第37話 死んだ場所で靴を拾う
【本文】
シンは、朝飯を二回食べた。
一回目は普通に食べた。
二回目は、白嶺へ入る直前に「やっぱり腹減った」と言って、宿の女将から固いパンを一つ買った。
「新品の身体、燃費悪くない?」
俺が聞くと、シンはパンを半分に割りながら肩をすくめた。
「前の身体の食う量なんか、もう正確に覚えてない。でも昨日からずっと腹減る。あと寝ても疲れが抜けない。レベル一って、こんなに面倒だったっけ」
「俺はまだ四だから、偉そうなこと言えないけどな」
「四は一の四倍だろ」
横で荷物を点検していたミオが顔を上げた。
「その計算で強さが四倍なら、ゲーム壊れてるよ。今日はレベルの話より、昨日決めたことを確認して。シンは自分の身体で無理だと思ったら戻る。私たちは引っ張ってでも先へ連れていかない」
シンは残ったパンを口へ入れ、ちゃんと飲み込んでから答えた。
「分かってる。死んだ場所を見たいだけで、もう一回死にたいわけじゃない。前の感覚で動きそうになったら止めてくれ」
エダンが縄を肩にかけた。
「止めるのはできるけど、レンと二人同時に変なこと始めたら手が足りないな」
「何で俺まで入ってるんだよ」
「入らない理由ある?」
なかった。
今日は俺、ミオ、エダン、シンの四人。
入口にはエダンの兄が残る。
兄は通行記録へ四人の名前を書きながら、シンを一度だけ見た。
「前にここへ入った時とは身体が違うんだろ。知ってる道だからって、知ってる身体だと思うなよ」
シンは少しだけ笑った。
「それ、昨日から一番刺さってます」
白嶺へ入る。
最初の隙間で、シンは止まった。
前のジンは槍を持って、一人でこの辺まで来た。
今のシンは短い木杖だけだ。
背負い袋を外し、身体を横にする。
「ここ、こんな狭かったっけ」
シンが岩に頬を寄せたまま言う。
俺は向こう側で荷物を受け取った。
「前は別の入口から入ったんだろ?」
「途中で合流した。だからここは初めて。……いや、それより肩が違うな。前の身体より少し広い」
ミオが後ろからすぐ確認する。
「痛いところある?」
「ない。ただ、頭では行ける幅に見えるのに、身体が引っかかる。気持ち悪いな、これ」
シンは一度戻り、角度を変えた。
今度は通った。
泥区間では、もっと分かりやすかった。
板の上を四つん這いで進んでいたシンの右膝が滑る。
身体補助が反応したのか、一瞬だけ腰が上がる。
でも前の身体で覚えていた動きには届かない。
「うわっ」
手をついた。
泥が跳ねた。
俺の袖まで来た。
「お前、それ前の人生でも人に泥飛ばしてなかった?」
俺が袖を払うと、シンは板の上で笑った。
「知らねえよ。死ぬ前の俺に聞け」
「お前だろ」
「今その話をしてるんだよ」
エダンが後ろで吹き出した。
ミオは笑いながらも、シンの膝の位置を見ている。
「次、右膝をもう少し内側。板の端は濡れてるから、そこ踏むとまた滑るよ」
シンは言われた通りに動く。
今度は抜けた。
「前の記憶、便利そうで不便だな」
エダンが荷物を引きながら言うと、シンは少し考えた。
「地図だけ持って、操作方法が違うゲームやってる感じ。どこに何があるか知ってるのに、指が前と同じように動かない」
その言い方は分かりやすかった。
俺も、レベルが上がった時より、身体補助の癖が変わった時の方が戸惑った。
「じゃあ今の身体の遊び方、覚え直すしかないな」
俺が言うと、シンは少し嫌そうな顔をした。
「楽しそうに言うな。こっちは前のデータ消えた気分なんだから」
「でも記憶は残ってる」
「だから余計に腹立つんだよ。出来たことだけ覚えてる」
そこからしばらく、誰も軽口を言わなかった。
水路を越える。
外縁へ向かう分岐を通り過ぎる。
ジンが見つかったのは、その少し奥だ。
今は白嶺街道の本道から外れた脇道になっている。
ミオの地図にも、細い線で残してある。
入口に小さな板が立っていた。
