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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第28話 白い点の正体

翌朝、俺たちは昨日より一時間早く村を出た。




入口の前では、エダンの兄が昨日と同じ木箱に座っていた。


ただし今日は斧ではなく、細い板を削っている。




「今日も見張り?」




俺が聞くと、兄は削りかすを膝から払った。




「違う。昨日、お前らが置いた札が読みにくかったから作り直してる。『縄を使ったら戻せ』の字が小さい」




エダンが後ろからのぞき込む。




「兄貴が書いた『切ったら弁償』だけ、やたら大きいんだけど」




「そこが一番大事だろ」




ミオが笑いながら地図を開いた。




「戻る時間は昨日より一時間後。でも、昨日の白い点まで着く時間が伸びてたら、その分は奥を削るからね」




俺は頷いた。




「分かってる。今日は白い点まで行って、正体見て、帰る」




兄が板を削る手を止めた。




「今、最後に余計な言葉を飲み込んだ顔したな」




「してないよ」




「『ついでに、その先も』って言おうとした」




エダンが吹き出した。




俺は何も言わずに洞穴へ入った。


三対一は不利だ。




昨日までに置いた縄と目印のおかげで、ジンを見つけた場所まではかなり早く着いた。


段差で結び直す時間がない。


右曲がりの邪魔な石も二つ減っている。




同じ場所なのに、昨日より短い。




それがちょっと嬉しい。




ぬるい水の細い流れをまたぎ、大きな空間へ入る。


白く固まった壁。


湿った空気。


奥から来る、少し暖かい風。




昨日の白い点は、まだあった。




俺がランプを上げる。




「消えてない」




ミオは答えず、昨日より細い糸を指から垂らした。


糸は奥へ流れている。




エダンが目を細めた。




「昨日より大きく見えない?」




たしかに、少しだけ。




たぶん俺たちが近いからだ。




白い点を目印に進む。




ミオは曲がり角を一つ越えるたびに、昨日の記録と時間を比べていた。




「入口からここまで二十六分。昨日より七分早い」




エダンが振り返る。




「昨日、途中で三回くらいレン待ってたからじゃない?」




「二回だよ」




「数えてたのか」




「言われそうだったから」




ミオが鉛筆を止めずに言う。




「二人とも違う。昨日は水の場所と広い空間で長く止まったから。その分が大きいよ。速くなったのは道を知ったからで、足が急に速くなったわけじゃない」




「そういう夢のない訂正いる?」




「帰り時間を決めるにはいる」




正しい。




こういう時、ミオの数字は少し腹が立つくらい便利だ。




床は右側が乾いていて、左側に浅い水が広がっていた。


途中で一度、俺の靴がぬるっと滑った。




反射的に左足を出す。




身体の補助が、少し遅れてついてきた。




初日に木の根で転んだ時は、身体が先に動いて俺がついていけなかった。


今は逆だ。




俺が決めた足場へ、補助の方が寄ってくる。




「今の、転ぶと思った」




後ろからミオが言った。




「俺も」




「じゃあ何でちょっと嬉しそうなの」




「転ばなかったから」




エダンが壁を触りながら笑う。




「基準が低いと毎日楽しいな」




否定しづらい。




白い点まで、あと十数メートル。


そこで通路が急に細くなった。




俺はランプの火を手で隠した。




白い点は残る。




ミオもランプを低くした。


エダンが後ろの火を覆う。




暗くなる。




その瞬間、白い点が一本の線になった。




「……上だ」




エダンが先に気づいた。




見上げる。




天井のずっと高いところに、指一本より細い割れ目がある。


そこから青白い光が落ちていた。




俺たちはしばらく、その場で何も言わなかった。




外の光だ。




たぶん。




ちょうどその時、光が少し暗くなった。


数秒して、また戻る。




エダンが上を見たまま言う。




「雲?」




ミオも見上げる。




