第46話 虫は崩れの下を通っていた
水場ができて三日目。
昔の穴の入口には、桶が五つあった。
二つ増えている。
「増やしたの誰?」
俺が聞くと、鍋屋のおばちゃんが手を挙げた。
「一個は私。もう一個はパン屋」
「パン屋、ほんとに水に本気だな」
「昨日焼いたの、ちょっと柔らかかったんだって」
よく分からない。
でも本人が嬉しいならいいんだろう。
その横で、ユリウスは全然嬉しくなさそうな顔をしていた。
桶の数を見ている。
「試用中って札、読んでる?」
「読んでるよ」
おばちゃんは平然と答えた。
「だから煮てる」
「そこじゃない。使用量が増えるなら、雨の後の確認と水量の記録を――」
「朝から難しい話するとスープ冷めるよ」
ユリウスが黙った。
強い。
俺は笑いながら水桶を持ち上げた。
「で、今日も帰らないの?」
「その質問、毎朝する気か」
「予定を大事にする人が何日ずれるか気になる」
「今日は崩れを見る。危険なら帰る」
「帰る予定じゃなくて、崩れから?」
ユリウスが俺を見る。
「両方だ」
ミオが横で地図を畳んだ。
「その会話、たぶん明日もするね」
エダンが笑った。
昔の穴へ入る前に、今日はもう一人いた。
シンだ。
前の身体ではジンと名乗っていた男。
今は新しい身体で、Lv1からやり直している。
細い腕に、入口用の木札を抱えていた。
「中には行かないよ」
俺が言う前に、シンが先に言った。
「分かってる。今の俺じゃ、虫に足噛まれたら普通に終わる」
言い方が軽い。
でも、その目は笑っていなかった。
自分が一度死んだ場所に近い。
そのことを、誰もわざわざ口にはしない。
ユリウスが木札を受け取らず、逆に一枚渡した。
「出入りを頼める?」
「俺が?」
「名前と入った時刻。帰ったら線を引く。字は書ける?」
「前の人生ではな」
一瞬だけ、空気が止まった。
シンは自分で苦笑した。
「今も書けるよ。記憶までLv1になるわけじゃない」
ユリウスは余計な慰めを言わなかった。
「じゃあ頼む」
「了解」
シンは木札を膝に置いて、炭筆を削り始めた。
それで話は終わった。
たぶん、その方がよかった。
今日、中へ入るのは俺、ミオ、エダン、ユリウス。
入口の崩れを見るのはガラン。
外にはシンと、エダンの兄。
昨日より人数は多い。
でも中は狭いから、全員で入らない。
昔の穴へ入る。
石床。
平行した二本の溝。
水の分岐。
虫の足跡を見るための灰。
三日目になると、最初の十数メートルはもう見慣れてきた。
俺はそれが少し怖い。
見慣れると、人は雑になる。
昨日まで避けていた浮いた石を、今日は無意識に踏みそうになった。
ミオの手が俺の肩へ伸びる。
押すでもなく、つまむでもなく、服を引いた。
俺の足が止まる。
「そこ」
「あ」
足元を見る。
昨日、ミオが「右、石浮いてる」と言った場所だ。
「ごめん」
「慣れてきた時が危ないんだって」
「俺も今ちょうど思った」
「踏む前に思って」
エダンが後ろで笑った。
「レン、考えるの一歩遅いんだよな」
「一歩で済んでるなら優秀じゃない?」
「その一歩が穴なんだよ」
崩れまで着く。
昨日と変わらない。
天井から落ちた石が、本線を塞いでいる。
右側の隙間から風。
左側には虫が出てきた割れ目。
ガランは崩れをしばらく見たあと、槌の柄で床を軽く叩いた。
コン。
場所を変える。
コン。
もう一つ。
コォン。
音が違った。
俺も分かった。
「下、空いてる?」
ガランはすぐ頷かない。
さらに三か所叩く。
「たぶんな。全部じゃない。ここの下だけ」
ユリウスがしゃがんだ。
「虫も下を通ってる?」
「あり得る」