《救助経路・通常通行不要》
シンがその文字を読んだ。
「俺のせいで増えた道?」
エダンが答える。
「半分は。ジンを運ぶ時に担架が曲がれなかったから、こっちを広く使えるようにした。あと入口まで人呼ぶ手順も変えた」
シンは板を指で軽く叩いた。
「死んだ甲斐があった、とは言わない方がいいよな」
ミオがすぐ横から返す。
「言いたいなら止めないけど、私は笑えない」
「じゃあやめとく」
シンの声は軽かった。
でも板から手を離すまで、少し時間がかかった。
脇道へ入る。
俺は先頭を歩かない。
今日はシンが自分で行きたいと言ったからだ。
もちろん、前へ行かせっぱなしにはしない。
俺がすぐ後ろ。
その後ろにミオ。
最後がエダン。
曲がりを一つ。
低い段差。
岩の擦れた場所。
シンの歩みが遅くなる。
「ここだ」
言われる前に分かった。
平たい石があった場所は、もう空いている。
救助の時に動かした石は壁際へ寄せてある。
床には板が二枚置かれ、担架を通すための縄が壁の支点にまとめられていた。
血はない。
泥も、何人かが通った跡で踏み固まっている。
シンは何も言わず、その場所へしゃがんだ。
自分の左足が挟まっていた辺りへ手を置く。
「違うな」
俺は少し離れたところから聞いた。
「何が?」
「もっと狭かった気がしてた。暗かったし、石が顔のすぐ横にあったし。……こんなに人が立てる場所だったんだな」
ミオは地図を開かなかった。
「救助のあと、危ない石は寄せた。床も一部ならしたから、ジンがいた時とは同じじゃないよ」
シンは頷いた。
「そっか。場所の方も変わったんだ」
しばらく、洞穴の水音だけが聞こえた。
俺は何か言いたかった。
でも、こういう時に気の利いた言葉を探すと、だいたい失敗する。
だから黙っていた。
シンは壁へ顔を近づけた。
「これ、残ってる」
何かと思って見る。
岩肌に、短い傷が三本あった。
「何?」
エダンが後ろから聞く。
シンが指先で傷をなぞった。
「槍の石突きでつけた。助け来るまで暇だったから。一本つけて、しばらくしたらもう一本。時間測るつもりだったけど、途中でどうでもよくなった」
「三本しかないじゃん」
俺が言うと、シンは俺を見る。
「死にかけてるやつに継続力求めるなよ」
それで少しだけ空気が戻った。
シンは立ち上がる。
立つ時、一度だけ膝に手をついた。
前の身体なら、たぶんしなかった動きなのだろう。
「もういい?」
ミオが聞いた。
シンは周りを見た。
「うん。……いや、ちょっと待って」
壁際の石を見ている。
一番下。
黒いものが挟まっていた。
エダンが先に気づいた。
「布?」
四人で石を動かすほどではない。
小さい石を二つどける。
出てきたのは、泥だらけの革靴だった。
左だけ。
俺とシンが同時に黙った。
次の瞬間、シンが腹を抱えて笑い始めた。
「あるじゃねえか!」
洞穴に声が響く。
俺も笑った。
「槍より気にしてたやつ!」
「探したって言っただろ!」
「こんなとこ入ってたら分からん!」
ミオが靴を拾い上げる前に、手袋をつけた。
「待って。これ、ジンの遺留品扱いになる可能性あるから、勝手に持って帰らない方がいい」
シンの笑いが止まった。
「俺の靴なのに?」
「今の登録上は、あなたの靴じゃないでしょ」
「そこだけ急に現実を殴ってくるなよ」
エダンが靴とシンの足を見比べた。
「そもそも今の足に合うの?」
全員がシンの足を見る。
シンも見る。
嫌そうな顔をした。
「……たぶん、合わない」
「じゃあ履けないじゃん」
「そういう問題じゃないんだよ、レン」
結局、靴は布へ包み、組合へ持ち帰ることにした。
帰り道。
シンは行きより少し速かった。
ただ、泥区間の前では自分から一度止まった。
板の位置を確かめ、右膝を内側へ置く。
今度は滑らない。
外へ出る頃には、額に汗が浮いていた。
兄が通行記録の横で待っている。
