて声が返る。
「いる!」
「何人!」
「三!」
「元気?」
間があった。
「寒い!」
それはそう。
俺は前を向く。
「元気です」
カイルが言った。
「それは元気とは言わない」
でも少し笑っていた。
見張り小屋へ着く頃には、出発から一刻近く経っていた。
小屋は無人。
扉の内側に、炭の火が残っている。
机の上に木札。
巡回兵が読む。
「輸送隊、ここ通ってます。今朝。四台、十人。東橋へ」
時間もある。
予定通り。
その後に何かあった。
カイルが窓から外を見る。
「ここで五分。湯を飲め。靴の中確認。濡れてたら替えろ」
俺はすぐ外へ出たい。
痕跡が新しい。
でも、誰も急がない。
全員が湯を一口。
手袋を確認。
紐を締め直す。
俺もやる。
左足の靴下が少し湿っていた。
エダンが気づく。
「替えろ」
「これくらいなら」
「北来て最初の日に指なくしたいならいいぞ」
怖い言い方をする。
替えた。
五分後。
また外へ出る。
吹雪はさらに濃い。
石柱が消え始める。
代わりに、輸送隊の轍がまだうっすら残っていた。
東橋へ向かう。
途中で、轍が二つに割れた。
正確には、本来の道は左。
轍の一部が右へ逸れている。
カイルがしゃがむ。
雪を手で払う。
「二台以上、右」
巡回兵が地図を見る。
「右は谷側です。道ないです」
ミオも自分の地図を出す。
風で紙が暴れる。
エダンが外套で風を遮った。
「何か避けた?」
俺が聞く。
カイルは左の道を見る。
そこに、倒れた木があった。
太い。
道を塞いでいる。
「これだな」
輸送隊は倒木を避けて右へ外れた。
問題は、その先。
雪で轍が薄い。
カイルが周りを見る。
「ここで橇を置く」
「置く?」
俺が聞く。
「この先、斜面。引いていくと帰りが遅くなる」
「でも見つけた人乗せるんじゃ」
「だから一台残す。歩けない人をここまで運べるかで判断する」
また減らす。
持ってきたものを、途中で置く。
俺には少し怖い。
必要になるかもしれないのに。
でも全部持っていけば動けない。
巡回兵二人を残すのかと思った。
カイルは一人だけ指名した。
「ダズ、橇と馬を見ろ」
「一人?」
「小屋まで戻れる距離だ。危なくなったら馬一頭連れて小屋へ戻れ」
ダズが頷く。
「了解」
俺たちは十人になった。
いや、最初から数えたら十一から十。
助けに来たのに、進む人数が減っていく。
右へ。
道のない斜面。
轍はすぐ消えた。
代わりに、木の枝が折れている。
雪の下から荷車の車輪跡。
一つずつ拾う。
ミオが後ろで地図へ線を足す。
「これ、帰りに使う?」
俺が聞く。
「使う。だから今書く」
「吹雪でも?」
「吹雪だから」
声がいつもより短い。
寒さで口が動きにくい。
俺も余計なことを言わなくなる。
三分。
後ろへ声。
「最後尾!」
「いる!」
また三分。
「最後尾!」
「いる!」
三回目。
返事がない。
俺の背中が冷えた。
もう一度叫ぶ。
「最後尾!」
少しして。
「待て!」
声。
全員止まる。
後ろの巡回兵が一人、膝をついていた。
怪我じゃない。
靴紐が切れた。
「こんな時に?」
俺が言うと、その男が苛立った顔で返す。
「靴に言え!」
エダンがすぐ膝をつく。
自分の袋から細紐を出す。
「これ使え」
「悪い」
一分。
二分。
風は待ってくれない。
カイルが前を見ながら言った。
「ここから二人返す」
靴紐を直していた男が顔を上げる。
「行けます!」
「お前と、ノル。戻れ」
「でも――」
「歩けるうちに戻る。お前が遅れたら、全員が遅れる」
男の顔が悔しそうに歪む。
ノルと呼ばれた巡回兵が、その肩を叩いた。
「帰るぞ。橇のところまで道残す」
二人が戻る。
八人。
カイル。
巡回兵二。
俺。
ミオ。
エダン。
あと北の案内役二人。
本当に減っていく。
俺はカイルへ近づいた。
「怖くない?」
「何が」
「人数減らすの。見つけた時、足りなくなるかもしれない」
カイルは少しだけ俺を見る。
「足りないかもしれない。だから全員連れていく、を続けたら、帰れない人間が増える」
「でも助ける側が少ないと」
「助けるのは腕の数だけじゃない。戻れる距離と、食料と、時間も人数だ」
変な言い方だった。
でも分かる。
ユリウスなら木札に書きそうだ。
カイルは書かない。
身体で減らしていく。
さらに進む。
風の音。
