第31話 四つん這いの先
翌朝、入口の前に置かれていた板を見て、俺は思わず足を止めた。
昨日、エダンが「板一枚」と言ったからだ。
確かに一枚だった。
ただし長い。
俺の身長より少し短いくらいある。
「これ、洞穴に持って入れる?」
俺が聞くと、板の横で縄をまとめていたエダンの兄が顔も上げずに答えた。
「持っていける板を選んだ。お前が『軽い板』とは言わなかっただけだ」
「そういう言葉の穴を突くの、村で流行ってる?」
「お前が穴に入りたがるから合わせてる」
エダンが荷物を背負いながら笑った。
「兄貴、昨日からちょっと機嫌いいんだよ。向こうに煙があるって聞いてから」
兄の手が止まった。
「余計なこと言うな。煙が人の火だと決まったわけじゃない」
ミオが地図袋を肩へかける。
「そこは私と同じですね。今日は、外へ出ることより、まず人が通れるかを確認します。板も全部持ち込まず、狭いところの手前で必要な長さだけ使います」
兄はようやく顔を上げた。
「それならいい。切るなら一回で決めろ。短くしすぎても戻らんぞ」
俺は板を持ち上げた。
思ったより重い。
「これ、俺が持つの?」
「一番元気そうだからな」
「判断基準が雑すぎる」
「嫌なら置いてけ」
置いていく気はない。
それを分かって言っている顔だった。
昨日までの印をたどり、白い石を越え、狭い山羊道を抜ける。
俺は今日は最初から短剣を外して、板と一緒に縄で引いた。
三回目ともなると、あれほど嫌だった隙間が少し短く感じる。
水路。
黒い膜。
四角い石。
外が見える亀裂。
そして、その三メートル手前。
山羊の蹄が消えている低い穴の前で、俺たちは荷物を下ろした。
穴はやっぱり低い。
立つどころか、膝をついても頭が当たりそうだ。
エダンが腹ばいになり、ランプだけ先へ出した。
「昨日見えたところまでは泥。そこから先、少し下がってる」
ミオが後ろから聞く。
「幅は?」
「肩は通る。板は……そのままだと引っかかるかも」
俺は板を横へ置いた。
「切る?」
「まだ」
ミオが即答して、俺の手から小さな鋸を取った。
「一回で決めろって言われたでしょ。先に必要な長さ測る」
「俺、そんな勢いだけで板切りそうに見える?」
二人とも何も言わなかった。
「最近、無言が一番傷つくんだけど」
エダンが穴の中で笑う。
「早く縄よこして。俺が先に行けるところまで行く」
板の代わりに、布を巻いた小さな荷物を縄につける。
エダンが先に潜り、数メートル進んだところで縄を引いた。
「送って」
俺が荷物を押す。
泥の上をずるずる滑る。
途中で止まった。
「引っかかった?」
ミオが聞く。
「いや、たぶん泥が深い」
俺が少し持ち上げると、奥からエダンが引いた。
荷物がまた動く。
「板、これなら三尺くらいで足りる。入口から途中の泥だけ越せれば、その先は岩だ」
戻ってきたエダンの肘から先は泥だらけだった。
俺は思わず笑った。
「板の必要性を身体で証明したな」
「笑うなら次レンな。俺、顔までついたから」
「顔は自分でつけたんだろ」
ミオが布を一枚渡した。
「二人とも、先に泥の深さ見て。服の話はそのあと」
板を必要な長さだけ切る。
残りは壁際へ立て、帰りに持ち帰る。
切った板へ細い縄を通し、荷物用の小さな橇みたいにした。
今度は俺が先に入る。
四つん這い。
最初はまだいい。
三メートルで膝が泥へ沈んだ。
「うわ、冷た」
後ろからミオの声がする。
「声は元気そうだから大丈夫そうだね」
「心配の基準が雑になってない?」
「昨日よりは信用してるよ。無理なら戻るって言うでしょ」
一瞬、返事に詰まった。
前ならたぶん、そんなふうには言われなかった。
