第21話 風は下から
長い縄を借りる交渉は、穴へ入るより難しかった。
エダンの兄は広場で薪を割りながら、俺たちの説明を最後まで聞いた。
聞いた上で、斧を置いた。
「二メートル下に降りたい?」
「正確には、二メートルくらい下に床があって、その先に風が来てる場所が――」
俺が説明を足そうとすると、兄は片手を上げて止めた。
「長く説明すると安全になるわけじゃない。降りたいんだな?」
「はい」
「帰って来られる形を作ってから降りるんだな?」
「はい」
「レンだけじゃなく、三人とも同じつもりか?」
ミオが一歩前に出た。
「私は、縄を固定できなければ降りません。固定できても、下の床が崩れているなら降りません。エダンも昨日、三人だけで全部やらないって言ってます」
兄は妹でも見るみたいにミオを見てから、弟へ目を向けた。
「お前は?」
エダンは少しだけ背筋を伸ばした。
「行きたい。でも、レンが行くからじゃない。村の近くにあんな場所があるなら、自分で見たい。危ないなら戻る」
兄はそこで初めて俺を見た。
「で、お前は?」
何となく、ここで格好いいことを言うと逆効果な気がした。
「めちゃくちゃ行きたいです。でも昨日、落ちかけた時にちゃんと怖かったんで、今日は怖くなったら戻ります」
兄の口元が少し動いた。
「それなら昨日よりましだ」
褒められ方が低い。
でも長い縄は借りられた。
ついでに兄本人も来た。
「貸すだけじゃ心配になった」
そう言いながら、いちばん太い上着を着ている。
エダンが横で笑った。
「兄貴も見たいんだろ」
「村の近くだから確認しに行くんだ」
「はいはい」
「その返事、帰ったら覚えとけよ」
兄弟の会話は、町の冒険者よりずっと山慣れしているのに、家の中と同じ温度だった。
四人で北東斜面へ向かう。
兄が加わっただけで、いつもの道が少し違って見えた。
灰色の紐を見つけるたび、兄が場所を確認する。
途中で一本だけ、結び直した。
「これ、雪積もったら隠れるぞ。もう少し高い方がいい」
ミオがその場で地図へ追記する。
「冬用と今の高さ、分けた方がいいかも。全部上へ上げると、夏は逆に見つけにくくなる」
兄は感心したように地図を見た。
「そんなことまで書くのか」
ミオは鉛筆を止めずに答えた。
「一回通れた道と、いつでも通れる道は別なので。私たちも前にそれで失敗してます」
俺は横から口を挟む。
「主に俺が失敗してます」
「そこは否定しないんだな」
兄に笑われた。
岩壁へ着く。
窪みの奥を見た兄は、しばらく何も言わなかった。
期待している感じでもない。
怖がっている感じでもない。
ただ、石の割れ方と地面を見ている。
「昔、炭焼きの連中がこの辺まで来てた可能性はある。でも、この穴を使ってたかは知らん。俺も初めて見る」
その一言で、少し嬉しくなった。
俺たちだけが知っているからじゃない。
地元のエダンたちにも、まだ知らない場所が残っている。
ゲームの世界なのに、用意された名所へ行く感じがしない。
今日の役割を決める。
兄が外で太い縄を固定。
エダンが中の小部屋まで入り、段差の上で補助。
俺が最初に下へ降りる。
ミオは二番目。
ただし、一人目が下で安全を確認するまで来ない。
「俺が三番目じゃないの?」
エダンが不満そうに言うと、兄が即座に返した。
「お前は上で戻す人間が要る。全員降りたら、誰が縄の擦れを見るんだ」
「兄貴が外にいるだろ」
「俺から中は見えん」
エダンは口を尖らせたが、それ以上は言わなかった。
俺たちは穴へ入る。
二回目なので、昨日より早い。
右曲がり。
小部屋。
段差。
それでも、端へ近づく時だけ身体が少し固くなった。
昨日の感覚が残っている。
悪くない。
怖さを忘れて上手くなるより、怖い場所が分かる方がたぶん強い。
エダンが後ろから声をかけた。
「レン、昨日の石どれ?」
「右側の薄いやつ。触らない方がいい。俺は左から降りる」
「分かった。縄、一回張るぞ」
腰ではなく、今日は簡単な輪を胸の下へ通している。
命綱として使うにはまだ頼りない。
でも落下速度を殺す補助にはなる。
兄が外側で固定した太縄とは別に、エダンが中で握れる短い補助縄もある。
昨日より準備が増えた。
その分、怖さは少し減る。
俺は段差へ背を向けた。
足を下ろす。
一段。
岩の出っ張り。
もう一段。
足先が床へ触れた。
思ったより柔らかい。
砂だ。
「着いた。床ある。昨日見た通り二メートルくらい。砂っぽい。今のところ崩れてない」
声を上へ送る。
エダンが返す。
「立てる?」
「ちょっと待って」
腰を伸ばす。
頭をぶつけた。
ごん。
「……立てるけど、俺より少し背が高い人は気をつけた方がいい」
上から笑い声が落ちてきた。
エダンだ。
「今ぶつけたろ」
「情報収集だよ」
「身体で測るな」
外から兄の声まで聞こえた。
「何してる!」
エダンが大きな声で返す。
「レンが天井測った!」
「手で測れ!」
正論が山の中まで響いた。
俺はランプを上げた。
下の空間は、小部屋より広い。
三人なら立てる。
四人だと少し窮屈。
奥へ向かって、床が緩く下がっている。
水の音がする。