「たぶん。ランプの明るさは変わってない。外の光なら、雲が通った時に変わってもおかしくない」




俺は足元の小石を一つ拾った。




「上まで投げたら、穴の深さ分かるかな」




「天井に当たって自分へ落ちてくると思う」




「やめとく」




「判断が早くて助かる」




エダンが笑った。




割れ目の真下には、ほんの少しだけ冷たい水が落ちていた。


一滴。


間を置いて、また一滴。




さっきまでのぬるい水とは違う。




俺が指先で受ける。




「冷たい」




エダンも触った。




「雪解けか、雨がどっかから入ってるのかもな」




ミオは地図の余白へ小さく書いた。




《上部亀裂。外光の可能性高。冷水滴下》




出口とは書かない。




でも、昨日より一つだけ確かなことが増えた。




光そのものは俺たちの前へ届いていない。


途中の白い石に当たり、濡れた表面で反射して、遠くから点に見えていたらしい。




俺は首が痛くなるまで見上げた。




「出口じゃなかったか」




思ったより声に出た。




ミオは地図へ何か書きながら、こっちを見ない。




「がっかりしてる?」




「三割くらい。七割は、山の中に外の光が入る割れ目がある方が面白い」




「回復が早いね」




エダンが白い石へ近づいた。




「でも、外とつながってるのは本当だろ。人は無理でも、風は通る」




俺も近づこうとした時だった。




カツ。




上の方で、小石が鳴った。




三人とも止まる。




もう一度。




カラ、カラ。




何かが動いている。




俺は短剣の柄へ手を置いた。


ミオは一歩下がって壁際へ寄る。


エダンがランプを上へ向ける。




光の外側から、二本の細い角が出た。




「山羊?」




エダンが小声で言う。




小さい。


成獣じゃない。




灰色の毛をした山羊が、俺たちの頭より少し高い岩棚から顔を出していた。


こっちを見る。


鼻を動かす。


また見る。




俺は息を止めた。




「昨日の足跡、あいつ?」




ミオも声を落とす。




「大きさは近い。でも決めつけないで」




山羊は俺たちをしばらく見ていた。




逃げる気配がない。




岩棚の端まで出てきて、首を伸ばす。


白い石の近くへ落ちている水を舐めた。




一口。


もう一口。




こんな場所でも、こいつにはいつもの水場なのかもしれない。




エダンが本当に小さな声で言う。




「追うなよ。あいつが普通に帰れば、帰る方に道がある」




俺は頷いた。




「分かってる。今日は山羊先生についていく」




「先生って呼んだら追ってないことになるの?」




ミオの声も小さい。




「敬意はある」




「静かにして」




怒られた。




山羊は顔を上げた。




それから、なぜか俺の方だけを長く見た。




「何」




当然、答えない。




エダンが肩を震わせる。




「たぶん一番、山で死にそうに見えるんじゃない?」




「山羊にまで信用されてないの?」




言った瞬間、山羊が跳んだ。




俺たちとは反対側。




白い石の横へ飛び降り、そのまま壁へ突っ込むように走る。




「え?」




消えた。




本当に、消えたように見えた。




三人で近づく。




壁だと思っていた場所の手前に、斜めの隙間があった。


正面から見ると岩が重なっていて分からない。


横へ立つと、人の肩幅くらいの暗い割れ目が奥へ続いている。




エダンがしゃがむ。




「これ、山羊痕の続きかもしれん」




床には新しい蹄の跡。




ミオがランプを持って横へ回った。




「幅、狭いね。レン、荷物背負ったまま入らないでよ」




「まだ何もしてない」




「今、肩入れようとした」




見られていた。




俺は素直に一歩戻る。




エダンが割れ目の中へ手を伸ばした。




「風、来てる。さっきの広い場所より冷たい」




暖かい空間の横から、別の冷たい風。




一本の穴の中に、二つの空気がある。




それだけで頭の中の地図が一気に増えた。




ミオは地図へ線を引かず、小さな丸だけ付けた。




《山羊通過。人間未確認》




「線にしないんだ」