「……言う。今日はちゃんと言う」
「じゃあ進んで」
急に扱いが強い。
板の上へ荷物を乗せ、少しずつ引く。
泥の区間を抜けると、床がざらついた岩に変わった。
天井も少し上がる。
膝立ちなら進める。
後ろからエダン。
最後にミオ。
三人が並べる幅はないから、声だけで位置を確認する。
「レン、前どれくらい見える?」
ミオの声が後ろから届く。
「十メートルくらい。右に曲がってる。床は乾いてる」
「風は?」
エダンが俺の背中越しに聞く。
俺はランプの火を見る。
少し揺れている。
「前から来てる。昨日の亀裂より強いかも」
「なら抜けてる可能性あるな。でも出口の直前で落ちてる穴もあるから、立てても走るなよ」
エダンに言われると妙に説得力がある。
「今日は走らない。昨日も走ってないけど」
「レンの『走ってない』は信用しない」
後ろからミオまで乗ってきた。
曲がりを一つ。
さらにもう一つ。
その先で、俺は止まった。
「止まって」
今度は二人ともすぐ止まった。
前方が明るい。
でも昨日の亀裂みたいに、壁の向こうが見える明るさじゃない。
床そのものが終わっている。
俺は腹ばいになり、ランプを横へ置いて、ゆっくり顔だけ前へ出した。
風が一気に当たった。
外だ。
目の前に空がある。
ただし、足場はない。
正確には、俺たちがいる穴の出口から二メートルほど下に、細い岩棚がある。
そこからさらに斜面が落ちている。
「見える?」
エダンが後ろから聞く。
「外。完全に外。でも、そのまま出たら二メートル落ちる」
ミオの声が少し近づいた。
「戻って。順番に見る」
「いや、ここ広くなってる。横へずれれば一人ずつ顔出せる」
俺は左へ身体を寄せた。
エダンが横まで来る。
外を見た瞬間、息を吐いた。
「……昨日の亀裂より、ずっと下が見える」
次にミオ。
地図袋を胸の下へ入れないよう、横へずらしながら慎重に出てくる。
三人で、穴の縁から外を見た。
昨日見えた黒い森。
銀色の川。
その奥の白い尾根。
煙は今日は見えない。
代わりに、昨日は角度のせいで見えなかった谷がかなり広く見えた。
エダンが岩棚を指す。
「山羊、あそこ歩いてる」
細い岩棚に蹄の跡がある。
右へ続き、途中で草のある斜面へ消えている。
俺は出口の縁を手で触った。
「人も下りられそうじゃない?」
ミオが岩棚までの高さを見た。
「下りるだけならね。戻れなかったら道じゃない」
「縄あれば?」
「固定場所が必要」
エダンが少し後ろへ戻った。
「さっきの曲がりに、でかい岩の角あった。そこへ巻けばいけるかも。でも一本だけは嫌だな。外れたらそのまま下だ」
俺も戻る。
探す。
岩角はある。
ただ、表面が丸い。
その近くに、昨日見たものと似た四角い石が半分だけ床から出ていた。
中央に穴がある。
三人とも黙った。
最初に口を開いたのはミオだった。
「似てる。でも、同じ用途とはまだ言わないでね」
俺は穴へ指を入れず、横から覗く。
「言ってない。今ちょうど、言うの我慢したところ」
エダンが笑う。
「成長したな」
石の穴には、古い擦れ跡みたいな筋があった。
縄が通っていたのか。
木が差してあったのか。
水が削っただけなのか。
分からない。
でも、今の俺たちにとっては使える可能性がある。
エダンが持ってきた縄を穴へ通さず、まず外側へ巻いて引いた。
石そのものが動かないことを確認する。
次に岩角。
二か所。
ミオが結び目を見て首を振った。
「これで下りない。今日は荷物だけ下ろして、岩棚の状態を見る」
「人は行かない?」
俺が聞くと、ミオは外を見たまま答えた。
「行きたいよ。でも、行きたいから一個ずつやるの。昨日、自分でそうしたでしょ」
