第34話 地図を渡す日
北側、と書いた翌朝。
俺は朝飯のパンを半分かじったところで、エダンの兄に呼ばれた。
「組合から人が来た」
パンを持ったまま外へ出ると、村の共同倉庫の前に見慣れない馬が二頭つながれていた。
片方は荷物用らしく、鞍の左右に革袋がぶら下がっている。
その横で、茶色い外套を着た女がミオの地図をのぞき込んでいた。
「ここを、昨日三人で往復した?」
女は俺たちを見ると、地図の端から指を離した。
ミオが答える。
「はい。ただし、人が通れることを確認しただけです。荷車は無理ですし、低い穴は腹ばい。外側へ出るところは縄が必要です。雨と雪の時は条件が変わります」
「聞いていたより面倒ね」
女は嫌そうには言わなかった。
むしろ少し笑っている。
「でも、頂上を越えるよりは面倒じゃなさそう」
エダンが倉庫の壁にもたれて腕を組んだ。
「頂上は今の時期でも死ぬ人が出ます。こっちは、道具と人数を決めればたぶん通せる。ただ、誰でも勝手に入るのはまだ嫌です」
女がエダンを見る。
「村として?」
エダンは少しだけ間を置いた。
「俺として。村の話は、村で決める」
兄が横で何も言わずに頷いた。
それを見て、女は姿勢を少し直した。
「分かった。私は南支部の冒険者組合、現地調査担当のサーラ。今日は地図を買いに来たんじゃない。使える情報か、一緒に確かめに来た」
俺は残っていたパンを口へ入れた。
「買わないんだ」
ミオが肘で俺の腕を軽く押した。
「そこ?」
「いや、地図って売れるのかなと思って」
サーラが笑う。
「売れるわよ。正確ならね。間違って人が死んだら、次から誰も買わないけど」
急に値段より重い話になった。
ミオは地図を閉じた。
「だから、今日は原図は渡しません。サーラさん自身に通ってもらって、修正があれば直します。そのあと、公開範囲を決めたいです」
「いいわ。私はその方が信用できる」
出発は六人になった。
俺、ミオ、エダン、エダンの兄。
組合のサーラと、荷運びをしているという大柄な男のドノ。
ドノは入口の前で、俺たちが使っていた切った板を見て、しばらく黙った。
「これが白嶺越えの秘密兵器か?」
「今のところ最重要装備です」
俺が答えると、ドノは板を持ち上げた。
「軽いな」
昨日まで俺が重いと思っていた板が、片手で持ち上がった。
ちょっと腹が立つ。
エダンが笑いをこらえている。
「レン、持ってもらえば?」
「俺が見つけた道なのに、荷物係まで取られたら何が残るんだよ」
ミオが地図袋を肩へかけた。
「先に行きたがる係」
「大事な係だろ」
「止める人が必要になる係ね」
サーラが二人の会話を聞きながら、小さく笑った。
洞穴に入る。
今日は、いつもの三人じゃない。
だから、今まで気にしなかったところで何度も止まった。
最初の狭い隙間。
ドノの肩がつかえた。
「待って。装具外す」
彼は背負子を下ろし、外套を脱ぎ、肩の革当てまで外した。
それでもぎりぎりだった。
俺は向こう側で手を出した。
「荷物、先に送ってください。人と一緒に通すと詰まります」
「なるほどな。お前ら三人とも細いから気づかなかったか」
「気づきたくなかった事実を見つけられた」
ドノが笑う。
「道は、でかいやつを一人連れて歩け。穴の本当の幅が分かる」
ミオがすぐに地図の余白へ書き込んだ。
《大型装具は入口で分離》
次の泥区間。
板があるから荷物は通る。
ただ、ドノの体重で板が少し沈んだ。
兄が後ろから見て言った。
「板、もう一枚あった方がいいな。人用と荷物用」
エダンも泥を指で触る。
「雨のあと、もっと沈むかも。ここだけ床を作る?」