俺が言うと、ミオは鉛筆をしまった。




「まだレンの肩すら通ってないから」




「俺が基準?」




「今のところ一番入りたそうだから、試験体として便利」




エダンが立ち上がる。




「一回戻って、荷物減らす? このまま無理に入ると、引っかかった時に後ろへ下がれん」




俺は割れ目を見る。




入口へ顔だけ近づける。


冷たい風が頬へ当たる。




中は最初の二メートルだけ見えた。


その先で右へ折れている。




床には山羊の毛が一本。


壁の低い位置には、何度も身体をこすったみたいな黒い跡がついている。




たまたま一匹が通った穴じゃない。




エダンも同じものを見つけた。




「これ、結構使ってるな。毛が新しいのと古いの混じってる」




ミオはしゃがんだまま、しばらく入口を見ていた。




「だったら、少なくとも途中までは崩れ続けてる穴じゃないかも。山羊が何度も通れてるなら」




「人間が通れるとは別?」




俺が聞く。




「そこは別。山羊は荷物も剣も地図も持ってないから」




エダンが俺の腰を見る。




「まずレンの剣が邪魔そう」




「さっきから俺だけ具体的に詰まる前提なの何」




二人とも答えなかった。




山羊はもう見えない。




奥から、かすかに石を踏む音だけがした。




行きたい。




でも今日の俺たちは、昨日より帰る準備を増やしてきた。




ここで荷物を捨てて進んだら、たぶん全部台無しだ。




「戻る。入口で荷物組み直そう」




ミオが一瞬だけ俺を見た。




「自分から言った」




「昨日より信用した?」




「そこまで毎日言わないよ」




エダンが笑いながら先に戻り始めた。




俺も続く。




白い点は出口じゃなかった。




でも、出口じゃなかったおかげで、昨日は見えていなかった横道が見つかった。




山って、こっちが外したと思った瞬間に、別の問題を出してくる。




かなり好きかもしれない。


第29話 山羊の方が荷物が少ない

【本文】


入口まで戻ると、エダンの兄が俺たちを見て眉を寄せた。




「早いな。怪我か?」




「違う。荷物が多い」




俺が答えると、兄はしばらく黙った。




「山に入って一時間してから気づくことか?」




ミオが横から補足する。




「人間が通れるか分からない山羊の隙間を見つけたんです。荷物を背負ったまま試すより、一度戻った方がいいと思って」




兄は俺を見た。




「誰が言った」




「俺」




「……熱あるか?」




「何で」




「昨日までなら、そのまま肩突っ込んでそうだからだ」




エダンが笑いながら袋を下ろした。




「実際、途中までは突っ込みかけてたけどな」




余計な情報を足すな。




荷物を全部広げる。




水は残す。


短い縄も残す。


白い粉、布、薬。


予備のランプは一本だけ。




俺が鍋を持ち上げると、ミオが首を傾げた。




「それ要る?」




「温かい水があるから、何か出来るかと思って」




「今日は料理しに来たんじゃないよ」




「でも湯だったら」




兄が鍋を俺の手から取った。




「置いてけ。温泉だったら明日持ってけ」




味方がいない。




代わりに、細い縄を長めに一本持つ。


狭い場所では荷物を背負わず、前か後ろへ引くためだ。




兄が小さな革袋を投げてきた。




受け取る。




中に白い粉が入っていた。




「何これ」




「炭焼きで風を見る時に使う灰。少し撒けば流れが見える。吸うなよ」




ミオの顔が一気に真面目になる。




「借りていいんですか?」




「返せとは言わん。ただ、全部洞窟へ撒くな。掃除する奴はいないんだから」




エダンが兄を見る。




「兄貴、ちょっと楽しんでない?」




「早く行け」




楽しんでいる顔だった。




白い石のところまで戻る。




山羊の隙間は、さっきより狭く見えた。




たぶん気のせいだ。




俺が上着の留め具を外し、袋を縄へ結ぶ。




ミオが結び目を引っ張った。




「一回で抜けたら嫌だから、二重にして」




「俺の結び方、そんな信用ない?」




「昨日、固定縄は兄さんが結んでたよね」




「それはそう」




