第17話 山羊は道を作らない
山羊は、道を作ってくれなかった。
正確には、山羊には道なんだと思う。
人間には違った。
「そこ登るの?」
エダンが上を見ている。
俺も見た。
岩。
その上に岩。
さらにその上に、草。
蹄の跡は迷いなく続いている。
俺の足が置ける場所は、ほとんどない。
俺は聞き返した。「山羊ってずるくない?」
エダンが短く返した。「何が」
「四本ある」
エダンが言った。「レンも手使えば四本だろ」
「そういう問題じゃない」
試しに手をつく。
冷たい。
身体補助が足場候補を拾うように重心を動かす。
右足。
左手。
一段上。
ここまではいい。
次。
足を出した瞬間、靴底の小石が転がった。
からからから。
ずいぶん長く音がした。
俺は足を戻した。
「やめる」
ミオが下から言う。「早いね」
俺はそう返した。「判断が速い男だから」
ミオが短く返した。「朝も聞いた」
もう使えない。
降りる。
最後の一段で滑った。
エダンが腕を掴む。
肩が痛い。
俺は短く返した。「いっ……」
ミオが聞き返した。「大丈夫?」
「肩だけ」
ミオが言った。「大丈夫じゃないじゃん」
その通りだった。
山羊の跡は崖へ上がる。
俺たちは上がれない。
一個目の候補、終了。
エダンが聞く。「戻る?」
ミオは地図を見ている。
俺は岩の下を見た。
さっきの蹄跡。
上へ向かうものだけじゃない。
岩の根元に沿って、横へ続く薄い跡がある。
俺は短く返した。「こっち」
エダンが聞き返した。「また山羊?」
「たぶん」
エダンが聞き返した。「山羊に負けたのに?」
「違う山羊かもしれない」
エダンが言った。「個体差に期待し始めた」
俺たちは横へ回った。
傾斜はある。
でも手を使わず歩ける。
足元は落ち葉と細い石。
普通の道より遅い。
それでも、峠へ向かう本道より風が弱かった。
木が多いからだ。
背の低い針葉樹が斜面に密集している。
枝が顔へ当たる。
一回。
二回。
三回目で腹が立った。
「誰か先歩いて」
ミオが言う。「今まで先行きたがってたの誰」
ミオが短く返した。「成長した」
「枝に負けただけ」
エダンが前へ出た。
身長は俺と大して変わらない。
枝は普通に当たった。
ミオが短く返した。「痛っ」
エダンが聞き返した。「成長した?」
「黙れ」
少し楽しい。
十分くらい進むと、蹄の跡が増えた。
一頭じゃない。
小さいのもある。
俺が聞く。「群れ?」
エダンが答える。「たぶん」
俺はそう返した。「村の山羊も、通りやすいところはみんな同じとこ通る」
エダンが聞き返した。「モグも?」
「モグは通りやすくなくても行く」
エダンが短く返した。「強いな」
「強い」
ミオが会話に入らず、斜面を見ていた。
「ここ」
指す。
木の幹。
皮がこすれている。
腰くらいの高さ。
ミオが聞き返した。「山羊?」
エダンが短く返した。「角かも」
エダンが触る。
エダンが短く返した。「新しい」
ミオが聞き返した。「分かる?」
「樹液まだ出てる」
確かに白っぽい液がにじんでいる。
地図に点が増える。
線にはしない。
まだ。
さらに進む。
地面が急に白くなった。
雪。
ほんの少し。
日陰だけ残っている。
俺はしゃがんだ。
触る。
冷たい。
当たり前だ。
俺は聞き返した。「昨日見えた白いの、ここから続いてる?」
「これは昨日の雨が雪になっただけかも」
ミオが空を見る。
雲は厚い。
白嶺は見えない。
でも空気は明らかに町より冷たい。
息が少し白い。
上着の前を閉める。
エダンも同じことをした。
一時間も歩いてない。
なのに環境が変わる。
それがゲームっぽい、というより。
山っぽい。
たぶん、そっちの方が怖い。
突然、風が鳴った。
木の上。
ごう、と音だけ先に来る。
ミオが言った。「来る」