エダンが灰を見る。
昨日の小さな足跡。
本線の奥から来たように見えていた。
でも、崩れの直前で少し横へずれている。
俺は腹ばいになった。
ミオがすぐ言う。
「顔入れない」
「入れてない。耳」
床へ耳を近づける。
最初は何も聞こえない。
みんなが黙る。
水の音。
遠くの滴。
それから。
カリ。
下だ。
もう一度。
カリ、カリ。
「いる」
俺が身体を起こす。
ユリウスは崩れではなく、床の端を見ていた。
「ここ、石の継ぎ目がある」
二本の溝の外側。
土を払うと、長方形の石が一枚出た。
自然の岩じゃない。
でも、だから何かは分からない。
ガランが縁へ槌の先を入れる。
少し動く。
「蓋かもしれん」
俺の胸が跳ねた。
ミオが俺を見る。
「今、すごい顔した」
「まだ何も言ってない」
「言う前の顔が一番分かりやすい」
ガランは俺たちを下がらせた。
「開けるなら、全員壁から離れろ。下が空洞なら、縁が欠けるかもしれん」
縄を一本、石へ回す。
人が真上に立たない位置から引く。
最初は動かない。
エダンと俺も加わる。
「せーの、じゃなくてゆっくり」
ガランが言う。
「力合わせる時って、せーのじゃないの?」
「これは祭りじゃねえ」
少しずつ。
石が擦れる。
ゴゴッ。
隙間が開いた。
冷たい空気が出てきた。
水場の空気より冷たい。
臭いもある。
土。
湿った殻。
何か酸っぱい匂い。
石を三十センチほどずらしたところで止める。
穴。
下へ続いている。
深さは二メートルくらい。
底に土がある。
そして。
灰色の虫が一匹、俺たちを見上げていた。
全員固まった。
虫も固まっている。
「目、あるの?」
俺が小声で聞く。
エダンが答える。
「知らん」
次の瞬間、虫が横へ走った。
穴の奥へ消える。
俺たちは同時に息を吐いた。
ガランが石を戻そうとする。
「今日は閉めるぞ」
「えっ」
「えっ、じゃねえ」
俺は穴を見る。
下には空間がある。
虫はそこを通っている。
崩れの向こうへ抜けているかもしれない。
でも、ガランの顔を見る。
開けた蓋の縁が少し欠けている。
確かに、いきなり降りる場所じゃない。
俺は一回だけ穴の中を覗いた。
ランプを下げる。
底。
右へ行く細い空間。
左にも影。
さらに奥。
床が、少しだけ光った。
水かと思った。
違う。
何か丸い。
大きさは手のひらくらい。
薄い青。
「何かある」
ミオが俺の横から覗く。
「石?」
「分からない」
ユリウスはすぐそっちを見なかった。
先に蓋の周りを確認している。
「降りるなら、ここを入口に使わない方がいい」
「何で?」
「人が一人しか上がれない。虫が来た時に詰まる」
俺は穴を見た。
確かに。
二メートル下へ降りて、上がる場所が一個。
後ろから虫が来たら最悪だ。
エダンが崩れの左側を見た。
「昨日の割れ目、水場へ行く方。あそこから下へ回れないかな」
ミオが地図を開く。
本線。
水場。
虫が出た割れ目。
今日の床下。
線を重ねる。
「距離だけなら近い」
「つながってる?」
俺が聞く。
ミオは鉛筆を止めた。
「それを今から確かめるんでしょ」
結局、床の石は戻した。
完全には閉じない。
指一本分だけ隙間を残す。
その前へ灰を撒く。
今日、ここから虫が出入りするかを見るため。
水場へ移動する。
昨日、三人で入った狭い割れ目。
今日はユリウスが先に入口へ木札を置いた。
《床下確認》
俺が笑う。
「名前、ミオより雑じゃない?」
「仮の名前は分かればいい」
ミオがちょっと悔しそうな顔をした。
「それ、私がずっと言ってる」
今回は俺とエダンが入る。
ミオは割れ目の入口で地図と縄を見る。
