第20話 一人分ずつ
穴へ入る日の朝、エダンが一番まともだった。
「最初に決めとくぞ。中で何かあったら、面白そうでも戻る。レンが『もうちょい』って言っても戻る。ミオが『記録だけ』って言っても戻る。俺が『平気そう』って言っても戻る」
広場の端で細縄を巻き直しながら、エダンは三人を順番に指さした。
「何で最後、自分まで信用してないの」
俺が笑うと、エダンは真顔のまま肩をすくめた。
「山で自分だけ信用するやつが一番危ないって、兄貴が言ってた。俺もたぶん、目の前に知らん穴があったら入りたくなるし」
「やっと仲間だ」
「そこ喜ぶところじゃない」
ミオは地図を丸めながら、俺たちのやり取りを見ていた。
「でも、エダンのルールでいこう。戻る条件を先に決めておいた方がいい。痛み、息苦しさ、縄が引っかかる、天井が落ちる音、ランプが消える。あと、誰か一人でも怖いと思ったら戻る」
俺は最後だけ聞き返した。
「怖い、でいいの?」
ミオは少し考えてから、うなずいた。
「理由を説明できるまで待ったら遅いこともあるでしょ。『何となく嫌』を一回は採用する。戻ってから考えればいい」
それは、かなり好きなルールだった。
ゲームの攻略なら、数字や状態異常が出るまで進みたくなる。
でもこの世界、数字が出る前に嫌な感じがすることがある。
俺たちは昼前に岩壁へ着いた。
天気は薄曇り。
風は昨日より弱い。
窪みの中は静かだった。
小さな隙間へランプを近づける。
炎は今日も、ほんの少し外側へ傾く。
中から空気が来ている。
俺は膝へ布を巻いた。
見た目はかなり情けない。
エダンがしゃがみ込んで、結び目を確かめる。
「レン、その布、ずれたら膝より足首守るぞ」
「おしゃれだから」
「山の穴で?」
「場所を選ばないタイプ」
ミオが横で吹き出した。
「動いたら結び直して。中で直す方が面倒だから」
笑いながら言うけど、手はちゃんと結び目を見ている。
俺の腰には細縄。
命綱ではない。
位置と距離を外へ伝えるための線だ。
エダンが入口で縄を持つ。
ミオはその横で、俺が進んだ距離を地図へ書く。
最初は俺だけ入る。
そこも決めた。
「じゃ、行く」
俺が腹ばいになると、エダンがすぐ声をかけてきた。
「待て。まだ何も起きてないのに、何でそんな嬉しそうなんだよ」
「顔見えないでしょ」
「声で分かる」
ミオまで同意した。
「今日は特に分かる。ちょっと落ち着いてから入って」
「二人とも親戚みたいになってない?」
文句を言いながら、俺は一度だけ深く息を吐いた。
それから中へ入った。
入口は狭い。
肩を少し斜めにしないと通らない。
昨日見た通り、二メートルくらいはほぼ真っすぐだ。
ランプは前に出せない。
片手で身体を支えながら、顔の横へ置く。
影が近い。
岩が鼻先から十センチの場所にある。
普通に怖い。
でも、嫌じゃない。
身体の補助が、立って歩こうとする時と全然違う動きを選んでくる。
肘。
膝。
つま先。
三点で支えて、もう一つを前へ出す。
最初は任せてみた。
動きは滑らか。
ただ、速すぎる。
俺はわざと一拍遅らせた。
右肘を置く前に岩のざらつきを触る。
左膝を出す前に、布が引っかかっていないか確かめる。
補助に逆らうというより、順番を自分へ戻す感じ。
後ろからミオの声が届いた。
「レン、今どれくらい?」
「三メートルちょい。まだ真っすぐ。天井は低いけど、息は平気。あと、膝の布は今のところ格好いいまま」
少し間があった。
「最後の情報はいらないけど、膝が痛くないなら記録する」
「そこは必要なんだ」
エダンの笑い声も聞こえた。
距離があるせいで、いつもより声が丸い。
もう一メートル進む。
そこで通路が右へ曲がった。
身体をひねる。
肩が岩へ当たる。
無理ではない。
でも、袋を背負ったままなら絶対通れない。
今日は入口に全部置いてきた。
正解だった。
「右へ曲がる。ここから外が見えない」
俺が声を張ると、ミオがすぐ返した。
「縄は動いてる。そこで一回止まって、引っかかってないか見て」
腰の縄へ手をやる。
少し張っている。
一度戻す。
する、と軽くなった。
「大丈夫。進む」
曲がった先は、少し広かった。
座れる。
たったそれだけで、ものすごく広く感じる。
俺は壁へ背中をつけた。
頭上は一メートルちょっと。
立てない。
でも膝を抱えて座れる。
ランプを置く。
橙色の光が、狭い空間を丸く照らした。
壁は全部岩。
足元には乾いた草が少し。
あのネズミが運んだのかもしれない。
奥に、さらに黒い場所がある。
俺はすぐ行かなかった。
まず声を出す。
「小さい部屋みたいになってる。俺一人なら座れる。二人は……仲が良ければいける」
外からエダンの声が返る。
「ミオと入れよ。俺は外でいい」