それを言われると弱い。
小さな袋へ石を入れる。
人一人分よりずっと軽い。
縄でゆっくり下ろす。
岩棚へ着いた。
少し引く。
滑らない。
もう少し強く引く。
岩棚の端の砂が落ちた。
思ったより脆い。
エダンの顔が変わった。
「左側、駄目だな。見た目より崩れる。下りるなら右だ」
俺も覗く。
同じ岩棚でも、右側は灰色の硬い岩が出ている。
山羊の跡も右へ寄っていた。
袋を引き上げる。
今日はそこまでにした。
帰り道。
泥の穴を抜けたところで、エダンが板を持ち上げた。
「これ、明日も要るな」
俺が答える。
「板一枚で白嶺越えたら、兄さんに名前つけてもらおう」
「絶対つけん」
本人の声がした気がして、三人で笑った。
もちろん、兄は入口にいる。
聞こえるわけがない。
それでも今日は、昨日より外が近い。
人間は穴を通れた。
次は、二メートル下へ降りて、また戻れるか。
白嶺はとうとう、「向こうがある山」から「降り方を考える山」になった。
第32話 六メートルの縄
【本文】
兄は、俺たちが昨日持ち帰った板を見てから、縄を見た。
それからもう一度、板を見た。
「短くなったな」
「一回で決めた」
俺が胸を張ると、兄は切り口を指でなぞった。
「三寸長い」
「そこまで分かるの?」
「毎日木を切ってる人間を何だと思ってる」
エダンが横から板を覗いた。
「でも昨日はちょうどよかったぞ。短いと泥に落ちる」
兄は少し考えて、頷いた。
「ならそのままでいい。で、今日は本当に外へ降りる気か」
俺が答える前に、ミオが地図を開いた。
「条件が揃えば。一人ずつです。固定は二系統。最初に荷物を下ろして岩棚をもう一度確認。戻り用の登りを先に試して、三人同時には外へ出ません」
兄は俺を見る。
「お前が言え」
「何で俺だけ試験あるの」
「一番先に行きそうだからだ」
仕方ない。
俺は指を折った。
「縄二本。固定二か所。最初は荷物。次に俺が降りても、二人は中に残る。下で戻れるの確認してから次。時間来たら煙が見えても何が見えても戻る」
兄は少しだけ眉を上げた。
「最後のが一番怪しいな」
「そこは二人に止めてもらう」
「自分で止まれ」
正しい。
今日は縄を二本持った。
一本は身体用。
一本は荷物用。
狭い穴を抜け、外の縁まで進む。
昨日の固定候補をもう一度見る。
四角い石は動いていない。
岩角も問題ない。
エダンが縄を二本とも引き、別々の場所へ体重をかける。
「一個が駄目でも、もう一個で止まるようにする。結び目も同じ場所へ寄せない」
ミオはしゃがみ込み、縄が岩へ擦れる場所へ厚い布を巻いた。
「昨日、ここ少し毛羽立ってた。下りる時より登る時の方が何度も擦れるかもしれない」
俺は手袋を締め直す。
怖くないわけじゃない。
でも、最初に崖を見た時みたいな怖さとは違う。
どこへ足を置くか分かっている。
戻る方法も考えてある。
怖い場所が、少しだけ問題に見える。
「先、行く」
俺が言うと、ミオが俺の腰の結び目を引いた。
一回。
二回。
「緩くない。手袋は外さない。下で変だと思ったら格好つけずに戻って」
「格好つけたことあった?」
エダンが後ろから言う。
「ある。何回も」
「具体例は今いらない」
ミオまで笑った。
ちょっと悔しいけど、空気が軽くなった。
出口へ腹ばいになる。
昨日確認した右側。
硬い岩棚の上へ右足を伸ばす。
届かない。
もう少し身体を出す。
縄へ重さが乗る。
腰が引かれる。
足先が岩へ触れた。
「届いた」
上からエダンの声。
「右へ半歩。左側は崩れる」
言われた通り右へずらす。
両足が乗る。
立てた。
外だ。
と言っても、背中のすぐ後ろは岩壁。
目の前は斜面。
頭の上には、今出てきた小さな穴。