エダンが先に隙間へ入った。




肩を斜めにして、ゆっくり進む。


三歩。


四歩。




「思ったより行ける。途中だけ狭い。レン、胸張ると詰まるぞ」




「普段からそんなに張ってないよ」




「今日は張るなってこと」




声が奥へ遠ざかる。




次はミオ。




地図袋を胸の前から外し、別の布袋へ入れる。


いつもより慎重だ。




俺が言う。




「地図、俺が持とうか?」




ミオは一度だけこっちを見る。




「狭い場所でレンに預けるくらいなら、自分で引く」




「信用が」




「地図に関しては上がってない」




そこは別枠らしい。




ミオが通る。




最後に俺。




最初の二メートルは余裕だった。




三メートル目で、腰が止まった。




「……止まった」




奥からエダンの声が返る。




「腹?」




「違う」




ミオの声もする。




「荷物外したよね」




「剣の鞘」




短剣の鞘が岩の出っ張りへ引っかかっている。




身体だけ細くしても、装備は細くならない。




俺は腕を戻し、鞘の角度を変えようとした。




動かない。




後ろへ下がろうとする。




もっと動かない。




「ちょっと待って。本当に挟まった」




数秒、静かになる。




その静かさが一番嫌だ。




「笑ってる?」




俺が聞く。




奥からミオの声。




「まだ」




「まだって何」




エダンが耐えきれず吹き出した。




「山羊の方が荷物少ないからな」




「タイトルみたいに言うな」




意味は分からないけど腹が立つ。




最終的に短剣を腰から外し、腕だけ後ろへ回して鞘を先に通した。


身体はすんなり抜けた。




反対側は、思っていたより広かった。




立てる。


三人並ぶのは無理でも、普通に歩ける。




そして寒い。




さっきの広い空間より明らかに空気が冷たい。




エダンが床へランプを向ける。




山羊の蹄が続いている。




一つじゃない。




古い跡と新しい跡が、何本も重なっていた。




「一匹の抜け道じゃないな」




エダンがそう言って、少し嬉しそうに笑う。




ミオは灰の袋をほんの少し開けた。




指先でつまみ、空中へ落とす。




白い灰がふわっと浮く。




それから俺たちの右側へ流れた。




「風は右」




ミオが言う。




俺は左を見る。




「山羊は?」




エダンがしゃがむ。




「半分くらい右。残りは左にもある。山羊も全員同じ道使うわけじゃないみたいだな」




当たり前なのに、少し困る。




右へ進む。




狭い道の入口には、帰り用に白い粉で小さな印をつけた。


昨日までの灰色の紐とは違い、洞穴の中では近すぎる印を増やしすぎない。


曲がり角と分岐だけ。




エダンが二つ目の印を見て言う。




「これ、帰りに逆から見ても分かる形にしよう。丸だとどっちから見ても同じだろ」




ミオが粉を持つ手を止めた。




「確かに。入口側だけ線を一本足そうか」




俺は横から口を出す。




「矢印でよくない?」




エダンが首を振る。




「山の印で矢印は、誰かが別の意味で使ってたら面倒だ。俺らだけ分かればいいなら、二本線で十分」




ミオはすぐ丸の横へ短い線を足した。




こういう時、エダンは地図を描かないのに、帰る印だけはミオより生活の感覚が早い。




床がだんだん下がる。




途中から水の音が戻ってきた。


今度は滴じゃない。




細い沢みたいな音。




曲がった先に、幅一メートルほどの水路があった。


深さは足首くらい。


湯気はない。


触ると、やっぱりぬるい。




昨日の流れより明らかに多い。




「これ、昨日の水とつながってる?」




俺が聞く。




ミオはすぐには頷かない。




「高さは下がってる。方向も近い。でも水質まで見ないと同じとは言えないかな」




エダンは水路の上流を見ていた。




「山羊、こっちから来てる」




濡れた岩に蹄の跡がある。




沢の横には、人一人分の乾いた縁。




進める。




ただし滑る。




先頭のエダンが最初の三歩で足を取られた。




「うわっ」




