第25話 槍を返す相手がいない
翌朝、食堂へ下りると、ジンの槍が昨日と同じ場所に立てかけてあった。
誰も触っていない。
長い穂先に朝の光が当たって、やけに新品みたいに見える。
俺は椅子へ座る前に、槍を一度見た。
エダンも同じ方を見ていたらしい。
「あれ、町へ持ってくんだろ。組合なら、次のジンが来た時に返せるんじゃないの?」
エダンはパンをちぎりながら言った。
たぶん、悪気はない。
俺も昨日までは、何となくそう思っていた。
ミオはスープの湯気を避けるように顔を少し横へずらした。
「自動では返らないよ。完全死亡した時点で、今の登録も身分も終わるって説明にあった。魂迎えのあとに本人が来ても、前の人生の持ち物がそのまま本人の物になるわけじゃない」
エダンの手が止まる。
「同じ人なのに?」
「記憶は続く。でも、世界の側では別の人生になる。そこを簡単につなげたら、相続とか借金とか、全部おかしくなるでしょ」
ミオはそこまで言ってから、少しだけ眉を寄せた。
「……説明で読んだ時は、もっと簡単な話だと思ってたけど」
俺もそうだった。
転生できるなら、死んでも続きがある。
それだけ覚えていた。
でも今、目の前に返す相手のいない槍がある。
続きがあることと、昨日の続きをそのまま始められることは違うらしい。
エダンの兄が奥から出てきた。
片手にジンの袋。もう片方に槍。
「朝飯食ったら町へ行くぞ。これは村で勝手に持っとく物じゃない。お前ら、見つけた場所の説明できるんだろ」
俺は槍を受け取ろうとして、兄に避けられた。
「何で避けるの」
「お前に持たせると、途中で振ってみそうだからだ」
「人の形見で遊ばないよ」
兄は少しだけ考えてから、槍を渡してきた。
「なら持て。昨日より信用した」
上がり方が遅い。
でも上がってはいるらしい。
町までの道は、いつもより静かだった。
エダンは途中まで一緒に来たが、今日は村の仕事があると言って分かれた。
「組合で何てなったか、帰ったら教えてくれよ。あと槍、ちゃんと高かったって言っといて」
俺は思わず笑った。
「そこ引き継ぐんだ」
「最後まで気にしてたからな。本人が気にしてた物は、一応気にしといた方がいいだろ」
昨日のことを、無理に重くするでもなく、軽くするでもない。
エダンはそういう言い方をする。
町の冒険者組合へ入ると、白嶺の棚の前に前と同じ受付の女性がいた。
俺の顔を見て、次に槍を見た。
笑いかけようとしていた表情が、その途中で止まる。
「……誰の?」
俺は名前を答えた。
「ジン。昨日、白嶺の北東側の洞穴で見つけた。救助中に《魂留め》が出て、そのまま完全死亡になった」
受付の女性はすぐ紙を一枚出した。
声の調子も仕事のものに変わる。
「順番に聞くね。発見時刻。発見した人数。完全死亡を確認した場所。装備と袋は、今ここにある物で全部?」
兄が横から答える。
「槍と袋はこれで全部だ。革鎧は損傷がひどかった。身体と一緒に村まで運んで、死亡確認後の処置は村の決まり通りにした」
俺はそこで初めて、兄が俺たちの見ていないところまで全部やっていたと知った。
受付の女性が記録していく。
紙を埋めながら、途中で一度だけ手を止めた。
「遺留品は組合でいったん預かる。この町での扱いは、登録と地域の決まりを照合してから決める。魂迎え後の本人が来ても、名前を名乗っただけで渡すことはできない」
エダンが朝聞いたら、たぶんまた「同じ人なのに」と言う。
俺も口に出しそうになった。
代わりに聞いた。
「本人だって分かる方法はないの?」
受付の女性は槍の柄を布で包みながら答えた。