ユリウスは本線側。
人数を分けた。
水場へ着く。
昨日と同じ小さな流れ。
ただ、下流側の細溝の横。
虫の足跡が増えている。
俺とエダンはしゃがんだ。
「こっちか」
水が消える割れ目の上に、手が入るくらいの隙間がある。
そこから風。
昨日は水ばかり見て気づかなかった。
鉤棒を入れる。
奥へ一メートル。
二メートル。
まだ入る。
エダンが棒を回す。
「空間ある」
「人通れる?」
「今は無理。下を掘れば……いや、水あるから勝手にやると流れ変わるな」
そこで止める。
水を使い始めたばかりだ。
俺たちの好奇心で、水場そのものを潰したら笑えない。
俺は割れ目へ耳を近づける。
カリ。
近い。
エダンが俺の肩を叩いた。
「戻ろう」
「うん」
即答した。
割れ目を抜ける。
ミオが少し驚いた顔をする。
「早かったね」
「水場壊すの嫌だから」
「それ、レンから出るようになったんだ」
「最近、みんな失礼じゃない?」
ユリウスは笑わず、地図を見た。
「水場の下流と床下は、かなり近い。虫が両方使ってる可能性が高い」
「じゃあ入口探す?」
俺が聞く。
「探す。ただし水を動かさない場所から」
その日の午後。
昔の穴の外で、ガランが斜面を見ながら別の場所を叩いていた。
入口から七メートルほど右。
草の下。
槌の柄。
コン。
コォン。
また音が違う。
俺たちは顔を見合わせた。
ガランが土を少し払う。
石じゃない。
根の間に、縦長の黒い隙間があった。
人一人なら通れるかもしれない。
中から、冷たい風。
そして足元の土に。
小さな灰色の殻が落ちていた。
俺はしゃがむ。
「こっちが虫の入口?」
ミオが地図へ新しい印をつける。
「候補」
ユリウスは隙間の幅を測る。
エダンは槍を握り直す。
ガランだけが嫌そうな顔をした。
「お前ら、明日も来る顔してるな」
俺は隙間の奥を見た。
「来ない顔ってどんな顔?」
「もっと疲れてる顔だ」
俺たちは、たぶん全員ちょっと笑った。
昔の道を開けたいだけだった。
なのに今は、その下にもう一つ世界がある。
白嶺は、上を越えるより中の方が広いのかもしれない。
第47話 地下で水が消えた
【本文】
翌朝。
水が止まった。
正確には、止まったというより細くなった。
昨日まで桶一つがすぐ満ちた流れが、今日は糸みたいになっている。
鍋屋のおばちゃんが最初に気づいた。
「レン!」
入口で名前を呼ばれた時、俺は何か怒られると思った。
鍋を覗いたとか。
桶を置く場所を変えたとか。
違った。
「水が出ない」
その一言で眠気が飛んだ。
水場へ入る。
ミオ。
エダン。
ユリウス。
今日はシンも入口にいる。
昨日と同じ場所。
岩の間から出ていた水が、ほとんどない。
俺は手を入れそうになって止めた。
「雨?」
エダンが首を振る。
「昨日は降ってない。山の上は分からんけど」
ミオが瓶を置く。
「昨日、私たちが何か動かした?」
誰もすぐ答えない。
考える。
細溝を見た。
鉤棒を入れた。
土は掘っていない。
石も動かしていない。
「棒入れたくらい」
俺が言う。
「それで詰まる?」
「分からない」
ミオがしゃがむ。
下流は流れていない。
つまり入ってきていない。
ユリウスが本線側から呼んだ。
「こっち来て」
割れ目を戻る。
昨日、床下の蓋の前へ撒いた灰。
ぐちゃぐちゃだった。
虫の足跡。
一匹や二匹じゃない。
灰色の筋が何本も交差している。
俺は思わず声を落とした。
「夜、こんな通ったの?」
ユリウスが指をさす。
「入ったのと出たのが混ざってる。数は分からない。でも昨日より多い」
床の石は動いていない。
隙間から虫が出たわけじゃない。