何が、と聞く前に吹いた。
横から。
身体が一歩ずれた。
枝が全部同じ方向へ曲がる。
落ち葉が舞う。
顔が痛いくらい冷たい。
俺はしゃがんだ。
エダンが木の陰へ入る。
ミオも下がる。
十秒。
二十秒。
長い。
昨日の男が言っていた。
立っているだけで体温を持っていかれる。
ここはまだ麓だ。
それでも分かる。
俺が言う。「本道、もっと上だよな」
俺はうなずいた。「うん」
「これより風強い?」
「地図には」
ミオは答えを止めた。
今いる場所の風が弱いのか強いのか。
比較できない。
だから決めない。
風が少し落ちる。
エダンが鼻をすすった。
「寒い」
今度は俺が聞いた。「戻る?」
エダンが空を見る。
エダンが短く返した。「まだ昼前」
「時間じゃなくて」
自分で言って少し変な感じがした。
前は、時間があるなら進む、だった。
ミオが地図を出す。
「今の場所、帰りに分かる?」
振り返る。
木。
木。
岩。
また木。
全然分からない。
来る時は蹄跡だけ見ていた。
ミオが短く返した。「……似てる」
「帰りの印つける」
白い縦線を出しかける。
やめた。
村までの公開道に使っている印だ。
ここに同じものを置いたら、知らない人が続けてしまうかもしれない。
「別のにしよう」
ミオが細い紐を出した。
灰色。
目立たない。
木の低いところへ、一重。
俺が聞く。「自分たちだけ分かる?」
ミオが言った。「地図と合わせれば」
俺は聞き返した。「他の人は?」
「ただの紐に見える」
エダンが結んだ。
少し緩い。
ミオが結び直した。
ミオが短く返した。「取れそう」
俺はそう返した。「取れないって」
「取れる」
俺はそう返した。「俺の村、こういう結び方する」
「山は村じゃない」
俺は短く返した。「うるさいな」
二人で同じ紐を触っている。
俺は見ていた。
「何」
同時に言われた。
「いや」
何でもない。
帰れる線。
たぶん、こういうのを先に作るんだ。
俺たちはもう少しだけ進んだ。
岩壁が見えた。
昨日のメモにあった場所。
黒い岩が、斜面から急に立ち上がっている。
高さは分からない。
上が雲に溶けているわけじゃない。
木が邪魔で見えないだけ。
蹄跡は、壁の手前で急に多くなった。
あちこち。
なのに。
壁の先にはない。
エダンが言う。「消えた」
本当に。
雪の薄い地面に、ここまでは何本もある。
岩壁の前で集まって。
そこで終わる。
俺は上を見る。
さっきみたいな細い段差はある。
でも群れ全部があれを登る?
小さい蹄跡もあった。
ミオが言った。「上じゃないかも」
俺は壁へ近づいた。
何もない。
岩。
苔。
細い亀裂。
手を当てる。
冷たい。
俺は短く返した。「レン」
エダンがうなずいた。「うん」
「顔」
エダンが言った。「まだ何も考えてない」
「考える前の顔」
そんなのまであるのか。
エダンが壁の横を回る。
「こっち、風ない」
俺たちはそっちへ行った。
岩が少し張り出している。
三人入れるくらいの窪み。
外では枝が揺れているのに、そこだけ静かだった。
床に、黒い粒が落ちている。
山羊の糞。
エダンが言う。「いた」
山羊は岩を登ったんじゃない。
少なくとも、ここにはいた。
俺たちは窪みの奥を見る。
暗い。
でも穴というほど深くない。
たぶん。
ミオが言った。「今日はここまで」
俺は反射で「え」と言いかけた。
空を見る。
雲。
帰り道。
灰色の紐。
夕方まで。
「……うん」
自分で返事した。
ちょっと悔しい。
でも、昨日の赤い失敗線を思い出した。
進めるところまで行くんじゃない。
帰れるところで戻る。
地図に、初めて細い線が引かれた。
本道から外れ、北東へ。
まだ短い。
岩壁の前で止まっている。
俺たちは、その線を逆に歩き始めた。