俺は一歩も動かず、まず足元を見る。
岩棚の幅は、一番狭いところで靴二足分くらい。
右へ行くほど少し広がる。
山羊の跡はそこを通っている。
「立てる。右側なら硬い。左は触らない方がいい」
ミオが上から聞く。
「登れる?」
「試す」
ここが一番大事だ。
降りられても、上がれなければ意味がない。
俺は縄を両手で持つ。
岩壁へ足を当てる。
一歩。
もう一歩。
身体補助が引き上げる方向へ力を足そうとする。
俺は急がない。
足裏が乗ったのを確認してから次。
三歩目で、左足が少し滑った。
心臓が跳ねた。
でも縄は張ったまま。
落ちない。
上からミオの声が飛んできた。
「止まって。左足、さっき砂落ちた場所?」
「たぶん。右へ戻す」
「焦らなくていい。腕だけで上がらないで」
エダンも続ける。
「右膝を岩に当てろ。そこだけ出っ張ってる」
二人の声が近い。
俺は右へ寄る。
膝を当てる。
そこからなら、一気に楽になった。
穴の縁へ手をかける。
エダンが腕を出した。
俺はその手を見て、少し迷った。
「自分で上がれる」
「知ってる。でも使える手があるなら使えよ」
言い方が、やけに普通だった。
俺は腕を取った。
上がる。
穴へ戻った瞬間、三人とも一度だけ息を吐いた。
ミオが俺の手袋を見る。
「破れてない?」
「大丈夫。左足のところだけ嫌だった」
エダンはすぐ外を覗いた。
「そこ、印つけよう。帰りに同じ場所踏まないように」
外へ出る前から、帰り道が一個増えた。
二回目。
今度はエダンが降りる。
俺とミオが中に残る。
エダンは山で育っているぶん、俺より動きが速い。
ただ、速いからこそミオが止めた。
「エダン、そこで一回止まって。縄が右へ寄ってる」
エダンが見上げる。
「これくらいなら平気だと思うけど」
「平気かどうかじゃなくて、三人が同じ使い方できるようにしたい。レンの時と違う位置を通ると、次が分からなくなる」
少し間があった。
「分かった。戻す」
エダンが素直に従う。
俺は横で聞きながら、ミオを見る。
最初に会った時から慎重だった。
でも今は、「危ないからやめる」じゃない。
危ない場所を、三人が同じように通れる形へ変えようとしている。
たぶん俺よりずっと、道を作っている。
エダンも戻る。
最後にミオ。
彼女は外へ降りる前に、地図袋を俺へ差し出した。
俺は受け取った。
「三メートル限定?」
ミオが縄を締めながら答える。
「今日は六メートルくらい信用する」
「倍になった」
「落としたらゼロに戻る」
条件が厳しい。
俺は地図袋を両腕で抱えた。
ミオが降りる。
動きは一番遅い。
でも、足を置く前に必ず見ている。
岩棚へ立つと、しばらく外を見たまま動かなかった。
俺が上から声をかける。
「どう?」
「……思ったより広い」
「何が?」
「世界」
それだけ言って、ミオは自分で笑った。
「今のなし。ちょっと恥ずかしい」
俺も笑う。
「地図に書いとく?」
「絶対やめて」
珍しく本気で嫌そうだった。
ミオも戻る。
三人とも、一人ずつなら降りて戻れた。
次は岩棚の先。
山羊の跡を右へ追う。
ただし、今日は全員で外へ出ない。
俺だけもう一度降り、命綱をつけたまま岩棚を五、六メートルほど進む。
右へ行くほど幅が広くなる。
途中から腰くらいの低木が生えていた。
土がある。
雪もない。
さらに先は、斜面へ普通に足を下ろせそうだった。
俺はそこで止まる。
下へ行きたい。
煙の方向を見たい。
でも縄の長さが終わる。
六メートル。
今日の世界は、六メートルぶんだけ広がった。
上へ戻る。
穴を抜けた瞬間、エダンが俺の肩についた葉を取った。
「外の葉っぱ」
俺も見る。