「前の人生のことを知っているだけなら、本人以外でも知れる。だから組合だけで勝手に決めない。面倒だけど、面倒にしないと奪う方が簡単になるからね」
言われれば分かる。
分かるけど、すっきりはしない。
ミオが横で地図を開いた。
「死亡地点の記録は、どこまで公開されますか?」
受付の女性が顔を上げる。
「詳しい地図は内部記録。一般に出す危険情報は、報告した人が範囲を選べる。正確な入口まで出すか、北東斜面に危険な洞穴あり、までにするか」
俺とミオは顔を見合わせた。
昨日までなら、穴を見つけたこと自体が成果だった。
今日、その入口を地図へ出したら、次の誰かが一人で入るかもしれない。
だからといって隠せば、ジンと同じ場所を別の人が知らずに踏むかもしれない。
俺は白い紙の上へ指を置いた。
「一般向けは、北東斜面に洞穴。単独侵入は危険。入口までの道は村と組合で共有。これじゃ駄目?」
ミオがすぐには答えない。
地図の縮尺を見て、入口から村までの線を指でなぞる。
「救助用の道がまだ足りない。正確な入口を広く出すなら、その前にそこを直したい」
受付の女性が頷いた。
「じゃあ今は危険情報だけ先に出して、詳細は保留にできるよ。変更はあとで出来る」
俺が紙へ印をつけようとした時、後ろから低い声がした。
「穴、見つけたのか」
振り返る。
白嶺へ三度行ったという、あの盾の男だった。
今日は盾を背負っていない。
代わりに片手へ包帯を巻いている。
俺が何と答えるか迷っていると、男は先に槍を見た。
「……死者が出たなら、場所は聞かない。今聞いたら、たぶん行きたくなる」
その言い方が妙に分かった。
男は受付の紙をちらっと見て、俺へ向き直る。
「一個だけ。噂だけ先に走らせるなよ。『白嶺に抜け穴があるらしい』だけ広まると、地図も救助も持ってない奴から入る」
ミオが地図を閉じた。
「だから今、公開範囲を決めてます」
「ならいい。俺は三回戻ってるから偉そうには言えんけど、戻った奴の記録は使ってくれ」
男はそこで、少し笑った。
「死んだ奴の記録も、使えるなら使った方がいい。たぶん本人も、その方が腹立たん」
最後の一言だけは、男の想像だ。
でもジンなら、槍の値段の次くらいには気にしそうな気がした。
組合を出る前に、受付の女性から一枚の控えをもらった。
《北東斜面・洞穴。単独侵入非推奨。救助経路未整備。詳細位置は限定共有》
たったそれだけ。
でも昨日までの地図にはなかった線だ。
町を出ると、兄が俺の手を見た。
槍がない分、やけに軽い。
「で。今日も穴へ行くのか?」
俺は一度ミオを見る。
ミオは地図を抱えたまま、首を横へ振った。
「今日は入らない。昨日と同じ状態で入ったら、昨日と同じことしか出来ないから」
俺も頷いた。
奥は見たい。
たぶん、かなり見たい。
でも先にやることがある。
今度は、助けを呼べる道を作る。
第26話 呼べる道
【本文】
村へ戻ると、エダンの兄が炭袋を二つ持ってきた。
一つでも十分重い。
それを板の上へ並べ、さらに短い丸太を一本乗せる。
俺は嫌な予感がした。
「何これ」
兄は縄を締めながら、普通の顔で答えた。
「怪我人」
「だいぶ黒いね」
「文句言わないし、途中で冗談も言わない。昨日より運びやすいぞ」
横でエダンが笑っている。
ミオは笑いながらも、もう時間を書ける板を用意していた。
今日は洞窟の奥へ進まない。
村から入口まで。
入口から二メートルの段差まで。
そこから昨日ジンを見つけた場所まで。
怪我人を運ぶ前提で、どこに時間がかかるかを測り直す。
兄は担架代わりの板を指した。