雪。
白。
突然、エダンが止まった。
「待って」
全員止まる。
「何?」
エダンが雪の匂いを嗅ぐみたいに顔を上げた。
「煙」
俺も息を吸う。
分からない。
カイルが手袋を外さず、風向きを見る。
「右前」
少し下る。
十メートル。
二十。
白い世界の中に、黒い点が出た。
荷車。
横倒し。
一台。
俺は走りそうになった。
腰の縄が張る。
ミオが後ろから止めた。
「レン!」
そうだった。
勝手に先へ行くな。
歩く。
近づく。
荷車の陰に、人が二人いた。
一人は立っている。
一人は座っている。
立っていた男が俺たちを見る。
最初、何も言わなかった。
それから膝が落ちた。
「来た……」
カイルがすぐ近づく。
「輸送隊か」
「四台……倒木避けた。二台は戻ろうとして……一台、谷へ。残りは先の岩場……」
息が荒い。
カイルが肩を掴む。
「人数」
「ここ二人。谷の一台に二人……先に六……いや、五かもしれない。途中で一人歩いて……」
情報が崩れている。
ユリウスなら数え直す。
カイルも同じことをした。
でも聞き方が違う。
「名前で言え」
男が一人ずつ名前を出す。
御者。
護衛。
商人。
途中で二回やり直す。
ミオが横で数える。
「十人。今ここ二人。谷側二人。先に六で合う」
男が頷いた。
「たぶん」
「たぶんでいい」
カイルが言った。
「今は十人のつもりで探す」
座っている男は足を痛めていた。
骨は分からない。
でも歩けない。
俺は橇を置いてきたことを思い出す。
「ここから橇まで運ぶ?」
カイルが空を見る。
吹雪。
「一人戻して橇を持ってこさせる」
また人が減る。
北の案内役一人へ言う。
「ラグ、戻れ。橇。ダズと二人でここまで。途中で風が上がったら小屋へ引け」
「了解」
七人。
カイルは俺たち三人を見る。
「ここから選べ」
「何を?」
「戻るか、先へ行くか。初めての北で、この吹雪だ。ここまででも十分役に立ってる」
俺は即答しそうになった。
でもミオを見る。
エダンを見る。
エダンは横倒しの荷車を見ていた。
車輪の下に、荷物が散っている。
麦袋。
一つ破れている。
白い雪の上に、小さな粒が散っていた。
市場の穀物袋を思い出す。
エダンが言う。
「行く。六人いるんだろ」
ミオも頷いた。
「行く。でも、帰りの線を失う前まで」
俺は笑った。
「俺だけ聞く必要なかった?」
ミオが少し笑う。
「一応、自分でも言って」
「行く」
カイルは頷くだけだった。
先へ進む。
横倒しの荷車から五十メートル。
そこで雪の質が変わった。
足元が少し沈みにくい。
さらに。
白い雪の中に、黒い岩。
その横から、細い湯気が出ている。
俺は目を細めた。
「湯気?」
エダンも見る。
「温かい風だ」
白嶺の中で何度も感じた空気。
地面の下に熱がある。
カイルが岩へ手を当てる。
「ここ、前から温穴がある」
「温穴?」
「冬に獣が集まる。人は普通、入らない」
その先。
岩の陰に、荷車の跡が消えていた。
消えたというより、曲がっている。
温かい空気が出ている裂け目の方へ。
ミオがランプを出す。
「輸送隊、ここへ避難した?」
カイルはすぐには頷かない。
「可能性はある」
俺は裂け目を見る。
白い外。
黒い穴。
中からぬるい風。
白嶺の時と似ている。
でも、今度は俺たちが見つけた穴じゃない。
北の人たちが昔から知っている場所。
そして、その中に六人いるかもしれない。
奥から音がした。
カン。
一回。
少し間を置いて。
カン。
金属を叩く音。
俺たちは顔を上げた。
もう一度。
カン。
エダンが息を吐く。
「人だ」
俺も笑いそうになった。
白嶺で、崩れの向こうと槌を打ち合った時を思い出す。
カイルは笑わなかった。
すぐに入口の雪を見た。
「待て」
何かある。
俺も見る。
裂け目の前。
人の足跡。
荷車の跡。
そして、その上から重なる別の跡。
大きい。
四本足。
一つの跡が、俺の手より大きい。
カイルが剣を抜いた。
「六人は生きてる」
低い声。
「問題は、中に人だけじゃない」
風の音が、少し遠くなった。
北へ来て最初の日。
固いパンを食べて。
市場を歩いて。
知らない巡回隊長に人数を減らされて。
最後に着いたのは、
湯気の出る穴だった。
中から、また金属音が鳴った。
今度は二回。
急いでいる音だった。