「どうだった」
シンは息を整えながら、布包みを持ち上げた。
「死んだ場所、思ったより普通でした。あと靴が見つかった」
兄は一瞬だけ真顔で靴を見た。
「……よかったな」
たぶん、何がよかったのか分からず言っている。
シンも分かったらしい。
「ありがとうございます。俺もよく分かってません」
その日の午後、組合で靴は遺留品の袋へ追加された。
シンは受取欄に署名できなかった。
代わりに「発見者」の欄へ、今の名前を書いた。
《シン》
前の自分の靴を見つけた人として。
帰り際、俺が聞いた。
「嫌じゃなかった?」
シンは少し考えた。
「嫌だったよ。足挟まってた場所見た時は、吐くかと思った。でも、ずっと頭の中にあるよりはマシになった。あそこ、俺が死んだ場所だけじゃなくなってたから」
「救助経路になってたしな」
「それもある。人が通って、板置いて、縄置いて。勝手に変わってた」
シンは宿の方へ歩き出す。
「死んでも世界が止まらないって、こういうことなんだな。ちょっと腹立つけど」
最後だけ笑った。
俺は白嶺を見る。
道が出来た時も思った。
俺たちが一日いなくても、世界は進む。
人が死んでも進む。
でも、全部消えるわけじゃない。
壁の三本傷も。
左の靴も。
救助のために増えた板も。
同じ場所に、別々の時間が残っていた。
第38話 街道の真ん中で向かい合う
【本文】
白嶺街道で、最初の渋滞が起きた。
名前がついて五日目だった。
その朝、南側の入口には十一人いた。
ボルクの二回目の荷運び。
小樽十二個。
布。
塩。
工具。
前回の反省を、商人は本当に全部直してきた。
「見ろ。全部通る寸法だ」
ボルクは小樽を一つ持ち上げ、自慢げに言った。
エダンの兄が樽の直径を測る。
「ぎりぎりだな」
「ぎりぎり通るなら商品として勝ちだ」
「商人の勝ち方、怖いな」
俺が言うと、ボルクは笑った。
「道に合わせて樽作ったんだ。売れなきゃ泣くぞ」
今回は俺、ミオ、エダン、兄、ボルク、荷運び四人、組合から一人。
それにシン。
シンは荷物を持たない。
昨日、白嶺を往復しただけで脚がかなり張ったらしい。
「今日は見学。無理なら南側で待つ」
本人が先に言った。
ボルクが不思議そうに見る。
「若いのに慎重だな」
シンは少しだけ笑った。
「最近、人生は一回じゃないけど身体は一回ずつだって覚えたんで」
ボルクは意味が分からなかったらしい。
俺たちは分かった。
入口の記録へ十一人分を書く。
サーラは今日は別件でいない。
組合から来た若い男が、人数を二回数えた。
「十一。予定帰還は日没前。北側へ荷物渡して、全員戻る。よし」
ミオが掲示を確認する。
「昨日から地面乾いてる。泥区間は前回より楽だと思う。でも外縁の風が強かったら、荷物を一度止めるから」
ボルクが手を叩いた。
「じゃあ行こう。北で小樽を笑われる前に、まず山に笑われないようにする」
いいこと言ったような、そうでもないような。
洞穴へ入る。
人数が多いのは二回目だ。
前回より会話はかなり楽になった。
「青紐一個、エダンからレンへ」
「受けた。次、赤紐」
「赤紐、兄からエダン」
誰が何を送るか、名前を入れる。
最初は面倒だった。
でも、慣れると声が混ざらない。
狭い隙間。
泥区間。
外縁下降。
小樽は本当に通った。
ボルクは外斜面へ降りたところで、小樽を抱きしめた。
「勝った」
兄が呆れた。
「何にだ」
「穴に」
俺はちょっと分かる。
一個ずつ出来なかったことが出来るようになるのは、普通に気持ちいい。
問題は、その帰りに起きた。
北側へ荷物を渡し、ヘルムの小屋で水をもらった。
今日の取引相手は谷の向こうまで来る予定で、ボルクは荷物の半分だけそこで待たせることにした。
「全部持って南へ戻るより軽い。帰りは早いぞ」
そう言っていた。
実際、外斜面までは早かった。
岩棚を上がる。
穴へ入る。
縄を回収する。