こっち側の洞穴にはなかった、細く硬い葉。
エダンが指先で揉んで匂いを嗅ぐ。
昨日言っていた、村側ではあまりしない木の匂い。
「これだ。交易の荷に混じってくるやつ」
ミオが葉を受け取り、地図の余白へ挟んだ。
「証拠にする?」
俺が聞く。
「地図の証拠にはしない。あとで誰かに木の種類を聞くため」
「ほんとに何でも地図には入れないんだな」
「地図が重くなるからね。紙の話じゃなくて」
分かるような、まだ全部は分からないような言い方だった。
入口へ戻る。
兄は今日も待っていた。
俺たちの泥と、縄と、切った板を見る。
「外へ出たか」
俺は頷いた。
「一人ずつ。下りて、戻った。外の岩棚を六メートルだけ歩いた」
兄はエダンを見る。
エダンも頷く。
ミオが挟んでいた葉を出した。
「これが外側にありました。方角はまだ最終確認してません」
兄は葉を受け取った。
匂いを嗅ぐ。
それから、少し顔をしかめた。
「北荷に混じってくる針葉樹だな。村の山にも全くないわけじゃない。でも、この辺じゃ見ない」
エダンが俺を見る。
俺もエダンを見る。
ミオだけはまだ頷かない。
ただ、地図を閉じる指が少し速かった。
兄が葉を返す。
「明日、縄もう一本持ってけ」
俺は思わず笑った。
「止めないんだ」
「止めても行くだろ。なら戻れる数を増やす」
その言葉が、妙に嬉しかった。
六メートル。
まだ白嶺は越えていない。
でも今日、俺たちは初めて山の外へ降りて、同じ穴から帰ってきた。
第33話 北側、と書いた
【本文】
三本目の縄は、昨日までの二本より太かった。
兄が村の倉から借りてきたらしい。
「荷車用だから重いぞ」
そう言って俺へ渡してくる。
「また俺?」
「お前、昨日『世界が六メートル広がった』とか言ってたんだろ。じゃあ持て」
俺はエダンを見る。
「何で伝わってるの」
エダンは目をそらした。
「夕飯の時に、ちょっと」
「ちょっとでそこまで正確に伝わる?」
ミオが口元を押さえている。
笑っている。
「ミオまで知ってた?」
「私は聞いただけ。いい表現だと思ったよ。地図には書かないけど」
朝から全員に遊ばれている。
でも、悪くない。
今日は昨日と違う。
外へ下りるだけじゃない。
三人とも外へ出て、その先の斜面まで確認する。
そして戻る。
往復できたら、初めて一本の経路として地図へ線をつなぐ。
ミオは出発前にそれを何度も確認した。
「外へ出た瞬間に『越えた』にしないからね。斜面へ降りられること。三人が通れること。帰りも同じ経路で戻れること。時間内に入口まで戻れること。そこまで」
俺は縄を担ぎ直す。
「分かってる。今日は俺もその方がいい」
ミオが少しだけ驚いた顔をした。
「本当に?」
「昨日、外へ六メートル行っただけでかなり楽しかった。急いで終わらせるの、もったいない」
エダンが横から笑う。
「レンが一番長く遊ぶ方法を覚えた」
それはたぶん正しい。
洞穴へ入る。
白い石。
水路。
四角い石。
外の亀裂。
泥の低い穴。
昨日まで一個ずつ問題だったものを、今日は順番に越えていく。
板へ荷物を載せる。
狭いところでは短剣を外す。
濡れ縁では二本線を見る。
分岐では入口側の印を確認する。
誰も相談しなくても、同じ動きになってきた。
それが少し気持ちいい。
外の穴へ着く。
三本目の太い縄を、昨日の二系統とは別の岩角へ回す。
エダンが全部の固定を確認し、俺が引く。
ミオも引く。
三人分の体重を一度にかけるわけじゃない。
それでも、昨日より余裕がある。
最初にエダンが降りる。
次に俺。
最後にミオ。
昨日は一人が外へ出るたび、残り二人が洞穴側にいた。
今日は違う。