ぽた、ではない。
細く流れている音。
俺はその場から動かず、ランプだけを前へ向けた。
光の端に、濡れた岩が見えた。
「水ある。たぶん流れてる。足元は今のところ乾いてる」
ミオが上から聞く。
「風は?」
俺はランプの炎を見る。
揺れている。
昨日より分かりやすい。
入口側へ。
「下から来てる。ここだとちゃんと分かる」
少し間があった。
ミオの声が、いつもより明るい。
「じゃあ、私も行く。エダン、縄お願い」
「ゆっくりな。レン、下で足置く場所見てやって」
ミオが降りてくる。
途中で一度止まった。
「レン、右足どこ置いた?」
「俺は左の出っ張り。右は昨日動いた石に近いから使わない方がいい。左足を先に伸ばして、壁へ膝当てると楽」
自分が昨日怖かった場所を、今日は説明できる。
それだけで少し嬉しい。
ミオの靴が床へ着く。
彼女は降りた瞬間、奥を見ずにまず上を見た。
「戻る時もここ使える。レン、今の足順、地図じゃなくて別に書く」
「攻略メモ?」
「帰還メモ。行ける場所より、帰れるやり方の方を残したい」
ミオらしい。
俺たちは奥へ数歩だけ進んだ。
水音の正体は、岩の割れ目から出ている細い流れだった。
幅は指二本くらい。
岩を伝って、小さなくぼみに落ち、そのまま床の隙間へ消えている。
俺は指先を濡らした。
冷たい。
でも外の雪解け水ほど刺す冷たさじゃない。
「飲むなよ」
上からエダンの声。
「まだ何もしてない」
「レンは顔に出るから」
今日それ何回目だ。
ミオが笑ったあと、真面目な顔で水を見た。
「今は飲まない。流れてる方向だけ見る」
水は奥へ向かっていない。
横へ消えている。
道の手掛かりにはならない。
でも、空間が生きている感じがする。
乾いた穴じゃない。
空気が動いて、水も動いている。
さらに奥へ五メートルほど進むと、床が狭くなった。
左は壁。
右は黒い割れ目。
落ちるほど深くは見えないが、足を入れたくない。
そこでミオが止まった。
「今日はここまでにしない?」
俺は奥を見る。
ランプの光が、まだ先の壁へ届かない。
行きたい。
でも前回とは違う。
今日は「どこまで行けるか」だけじゃなく、「どこまで安全に戻れるか」を見に来た。
俺は振り返った。
段差の方から、エダンのランプの光が見える。
その向こうに外の薄い光。
帰り道が見えるうちに戻る。
「うん。ここで止める。最後に風だけ見たい」
ミオがうなずく。
俺は袋から、乾いた草を一本出した。
昨日エダンが外でやった真似だ。
指先から落とす。
草は真下へ落ちなかった。
ほんの少し。
奥へ流れた。
もう一本。
今度も同じ。
入口から入ってきた風が、俺たちの横を抜けて、山の中へ消えている。
「ミオ」
俺が呼ぶと、彼女はもう見ていた。
「うん。今は同じ向き」
「出口があるってこと?」
「空気の抜ける場所がある、までは言えると思う。人が通れる出口かどうかは全然別」
その言い方がちょうどいい。
俺は笑った。
「じゃあ、道じゃないかもしれない道が、また一本増えたな」
ミオも少し笑う。
「まだ線は引かないよ。点を一個増やすだけ」
戻る前に、俺はランプを足元へ向けた。
砂の上に自分たちの靴跡が二つ。
俺とミオ。
その横に、小さな四つ足の跡。
新しくはない。
薄い。
奥から入口側へ向かっている。
「これ、ネズミより大きくない?」
俺がしゃがむと、ミオも隣に来た。
「たぶん。でも何かは分からない。エダンに見せたいな」
俺は反射で奥を見た。
足跡は、暗い方から来ている。
追えば何か分かるかもしれない。
でも今日は追わない。
「写真みたいに残せないの、こういう時ちょっと不便だな」
俺が言うと、ミオは鉛筆を出した。
「だから描くんでしょ。便利すぎたら、私の出番なくなる」
「それは困る」
口から先に出た。
ミオが一瞬だけこっちを見る。
俺も自分で少し止まる。
別に深い意味で言ったわけじゃない。
今さら説明する方が変だ。
ミオは何も突っ込まず、足跡を簡単な形で写した。
「じゃあ、ちゃんと役に立つように描く」
それだけだった。
帰りは、俺が先に段差を上がった。
昨日より楽だった。
足を置く場所を知っている。
縄がどこで擦れるかも知っている。
頭をぶつける高さも知っている。
同じ場所なのに、昨日より難しくない。
外へ出た時、兄が最初に聞いたのは「何があった」ではなかった。
「全員戻ったな?」
「戻った」
エダンが答える。
兄はそれから俺たちの服と手を見て、ようやく息を吐いた。
昼を窪みで食べながら、四人で中の形を共有した。
兄は水の話より、風の話に反応した。
「山の中で風が抜けてるなら、どこかにはつながってる。けど、冬は逆に危ないぞ。吹き込む場所次第で一気に冷える」
ミオがすぐ地図の余白へ書く。
《風路。季節未確認》
俺はその横にある未完成の線を見た。
まだ短い。
山の中へ、ほんの少しだけ入っただけ。
でも今日は、初めて地図の線が岩壁の向こうへ伸びた。
白嶺を越えたわけじゃない。
正しい道を見つけたわけでもない。
ただ、風が山の奥へ流れていた。
俺たちも次は、たぶんその向きを見る。