先頭は兄。
その後ろがエダン。
俺。
ミオ。
シン。
残りが荷運びとボルク。
低い穴へ入る少し前。
前から声がした。
最初は、反響だと思った。
「……誰かいる?」
兄が止まる。
もう一度。
「そっち、何人だ!」
今度ははっきりした。
俺たちじゃない。
南側から誰か来ている。
エダンが俺を見る。
「今日、他に入る予定あった?」
組合の若い男が後ろから首を振った。
「南の記録にはなかった。俺たちが出た後に来たんだと思う」
兄が前へ大声を返す。
「こっちは十一! 北から南へ戻ってる! そっちは!」
少し間があった。
「七人! 南から北! 荷物あり!」
兄が天井を見た。
俺も見た。
見ても広がらない。
ちょうど一番嫌な場所だった。
この先は低い泥区間。
人一人と荷物一つを順番に通す幅しかない。
七人と十一人。
合計十八人。
白嶺街道の真ん中で、完全に向かい合った。
ボルクが後ろから聞く。
「すれ違える場所、ないのか?」
ミオが地図を開いた。
狭い中で紙を広げるのは難しい。
俺がランプを持つ。
「今いる場所から北へ戻るなら、広い空間まで十五分くらい。南側の人たちも、多分向こうの分岐からここまで来てる。どっちかが戻るしかない」
俺は聞く。
「こっち十一人だし、向こう七人なら向こう戻ってもらう?」
エダンがすぐ首を振った。
「人数だけじゃ決められない。向こうの荷物が重いかもしれないし、怪我人いるかもしれない」
兄が大声で向こうへ確認する。
「急ぎのやついるか! 怪我人! 動物!」
返ってきた声は少し聞き取りにくかった。
「怪我人なし! 荷物四つ! 北の薬屋へ乾燥薬草! 一人、年寄り!」
こっちは荷物が減っている。
全員歩ける。
兄が俺たちを見る。
「戻るぞ。北側の広い所まで」
ボルクが何か言いかけた。
でも、荷物を見て、何も言わず背負い直した。
俺は少し意外だった。
「文句言わないんですね」
「言って道広がるなら百回言う。広がらないなら歩いた方が早い」
商人は現実的だ。
十一人で戻る。
さっき通った道を逆に十五分。
ただ、疲れているから二十分かかった。
広い空間へ着く。
荷物を壁側へ寄せる。
待つ。
五分。
十分。
シンが座り込んだ。
「これ、前の身体でもきついと思う」
俺も隣へ座る。
「街道、敵より強いって昨日言った」
「今なら分かる。戦闘なら倒したら終わるけど、道は毎日別のやつ来る」
ミオは笑いながら、地図の余白へ何か書いている。
「それ、いいこと言ったつもり?」
シンが嫌そうな顔をする。
「俺、死んでから言葉に重み出た?」
「出てない」
「即答やめろよ」
少しして、南側から七人が来た。
先頭は白髪の男。
背中に薬草の束。
その後ろに若い女が二人。
荷運びの男たち。
最後に、小柄な老人。
白髪の男が俺たちを見ると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「戻らせて悪かった。掲示板で通れると見て、そのまま入った。中で向かいから来るとは思わなかった」
兄が返す。
「こっちも同じだ。道が一本しかないのに、誰も考えてなかった」
ボルクが口を挟む。
「一本じゃない。狭いところが一本なんだ。広い場所はある。そこを待ち場所にすればいい」
ミオが地図を指す。
「ここ。今いる空間と、もう一つ南側に少し広い場所がある。そこなら荷物を壁へ寄せれば、人はすれ違える」
白髪の男が覗き込む。
「じゃあ狭い区間へ入る前に、向こうから来てないか分かればいいんだが」
全員が黙った。
それが分からない。
山の反対側は見えない。
叫んでも、ずっと先までは届かない。
俺は少し考える。
「入口に人置く?」
エダンが答える。
「南と北、両方に? ずっと?」
「使う人増えるなら必要じゃない?」
兄は難しい顔をした。
「誰がやる。村の人間が毎日山の入口に立つのか。北側にも頼まなきゃ成立しない」