サーラが首を振った。
「いきなり作らない。誰の土地かも、古い構造物に触っていいのかも分からない。まず仮設」
俺はその言葉に引っかかった。
「誰の土地?」
「道が使えると分かったら、絶対あとで出る話よ。村の山なのか、領主の山なのか、古い境界がどこなのか。今は誰も欲しがらない崖でも、道になった瞬間に価値が出る」
ミオが地図を書く手を止めた。
エダンも黙った。
昨日まで俺たちは、通れるかどうかしか見ていなかった。
通れたら、今度は「誰のものか」が来るらしい。
面倒だ。
でも、ちょっとだけ面白い。
外側の穴。
縄三本。
固定三か所。
最初にエダン。
次に俺。
サーラ。
ミオ。
ドノ。
最後に兄。
ドノは降りる時、途中で完全に止まった。
「何かあった?」
下から俺が聞く。
「足場が見えん。腹が邪魔だ」
真顔だった。
上から兄の声が落ちてくる。
「昨日、晩飯三杯食ってたな」
「仕事の日は食うんだよ」
「今、仕事の邪魔してるぞ」
ドノが何か言い返しかけて、やめた。
「右足、壁に沿わせて。俺の声の方へ二十センチ」
俺が言うと、ドノは素直に従った。
「そこ。出っ張りあります」
足が乗る。
「お、あった」
「昨日、俺もそこ教えてもらいました」
人が増えると、同じ道が別の道になる。
三人だけなら簡単だったところが難しくなる。
逆に、力がある人がいれば楽になるところもある。
外斜面まで六人で出た。
サーラは方角を確かめる道具を出し、太陽と白嶺の主峰を何度も見た。
「北側で間違いない」
ミオは、昨日より静かに頷いた。
たぶん、自分の二文字を他人が確認したのが嬉しいんだと思う。
俺がそれを言おうとすると、ミオが先にこっちを見た。
「言わなくていいから」
「まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
エダンが隣で吹き出した。
帰りは、来た時より時間がかかった。
サーラが全部の危険箇所で止まり、ドノの身体でも戻れることを確認したからだ。
村へ戻ったのは昼過ぎだった。
共同倉庫の机へ地図を広げる。
ミオが、今日の修正を一つずつ書き込む。
《大型装具分離》
《泥区間・仮設板二枚推奨》
《外縁下降・体格差注意》
《六人通過時、片道所要増》
サーラは全部見終わってから言った。
「この状態なら、組合で限定公開できる。条件つきで」
エダンが聞く。
「条件って?」
「単独禁止。初回は案内人か経験者同行。悪天候時は閉鎖。大型荷物は分解。入口と外縁に通行記録を置く。何か変わったら地図も更新する」
ミオが少し考えた。
「原図は私が持ちます。組合へ渡すのは複写。危険箇所と現在の通行条件を一緒に載せるなら、公開していいです」
俺はミオを見る。
以前なら、たぶんもっと長く迷った。
サーラが確認する。
「公開して、本当にいい?」
ミオは地図の北側の線を指でなぞった。
「三人だけが知っている方が安全な時もあります。でも、今は違うと思います。遭難する人が減るなら、知っている意味があります」
エダンが続けた。
「ただし、村が困る使い方するなら止める。勝手に木切ったり、狩場荒らしたりするやつまで歓迎する気はない」
サーラは頷いた。
「それも書く。道は開く。でも、何でも自由になるわけじゃない」
俺だけ何も言っていないことに気づいた。
サーラがこっちを見る。
「発見者は?」
「発見者って言われると、急に立派なこと言わないといけない感じするな」
「別に立派じゃなくていいわよ」
俺は地図を見る。
あの線を見つけた時は、自分が通れれば十分だった。
でも、ジンを運び出そうとして、道が足りなかった。