壁へ手をついて止まる。




俺は思わず笑った。




「基準が低いと毎日楽しいぞ」




エダンが振り返る。




「さっきの返すな。今のは石が悪い」




「俺が滑った時も石が悪かった」




「レンは顔が嬉しそうだったから別」




ミオが後ろから割り込む。




「二人とも、滑った場所を教えてくれる? そこだけ記録したい」




怒るでも笑うでもなく、実務で止められた。




エダンが足元を指す。




「ここ。薄い苔みたいなのある」




ミオがしゃがむ。




水際だけ、黒い膜が張っている。




「これ踏まないようにしよう。帰り、疲れてたら絶対忘れるから」




俺たちは壁側へ一本、白い印を残した。




《濡れ縁》




文字は書かない。


三人だけが分かる形で、短い二本線。




こういう小さいものが増えるほど、洞穴が少しずつ「知らない場所」じゃなくなっていく。




俺は右足を置く。


次の石へ左足。




一度、身体の補助がまっすぐ踏み込もうとした。




俺はその動きを少し外へ逃がす。


濡れた石の中央じゃなく、端のざらついた場所へ乗せる。




今度は、身体が逆らわなかった。




初日の木の根。


森の斜面。


崩れた洞穴。


何回も、自分で足場を選んできた。




補助が俺を動かすんじゃない。




俺の癖を、少しずつ覚えている感じがする。




「また嬉しそう」




ミオが言った。




「今度は転びそうじゃなかったでしょ」




「だから余計に気になった」




エダンが前から振り返る。




「レン、そういう時だけ急に子どもみたいな顔するよな」




「ゲームやってる時くらいいいだろ」




「ずっとゲームの中だけど」




それもそうだ。




水路は途中で二つに分かれた。




水は左へ。


風は右へ。




山羊の跡は両方。




また困る。




俺たちはそこで昼を食べた。




硬いパンと干し肉。


壁際へ座ると、背中だけ冷たい。




俺が干し肉を噛みながら言う。




「山羊に地図持たせたい」




ミオは水を飲んでから答える。




「持ってても、人間が通れる幅は書いてくれないと思う」




「じゃあエダンの村で一匹飼って、帰ってきた道を追うとか」




エダンは真面目に考えた。




「山羊、帰ってこないぞ。好きな草ある方へ行く」




「使えない」




「山羊に怒られるぞ」




そんな話をしていた時だった。




右の暗がりから、冷たい風が一度だけ強く吹いた。




俺の手の干し肉の匂いが、全部そっちへ持っていかれる。




エダンが顔を上げる。




「今の風、外っぽくない?」




ミオが灰を落とす。




さっきより速い。




右へ一直線に流れる。




俺たちは食事を片づけ、右へ進んだ。




十五メートルほどで、床に四角い石が出てきた。




自然に割れた岩とは少し違う。




角が揃っている。




片側に丸い穴まで開いている。




俺が触ろうとすると、ミオが先にしゃがんだ。




「待って。動かさないで」




「動かすつもりないよ」




「レンの場合、触った結果動くことがあるから」




エダンも横から見る。




「村の昔の杭石に似てる。でも、ここへ杭立てても何するんだろ」




分からない。




石は一本だけ。




穴の縁へ指を当てると、ざらつき方が周りと違う。




俺は触ったまま言う。




「これ、縄通す穴とか?」




エダンは首を傾げた。




「杭を固定する穴にも見える。昔の炭焼き場なら似たのあるけど、こんな山の中へ何を運ぶんだよって話になる」




ミオは石の周りを一周した。




「一個しかないうちは何でも言えるね。道だった、柵だった、作業場だった。だから今は形だけ残す」




「夢がない」




「間違った夢を地図へ描く方が嫌」




「それは知ってる」




言ってから、俺は少し笑った。




最初の頃なら、たぶんここでまだ二言くらい言い合っていた。


今はだいたい次に何を返されるか分かる。




壁も床も、その先はまた自然な岩に見える。




ミオは地図へ《加工の可能性。用途不明》とだけ書いた。




古い道だとは書かない。




誰が置いたとも書かない。