「あと、昨日使った板と太縄は入口の近くへ置く。毎回村から運んでたら間に合わん。濡れない場所を探すぞ」
エダンが顔をしかめた。
「村の縄、置きっぱなしでいいの?」
「だからお前が札を作れ。『勝手に持っていったら弁償』って大きく書け」
「もうちょい優しい書き方ない?」
「じゃあ『使ったら戻せ。切ったら弁償』」
あまり優しくなっていない。
俺は板の端を持ち上げた。
重い。
「これ、本当に昨日のジンくらい?」
兄は俺の持ち方を見て、手の位置をずらした。
「人間より運びにくい。だから練習にはちょうどいい。落としても怒られんしな」
ミオが真顔で炭袋を見る。
「中身は怒らないけど、袋が破れたら女将さんが怒ると思う」
全員、少しだけ持ち方が丁寧になった。
最初は普通に歩いて測る。
村の広場から北東斜面の入口まで。
昨日は急いでいたせいで、時間の感覚がほとんど残っていなかった。
今日はミオが節目ごとに数字を書く。
「村から林の分かれ道、十一分。分かれ道から灰色の紐の最初まで九分。入口まで十二分」
俺が担架を下ろして肩を回す。
「普通に歩くより、やっぱりかなり遅いな」
エダンが水を飲みながら首を振った。
「これでも炭袋だからな。人なら途中で止めるだろ。昨日みたいに痛みが来たりしたら、もっとかかる」
数字になると、昨日の長さが別の形で見える。
入口の窪みには、板を二枚置ける乾いた場所があった。
兄が壁を叩き、上から水が落ちてこないか確かめる。
「ここなら縄と板を置ける。油は駄目だな。寒い時に漏れたら面倒だ」
ミオが札へ書き足した。
《太縄二本・板二枚・毛布一枚》
俺は横からのぞく。
「毛布いる?」
兄が俺を見る。
「昨日見てて分からなかったのか。怪我人は動けない。外へ出したら終わりじゃない」
「いるね。すごくいる」
「分かればいい」
入口から中へ入る。
今日は兄も一緒だ。
ただし奥へ進むためじゃない。
狭い場所を、炭袋の怪我人が通れるか試すため。
最初の右曲がりでいきなり詰まった。
昨日と同じだ。
板のままでは角が引っかかる。
俺が片側を持ち上げると、袋がずれた。
ミオがすぐ止める。
「今の持ち上げ方、人だったら身体が曲がる。板を回すんじゃなくて、入口で一回下ろして向きを変えた方がいい」
兄が壁の出っ張りを見る。
「それと、ここに置いてある石三つ。動く石なら外へ出してもいい。通路を削るのは無しだ。崩れ方が分からん」
エダンがしゃがんで、一つずつ手で押した。
二つは動く。
一つはびくともしない。
「二つだけなら、俺とレンで外へ出せる」
俺も横へ入る。
「昨日これに肩ぶつけた。俺の肩の敵だから、合法的にどかせるなら嬉しい」
「理由が小さいな」
エダンに言われた。
それでも二人で運び出す。
通路が手のひら二つ分くらい広くなった。
ほんの少し。
でも担架を回すと、昨日より引っかからない。
ミオが時間を見る。
「ここだけで三分以上縮んだ」
兄はその数字を聞いても喜ばなかった。
「三分で助かる時もある。三分じゃ足りん時もある。次」
段差まで進む。
昨日、一番時間がかかった場所だ。
上から縄を二本垂らすだけでは、毎回結び直す必要がある。
兄が持ってきた太縄の端には、あらかじめ大きな輪が二つ作ってあった。
「胸と腰。人を上げる時は、これを回して締めすぎない。使わない時は上に巻いて置く」
俺が輪へ腕を通してみる。
「俺で試す?」
ミオが即座に首を振る。
「今日は怪我人役、炭だから。レンを吊ると、途中で面白がって余計なことする」
「俺の扱い、炭以下じゃない?」
エダンが縄を持ちながら笑った。
「炭は勝手に揺れないからな」
反論できない。