昨日は三人で帰れた。
今日は六人で帰れた。
「使ってほしいです」
自分でも思ったより普通の言葉が出た。
「ただ、使った人が『ここ危なかった』って言える道にしたい。俺たちの地図が正しいってことにされると、たぶん次の崩れを見逃すから」
サーラは少しだけ目を細めた。
「それ、立派じゃないつもり?」
「今のなしで」
ミオが笑った。
その日の夕方。
組合の仮掲示板に、一枚の紙が貼られた。
俺たちは三人で見に行った。
上の方に大きな字。
《白嶺横断路・暫定通行情報》
その下に、誰かが鉛筆で小さく書き足している。
《白嶺街道って呼べばよくない?》
さらに別の字。
《街道にしては腹ばい》
その下。
《じゃあ白嶺腹ばい街道》
俺はしばらく黙って見た。
「嫌だ」
ミオが肩を震わせた。
エダンは声を出して笑った。
「もう広まってるぞ、白嶺腹ばい街道」
「絶対定着させるなよ」
翌朝には、その紙の一番上が書き直されていた。
《白嶺街道・暫定通行情報》
腹ばいは消えていた。
誰が消したのかは知らない。
でも、白嶺街道だけは残った。
第35話 街道なのに荷車が通れない
【本文】
白嶺街道と名前がついて三日後。
荷車が来た。
俺は村の入口で、それを見た瞬間に嫌な予感がした。
荷台には樽が六つ。
麻袋が十個以上。
木箱が四つ。
馬が二頭。
そして荷車の横で、商人らしい男が自信満々に言った。
「北まで抜けられると聞いた。通行料はどこで払えばいい?」
エダンが頭を抱えた。
「誰が荷車で通れるって言ったんだよ……」
男は驚いた顔をした。
「街道だろ?」
「名前だけです」
ミオが即答した。
俺は横で頷く。
「かなり腹ばいです」
商人は俺を見る。
「人が?」
「人が」
「荷車は?」
「入口で人生終わります」
ミオが俺を見る。
「荷車の人生って何」
「でも終わるだろ」
商人は荷車と白嶺を見比べた。
「聞いていた話と違うぞ」
サーラが後ろから歩いてきた。
「だから掲示に『大型荷物は分解』って書いたでしょう」
「分解って、箱から出すくらいだと思うだろ」
「荷車を山の中へ入れるつもりだったの?」
「街道って書いてある」
全員が一度、掲示板を見た。
名前の付け方に問題がある気がしてきた。
商人の名はボルクと言った。
北側へ塩と布を運び、帰りに乾燥果実と毛皮を持ち帰る予定だったらしい。
これまでの北回りは十日以上。
白嶺を抜ければ、うまくいけば二日か三日。
そりゃ来る。
俺でも来る。
問題は、樽六つが来たことだ。
共同倉庫の前で荷物を開ける。
兄が樽を叩いた。
「これは無理だ。横にしても低い穴で引っかかる」
ボルクが困った顔をする。
「中身は塩漬け肉だぞ。移し替えたら悪くなる」
エダンが樽の輪を見た。
「小樽に分けるなら?」
「小樽をそんなに持ってきてない」
サーラが腕を組む。
「今日は通行を諦めるのが一番安全ね」
ボルクは黙った。
怒るかと思った。
でも、彼は荷台を見て、白嶺を見て、俺たちを見る。
「……何なら通る?」
俺はその言い方が好きだった。
通らないで終わりじゃなくて、通る形を聞いている。
兄が荷物を一つずつ見ていく。
布の束。
塩の袋。
工具箱。
小さな油壺。
「袋物は分ければいける。布もいける。箱は中身次第。樽は今日は置いてけ」
ボルクが顔をしかめる。
「北側で肉が一番高く売れるんだが」
エダンが言う。
「高く売れるなら、次は通る樽作ればいい。ここの穴の幅測って、あっちで使う寸法決めよう」
ボルクがエダンを見る。
「樽を道に合わせろって?」
「今はそうするしかない。道を樽に合わせて山削るより早い」