その慎重さが、今はちょうどいい。




さらに進む。




冷たい風が強くなる。




そこでエダンが急に止まった。




鼻を動かしている。




俺も真似する。




湿った岩の匂い。


水。


それから、少しだけ違う匂い。




木だ。




でも炭焼きの森とは違う。




エダンがゆっくり言った。




「この匂い、村の側じゃあんまりしない」




ミオが聞く。




「分かるの?」




「たぶん。北の高い場所に生える針葉樹、交易の荷に混じって来る時こんな匂いする。……でも自信はない」




言い切らないのが、逆に気になった。




俺は風の来る先を見る。




暗い。




何も見えない。




でも昨日までは、山の中の風だった。




今は少しだけ、山の向こうの匂いがする。


第30話 山の向こうに煙があった

【本文】


次に進む前に、俺たちは一度だけ時間を確認した。




戻り始める約束まで、あと四十五分。




昨日なら、俺は「四十五分もある」と思った。




今日は、入口までの帰りにどれくらいかかるか分かっている。




「二十五分進んで、二十分残す」




俺が言うと、ミオが首を横へ振った。




「帰りは疲れてるから、二十五分残したい。進むのは二十分」




「五分だけ?」




「その五分で兄さんに怒られずに済むなら安いよ」




エダンも頷く。




「兄貴、時間過ぎたら本当に村へ人呼ぶぞ。帰った時に十人くらい待ってたら俺が嫌だ」




それは嫌だ。




俺たちは二十分だけ進むことにした。




冷たい風を追う。




通路は少しずつ上がっていた。




さっきまで足元にあった水が消え、岩が乾いてくる。


代わりに、細い砂が増えた。




山羊の足跡はまだある。




一度、低い場所をくぐる。


その先で道が急に明るくなった。




俺は足を止めた。




「ランプじゃないよな」




誰も答えない。




前方の岩が、薄い青に見える。




昨日の白い点みたいな反射じゃない。




空の色だ。




三人とも、さっきまでより速く歩いた。




でも走らない。




ここで転んだら、たぶん一生エダンに言われる。




最後の曲がりを抜ける。




風が顔へ当たった。




冷たい。




完全に外の風だ。




目の前に、縦に長い亀裂があった。




一番広いところでも、拳二つ分くらい。


人は通れない。




でも向こう側が見える。




風が亀裂を抜けて、服の首元へ入ってきた。


さっきまでの洞穴の風とは違う。




湿った岩の匂いが薄い。


代わりに、乾いた木と冷たい土の匂いがする。




エダンが手袋を外し、指先だけ亀裂へ近づけた。




「外だ。これは間違いない」




ミオは細い糸を出した。


亀裂の前へ垂らすと、糸はこっち側へ大きく流れた。




「今は外から吸ってる。昨日の入口と同じで、時間で逆になるかもしれないけど」




俺は亀裂の向こうへ片手を伸ばそうとして止めた。


腕は通る。


でも抜けなくなったら恥ずかしすぎる。




ミオが横目で俺を見る。




「今、手入れようとした?」




「入れてない」




「考えた?」




「それは考えた」




「正直でよろしい」




エダンが小さく笑った。




俺は何も言えなかった。




青い空。




白い斜面。




遠くに、黒っぽい森。




斜面の下には細い川らしい銀色の線まで見える。


南側の村へ流れる沢より、ずっと大きい。




今まで見ていた白嶺の南側とは、山の形が違う。




ミオが地図と外を何度も見比べる。




「村側から見える主峰は、ここだと右にあるはず。でも今見えてる高い峰は左奥にある。単純に東へ回っただけなら、この並びにならない」




エダンが聞く。




「じゃあ北?」




「かなり近い。でも『かなり近い』と『確定』は違う」




俺は外の川を指した。




「川の向きは使えない?」




「使えるかも。でも北側の地図を持ってない。知らない川を見て『北の川です』って言ったら、それは地図じゃなくて願望」




「俺の妄想帳と同じ扱いか」




「近い」




ひどい。




それでもミオの声が少し速い。


本人もかなり来ている。




ミオが亀裂へ近づく。