ボルクが腕を組む。
「金を取れば人は置ける」
組合の若い男がすぐ反応した。
「通行料の話は勝手に決めないでください。土地の扱いもまだ整理してない」
「じゃあ組合が人置け」
「人員が足りません」
「ほら、金いるだろ」
急に大人の話になった。
俺は地図を見る。
もう一つ方法がある気がする。
「時間分けるのは?」
ミオが顔を上げる。
「時間?」
「朝は南から北。昼の何時からは北から南。完全に固定じゃなくても、混みそうな時間だけ方向決める」
エダンが少し考える。
「商人は予定立てやすいかも。でも救助とか急ぎは別にしないと困る」
白髪の男が頷いた。
「薬や食べ物は止められない時がある。あと天気で到着時間もずれる」
ミオが地図の余白へ二本の矢印を書いた。
「じゃあ、まず試す。南入口と北入口に同じ通行表を置く。定時の方向枠を作って、それ以外に入るなら入口で待つか、経験者が中の待避点を確認してから入る。救助は例外」
兄が言う。
「紙だけで守るやつばっかりなら楽なんだけどな」
全員が少し笑った。
そこが一番難しい。
俺たちは七人を先へ通した。
薬草の老人が最後に横を通る時、俺へ言った。
「いい道だな。狭いけど」
「そこ、みんな必ず言うんですよ」
「広けりゃ十日かからん道が昔からあっただろ」
そう言って笑い、低い穴へ消えていった。
俺はその言葉を少しだけ引っかけた。
昔から。
ヘルムの話と似ている。
でも今は追わない。
十一人で南へ戻る。
入口へ出た時には、予定より一時間半遅れていた。
サーラが戻っていた。
通行記録の前で腕を組んでいる。
「遅いから迎えを出すところだった」
兄が荷物を下ろす。
「中で対向した。七人。薬草運び」
サーラの顔が変わった。
「……そこ、考えてなかった」
ミオが地図を開く。
「私たちも。待避できる場所は二つある。暫定で方向別の時間を作りたい。それと北側にも同じ掲示が必要」
ボルクが口を挟む。
「人も置け。今日一時間半遅れた。次はもっと来るぞ」
サーラがボルクを見る。
「費用を誰が出すか決まってない」
「じゃあ俺の小樽の利益から一日だけ出す。明日も詰まる方が高くつく」
今度は俺たちがボルクを見る番だった。
「何だよ」
ボルクが眉を寄せる。
「商人が道に金出すの、そんなに珍しいか。商品が止まる方が困るんだよ」
その日のうちに、南入口へ小さな机が出た。
翌朝だけの仮設。
紙が二枚。
《南→北 朝》
《北→南 昼以降》
下には大きく、
《急ぎ・救助・悪天候は別。入口で確認》
と書いた。
完璧じゃない。
たぶん明日には別の問題が出る。
でも、昨日までは道だけだった場所に、人が一人座ることになった。
白嶺街道で最初に必要になった建物は、宿でも店でもなかった。
机一個だった。
第39話 道の入口に鍋が来た
【本文】
机は、一日で増えた。
最初は通行記録用の机が一つだけだった。
翌朝、隣に椅子が増えた。
昼には小さな日除けが張られた。
その次の日。
鍋が来た。
俺が宿を出ると、白嶺街道の入口から湯気が上がっていた。
「何あれ」
隣を歩いていたミオも足を止めた。
「火事じゃないよね」
「いい匂いする火事なら、ちょっと見たい」
近づく。
鍋だった。
かなり大きい。
村の食堂の女将が、入口の仮設机から少し離れた場所に炉を組んでいる。
その横で、エダンが薪を割っていた。
俺はエダンを見る。
「何してるの?」
「見れば分かるだろ。薪」
「何で街道入口で?」
エダンは斧を振り下ろしてから答えた。
「昨日、南から北へ行く組が三組待った。方向の時間まで一時間以上あったから、みんな村まで戻って飯食って、時間ぎりぎりに走ってきた。女将が『だったらこっちで売る』って」
女将が鍋の蓋を開ける。
豆と肉の匂いが一気に広がった。
「待ってる人間は腹が減る。腹が減る人間がいるなら飯は売れる。それだけだよ」
ミオが周りを見る。