兄が鼻で笑った。
「山削る話を簡単にするな。十年仕事になるぞ」
ミオはすでに紙へ穴の寸法を書き始めていた。
俺はそれを見て思う。
三日前まで、俺たちは人が通れるかを見ていた。
今は樽の幅を測っている。
街道って、もっと格好いいことをする場所だと思っていた。
「レン、何ぼーっとしてるの」
ミオの声で戻る。
「いや。白嶺攻略が樽攻略になったなって」
ボルクが笑った。
「商売ってそういうもんだ。魔王より樽の方が儲けを止める」
この人、ちょっと好きかもしれない。
結局、今日運ぶのは全体の三分の一になった。
荷車は村に置く。
馬も置く。
荷物を小分けにして背負子へ載せる。
人は俺たち三人、エダンの兄、ボルク、組合から二人。
八人。
一度にこれだけ通すのは初めてだった。
入口で、通行記録へ名前を書く。
サーラが作った簡単な紙だ。
《入山》
《人数》
《予定帰還》
《目的》
ボルクが書きながら言う。
「こんなの毎回いるのか?」
エダンが答える。
「今は。何かあった時、誰が中にいるか分からない方が困る」
「商人は行き先をあまり書きたくないんだけどな」
「北側まで、でいい。誰に売るかまでは聞いてない」
ボルクは少し考えてから書いた。
エダンが生活側の言葉で決めると、妙に納得しやすい。
洞穴へ入る。
狭い隙間。
荷物を外す。
先へ送る。
また背負う。
泥区間。
板二枚。
一枚は人。
一枚は荷物。
今日、初めてそれが本当に役に立った。
人数が多いから、前と後ろで声が届きにくい。
俺が前で叫ぶ。
「次、荷物一個だけ! 二個送ると曲がりで詰まる!」
後ろから誰かが返す。
「どの荷物だ!」
声だけじゃ誰か分からない。
エダンがすぐに言い直した。
「青紐の布束! エダンが送る! 受けるのレン!」
「あ、それ分かりやすい」
ミオが後ろから言った。
「名前つけるの、これから固定しよう。人数増えたら絶対混乱する」
俺は布束を受けながら思う。
三人の時は、声だけでだいたい分かった。
八人になると、同じ会話が使えない。
道だけじゃない。
しゃべり方まで作り直す必要があるらしい。
外縁下降。
ここが一番時間がかかった。
人を一人ずつ。
荷物を一つずつ。
縄の上げ下げだけで何度も待つ。
ボルクは三往復目くらいで、岩棚に座り込んだ。
「短い道って聞いた」
俺も隣へ座る。
「距離は短いです」
「時間は?」
「今、育ててます」
「道って育つのか」
「俺も最近知りました」
ボルクはしばらく黙って、それから笑った。
「なら、早く育ててくれ。十日の道に戻りたくない」
最後の荷物が下りた時、俺たちは全員疲れていた。
まだ北側の斜面を百メートルしか降りていない。
でも、そこから先は昨日より簡単だった。
獣道を抜ける。
低木が切れる。
そして、谷が見えた。
昨日、遠くに聞こえた鈴。
今日は近い。
カラン。
カラン。
斜面の下に、羊がいた。
二十頭くらい。
その向こうに、小さな石造りの小屋。
煙突から煙が出ている。
俺は思わず立ち止まった。
「煙、あれか」
ミオが地図を開く。
「昨日見えた位置と、だいたい合う」
エダンは羊を見ている。
「北の商人が言ってた放牧地かな。白嶺のこっち側まで人が来るって話は聞いてたけど……こんな近いのか」
羊飼いらしい老人が、こちらへ気づいた。
最初は手を目の上へかざしただけだった。
次に、立ち上がる。
そして大声で何か言った。
距離があって聞き取れない。
ボルクが急に前へ出た。
「待て、俺、北言葉少し分かる」
老人がもう一度叫ぶ。
ボルクが聞き返す。
今度は、こっちを見て笑った。
「『どこから湧いた』だと」
