第19話 外を回る理由
岩の隙間へ入る前に、外を一周する。
ミオが昨日そう言った時、正直なところ俺は半分くらい「慎重すぎない?」と思っていた。
翌々日の朝、その考えは口に出さないことにした。
エダンの兄が、俺の荷物を見た瞬間に笑ったからだ。
「前より減ったな。やっと山に持っていく物と、家を引っ越す時に持っていく物の区別がついたか」
「木槌を置いてきただけで、そこまで言われる?」
俺が袋の口を結び直すと、兄は鼻で笑ってから、細い縄を一本だけ足元へ放った。
「昨日頼まれたやつ。細いけど、体重全部を預ける縄じゃない。場所を測るとか、荷物を引くとか、その程度にしとけ。落ちた人間をこれ一本で引き上げようとするなよ」
エダンが横から縄を拾い、両手で張って確かめた。
「兄貴、それ、レンに言ってもたぶん『落ちなきゃいい』って返ってくるぞ」
「返さないよ。俺だって学ぶから」
兄が俺の顔を見た。
エダンも見た。
少し離れたところで地図を巻いていたミオまで、手を止めてこっちを見た。
「……何、その全員で確認する時間」
ミオは地図を袋へ入れながら、口元だけ少し笑った。
「前科がある人の『学ぶ』は、言葉より回数で見ることにしてる」
「厳しいなあ」
「まだ優しい方だよ。今日は外周を先に見るって約束、覚えてる?」
「覚えてる。穴は逃げない。外から見た方が分かることもある。ついでに日が落ちる前に帰る」
俺が指を折って数えると、ミオは二つ目で眉を上げた。
「そこまで覚えてるなら十分。三つ目は、肩が痛くなったら黙ってごまかさない」
「増えた」
エダンが笑いながら背負い袋を担いだ。
「それ、俺も賛成。帰ってから『実は朝から痛かった』って言われると、こっちが兄貴に怒られるんだよ」
自分の身体なのに、管理者が増えている。
悪くない気もした。
北東斜面までの道は、三回目になると驚くほど短かった。
灰色の紐を探す時間がほとんどない。滑る石も、顔に当たる枝も、足を置きやすい根も覚えている。
一度目は山の中へ入った感覚だった。
二度目は道を覚えている感覚。
三度目になると、ほんの少しだけ、自分たちの場所みたいに見える。
岩壁の窪みへ着くと、エダンが先に中をのぞいた。
「ネズミ、今日は留守っぽいな。レン、残念だったな」
「別に会いに来たんじゃない。というか、何で俺がネズミ目的みたいになってるの」
「二歩下がったから」
ミオがランプを出しながら、さらっと付け足した。
「私は一歩も下がってない」
「下がれなかっただけでしょ」
「結果は同じ」
強い。
俺は反論を諦め、昨日見つけた小さな隙間を一度だけ確認した。
暗い。
空気は今日もわずかに外へ流れている。
入りたい。
ものすごく入りたい。
でも、ミオが何も言わず俺の背中を見ている。
「分かってる。先に外」
そう言うと、ミオはようやく地図を開いた。
岩壁の左側は、前回途中で諦めた場所だ。
木が密すぎて歩けない。
今回は無理に正面から入らず、少し斜面を下ってから回り込んだ。
遠回りになる。
その代わり、枝の高さが変わった。
下から見ると、前は壁にしか見えなかった木の間に、人ひとりが横向きで通れる隙間がある。
「こういうの、地図に描きづらいんだよね」
ミオは腰を落とし、枝の向こうをのぞき込んだ。
「上から見たら行き止まり。でも一段下がると通れる。線だけ引くと、誰でも通れる普通の道に見える」
俺は先に身体を横へ向けた。
「じゃあ『太ったら通れない』って書いとく?」
「レンが先に通れなくなったら、その表記を採用する」
「俺基準なの?」
後ろでエダンが吹き出した。
「それ、分かりやすいじゃん。『レン可』『レン不可』で二種類」
「世界地図の単位に俺を使うな」
笑っているうちに、枝の隙間を抜けた。
そこで風が変わった。
顔では分からない。
音だ。
葉が揺れる音が、急に弱くなる。
俺は足を止めた。
後ろから来たミオがぶつかりそうになって、肩を引く。
「急に止まるなら言って。何かあった?」
「風。ここだけ音が小さくない?」
三人とも黙った。
こういう時の沈黙は好きだ。
誰かが正解を言うまで待つんじゃない。
同じ場所に立って、同じものを聞こうとする時間。