「でも、ここ村の外ですよね。勝手に店出していいんですか?」
女将は木杓子を止めた。
「朝、村長に聞いた。『まだ店じゃない、鍋だ』って言ったら、夕方までなら好きにしろって」
俺は思わず笑った。
「その理屈、強いな」
「明日も売れたら店になるかもね」
女将は何でもないことみたいに言った。
入口の机には、サーラが座っていた。
昨日の対向事故のあと、北側へも連絡を回している。
「ちょうどいいところに来た。二人ともこれ見て」
机の上に紙が三枚ある。
一枚目。
通行時間。
二枚目。
危険箇所の更新。
三枚目。
《荷物一時預かり》
俺は三枚目を指した。
「増えてない?」
「増えた。今朝、北へ行く商人が『方向待ちの間だけ樽を置かせてくれ』って。村の倉庫まで戻すの面倒だから」
「誰が預かるんです?」
「今は組合。でも、ずっとは無理」
サーラは鍋を見る。
「飯と荷物と通行管理。三日前まで、ここ何もなかったのにね」
その言い方で、俺も入口を見直した。
岩壁。
細い踏み跡。
入口の穴。
それは何も変わっていない。
でも手前には、机。
椅子。
日除け。
鍋。
荷物を置く板。
人が四人待っている。
道が一個出来ただけで、周りに物が増えている。
俺はちょっと楽しくなってきた。
「次、何増えるかな」
ミオが嫌そうな顔をする。
「楽しみにしないで。増えるってことは管理するものも増えるんだから」
「でも見たいだろ?」
「……見たいけど」
素直だった。
女将が鍋をかき混ぜながら笑う。
「二人とも、見るなら食べな。冷めたら売り物にならないよ」
銅貨二枚。
俺たちはまだ通行していないのに、白嶺街道で初めて金を使った。
昼前。
ボルクが来た。
今度は荷車が二台だった。
俺は遠くから見ただけで頭を抱えた。
「また増やした」
ボルクは悪びれない。
「小樽が売れた。帰り荷も増えた。商売が増えたら荷物も増える」
「道の方は昨日、渋滞したばっかりですよ」
「だから早く来た。南から北の時間だろ?」
ちゃんと掲示を読んでいる。
しかも荷物は全部、入口で積み替えやすいよう色紐がついていた。
青が塩。
赤が布。
黄色が工具。
ミオが感心した顔をする。
「前より分かりやすい」
「昨日、名前と色で呼べって言われたからな。商売で一回楽になることは、次からやる」
ボルクはそこで鍋に気づいた。
「飯あるのか?」
女将が即答する。
「銅貨二枚」
「一枚半」
「三枚」
「何で上がるんだよ」
「値切ったから」
俺は笑った。
商人は二枚払った。
その後ろから、知らない男が二人来た。
一人は革細工の道具を持っている。
もう一人は、小さな木箱を背負っていた。
革細工の男は入口の縄を見るなり、サーラに聞いた。
「これ、毎日使うなら擦れるだろ。交換用の革当て、ここで売れるか?」
サーラは少し困った顔をした。
「売れるかどうかは知らない。でも昨日も一枚傷んだ」
「じゃあ持ってくる」
それだけ言って、男は村の方へ歩いていった。
木箱の男は、逆に入口から動かない。
箱を開ける。
中には針、糸、留め具、小瓶、火口石。
旅道具だ。
「ここ、待つんだろ?」
サーラが警戒する。
「何をする気?」
「待ってる間に売る。駄目なら帰る」
鍋の女将が笑った。
「私と同じだね」
男は隣を見た。
「飯まであるなら、人止まるじゃん」
そこで初めて俺は分かった。
この人たち、誰も町を作ろうとしていない。
飯を売りたい。
荷物を置きたい。
縄を直したい。
待ってる間に小物を売りたい。
自分の都合で来ている。
なのに並べて見ると、もうちょっとした場所になっていた。
午後。
白嶺を抜けて北側へ行った。
今日は俺、ミオ、エダン、シンの四人だけ。
荷物は少ない。
目的は北入口の掲示確認と、ヘルムに昨日の通行時間の話を伝えること。
シンは昨日より歩けていた。
低い穴の前で自分から背負い袋を外す。
泥板では右膝を内側へ置く。