「何で急に投げるの」
「三人で詰まったら、誰が外から笑うんだよ」
役割がおかしい。
ミオの声が少し近づいた。
「奥は?」
「まだ見てない。先に足元確認する」
自分で言って、ちょっと驚いた。
前ならたぶん、もう奥へ顔を突っ込んでいた。
ランプを下へ向ける。
石。
乾いた草。
小さな糞。
たぶんネズミ。
端に山羊の毛みたいな白いものが一本挟まっている。
「山羊、ここまで来るのか?」
俺がつまもうとすると、ミオが外から止めた。
「待って。毛かどうか分からないし、無理に取らなくていい。見える位置だけ教えて」
「入口から六メートルくらい。小部屋の右下。白い細いもの。一本」
「了解。触らなくていい」
妙に本格的になってきた。
俺は奥へランプを向けた。
黒い場所は穴ではなく、段差だった。
床が途中で消えている。
「……下だ」
「何が?」
エダンの声。
俺は身を乗り出さず、ランプだけを前へ出した。
光が落ちる。
一メートル。
二メートル。
その先で岩に当たった。
深い穴ではない。
ただ、今いる場所から下へ二メートルくらい落ちて、そこからまた奥へ続いている。
「通路が下へ一段落ちてる。二メートルくらい。降りるだけならできそうだけど、戻る時に面倒だな」
俺が説明すると、ミオは少し黙った。
「今日はそこまでにしよう」
返事が早い。
でも理由を聞く前に、足元で小さな音がした。
こつ。
何かが動いた。
俺は反射で手をついた。
その石がずれた。
身体が前へ流れる。
視界の先に、二メートル下の床。
身体の補助が一気に腕へ力を入れる。
俺も同時に腰を引いた。
その瞬間、腰の縄が張った。
「レン!」
外から二人の声が重なった。
落ちてはいない。
片膝が段差の端から出ただけだ。
でも、心臓が一気に速くなる。
俺はそのまま動かなかった。
「大丈夫。落ちてない。石が一個ずれた。ちょっと待って、今は引かないで」
できるだけ普通の声で言う。
エダンが外から返した。
「引かない。縄だけ張っとく。自分で戻れるか?」
「戻れる。たぶん」
ミオがすぐ割って入る。
「『たぶん』なら先に足の位置を言って。右膝は?」
「床。左足も床。左手が壁。右手が……動かした石の横」
「じゃあ右手を信用しないで。左へ体重を寄せて、足から戻して」
説明が短い。
でも、何をすればいいか分かる。
俺はゆっくり左へ重心を移した。
補助が右腕で支えようとするのを抑える。
左足を後ろへ引く。
腰が戻る。
段差から膝が離れた。
「戻った」
外で、誰かが大きく息を吐く音がした。
たぶんエダン。
「今日、もう終わりな」
声がいつもより低い。
俺は段差をもう一度見た。
行けそうだ。
二メートルだけ。
その下にまだ続きがある。
ものすごく行きたい。
でも、さっき決めたルールが頭に浮かぶ。
誰か一人でも怖いと思ったら戻る。
今は俺自身が、少し怖い。
「うん。戻る」
口に出すと、悔しさより先に肩の力が抜けた。
後ろ向きで戻るのは、入る時よりずっと面倒だった。
曲がり角で膝の布がずれた。
外へ顔を出した瞬間、エダンが笑う。
「おしゃれ、足首まで落ちてるぞ」
「中で流行が変わった」
笑って返したけど、ミオはすぐ笑わなかった。
俺の両腕、膝、肩を順番に見る。
「本当にどこも痛くない?」
「右の手のひらだけ少し擦った。でも動く。肩も大丈夫」
手を開いて見せる。
それを確認してから、ミオはようやく息を吐いた。
「じゃあ笑う。さっきの顔、かなりひどかった」
「見えてないでしょ」
「声で分かるって、朝言われてた」
逃げ場がない。
昼飯は窪みの中で食べた。
俺はパンをかじりながら、今見た形を説明する。
ミオが地図へ線を引く。
入口から右曲がり。
小部屋。
二メートルの段差。
その先は未確認。
エダンは黙って聞いていたが、最後にパンを飲み込んでから口を開いた。
「次、俺も中まで行く。外で縄持つ役は兄貴か、誰かもう一人借りよう。三人だけで全部やる必要ないだろ」
俺は少し意外だった。
「エダン、入りたいんじゃん」
「入りたいよ。さっき言っただろ。俺だって知らん穴があったら気になる。でも、三人まとめて中に入るのは嫌だ」
ミオが地図から顔を上げた。
「それがいい。次は長い縄も要る。二メートル下へ降りるなら、戻る方法を先に作ってから」
俺は段差の先を思い出す。
暗かった。
でもランプの炎は、あそこで少し強く揺れた。
風は下から来ていた。
「じゃあ次は、降りる準備だけして来る?」
俺が聞くと、エダンは呆れた顔をした。
「準備だけって言って、本当に準備だけで帰る顔に見えると思う?」
「……見えない?」
ミオとエダンが同時に首を振った。
返事がそろうのは、こういう時だけでいい。