エダンが先にしゃがんだ。
地面に落ちていた細い枯れ葉を拾い、指先から落とす。
葉は真下へ落ちず、岩壁の方へ少し流れた。
「こっちから吸ってる?」
エダンがもう一枚落とした。
今度はほとんど動かない。
「いや、今は違うな。風向きで変わってるだけかもしれん」
ミオも決めつけなかった。
「一回だけじゃ記録しない。場所だけ付ける」
地図へ小さな点を打つ。
俺は岩壁へ近づいた。
苔。
土。
雪が少し残った窪み。
その雪の端だけ、薄くへこんでいる。
「ここ、何か通ってない?」
俺が指で示すと、エダンが隣へ来た。
「山羊かもしれない。でも、この高さなら狐でも通る。人は無理だな」
「夢がない」
「夢より肩幅見ろよ。レンでも無理だ」
「また俺基準」
ミオが小さく笑った。
その時だった。
足元で、ぱき、と音がした。
俺の右足が沈んだ。
膝まではいかない。
くるぶしより少し上。
身体が勝手に左へ重心を逃がそうとする。
前なら、その補助に任せていた。
今日は一瞬だけ止めた。
沈んだ右足を抜くんじゃない。
左足を半歩後ろへ置く。
身体を低くする。
そのあとで右足を抜いた。
土と雪が崩れ、小さな穴が開いた。
ミオがすぐ俺の腕をつかんだ。
「大丈夫? 捻ってない?」
「平気。今のはちゃんと平気。ほら、足つける」
何度か地面を踏んで見せる。
エダンは俺より穴を見ていた。
「これ、下が空洞だな。深くはないけど」
三人でしゃがむ。
穴は拳二つ分くらい。
中は暗い。
小石を落とす。
すぐ音がした。
深さはせいぜい一メートルくらいだ。
俺はランプを近づけようとして、ミオに袖をつままれた。
「手だけにして。顔まで近づけないで」
「何で先に分かるの」
「レンだから」
説明になっている気がするのが悔しい。
灯りをかざすと、下には石の隙間があった。
水はない。
動物もいない。
でも、壁の奥側だけ黒い。
土が落ちて、その向こうへ消えている。
エダンが周囲を見回した。
「昨日の窪み、あっちだよな」
「うん。直線なら、そんな離れてない」
ミオが地図の二点を指で結んだ。
「でも、つながってるとは言えない。岩の中なんて、隙間だらけでもおかしくないから」
俺は穴をもう一度見る。
入り口ではない。
人も通れない。
宝箱もない。
それでも、昨日の隙間とは別の場所に空洞がある。
それだけで十分だった。
「外を回って正解だったな」
俺が言うと、ミオが少しだけ得意そうな顔をした。
「もう一回言って」
「聞こえてたでしょ」
「記録に残したい」
「それだけは絶対やめて」
エダンが腹を抱えて笑った。
右側の崩れ斜面も見た。
こっちはもっと危なかった。
表面の石が軽く、足を置くたびに下へ転がる。
奥へ進む価値はない。
戻る途中、俺は崩れた石の上に一本だけ古い擦り跡を見つけた。
靴跡ではない。
爪でもない。
細い何かを引きずったみたいな線。
俺が呼ぶ前に、エダンが先に見つけていた。
「縄かな」
「いつの?」
「分からん。昨日かもしれんし、何年も前かもしれん。石の傷だけじゃ俺には無理」
ミオはしゃがんで見たあと、地図には書かなかった。
「今は保留。何でも意味ありげに残すと、あとで自分たちが騙される」
「地図に騙されるの?」
俺が聞くと、ミオは立ち上がって土を払った。
「自分で描いた地図ほど、信じたくなるから」
その言い方が妙に残った。
窪みへ戻る。
小さな隙間は、さっきと同じ場所にある。
当たり前だ。
でも今は、その周りにもう二つ情報が増えた。
外側の小さな空洞。
風が変わる場所。
穴そのものより、周りの方が面白くなってきた。
俺は細い縄を袋から出した。
ミオがすぐ見る。
「今日は入らないんじゃなかった?」
「入らない。入口から何メートルまで真っすぐかだけ測る」
エダンが俺の手から縄の端を取った。
「じゃあ俺が外で持つ。レン、勝手に奥まで行くなよ。『あと一歩だけ』を三回やったら、それ三歩だからな」
「数学で止めに来るのやめて」
ミオは笑いながら、縄に一メートルごとの印を付け始めた。
今日、穴には入らなかった。
それでも帰る時には、昨日より中の形が少しだけ見えていた。
外を回ったからだ。
たぶん次は。
今度こそ、中から見る。




