第24話 帰れるだけじゃ足りない
足を抜いたら終わりだと思っていた。
違った。
ジンの外套を開くと、脇腹の革鎧が割れていた。
崩れた石の角が当たったらしい。
傷そのものは大きく見えない。
でも血が止まっていない。
エダンの兄が布を当てながら、低い声で言った。
「村へ戻す。ここで出来ることは少ない。立たせるな。担いで出る」
ジンが何か言おうとしたけれど、兄は先に首を振った。
「歩けるかどうかを試す時間がもったいない。悪いが、今は俺の言う通りにしてくれ」
「……分かった。山の人に逆らうの、今日だけで懲りた」
冗談はまだ出る。
それが逆に怖かった。
板と外套で簡単な担架を作る。
広い場所なら四人で持てる。
でも、俺たちが通ってきた穴は狭い。
最初の難所で、担架のままでは曲がれなかった。
ミオが通路とジンを見比べ、唇を噛んだ。
「ここ、担架は無理。身体だけ先に通して、向こうでまた乗せるしかない」
俺はすぐに通路へ入ろうとした。
兄が肩をつかむ。
「焦るな。急いで引っかけたら、もっと時間を食う。お前は先へ行って、足場だけ空けろ。エダンは頭側。俺が腰を支える」
言われた通りに動く。
狭い通路が、昨日までよりずっと長い。
俺一人なら数十秒で抜ける場所を、何分もかける。
ジンが痛みに息を止めるたび、全員の手が止まる。
「悪い……ちょっと待って。今動くと、多分叫ぶだけじゃ済まない」
俺は前から声を返した。
「待つよ。こっちの石はどかした。急がなくていい、いや、急いでるけど、雑にはやらない」
自分でも変な言い方だと思った。
ジンが弱く笑う。
「その言い方、今すげえ助かる」
右曲がりを抜ける。
小部屋へ出る。
次は二メートルの段差。
ここでまた止まった。
元気な人間なら縄で上がれる。
怪我人を上げる方法は、帰還メモにない。
ミオは上を見たまま、早口になりそうなのを一度飲み込んだ。
「エダン、先に上がって。太縄を二本にして、胸と腰を別で支えたい。片方だけ引くと身体が曲がる。兄さん、下でジンの背中を押せる?」
兄が縄の位置を確かめる。
「やれる。レン、お前は上で引く側へ回れ。さっきみたいに自分の身体で全部受けるな。岩へ縄を回して使え」
「分かった。ジン、今から上げる。痛かったら言って。止めるから」
ジンは目を閉じたまま、少しだけ口角を上げた。
「さっきから、みんな俺より俺を大事にしてるな。何か申し訳なくなってきた」
ミオが縄を結びながら返した。
「申し訳なくなるのは外へ出てからでいい。今は遠慮される方が困る」
「強いなあ、地図の人」
「今は地図書いてないけどね」
その会話のあと、ジンが急に黙った。
顔色が変わった。
息が浅い。
俺が名前を呼ぶより先に、ジンの胸元へ淡い白い輪が浮かんだ。
見覚えはない。
でも名前だけは知っている。
《魂留め》
完全死亡の前にある、短い猶予。
ゲームの説明で読んだ時は、ただの仕組みに見えた。
今、目の前で出ると全然違う。
ジンが自分の胸元を見て、乾いた声で笑った。
「うわ。これ、本当に出るんだな」
誰も笑わなかった。
ジンは俺たちの顔を見て、少し困ったように眉を下げる。
「そんな顔するなよ。まだ消えてない。神殿か、ちゃんとした術師まで行ければ戻せる可能性あるんだろ?」
エダンの兄が一度だけ目を閉じた。
「町までは遠い。村にも、その術を使える人間はいない」
それでも兄は縄を握った。
「だから外へ出す。話はそれからだ」
上げる。
ゆっくり。
でも止まらない。
ジンの身体が段差を越える。
次は細い通路。
その次は入口。
俺は前へ出て、邪魔になる荷物を全部外へ投げた。
ランプも一つだけ残す。
槍も後回し。
ジンが薄く目を開ける。
「槍……」
「置いていく。あとで取りに来る」
「高かったんだけど」