俺は後ろの白嶺を見る。
穴はもう見えない。
確かに、湧いたようにしか見えない。
ボルクが大声で返す。
「山の向こうからだ!」
老人はしばらく黙った。
それから、杖を地面へついて笑い始めた。
遠くても分かるくらい笑っていた。
俺たちも、つられて笑った。
初めて北側の人と話した言葉が、「どこから湧いた」だった。
悪くない。
小屋まで行く。
老人の名はヘルム。
羊と一緒に季節ごとにこの谷を使うらしい。
白嶺南側の村の名前を言うと、眉を上げた。
「そこから来たなら、十日はかかる」
ボルクが得意そうに言う。
「今日は半日だ」
「嘘つけ」
「俺も朝までそう思ってた」
老人は俺たちの泥だらけの膝と、背中の荷物を見た。
「……本当に山から出てきたのか」
エダンが頷く。
「山の中を通った」
老人の顔から笑いが消えた。
「昔の穴か?」
その一言で、ミオの手が止まった。
俺もエダンを見る。
エダンが聞く。
「知ってるんですか?」
老人は白嶺を見る。
「知ってるわけじゃない。爺さんが言ってただけだ。山は昔、中を通れた。北と南で兵が行き来した。そんな話だ」
古い石。
四角い穴。
不自然に平らな壁。
全部が一瞬で頭に戻ってくる。
俺はすぐに聞きたいことが十個くらい浮かんだ。
でもミオが先に言った。
「今日は荷物を届けるのが先。話、また聞かせてもらえますか?」
老人は肩をすくめた。
「羊が逃げなきゃ、いつでもいる」
ボルクが荷物を下ろしながら俺を見る。
「な?」
「何が?」
「樽より面白いもの出てきただろ」
「樽もかなり面白かったです」
「お前、商人向いてるぞ」
それは嫌だ。
……いや、ちょっとだけ考えた。
帰りは荷物が減ったぶん早かった。
でも、村へ着いたのは日が落ちる直前だった。
入口の通行記録へ、全員の帰還を一本ずつ消していく。
最後の名前。
ボルク。
エダンが線を引いた。
「八人、全員帰還」
サーラが時間を見る。
「荷物あり。初回。往復成立」
ボルクは荷車の横へ戻ると、残していた樽を叩いた。
「次までに、小さい樽を十二個作らせる」
兄が呆れた顔をした。
「本気か」
「十日が半日になるんだぞ。本気になるだろ」
その時、俺は初めて分かった。
道は、人が通れるから道になるんじゃない。
もう一度使いたい人が出てきた時に、道になる。
第36話 死んだやつが歩いてきた
【本文】
翌朝、俺は筋肉痛で目が覚めた。
白嶺を二往復したわけでもない。
戦ったわけでもない。
荷物を上げ下げしただけだ。
なのに腕が重い。
「街道、敵より強いな……」
寝台の上でつぶやいてから、しばらく天井を見た。
外から誰かが走る音がする。
次に、宿の扉が勢いよく開いた。
「レン!」
エダンの声だった。
「生きてる?」
「朝一番の確認がそれ?」
「いいから来て。組合」
何かあった。
俺は靴を片方履いたところで立ち上がり、そのままもう片方を探した。
寝台の下。
何でそこにある。
外へ出る。
ミオも向こうから歩いてきた。
いつもより速い。
「聞いた?」
「何を?」
「私も『組合に来て』だけ」
エダンは先へ行っている。
「説明しろよ」
「多分、説明できないんだと思う」
その言い方で、余計に気になった。
組合の小さな建物へ入る。
朝なのに人が多い。
サーラ。
ドノ。
受付の男。
エダンの兄までいる。
そして、壁際に知らない若い男が立っていた。
年は俺たちと近い。
十八か十九くらいに見える。
髪は明るい茶色。
目も違う。
体格も違う。
見たことがない。
なのに、男は俺を見た瞬間に言った。
「遅い」
俺は足を止めた。
その言い方。
どこかで聞いた。