板ごと炭袋を上げる。
一回目は傾いた。
二回目は縄の位置を変える。
三回目で、ほとんど水平のまま上がった。
ミオが時間を書き直す。
「昨日のやり方より、ここで六分くらい短い。人ならもっと慎重になるから、そのまま六分とは言えないけど」
「十分だろ」
エダンは息を吐いた。
「昨日、ここでずっと止まってる感じしたもんな」
兄が縄を巻きながら言う。
「次に誰か挟まる前提で作るのは気分悪いけど、作っといた方がいい。山はこっちの気分に合わせん」
それは、ジンの死を教訓にしよう、なんて綺麗な言い方よりずっと兄らしかった。
一度外へ戻り、今度は連絡を試す。
入口から村へ声は届かない。
当たり前だ。
林の中では笛も遠くまで通らない。
なら誰かが走るしかない。
問題は、全員が中へ入ったら走る人がいないことだった。
エダンが入口の前へ座り込む。
「じゃあ四人で来るしかないじゃん。三人で探索して、一人ここに残す」
俺は穴の奥を見る。
「三人で来た日は?」
「二人で入る」
ミオが普通に答えた。
俺は振り返る。
「一人減ると、奥で何かあった時きつくない?」
「全員入って誰も呼べない方がきつい。昨日それやったから、エダンが戻るまで何も増やせなかったでしょ」
正しい。
すごく正しい。
でも奥へ三人で行けないのは、ちょっと嫌だ。
顔に出たらしい。
エダンが笑う。
「その顔すると思った。兄貴、明日だけ入口にいてくれない? 炭焼き、この近くでやる日だろ」
兄は露骨に嫌そうな顔をした。
「俺は見張りじゃない」
「分かってる。帰る時間過ぎたら村へ言いに行くだけでいい」
「それを見張りって言うんだ」
しばらく黙ったあと、兄は俺を見る。
「明日だけだ。時間を決めろ。過ぎたら、お前らが面白い物を見つけてようが何だろうが人を呼ぶ」
俺は頷いた。
「それでいい。むしろ呼んで」
兄が少し眉を上げる。
「昨日より信用した」
今日二回目だ。
帰る前、ミオが入口でランプを消しかけた。
火を覆った手を止める。
「待って」
俺とエダンが振り返る。
ミオは火じゃなく、その横に垂らしていた細い糸を見ていた。
朝、洞窟へ入った時は奥へ吸われていた糸が、今は入口側へわずかに流れている。
「風、逆になってる」
エダンが入口の外へ出て、空を見る。
「朝より暖かいから?」
ミオは糸をもう一度持ち直した。
「分からない。でも朝と午後で向きが変わるなら、入口一個の穴じゃない可能性は上がる」
俺は思わず穴の奥を見た。
ジンは西側から入って、ぬるい風が外へ出ていたと言っていた。
俺たちの入口は、朝は風を吸い込んでいた。
今は吐き出している。
エダンも同じことを考えたらしい。
「山のどっかで、つながってるってこと?」
ミオはすぐ首を横へ振った。
「そこまではまだ言ってない。穴が二つあるだけかもしれないし、途中で細い割れ目につながってるだけかもしれない」
俺は笑った。
「でも、ちょっと言いたい顔してる」
ミオが糸をしまう。
「レンほどじゃない」
たぶん明日、俺たちは奥へ行く。
昨日より少しだけ、帰る準備を増やして。
第27話 風が帰る時間
【本文】
翌朝、エダンの兄は本当に入口の外へ椅子を持ってきた。
椅子と言っても、炭焼き小屋で使っている低い木箱みたいなものだ。
その横に水筒と斧を置く。
完全に仕事をする気だ。
「先に言っとく。暇つぶしで待ってるんじゃない。近くの倒木を切る。戻る時間だけ見てる」
兄はそう言いながら、俺たち三人を順番に見た。
「予定より三十分過ぎたら村へ人を出す。怪我してなくても怒る」
俺は袋の紐を締め直した。
「怪我してたら?」