たぶん、下で何か起きた。
水も減った。
虫も動いた。
偶然かもしれない。
でも、俺の頭の中ではつながってしまう。
ミオが俺を見る。
「言っていいよ。仮説なら」
「下で水の流れが変わって、虫も動いた?」
「候補」
「便利な言葉だな、それ」
エダンがしゃがみ込む。
灰の端に、昨日なかったものが落ちていた。
濡れた泥。
虫の脚についてきたらしい。
指で触る。
「冷たい」
水場の水と同じかは分からない。
でも、乾いた本線の泥じゃない。
昨日見つけた、斜面右の黒い隙間。
地下へ入るなら、あそこだ。
ただ、今日は水が止まっている。
先に人を集めた。
ガラン。
エダンの兄。
鍋屋のおばちゃん。
なぜおばちゃんまで来るのかと思ったけど、水を一番使っているから当然だった。
「入るのは誰」
ユリウスが聞く。
俺は手を上げかける。
その前に、ユリウスが言った。
「レン、エダン、俺。ミオは入口」
「何で決めてるの」
「狭い場所で地図広げられない。外との距離と時間を残す人が要る」
ミオが腕を組む。
「私はそれでいい。でもユリウスが行くの?」
「昨日、俺だけ中を見てない」
「それが理由?」
少し間があった。
ユリウスは普通に答えた。
「半分」
俺は笑った。
「見たいんじゃん」
「悪いか」
「全然」
残り半分は、安全確認なんだろう。
シンが入口用の板へ、今日の名前を書いていく。
レン。
エダン。
ユリウス。
その下に、入った時刻。
俺は覗き込んだ。
「字きれいだな」
「前の俺より今の方が手が小さいから、細かく書ける」
シンはそう言って、炭筆を持つ指を見た。
ちょっとだけ笑う。
「得したこと一個」
何て返すか迷った。
結局、俺は木札を指した。
「帰ったら線引いて」
「それはお前ら次第」
「引かせるよ」
今度は迷わず言えた。
地下の入口は、昨日見つけた黒い隙間だった。
ガランが朝から少し広げている。
木の根は切らない。
土だけ落とす。
人が横向きなら入れる。
最初に鉤棒。
次に灰を少し撒く。
虫が飛び出さないことを確認。
俺が先に入る。
二メートルほど斜め下。
足が土へ着く。
立てる。
思ったより広い。
ランプを上げる。
自然の洞穴だ。
少なくとも、入口の壁は削られていない。
床に虫の足跡。
たくさん。
右へ続く。
左は低い。
後ろからエダンが下りてくる。
「臭うな」
酸っぱい。
湿った土。
殻。
昨日、床下の蓋を開けた時と同じ。
ユリウスが最後に入る。
入口へ縄を一本残す。
外のミオが引けば分かるよう、鈴を小さくつけた。
「三回で戻る」
ユリウスが確認する。
俺が頷く。
「二回は注意」
「一回は?」
エダンが聞く。
外からミオの声。
「暇」
俺たちは笑った。
緊張が少しだけ抜ける。
右へ進む。
洞穴は緩く下っていた。
床に細い水の跡。
今は濡れているだけで流れていない。
「水、ここ通ってた?」
俺が聞く。
エダンがしゃがむ。
「最近だな。土がまだ柔らかい」
その先で、洞穴が二つに分かれた。
右は虫の足跡が多い。
左は水の跡が多い。
俺は右を見た。
エダンも右を見る。
ユリウスは左を見る。
三人、きれいに分かれた。
「水だろ」
ユリウスが言った。
「虫じゃない?」
俺が返す。
「目的は水」
「原因が虫かも」
エダンが間に入る。
「左行って、水の上を確認してから右じゃ駄目か?」
俺とユリウスが同時に黙った。
「それで」
「そうしよう」
エダンが呆れた顔をした。
「二人いると面倒だな」
左へ。
十メートルほどで、水音がした。
ある。
でも変だ。
流れている音なのに、足元へ来ない。
曲がりを越える。