男は続ける。
「助けに来る時も遅かったけど、朝も遅いんだな」
頭の中で、洞穴の暗さが戻った。
崩れた石。
血。
動かなくなった身体。
俺は男の顔を見たまま言う。
「……誰?」
聞かなくても、分かりかけている。
でも、顔が違いすぎる。
声も違う。
男は少しだけ笑った。
「ジン」
部屋の中が静かになった。
受付の男が咳払いする。
「正確には、今の登録名はシンだ。北東転生院で魂迎え。三日前に新規身分登録。昨日、南行きの隊商へ便乗してここまで来た」
俺は受付を見る。
「ジンって……あの?」
「本人がそう申告している。ただし組合は前世本人であることを証明しない。できない」
男――シンが肩をすくめた。
「そういう決まり。俺も三回説明された」
ミオが一歩だけ前へ出た。
「前の記憶は?」
「ある。全部じゃない。死ぬ前後はところどころ飛んでる。でも、あの穴で足挟まれて、最初に来たのがこいつ」
シンが俺を指す。
「こいつじゃ分かんないよ」
俺が言うと、シンは眉を寄せた。
「お前、俺に『起きてる?』って三回聞いた」
「二回だろ」
「三回」
「いや、最初は名前聞いたんだよ」
「それ込みで三回似たようなこと聞いた」
ミオが口元を押さえた。
エダンまで笑いそうな顔をしている。
俺は二人を見る。
「そこ笑うところじゃないだろ」
シンが言う。
「俺はちょっと笑える」
その瞬間、胸の奥に詰まっていたものが少しだけほどけた。
完全に同じじゃない。
顔も身体も声も違う。
なのに、知っている人が中にいる。
変な感じだった。
俺は椅子へ座る。
「本当に……戻ってくるんだな」
シンは壁にもたれたまま、しばらく俺を見た。
「戻ってきた、は違うと思う」
その言葉に、部屋がまた静かになった。
シンは自分の手を見る。
「前の身体じゃない。レベルも一。剣振ったら笑うくらい重かった。前の金も家も、登録も、全部俺のじゃない。ジンの知り合いに会いに行っても、向こうが信じるかは別」
俺は何も言えない。
シンが少し笑う。
「だから、戻ったっていうより……続いてる、かな。俺の方だけ」
ミオは地図袋の紐を指でいじっていた。
「名前、シンにしたのは?」
「転生院で決めろって言われた。ジンのままでもいいらしい。でも、顔違うのに同じ名前なのが気持ち悪くて。似てる方が自分で忘れないかなって」
エダンが初めて口を開いた。
「身体、大丈夫なの?」
シンは腕を上げた。
「健康。新品」
「新品って言い方する?」
「だって新品だろ。昨日、歩きすぎて靴ずれしたけど」
その辺は普通だった。
サーラが机の奥から布包みを持ってきた。
俺は見ただけで分かった。
ジンの装備だ。
洞穴から回収したもの。
槍の穂。
小さな袋。
留め具。
完全死亡したあと、組合へ渡した。
サーラは包みを机へ置いたが、シンの前へは押し出さなかった。
「あなたがジン本人だとしても、これは今のあなたの所有物には自動で戻らない」
シンは頷く。
「知ってる」
「財産処理が終わるまでは保管。相続人がいればそちらが優先。いなければ規定に沿う」
「それも聞いた」
シンは槍の穂を見た。
手を伸ばさない。
俺は、それが一番きつかった。
前の自分の武器が目の前にあるのに、自分の物じゃない。
シンが突然、俺を見る。
「で、左の靴は?」
「……靴?」
「俺、片方なかっただろ」
思い出す。
確かに、救出の時には片方しかなかった。
「見つからなかった」
「やっぱりか」
シンは本気で残念そうな顔をした。
「気に入ってたんだけどな」
俺は拍子抜けした。
「槍より靴?」
「槍は高かったけど、靴は馴染んでた」
エダンの兄が小さく笑った。