俺が何も言わなくても同じ失敗を繰り返さない。
「レベル上がった?」
俺が聞くと、シンは首を振った。
「まだ一。単に覚えた。何でも数字だと思うなよ」
「ゲームなのに?」
「ゲームだから余計にだろ。数字上がるまで何も上手くならないなら、つまらん」
それは俺もそう思う。
北側へ出る。
そこにも机があった。
南より小さい。
古い板を二枚組み合わせただけ。
ヘルムが羊を見ながら座っている。
「何してるんですか」
エダンが聞くと、老人は嫌そうに紙を持ち上げた。
「昨日、組合の若いのが来て置いていった。北から入るやつの名前を書けだと。わしは羊飼いだぞ」
「書いてるじゃん」
「暇な時だけだ」
紙にはもう五人分の名前があった。
ミオが通行時間の板を見る。
南側と同じ内容だ。
「これなら昨日みたいな対向は減ると思います。ただ、北側でずっと誰かに見てもらうのは無理ですよね」
ヘルムは鼻を鳴らした。
「冬になったらわしはここにいない。羊も下へ降ろす。机だけ置いても雪に埋まるぞ」
エダンが俺を見る。
また一個、季節の問題が増えた。
シンは机ではなく、その横に積んである荷物を見ていた。
乾燥果実。
毛皮。
小さな石箱。
「これ、南へ行くやつ?」
ヘルムが頷く。
「夕方の北から南に合わせて商人が置いていった。持ち手が来るまで預かれって。勝手な話だ」
口では文句を言っている。
でも荷物には雨除けの布がかけてある。
「預かり賃、取ればいいじゃないですか」
シンが言うと、ヘルムは眉を上げた。
「お前、商人か?」
「レベル一冒険者です。今、金ないんで仕事探してます」
俺たち三人が同時にシンを見る。
本人は少し照れたように笑った。
「前の金、俺のじゃないんだろ。宿代も飯代も今の俺が稼がないと。剣はまだまともに振れないし、荷運びも前ほど持てない。だったら、今できることで稼ぐしかない」
エダンが聞く。
「何できる?」
シンは少し考えた。
「死んだ経験ならある」
ミオが真顔で返した。
「仕事にしないで」
全員笑った。
でも、俺はそのあと少し考えた。
シンは白嶺の危険を知っている。
一回死んだ場所も知っている。
今の身体で初心者がどこでつまずくかも、昨日今日で知った。
強い案内人じゃない。
でも、初めて通る人に近い案内人にはなれるかもしれない。
俺が言う前に、シンが机の紙を見た。
「入口の説明役とか、荷物の整理なら出来るかもな。今なら『無理するとどうなるか』も説得力あるし」
「最後の売り文句だけ重いんだよ」
俺が返すと、シンは笑った。
「生きてるうちに使えるものは使う」
夕方、南側へ戻る。
入口の鍋は空になっていた。
女将が底を木杓子でこすっている。
「売り切れ?」
俺が聞くと、女将は満足そうに頷いた。
「三十杯。明日は鍋をもう一つ持ってくる」
ミオが反射的に言う。
「増やすんですか」
「人が増えるんだから、飯も増やすよ」
その後ろ。
朝はいなかった革細工の男が、小さな板を立てていた。
《縄当て・靴修理》
その隣には旅道具の木箱。
さらに、荷物を雨から守るための簡単な屋根まで出来ている。
エダンが立ち止まった。
「これ、片づけるの?」
女将が鍋を洗いながら答える。
「鍋は持って帰る。屋根は明日も使うから置いとくってさ」
「誰が決めたの?」
「知らない。朝からみんな勝手に相談してた」
ミオが地図ではなく、入口の周りを見ていた。
「線の外に、書くもの増えてきた」
俺は聞く。
「地図に店も書く?」
「毎日いるって決まったらね。一日だけなら書かない」
女将がすぐに口を挟む。
「じゃあ明日も来るよ」
ミオが黙った。
俺は笑った。
「書くもの増えたな」
白嶺街道の入口に、家はまだ一軒もない。
宿もない。
鍛冶場もない。
市場なんて呼べるものでもない。
でも、明日も使う屋根が一つ残った。
誰かがここへ戻ってくる理由が、一個増えた。