触れない距離で止まり、外を見た。




「ちょっと待って。位置を確認したい」




声がいつもより速い。




地図を出す。


方角を見る。


通ってきた曲がりを指で戻る。




エダンは亀裂へ顔を寄せていた。




「村、見えない」




俺も外を見る。




当然なのかもしれない。




白嶺の中を曲がりながら、かなり奥まで来た。




でも、見えないという事実だけで胸が速くなる。




「北側?」




俺が聞く。




ミオはすぐ頷かなかった。




「可能性は高い。でも、この山の東へ回り込んだだけかもしれない。太陽の位置と、外から見える尾根を照らし合わせたい」




エダンが少し笑った。




「ここまで来ても言い切らないんだな」




「間違った線を地図に残す方が嫌だから」




「知ってる」




その返しが自然で、俺は二人を見た。




最初に会った頃なら、エダンはミオへそんな言い方をしなかった。




ミオも少しだけ笑った。




俺は亀裂の下へしゃがむ。




足元には山羊の毛が二本引っかかっていた。




でもこの幅じゃ、さっきの山羊でも通れない。




「山羊はここじゃないな」




エダンもしゃがんだ。




「足跡、手前で右へ曲がってる」




見る。




確かに、薄い蹄の跡が亀裂の前まで来ていない。




三メートル手前で壁際へ寄り、そのまま右の低い隙間へ消えている。




俺は思わず笑った。




「ちゃんと続きあるじゃん」




ミオが時計を見る。




「あるね。でも今日は入らない」




「まだ何も言ってない」




「顔で言った」




最近こればっかりだ。




俺は亀裂から外をもう一度見る。




そこへ、細いものが上がった。




最初は雲かと思った。




違う。




遠い谷の底。




黒っぽい森の向こうから、灰色の筋が一本、まっすぐ上へ伸びている。




風に崩れ、また上がる。




「煙」




エダンの声が小さくなった。




俺も見ている。




山火事の煙じゃない。


広がっていない。




一か所だけ。




誰かが火を使っているみたいに見える。




煙はしばらく真っすぐ上がり、途中で横へ流れた。


消えたと思うと、また少し濃くなる。




エダンが亀裂の向こうへ目を凝らす。




「炭焼きの煙とは違う。あれならもっと黒い時がある。焚き火か、家の炉か……いや、遠すぎて分からん」




「村だったら?」




俺が聞く。




エダンはすぐ答えなかった。




「分からん。でも人がいるなら、向こうの人もこの山を『越えられない山』って思ってるかもしれないな」




その言い方が妙に残った。




俺たちだけが白嶺を見ているわけじゃない。




反対側にも、白嶺の前で引き返した人がいるかもしれない。


失敗地図があるかもしれない。


山羊の跡を見て、首を傾げた誰かがいるかもしれない。




急に、山の向こうが「背景」じゃなくなった。




ミオが地図を持ったまま止まった。




「距離、分からない。人の火とも限らないよ」




いつもの確認。




でも鉛筆は動いていない。




俺が横を見ると、ミオも煙を見たままだった。




エダンはもっと露骨だった。




亀裂へ顔を寄せすぎて、鼻の頭が岩へ当たっている。




「向こう、人いるのかな」




その声を聞いた瞬間、今までの白嶺が少し変わった。




山を越えたい。




最初は、それだけだった。




地図にない線を引きたい。


誰も通っていないところを歩きたい。




でも向こうに人がいるかもしれない。




町があるかもしれない。


道があるかもしれない。




逆に、こっちの村を知らない人たちが、同じ山を見ているかもしれない。




俺は急に、あの亀裂がものすごく狭く感じた。




「行きたいな」




口から出た。




ミオはまだ煙を見ながら答えた。




「うん。私も」




一瞬、聞き間違えたかと思った。




俺が見ると、ミオはちょっと嫌そうな顔をする。




「何。その顔」




「いや、止める方かと思った」




「今日は止めるよ。今からは行かない。でも、行ける道があるなら見たい」




エダンが笑う。




「ミオが先に言った。レン、負けたな」