「冒険者の価値観は分からんな」
「兄さん、毎日同じ斧使ってるだろ。たぶん同じです」
エダンが言うと、兄は黙った。
たぶん図星だった。
少し空気が戻る。
俺はシンに聞いた。
「何でここに来た?」
「それ」
シンは窓の外を指した。
掲示板が見える。
《白嶺街道・暫定通行情報》
「転生院の近くでも噂になってた。白嶺を半日で抜けたやつがいるって。名前見たら、レン、ミオ、エダン」
シンは俺たち三人を順番に見る。
「俺が死んだあと、何してんだよって思った」
俺は返事に困る。
「道作ってた」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ」
「会話だよ」
ミオが吹き出した。
一言だけの返しなのに、今のは妙に人間っぽかった。
シンは続ける。
「あと、確かめたかった。俺が死んだ場所が、どうなったか」
それで部屋の空気がまた変わる。
俺は洞穴のことを思う。
あの場所はもう、俺たちにとって道の途中だ。
人が通る。
荷物が通る。
笑い声まで通る。
でもシンにとっては、自分の人生が終わった場所だ。
「行く?」
俺が聞くと、シンはすぐには答えなかった。
自分の手を見る。
「行きたい。でも、今の身体であそこ通れるか分からない。レベル一だし、前の感覚で動いたら多分転ぶ」
ミオが頷く。
「それでいいと思う。最初から、通れるか確認すればいい」
シンがミオを見る。
「地図の人、相変わらずだな」
ミオの眉が動いた。
「前に会ったの、一回だけじゃなかった?」
「救助中ずっと地図気にしてた」
「気にしてない。帰り道を確認してたの」
「同じだろ」
「違う」
俺は二人を見た。
本当に、続いている。
形は変わっても。
その日の昼。
シンは宿の前で木剣を振っていた。
一回目。
振り遅れる。
二回目。
身体がついてこない。
三回目。
木剣を落とした。
俺は横で見ていた。
「新品、調子悪いな」
シンが睨む。
「黙れ。前はもっとできた」
「前は、だろ」
シンは木剣を拾う。
少し悔しそうに笑った。
「そうなんだよ。それが腹立つ」
俺は宿の壁にもたれた。
「俺、白嶺の最初の崖で同じことした。身体補助あるからいけると思って落ちかけた」
「慰め方、下手だな」
「でも今は通れる」
シンは木剣を握り直した。
「じゃあ俺も、そのうち行けるか」
「多分」
「多分かよ」
「道と同じ。試さないと分からん」
シンはしばらく黙っていた。
それから、木剣を構えた。
今度は前よりゆっくり振る。
綺麗じゃない。
前のジンなら、もっと上手かったのかもしれない。
でも今の一振りは、今の身体でやった一振りだった。
夕方、ミオが地図を持ってきた。
白嶺街道の線。
その途中に、ジンが死んだ場所はある。
俺はその点を見る。
「名前つける?」
ミオが首を振った。
「本人が決めればいいと思う」
「シンが?」
「うん。私たちが勝手に『ジン死亡地点』とか書いたら最悪でしょ」
想像した。
最悪だった。
「絶対やめよう」
その時、宿の外からシンの声がした。
「何をやめるんだ?」
俺たちは同時に地図を閉じた。
シンが怪しそうに見る。
「今、俺の話してた?」
ミオが先に答えた。
「してない」
「した顔してる」
俺は笑いをこらえる。
シンは諦めたように椅子へ座った。
「まあいい。それより、明日あの道見せてくれ」
「身体は?」
「朝もう一回試す。無理なら途中で戻る」
その言い方を聞いて、俺は少し嬉しくなった。
死んだやつが帰ってきた。
でも、前のままじゃない。
そして前のままじゃないから、また最初から道を試す。