「知るか。今それ気にする?」
俺が返すと、ジンは本当に少し笑った。
「いや、そう言われたかった。俺も今、自分で馬鹿だと思った」
細い入口の手前まで来た。
外の光が見える。
最初にここを見つけた時は、暗い穴の向こうへ入ることしか考えていなかった。
今は逆だ。
あの光まで、どうやって一人を戻すかしか考えられない。
ジンを横向きにする。
肩を通す。
腰。
怪我した足。
一つずつ。
外へ出た瞬間、冷たい風が顔に当たった。
誰かが息を吐いた。
でも終わりじゃない。
村まで下りる道がある。
俺たちには、ちゃんと帰れる道がある。
なのに今日は、その距離が長すぎた。
灰色の紐を一つ越える。
二つ目。
三つ目。
ジンはほとんど喋らなくなった。
途中で一度だけ目を開けて、空を見た。
「白いな」
俺は担架の前を持ったまま、上を見る。
雲が厚い。
山の上だけ、少し雪が光っている。
「白嶺だからね。名前通り」
「俺、山の向こう見たくて来たんだよ。結局、見れてないな」
返す言葉が見つからなかった。
ジンは俺の顔を見て、息を整えてから続けた。
「別に、遺言みたいに聞くなよ。魂迎えあるんだろ。次どこ行くか知らないけど……まあ、また山あったら登ると思う」
少し間が空く。
「それより、槍。ほんとに店売りするなよ」
今度はエダンまで笑った。
「そこ最後まで言うのかよ。分かった。俺が取りに戻る。兄貴もいるし、勝手に売らない」
「頼む。あれ、見た目で選んでちょっと高かったんだ」
兄が担架の後ろから呆れた声を出した。
「命より先に道具自慢するな」
「今それ言われると、すごい正論だな……」
ジンの声が小さくなる。
次の灰色の紐を越えたところで、白い輪が一度だけ強く光った。
そして消えた。
ジンの名前の横に、短い表示が出た。
《完全死亡》
足が止まりそうになった。
後ろから兄の声が飛ぶ。
「レン。止まるなら、担架を下ろしてからだ」
「……分かった」
四人で、ゆっくり地面へ下ろした。
誰もすぐには喋らなかった。
風の音だけがする。
魂迎えがある。
完全に消えるわけじゃない。
頭では知っている。
それでも、さっきまで冗談を言っていたジンは、もう返事をしなかった。
村へ戻ったのは、予定より一時間以上遅かった。
エダンの兄が先に広場へ出て事情を説明する。
俺とミオは、ジンの荷物をまとめた。
槍はあとでエダンたちが取りに戻してくれた。
本当に高そうだった。
その夜。
食堂の隅に、ジンの槍と袋が置かれていた。
町へ報告し、扱いが決まるまでは誰も触らないことになった。
俺はスープを前にしても、なかなか手が動かなかった。
ミオは向かいで地図を開いている。
でも洞窟の線を伸ばしてはいなかった。
俺が聞く。
「今日のこと、何書いてる?」
ミオは少し迷ってから、地図の余白を俺へ向けた。
《村から入口までの時間》
《入口から救助地点までの時間》
《負傷者を運ぶ場合は別》
《救命できる場所までの距離、未確認》
俺は最後の一行をしばらく見た。
「俺たち、帰れる道は作ってたんだよな」
ミオは鉛筆を置いた。
「うん。だから今日、外までは連れて帰れた。でも、それだけじゃ足りなかった」
エダンが隣の卓から椅子を引いてきた。
いつもなら勝手に会話へ入るのに、今日は一度俺たちの顔を見てから座った。
「次、穴へ行くなら、村から人呼ぶ方法も考えよう。入口に誰か残すとか、途中で合図できるようにするとか。あと、町までどれくらいで走れるかも知っといた方がいい」
俺はうなずいた。
穴の先がどこへつながっているか。
まだ知りたい。
風の向こうも見たい。
でも、今日初めて増えた問いは、それじゃなかった。
道を見つけたあと。
その道で、誰かをちゃんと帰せるのか。
そこまで出来て、やっと道なのかもしれない。