ランプの光が、大きな岩に当たった。
岩じゃない。
泥と枝と、虫の殻。
洞穴を半分塞ぐ塊。
その向こうで水が溜まっている。
小さな池みたいになっていた。
「詰まってる」
俺が言う。
ユリウスはすぐ近づかない。
「誰が作った?」
「虫?」
エダンが槍で遠くから泥をつつく。
動かない。
枝が何本も噛んでいる。
自然に流れて詰まったようにも見える。
でも、殻が多すぎる。
俺は水面を見る。
少しずつ上がっている。
「これ崩したら、一気に来るよね」
「来る」
エダンが後ろを見る。
「入口まで流れるか?」
ユリウスが地面の傾きを見る。
「全部は分からない。少なくとも俺たちの足元は通る」
壊せば水場が戻るかもしれない。
でも、ここで壊したら俺たちが流されるかもしれない。
俺は泥の塊を見る。
昨日までなら、とりあえず棒で突いてたかもしれない。
今日はしない。
「外戻ろう」
自分で言った。
ユリウスが俺を見る。
「賛成」
何かちょっと腹立つ。
でも戻る。
分岐まで来た時。
右側から音がした。
カリ。
カリカリ。
近い。
エダンが槍を上げる。
俺も短剣。
ユリウスがランプを低くする。
虫が一匹出てきた。
昨日の灰色のやつ。
こっちを見て止まる。
その後ろ。
もう一匹。
三匹。
「戻る」
ユリウスが言う。
俺もそう思った。
でも一匹目が先に来た。
速い。
俺は横へ避ける。
ここには石床の溝がない。
昨日のやり方は使えない。
短剣で殻を叩く。
弾かれる。
エダンの槍が横から入り、虫の進路を変える。
「腹!」
「ひっくり返せない!」
足元は泥。
滑る。
ユリウスがランプを壁のくぼみへ置いた。
両手が空く。
近くに落ちていた枝を拾う。
「前脚の間!」
「何?」
「昨日、溝に入った時。前脚が広がってた!」
見てたのか。
俺は虫の正面へ出る。
「レン!」
エダンが声を上げる。
「誘う!」
虫が来る。
ぎりぎりで横へ。
ユリウスが枝を差し込む。
前脚の間。
虫の脚が引っかかる。
身体が止まる。
エダンの槍が横から殻の下へ入る。
三人でひっくり返した。
俺が腹へ短剣。
一匹。
二匹目は止まった。
後ろから三匹目とぶつかる。
狭いところで詰まった。
「今!」
エダンが叫ぶ。
俺たちは戦わない。
走らず、でも全力で下がる。
洞穴の入口。
縄。
上へ。
俺が最後。
足元でカリカリ音。
外へ転がり出た。
エダンの兄とガランがすぐ木の蓋を入口へ当てる。
ゴン。
一匹、ぶつかった。
蓋が揺れる。
シンが木札を落としそうになって、慌てて掴んだ。
ミオは俺たちの顔を見るより先に人数を数えた。
一。
二。
三。
「全員」
ユリウスが息を整えながら頷く。
シンが木札の名前へ一本ずつ線を引いた。
レン。
エダン。
ユリウス。
三本。
俺はその線を見て、妙に安心した。
水の話をする。
地下で詰まっている。
壊せば戻る可能性はある。
でも一気に流れる。
ガランは地面へ線を描いた。
「外から別の穴掘って抜くのは時間かかる。中でやるなら、人が逃げる場所を先に作れ」
「逃げる場所?」
「水より高い場所だ。崩したあと、流れが落ち着くまで乗る」
エダンが洞穴の中を思い出す。
「分岐の手前に、右壁が少し高いところあった」
ユリウスが首を振った。
「三人は乗れない」
「じゃあ削る?」
「勝手に壁削るな」
ガランが即答する。
また止まる。
ミオが地図を見ていた。
「水を一気に全部流さなくてもいいんじゃない?」
みんなが見る。
「泥の塊の上の方だけ、少し切る。水位を下げながら何回かに分ける」
ガランが顎を触る。
「それならまだマシだな」
俺は思わず言った。