「何の勝負だよ」




「知らん」




三人で笑った。




その時、亀裂の向こうで何かが光った。




遠すぎて分からない。




水面か。


屋根か。


雪か。




一瞬だけ。




俺たちは黙る。




ミオが先に地図へ書いた。




《外部視認。北側候補。煙一本。確定せず》




俺は覗き込む。




「煙一本って、すごい地味だな」




「見たものだけ書くの」




「人がいるかも、は?」




「余白に頭の中で書いといて」




エダンが地図を見て笑う。




「それ、地図じゃなくてレンの妄想帳になるぞ」




ひどい。




でも今日は戻る。




右の低い隙間は、入口だけ確認した。


山羊の跡が続いている。


冷たい風も来ている。




人が通れるかは、まだ分からない。




俺は低い隙間の前へしゃがみ、ランプを奥へ向けた。




最初の五メートルは見える。


人が四つん這いなら通れそうだ。


その先で少し下がり、右へ曲がっている。




山羊の蹄は、間違いなく奥へ続いている。




エダンが俺の横へ座った。




「明日、板一枚持ってきたいな」




「何に使う?」




「この入口、下が泥だろ。腹つけたら荷物が全部濡れる。板を滑らせて荷物だけ先に送ればいい」




ミオもしゃがむ。




「それなら縄も長い方がいい。身体に結ぶ用と、荷物用は分けたい」




二人とも、もう次に入る時の話をしている。




俺が笑うと、ミオが気づいた。




「何?」




「いや。今日は俺が言う前に二人とも進む準備してるなって」




エダンが立ち上がる。




「煙見せられたら気になるだろ。レンだけの病気じゃなかったみたいだな」




それはかなり嬉しい。




俺は白い粉で壁へ印をつけた。




小さく二本。




ここから先は、次だ。




帰り道は速かった。




来た時より、足の置き場所が分かる。




水路の黒い膜は踏まない。


四角い石は触らない。


分岐では、入口側に線を足した印だけを見る。




狭い山羊道では、俺の短剣を先に外した。




途中でミオの地図袋が岩へ当たった。


俺が手を出すと、ミオは一瞬だけ迷ってから袋を渡してきた。




「落とさないでね」




「信用上がった?」




「ここだけ。三メートル限定」




「短いな」




それでも受け取った。




隙間を抜けて返す。


ミオは中身を確認してから、何も言わず肩へ戻した。




たぶん合格だった。




ミオが何も言わなかったので、たぶん正解だった。




入口へ出た時、約束の時間まで十二分残っていた。




エダンの兄は札を作り終え、今度は本当に薪を割っていた。




俺たちを見る。




手と足。


服。


顔。




怪我がないのを確認してから、斧を切り株へ刺した。




「今日は何だった」




俺は水を飲みながら答えた。




「山の向こうがあった」




兄の眉が寄る。




「山なんだから、向こうはあるだろ」




エダンが横で笑う。




「俺も同じこと思った。でも、見えたんだよ。岩の隙間から。こっちじゃない斜面と森が」




兄の顔から笑いが消えた。




ミオが地図を開く。




「北側とはまだ確定してません。ただ、外へ抜ける亀裂までは到達しました。その手前に、山羊が通っている別の隙間があります」




兄は地図を見た。




「人は?」




俺が答える。




「まだ通れてない。でも、向こうに煙が一本見えた」




斧の柄を握っていた兄の手が止まる。




「煙?」




「たぶん火。かなり遠いけど」




兄はすぐ何か言わなかった。




代わりに、白嶺の方を見た。




毎日ここで炭を焼いている人が、初めて見る山みたいに。




しばらくしてから、兄は斧を抜いた。




「帰って飯食え。話は村で聞く」




いつもの言い方だった。




でも薪を割るのは、もうやめたらしい。




俺は洞穴の入口を振り返った。




越えてはいない。




道もまだない。




向こう側だと確定すらしていない。




それでも。




白嶺の向こうに、誰かの煙が上がっていた。


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