「怒る前に運ぶ」
エダンが笑う。
「兄貴、そういうとこ言い方だけ怖いよな」
「お前は帰ってから薪割り追加な」
「何で俺だけ」
いつもの兄弟の会話を背中で聞きながら、俺とミオは入口へ入った。
今日は昨日より荷物が少ない。
その代わり、戻るための物は増えた。
白い粉で壁へ小さな印をつける道具。
予備の水。
短い縄。
ミオの細い糸。
俺はその糸を見た。
「それ、今日の主役?」
ミオが糸の端を指へ巻きながら答える。
「レンよりは勝手に曲がらないから、風を見るには使いやすい」
「比較対象に俺いる?」
エダンが後ろから口を挟む。
「あると分かりやすいんじゃない?」
最近、二人とも同じ使い方を覚えてきた。
右曲がり。
小部屋。
二メートルの段差。
昨日置いた太縄が上に巻かれている。
誰も使っていない。
それを見ただけで少し安心する。
昨日ジンを見つけた場所まで来る。
石は動かしたまま。
床には、救助の時についた靴跡が残っている。
俺は一度だけ足を止めた。
ミオも何も言わない。
エダンが先に、壁の奥へランプを向けた。
「行こう。ここで止まってても、ジンが見たかった先は分からん」
追悼みたいな言葉じゃない。
でも、それで十分だった。
俺たちは前回まだ入っていない細い通路へ向かう。
最初は、風がほとんど分からなかった。
ミオが糸を垂らす。
右。
少し進む。
今度は左。
「揺れてるだけじゃない?」
俺が聞くと、ミオは糸を壁へ近づけた。
「ここは渦になってる。まっすぐ追えないね」
エダンが天井を見上げる。
「上に割れ目ある。あそこから入ってきてるんじゃない?」
ランプを上げると、黒い線が天井を走っている。
手は届かない。
ミオは地図へ小さく印をつけた。
「風だけで道を決めるの、やめた方がよさそう」
俺は前を見る。
「じゃあ、行ける方を全部見る?」
「全部を今日見るって意味なら反対。帰る時間あるから」
「言う前に先回りされた」
「顔が分かりやすいから」
またそれだ。
通路は二つに分かれた。
左は低い。
右は狭いけど、立ったまま入れる。
エダンがしゃがみ、床を指でこする。
「左、動物の跡ある。こっちは砂が新しい」
小さな足跡が続いている。
第22話で見つけたものと同じくらいの大きさ。
俺は右の暗がりを見る。
「人なら右?」
エダンは首を傾げた。
「そうとも限らん。山の人間、荷物なければ低い方も行く。でも今日は、戻りやすい方から見たい」
それで右へ入る。
曲がりを二つ越えたところで、空気が変わった。
俺が最初に気づいた。
「ちょっと暖かくない?」
ミオはすぐ答えず、手袋を外した。
手の甲を前へ出す。
「さっきよりは。気のせいって言うほど小さくないかも」
エダンも壁へ触れる。
「岩も冷たくない。外の岩なら、この時間もっと冷えてる」
俺は笑った。
「温泉だったら勝ちだな」
ミオが俺を見る。
「何に勝つの」
「白嶺に温泉見つけた俺たちが」
「まだお湯一滴も見てない」
エダンが真面目な顔で続けた。
「でも本当に湯が出るなら、村まで引けないかな。冬に使えたら助かるぞ」
俺とミオが同時にエダンを見る。
エダンが少し引いた。
「何だよ」
俺は笑った。
「俺は温泉、ミオは地図、エダンはもう村へ引く話してる」
ミオも少し笑う。
「同じ物見ても、欲しいもの全然違うね」
それが何となく面白かった。
さらに進む。
壁が湿ってくる。
靴の下の砂も、乾いた灰色から黒っぽい土へ変わった。
前から水の音がする。
大きくはない。
滴が何度も落ちている音。
曲がった先に、指二本分くらいの細い流れがあった。