「それだ」
ミオがこっちを見る。
「今、私が言った」
「知ってる。いい意味で」
「レンが思いついたみたいな声だったよ」
「違うって」
おばちゃんが後ろから口を挟んだ。
「で、水戻る?」
全員がそっちを見る。
「たぶん」
ミオが答えた。
「たぶんか」
「まだやってないから」
おばちゃんは腕を組んだ。
「じゃあ今日はスープ少なめだね」
世界の危機みたいに話していたのに、急に夕飯の量へ戻った。
でも、それでいい気がした。
水が止まると困る人がいる。
だから明日、俺たちは地下へ行く。
宝箱のためじゃない。
ボスを倒したいからでもない。
スープが薄くなるのが困るから。
そんな理由でダンジョンへ入るの、俺はけっこう好きだった。
第48話 水を戻したら、道が一本増えた
【本文】
地下へ入る前に、鍋屋のおばちゃんが俺へ布袋を渡した。
「昼飯」
「ありがとう」
「水戻らなかったら、それ最後の濃いスープだからね」
「急に責任重くない?」
「冗談だよ」
おばちゃんは笑った。
一拍置く。
「半分」
やめてほしい。
今日は人数を増やした。
地下へ入るのは俺、エダン、ユリウス、ガラン。
ミオは入口。
エダンの兄はその外。
シンは入退場の木札。
さらに、地下入口から本線までの途中に一人。
ボルクだ。
何かあった時、外まで声が届かないから、中継する。
俺はちょっと驚いた。
「人、増えたな」
ユリウスが縄を確認しながら答える。
「昨日、三人が地下にいる間、外は何もできなかった。戻ってくるまで待つだけ。事故ったら遅い」
「考えたの?」
「昨日の夜」
「寝た?」
「寝た」
「何時間?」
「関係ない」
たぶん少ない。
ミオが俺の腰縄を引いた。
「レンも人の睡眠より自分の結び目見て」
「はい」
今日の目的は一つ。
地下の水を少しずつ流す。
虫が来たら戻る。
水が想定より速かったら戻る。
泥の塊が崩れそうなら戻る。
「戻る条件ばっかだな」
俺が言うと、ガランが鼻で笑った。
「戻れるやつだけ次に行ける」
それは最近、何度も聞いた気がする。
でも嫌いじゃない。
地下へ降りる。
昨日の分岐。
右は虫。
左は水。
今日は左へ。
泥と枝と殻でできた詰まりは、昨日より少し大きく見えた。
水位も上がっている。
ガランが先に近づく。
長い鉤棒で表面を確かめる。
「上から手の幅だけ落とす。下は触るな」
俺とエダンは少し離れた高い場所。
ユリウスは後ろ。
ガランが細い鉄棒を差し込む。
泥が少し落ちる。
水が滲む。
「来るぞ」
細い流れ。
最初は指一本。
すぐ腕くらいになる。
水が俺たちの足元を通る。
冷たい。
でも立てる。
「これくらい」
ガランが止める。
触らない。
待つ。
水位が下がる。
泥の塊は残っている。
入口側から、遠く鈴が一回鳴った。
暇。
ミオだ。
俺は笑った。
「余裕あるみたい」
ユリウスが言う。
「一回は暇って決めたの、失敗だったな」
「でもちょっと安心する」
エダンも笑う。
二回目。
また上だけ削る。
流れが太くなる。
水が昨日通った跡へ戻っていく。
その時。
右側の洞穴から音。
カリ。
俺たちは止まる。
もう一度。
カリカリ。
「来る」
エダンが槍を構える。
ガランは泥を触らず、すぐ後ろへ下がった。
「俺は戦えんぞ」
「知ってる」
俺とエダンが前へ。
ユリウスが枝を持つ。
昨日と同じ。
ただ、今日は床に水がある。
虫が二匹出てきた。
足が濡れている。
一匹目が走る。
昨日より遅い。
「水嫌い?」
俺が言う。
エダンが槍を構えたまま返す。
「聞いてみろよ」
「会話できたらな」
虫が水へ入った瞬間、前脚が滑った。
転ばない。
