3話「迂疎空闊」
気を失っていたのは、体感でものの数分だったように思う。
ばっと目を開けて最初に飛び込んできた光景は、酷く暗い。スマホを取り出すと、電波は圏外だった。そのままライトをつけてみる。ずっと先に続いているのは、開けた草原と舗装されていない道。スニーカーの踵で踏んだのは、尖った石ころの不快感だった。
都会から急に田舎に来た気分だ。半袖のワイシャツの下で、汗が冷たくなっていく。
どうしたらいいのか分からなかった。真っ直ぐ続く道を、数メートルだけ進んでは、また同じ距離戻ったりする。その繰り返し。景色はうつりかわらない。
次第に心が恐怖に蝕まれていく。心細い。ここが死の淵なのだろうか。だったら御免だ。苦しいのが嫌で、電車という凶器を選んだのに。僕はどこまで苦しめばいいのか。そんな不安に満ちた中で立ち往生していると、
「おーい」
遠くで声がした。
掠れている、老いた声帯の優しい呼び声だ。人がいる。人が居てくれた。良かった。
「おーい、おーい」
「は、はいっ! あのっ」
「おーい、おーいおーいおーい。こっちだよ、おーい」
「いま、っ今、行きます!」
あまりにも何度も呼ぶから、急かされている気がした。耳が遠いのかな。慌てて何度か返事をする。
この機会を逃したら、本当に1人になってしまいそうで。
そんな予感を、
『アーアー! 聞こえているか少年!! しょうねーーーーん!!』
断ち切る凄まじい声。ノイズ混じりに聞こえてくるその声の主。十中八九おじさんだ。後ろというか背中……いや、これは。
「聞こえてます! あの、何か……左の肩甲骨辺りから!!」
『GPS付き通信機をつけておいた! 君をお姫様抱っこをした時だ!』
左の肩甲骨がやたら元気になった気がした。しかし肩の荷は重たくなった。
「あ、あぁの……そういうのって耳の方が都合いいんじゃ……」
『そんなことより、少年!』
「はい」
『そいつはおーいおじさんだ!! 逃げろ、答えてはいけない!』
捻りの無さがいっそ清々しい。もうちょっと不吉な命名出来ただろ。
いや、正直イヤな予感はしていた。こんな薄気味悪い場所で呼んでくる人なんて、良くない方に決まってる。答えたあとに言わないで欲しかった。助けようとしてくれてるのは分かるが、ギリ遅い。
僕らのやり取りの最中も、おーいの声は止まらない。何なら徐々に近付いてくる。
スマホの明かりの範囲内まで迫っていた人影は、頭部が寂しい朗らかな好々爺だった。
片脚が前方に曲がっていることを除けば。
「やばいやばいやばい!!!! 助けてください!! 答えちゃいました!!」
『何だと!? えっ……どどどどどうしよう??!!』
「頼り甲斐!! ここから救済措置がないルートってあります!?」
『どっ……待ってちょっ向かってるんだけど……っぶね、あのね、運転中なんだわ!! ながら運転!! しんどいよ実際、マルチタスク無理無理! お願い、頑張って逃げてくれ!!!!』
「本当に無い!!!」
肩甲骨が賑やかになっただけだった。このおじさんがしてくれたこと……突き飛ばす、状況説明、お姫様抱っこ、あとはお願い。
『頼む、走れ! 走るんだ!! いつかそのうち多分トンネルが見えてくる!! その中に入れ!!』
羅列してる時間も惜しい。一心不乱に駆け出した。足を踏み出す度に、靴の中に砂利が入ってくる。痛くても、足を止める方が怖かった。背後から足音が聞こえてくる。足音は僕の速度に比例して速くなっていく。追いかけられている。怖い、振り向けない。
とにかく前方を照らした。岩道に沿うように、高い草や木が生えている。それがずっと続いている。
走り続けてどれくらい経っただろうか。呼吸の乱れが酷くなっていく。
草木が生い茂る中に、楕円形の闇が見え始めた。トンネルってこれのことか。酸欠気味の頭の隅で回答にたどり着く。
視界も足元を照らすライトも激しく揺れる。走り方が運動音痴のそれだ。それでも僕は、その空洞の闇の中に飛び込んだ。
その瞬間。
「鬼を倒したその英雄、欲に溺れて堕落せし。英雄譚で恥を隠す、哀れ男の名は桃太郎。最期の時は合掌し、ただ救いを乞い願う。いつしか願いは受け継がれ」
仰々しい語りが、抑揚の無い声で紡がれる。淡々とかいうレベルじゃない。完全に棒読みだった。何か紙を持ってる。カンペのような何かを。
その声はどんどん近付いてくる。僕も声の方へ、最後の力を振り絞る。
声がひとつ息を吸う。
「誰が呼んだかーー拝み屋と」
最後の言葉を唱えると同時。
走り切った僕の隣を、声の主がすれ違う。
僕より背の高い、似たような……制服のスラックスが見えた気がした。
「全国セイクリッドハート互助会所属、温羅猿彦。桃太郎さんの願いによりお供する」
うらさるひこさん。さ、猿……。
ちょっと長い単語が邪魔をしたが、名前だけは分かった。
…………あのおじさん、本当に桃太郎だったのかな?
我ながら呑気な思考回路で、僕はようやく振り返った。