ミオが岩棚へ両足を置いた瞬間、三人とも白嶺の外側に立った。
俺は振り返った。
入ってきた穴は、岩壁の途中に黒い口を開けている。
下から見たら、たぶん気づかない。
少し離れるだけで影に紛れる。
「これ、北側の人から見つからなかったのも分かるな」
俺が言うと、エダンが岩壁を見上げた。
「そもそも、ここまで上がってくる理由がない。下の斜面から見たらただの崖だろ」
ミオはその場で地図を開かない。
風が強いからだ。
代わりに、小さな板へ方角だけ書く。
「まず斜面まで」
岩棚を右へ。
昨日、俺が縄の端まで行った場所を越える。
そこで足元が土になる。
山羊の跡が増えた。
低木の間を縫うように、斜面へ細い筋が続いている。
獣道だ。
人間用じゃない。
でも、立って歩ける。
俺は最初の一歩を土へ置いた。
柔らかい。
岩ばかり踏んできたせいで、それだけで変な感じがする。
エダンが隣へ来た。
靴の裏で土を確かめる。
「凍ってない。こっち、南側より雪少ないのか?」
ミオが空と斜面を見比べる。
「日当たりだけじゃ説明つかないかも。標高も少し下がってるし、風の当たり方も違う。今は記録だけ」
俺は笑った。
「その『今は』、あとで全部回収するつもりだろ」
「できるだけね」
獣道をゆっくり下る。
百メートルも行かないうちに、岩壁が少し遠ざかった。
振り返る。
白嶺がある。
いつも村から見ていた形とは全然違う。
尖った峰の位置。
雪の残り方。
崖の色。
同じ山なのに、別の山みたいだ。
エダンが立ち止まった。
ずっと黙って見ている。
俺は横へ行く。
「どうした?」
エダンは山から目を離さない。
「村から白嶺見てる時さ。あれの向こうは、商人が冬に話す場所だったんだよ。北の町がどうとか、麦が高いとか、でかい獣が出るとか。俺には全部、山の向こうの話だった」
少し間を置く。
「今、こっちから村の方が山の向こうなんだな」
俺は何か返そうとして、やめた。
一言で返すと軽くなりそうだった。
代わりに、同じ方向を見る。
ミオも少し離れたところで地図を出さずに立っていた。
たぶん、聞いていた。
風が低木を揺らす。
その時だった。
遠くで、音がした。
一回。
金属みたいな、乾いた音。
三人とも同時に顔を上げた。
もう一度。
カン。
かなり遠い。
規則的じゃない。
俺が言う。
「鐘?」
エダンは耳を澄ませる。
「家畜の鈴かもしれん。北の商人が羊につけてるの、こんな音する」
ミオも音の方を見る。
「煙の方向と近い?」
俺は昨日の谷を思い出す。
「たぶん。でも昨日の場所より下へ来たから、まだ見えない」
三人とも自然に歩き出しかけた。
そして、止まった。
俺が先に時計を見る。
まだ余裕はある。
でも、今日の目的は鈴じゃない。
「……行かない」
俺が言うと、エダンが笑った。
「俺も今、自分に言おうと思ってた」
ミオは少しだけ驚いてから、普通に頷いた。
「じゃあ今日はここまで。帰りの時間を測る」
惜しい。
ものすごく惜しい。
たぶん少し下れば、谷が見える。
煙も見えるかもしれない。
人の道があるかもしれない。
だから戻る。
次に来る理由が、ちゃんと残る。
斜面の途中に、目印を一つだけ作った。
木を切らない。
石を積み上げすぎない。
自然に転がっていた平たい石を三枚、少しだけ位置を変える。
エダンが配置を見て言う。
「これ、雪積もったら消えるな」
ミオが頷く。
「だから地図側にも、ここを永久目印としては書かない。今日は往復時間の基準」
俺は平たい石を見た。
「道って、作った瞬間に完成じゃないんだな」
エダンが笑う。
「村の道だって毎年直すぞ。雨で削れるし、木は倒れるし、勝手に牛が穴あける」
「牛、穴あけるの?」