でも勢いが落ちる。
俺は横へ回る。
エダンの槍が殻の下へ入る。
ひっくり返す。
一匹。
二匹目は、水の手前で止まった。
後ろへ下がる。
「学習してる?」
ユリウスが言う。
「単に水嫌いかもしれない」
ミオならそう言うと思った。
俺は自分で言って、ちょっと嫌になった。
「似てきたな」
ユリウスが言う。
「誰と誰が?」
「お前とミオ」
「やめろ」
後ろでガランが怒鳴った。
「喋ってる場合か!」
その通りだった。
二匹目が別の角度から来る。
水を避けて壁際。
エダンがそっちへ槍を出す。
俺は水の流れを見る。
まだ細い。
泥の塊。
上だけ切った部分から、水が続いている。
虫は水を避ける。
なら。
「ガラン! もう少し開けられる?」
「今か!?」
「水増やしたらこいつ、こっち来にくい!」
ガランは一瞬だけ水位を見た。
後ろの逃げ道。
俺たちの足元。
「少しだけだ!」
鉤棒を入れる。
泥が落ちる。
流れが太くなる。
足首。
虫が止まる。
本当に水へ入らない。
後ろへ下がる。
「いける」
俺が言った瞬間。
泥の塊の中で、何かが動いた。
ガランの顔が変わる。
「離れろ!」
全員下がる。
塊の中央が崩れた。
予定より大きい。
水が来る。
膝まで。
冷たい。
足を取られる。
俺は壁へ手をつく。
エダンがガランの腕を掴む。
ユリウスは後ろから俺の腰縄を引いた。
「レン、右!」
高い岩へ足を乗せる。
水が横を通る。
数秒。
長い。
でも、昨日見た池全部が来たわけじゃない。
崩れたのは中央の一部。
流れが落ち着く。
俺たちは全員立っていた。
「いる?」
ユリウスが聞く。
「いる」
エダン。
「いる」
ガラン。
「いる」
俺。
誰も格好よくない。
全員びしょ濡れだ。
ガランの帽子がない。
少し先を流れている。
俺が取りに行こうとする。
「帽子はいい!」
怒られた。
「でも流れる」
「流せ!」
職人の帽子が地下へ消えていった。
何となく全員それを見送った。
緊張が切れる。
エダンが笑い始めた。
俺も笑った。
ガランだけ笑っていない。
「高かったんだぞ」
「ごめん」
「お前のせいじゃねえ」
でもちょっと悲しそうだった。
水は流れ続ける。
昨日まで乾いていた床へ。
入口の方向へ。
たぶん、水場へ戻る。
鈴が二回鳴った。
注意。
すぐ三回。
戻れ。
俺たちは顔を見合わせた。
「外で何かあった?」
ユリウスが先に戻る。
走らない。
でも速い。
分岐。
地下入口。
上へ。
外へ出ると、ミオが入口で待っていた。
「水、戻った。でも急に増えた」
「増えすぎ?」
「最初だけ。今は落ち着いてる」
シンが木札を持ったまま、俺たちを数える。
「四人」
一本ずつ線。
最後にガランを見て、首を傾げた。
「帽子は?」
ガランの顔がさらに沈んだ。
「聞くな」
水場を見る。
流れている。
昨日までと同じくらい。
鍋屋のおばちゃんが桶へ水を汲む。
「戻ったね」
それだけ言って、もう次の桶を置いた。
俺たちは泥だらけで、水浸しで、たぶん今ちょっとすごいことしたと思ってる。
でも、おばちゃんにとっては水が戻った。
それが全部だ。
俺はその感じが好きだった。
昼。
服を乾かしてから、もう一度地下へ入った。
今度は泥の塊を触らない。
水が安定しているか見るだけ。
虫の数も確認。
流れができたせいか、右側の虫の足跡が減っている。
二匹だけ遠くに見えた。
近づいてこない。
水を嫌うのかはまだ分からない。
俺たちは昨日の分岐まで進んだ。
そこで、エダンが止まった。
「水、下に行ってるだけじゃないな」
足元の流れ。
一部は来た道へ戻る。