岩の割れ目から水がにじみ、床を横切っている。
エダンが先に手をつけた。
すぐ顔を上げる。
「ぬるい」
俺も触る。
冷たくない。
外の沢の水とは全然違う。
温かい、と言うには少し弱い。
でも山の中の水としては、明らかに変だ。
ミオは自分でも触ってから、地図の余白へ書いた。
《ぬるい水。温度未測定》
俺は横から見る。
「温泉って書かないの?」
「書いたらレンが温泉として覚えるから」
「もう覚えてる」
「だから書かない」
正しい判断かもしれない。
水の流れをまたぐ。
その先で天井が急に高くなった。
ランプの光が上まで届かない。
俺たちは三人とも足を止めた。
広い。
今までの通路の何倍もある。
壁の一部が白く光って見える。
近づくと、石の表面に薄い膜みたいなものが重なっていた。
触ると粉ではない。
固い。
ミオがランプを近づける。
「水の跡かな。何かが溶けて、ここで固まってる」
俺は奥を見る。
空気が少し霞んでいる。
湯気と言い切るほど白くはない。
でもランプの周りだけ、向こう側が揺れる。
エダンが小声になった。
「これ、冬でも凍らないんじゃないか」
「まだ冬に来てない」
ミオが返す。
でも声はいつもより少し上ずっていた。
地図の人も、たぶんかなり興奮している。
俺は一歩進む。
すぐに止まる。
足元を確認する。
昨日までなら、そのまま行っていたかもしれない。
床は濡れている。
左側は浅い水。
右側に乾いた縁が続いている。
俺は右へ寄った。
ミオが何も言わず、後ろからついてくる。
エダンも来る。
三十歩ほど進んだところで、ミオがまた糸を出した。
今度は迷わなかった。
糸が奥へ向かって、はっきり流れる。
「風、強くなってる」
俺も頬で分かる。
洞窟の奥から、少し温かい空気が流れてくる。
ジンが言っていた西側の割れ目は、外へぬるい風が出ていた。
ここから先に、別の出口があるかもしれない。
そう思った瞬間、前へ行きたくなる。
でも今日は時間を決めている。
俺は腕の表示を見る。
戻り始める約束まで、あと二十分。
「二十分なら、もうちょい」
口に出した途端、ミオがこっちを見た。
何も言っていない。
でも分かる。
俺は言い直した。
「……帰りの二十分は別に要るね」
ミオの表情が少しだけ緩む。
「昨日より信用した」
「それ今日、兄にも言われた」
エダンが笑う。
「村全体でレンの信用育ててるみたいだな」
「育つの遅くない?」
「最初が低かったから」
ひどい。
でも戻る。
そう決めて、最後に奥へランプを向けた。
そこで、俺はもう一度止まった。
遠い。
たぶん五十メートル以上先。
岩の間に、針の先みたいな白い点がある。
ランプの反射かと思って手で火を隠す。
白い点は消えない。
ミオも気づいた。
「あれ、光?」
エダンが目を細める。
「外……ではないよな。こんな山の中だぞ」
分からない。
ぬるい水。
奥から来る風。
消えない白い点。
三つとも、答えはまだない。
俺は白い点を見たまま、一歩だけ後ろへ下がった。
「今日は帰ろう」
言うのに、思ったより力が要った。
ミオが地図を閉じる。
「うん。次は、あそこまで行って戻れる時間を持って来よう」
エダンは最後まで白い点を見ていた。
「兄貴に何て言う?」
俺は少し考えた。
「温泉見つけた、は怒られそうだからやめとく」
ミオが即座に返す。
「見つけてないからね」
帰り道、さっきのぬるい水をもう一度またいだ。
今度は、行きより少しだけ流れが増えているように見えた。
気のせいかもしれない。
だから地図にはまだ書かない。
でも次に来た時、最初に確かめることは決まった。