「泥の時に同じ場所ばっか踏むと、でかい穴になる」
俺の頭の中に、白嶺街道を牛が壊す未来が浮かんだ。
ちょっと嫌だ。
ちょっと面白い。
戻る。
外の斜面から岩棚へ。
岩棚から縄。
一人ずつ登る。
最後はミオ。
俺とエダンは穴の中から縄を引かず、張り具合だけ見る。
ミオが自分の足で登る。
途中、一度止まった。
「右膝の場所、昨日レンが使ったところ?」
エダンが覗く。
「そこ。もう少し右。灰色の出っ張り」
ミオが足を置き直す。
上がる。
全員、洞穴へ戻った。
固定を外す前に、ミオが地図を開く。
風のない場所へ移動する。
今まで何度も止まっていた線。
白い石。
水路。
外の亀裂。
低い穴。
岩棚。
そこから先へ、鉛筆が動いた。
ほんの短い線。
俺が見ていると、ミオが言う。
「まだ街道じゃないよ。荷車どころか、板で荷物引いてる道だから」
「分かってる」
「吹雪の時は使えるか分からない。縄が切れたら終わるし、泥が増えたら低い穴も通れないかもしれない」
「うん」
「公開するかも別。人が増えたら固定も印も作り直さないと危ない」
俺は少し笑った。
「今日、俺より言いたそうだな」
ミオが鉛筆を止めた。
それから、こっちを見る。
「だって、書けるところまで来たから」
線の先に、小さく文字を書く。
《外斜面・往復確認》
その横で一度、手が止まった。
ミオは地図と、方角板と、太陽の位置を見比べる。
昨日挟んだ針葉樹の葉も出した。
エダンが待ちきれずに聞く。
「まだ駄目?」
ミオはすぐ答えない。
地図を膝の上で九十度回す。
南側から見ていた主峰。
洞穴の曲がり。
昨日の外の尾根。
今日の影。
何度も指でたどる。
俺も黙って待った。
ここまで来たら、ミオが言うまで待ちたい。
やがて、鉛筆が動いた。
《北側》
二文字だった。
たった二文字。
でも、それを見た瞬間、胸の奥が変なふうに熱くなった。
エダンが息を吐く。
「……本当に越えたんだな」
ミオは首を横へ振った。
「今日は北側へ出て、戻れた。『越えられる経路が一つ見つかった』まで。白嶺を越える道として完成したとは、まだ書かない」
俺は笑った。
そこまで言われても、全然冷めなかった。
むしろ、その方がいい。
完成してない。
だから明日も来られる。
俺たちは来た道を戻った。
低い穴。
板。
水路。
狭い隙間。
入口へ出た時、約束の時間まで二十分残っていた。
兄は、今日は斧を持っていなかった。
入口の前に立っていた。
エダンが最初に外へ出る。
俺。
最後にミオ。
兄は三人の顔を見た。
「どうだった」
エダンが答えようとして、俺を見る。
俺はミオを見る。
ミオは少し困った顔をして、それから地図を開いた。
兄の前へ出す。
小さく書かれた二文字を指で示す。
《北側》
兄はしばらく黙っていた。
「……そうか」
それだけだった。
でも、地図から目を離さない。
俺は白嶺を振り返った。
いつもの山だ。
村から見れば、昨日までと何も変わっていない。
だけど俺たちはもう知っている。
あの岩の中を通れば、反対側へ出られる。
しかも、帰ってこられる。
その日の夕方。
村の屋根の向こうで白嶺が赤くなっていく頃、俺はどうしてももう一度地図を見せてもらった。
ミオは嫌そうな顔をしながら、ちゃんと開いてくれた。
線は細い。
まだ途中に注意書きだらけだ。
なのに、最後だけははっきりしている。
《北側》
俺はその二文字を見て、しばらく黙った。
明日、何をするかはまだ決めていない。
道を直すのか。
煙を探すのか。
村へどこまで話すのか。
でも、それでいい。
今日のところは、白嶺の向こうへ行って、帰ってきた。
それだけで十分だった。