でも一部は、右側の壁際へ消えている。
虫の洞穴とは少し違う角度。
俺はしゃがむ。
流れの先に、細い隙間。
泥が流れたせいで昨日より広くなっている。
ランプを近づける。
向こうに空間。
「また穴?」
ミオの声はない。
今日は外だ。
代わりにユリウスが言った。
「穴だな」
「雑になってきたね」
「分かればいい」
ミオが聞いたら喜びそうだ。
鉤棒を入れる。
奥まで抜ける。
エダンが槍の石突きで土を少し払う。
人が通れそうになる。
俺は入らない。
まず戻る。
外からミオを呼ぶ。
「地図いる」
「それ、私が行く理由として一番強い言い方だと思ってる?」
「違う?」
「合ってる」
二回目はミオも入った。
シンが木札に名前を追加する。
ミオ。
入った時刻。
「行ってらっしゃい」
「軽いね」
「帰ってくる前提で書いてるから」
その言い方がよかった。
地下へ。
分岐。
新しい隙間。
今度は俺が先に入る。
数メートル。
急に天井が上がった。
立つ。
ランプを上げる。
石の壁。
自然の洞穴じゃない。
少なくとも、目の前だけは。
横へまっすぐ続いている。
床にも石。
そして。
二本の平行した溝。
俺は何も言わなかった。
後ろからエダンが来る。
止まる。
ミオ。
ユリウス。
四人が狭い入口の前に立った。
ミオが地図を開く。
今いる場所。
昔の穴の本線。
崩れている場所。
位置を重ねる。
鉛筆が止まる。
「これ……」
俺が聞く。
「どこ?」
ミオは地図を回した。
「崩れの、向こう側に近い」
胸が跳ねる。
エダンが平行溝へ槍の柄を当てる。
幅。
昨日まで見ていた本線のものと、ほぼ同じ。
ユリウスが紐を出す。
測る。
「同じに近い」
「つながった?」
俺は聞いた。
ミオはすぐ頷かない。
「まだ。ここが本線の向こう側か、似た別の通路かは確認してない」
「じゃあ確認しよう」
俺が一歩出る。
ユリウスの手が腕へ来た。
「時間」
「まだ昼だよ」
「入ってから一刻近い」
俺は黙った。
楽しい時の一刻は短い。
ミオが地図を閉じる。
「今日はここまで」
エダンも頷く。
「水戻しただけでも十分だろ」
俺は通路の奥を見る。
暗い。
でも、床の溝は続いている。
行きたい。
めちゃくちゃ行きたい。
だから戻った。
入口へ出る。
シンが木札を見る。
俺。
エダン。
ユリウス。
ミオ。
四人。
一本ずつ線を引く。
最後の線を引いたあと、シンが言った。
「今日は全員帰ったな」
俺は一瞬、返事が遅れた。
シンが前の人生で帰れなかったことを、たぶん本人も思い出している。
でも顔は普通だった。
俺も普通に答えた。
「今日も、ね」
シンは少し笑った。
夕方。
ミオが地図へ新しい線を足した。
昔の穴の本線。
水場。
地下分岐。
虫のいる右穴。
水が詰まっていた左穴。
そして、今日見つけた石床の通路。
まだ本線とはつながっていない。
でも位置だけなら、崩れの反対側にいる可能性が高い。
荷車を通すために掘っていた道。
崩れを正面からどけるんじゃなく、下から回り込めるかもしれない。
俺は地図を見ながら笑った。
「道一本作るのに、何本道増えるんだろうな」
ミオが鉛筆を置く。
「それが地図になるんじゃない?」
外では、戻った水で鍋が煮えている。
ガランは新しい帽子を誰に頼むかで揉めている。
シンは木札を拭いている。
ユリウスは明日の予定を書き直している。
たぶん、また帰る日が延びた。
白嶺の地下には、まだ暗い道が続いている。
でも今日、ひとつだけ分かった。
行き止まりだと思っていた崩れは、正面から壊す以外にも越え方がある。
それだけで、明日がかなり楽しみだった。




