門の向こう
沼地へと続く街道は、思ったより静かだった。
馬の蹄の音と、風が草を揺らす音だけが続いている。ゼイン=フルゲンは馬上で手綱を握りながら、また王女殿下の言葉を頭の中で繰り返した。
ーーフルゲン家の三人に、沈黙の沼地を調査させよ。
名指しだった。護国騎士名家十家の中でも、王女が直接任務を下すことは珍しい。それ自体はいい。問題は、理由がないことだった。何を調べるのか。何を持ち帰るのか。何も言われていない。
ゼインは隣を見た。妹のアリスは涼しい顔で馬を走らせている。こいつは、こういうとき何も考えていないのか、あるいは全て考えた上で表情に出さないのか、いつもわからない。後ろではシオンが馬上で欠伸を噛み殺していた。十六歳はまだ眠い歳頃らしい。
「ゼイン兄さん」アリスが言った。「また考えてる顔してる」
「考えるのは悪いことじゃない」
「王女様に任せておけばいいんだよ、考えることなんて」
ゼインは何も言わなかった。
街道を外れ、しばらく草地を進むと、空気が変わった。湿り気が増し、草の色が濃くなる。沼地が近い。
「霧が出てきた」シオンが言った。
白い霧が、地面を這うように広がってきた。最初は足元だけだったが、じきに腰の高さまで達し、視界が白く滲んでいく。馬が不安そうに首を振った。
そして、、、音が消えた。
唐突だった。風の音が消え、草の音が消え、馬の蹄の音まで消えた。ゼインは即座に口を開いたが、自分の声も聞こえなかった。アリスが何かを言っている。口が動いているのに、音が届かない。
霧が、濃くなっていく。
その中に、影があった。はっきりとした輪郭ではない。人の形をしているようで、そうでないようなーー白い霧に溶けるように揺らめきながら、いくつもの影がこちらへ向かって移動してきた。ゼインは剣の柄に手をかけた。アリスも、シオンも、同じように身構えた。
しかし影たちは、三人には目もくれなかった。
霧ごと、通り過ぎていった。
じきに白い塊は遠ざかり、音が戻ってきた。草の音。風の音。馬の息遣い。
「、、、何だったんだ、今のは」
シオンが言った。声が少し上擦っている。
「ーー沼地が動いた」アリスが静かに言った。「いや、正確にはーー何かがこちらへ向かって移動してきた。霧も沈黙も、その何かに紐付いていた」
「複数だ」ゼインは言った。「影が、いくつもあった。それぞれが霧と沈黙を展開しながら移動していた。あれが沈黙の沼地の正体だとすれば、、、」
「沈黙の沼地は場所じゃなかった」アリスが続けた。
三人は黙った。
では、何から逃げていたのか。
ゼインがそれを考え始めたときーー草を踏む音がした。
草地の向こうから、人が歩いてきた。
少年だった。背はシオンより少し低い。黒髪で、着ているものが奇妙だった。上は白と紺の、見たことのない意匠の上着。下は濃紺の細身の衣。足元は革靴のようだが、底が妙に厚い。今までに見たどこの国の服装でもなかった。
少年はきょろきょろと周囲を見渡しながら歩いていて、三人に気づくと、ぴたりと止まった。
しばらく、互いに見つめ合った。
それから少年は、おずおずと口を開いた。
「あの、一つ聞きたいことがあるんですけど」
ゼインは馬上から少年を見下ろした。アリスが手を剣の柄に置いたまま動かない。シオンが少し身を乗り出した。
「、、、魔法って、使えますか」
沈黙が落ちた。
ゼインは少年を観察した。怯えている。しかし敵意はない。手を見た。白くて細い手だった。傷ひとつない。肉体労働とは無縁の手だ。剣を握ったこともないだろう。武器も持っていない。
上流の出だろう、とゼインは思った。しかしどこの国の上流か、見当がつかない。それにーー黒髪だ。この辺りではあまり見ない色だった。
「魔法は知っている」ゼインは答えた。「だが我々の国には魔女はいない」
「魔女、、、」少年は小さく繰り返した。「そうですか」
「お前は何者だ。どこから来た」
「え、あー、、、」少年は困ったような顔をした。「それを説明するのが、ちょっと難しくて」
「難しい?」
「はい。信じてもらえるかどうか、わからないので」
アリスがゼインを見た。ゼインは少し考えてから、馬を降りた。
「名を聞こう」
「日野、司です」
「ヒノ・ツカサ」ゼインは繰り返した。聞いたことのない響きだった。「私はゼイン=フルゲン。こちらはアリス、シオン。フルゲン家の者だ」
司と名乗った少年は、フルゲン、と小さく口の中で転がすように繰り返した。
「魔法が見たいの?」アリスが馬を降りながら言った。
「見たい、というか、、、魔法のことを知りたいんです。いろいろと」
「理由は」
「、、、友人のためです」
アリスはゼインを見た。ゼインは少年の手をもう一度見た。労働の跡がない。一人で草地にいたのに、服も肌も妙に汚れていない。怯えているが嘘をついている様子もない。
ゼインは道中ずっと考えていたことを、もう一度頭の中で広げた。
王女殿下の名指しの任務。目的のない指示。沈黙の沼地の調査。
王女殿下の魔眼は、世界の因果を見る、、因果観測の魔眼。彼女が何かを見た。そして我々をここへ寄越した。
ゼインは司を見た。
ーーああ、そういうことか。
「魔法そのものは見せられない」ゼインは言った。「だが、魔法に似たものならある。魔道具だ」
司の目が、少し変わった。
「魔道具」
「我々の国にある、魔法を転用した道具だ。興味があるなら、王都まで来るといい」
「王都、、、」司は少し間を置いた。「ついていっていいんですか」
「王女殿下が我々をここへ寄越した理由が、お前に会わせるためだったとするならーーむしろついてきてもらわなければ困る」
司は、ゼインの言葉の意味を測るように少し黙った。それから、わかりました、と言った。騒がなかった。状況をよく飲み込めていないだろうに、静かに頷いた。
シオンが馬から降りながら司を見た。同い年くらいだ、とゼインは思った。シオンも同じことを思ったのか、司の隣に並んで、横目で見ている。
「お前、何も持ってないのか」シオンが言った。
「持ってないです」
「金も?」
「はい」
「、、、大丈夫か」
「大丈夫じゃないです」
シオンが少し笑った。司も、釣られるように表情を緩めた。
馬車を拾い、王都への街道を進んだ。
カルナの王都は、大陸中央部に位置する。城壁に囲まれた古い都で、魔道具の明かりが夜には街全体を照らす。その入口となる大門は、街道の終点に構えていた。石造りの巨大な門で、アーチ状の天井には細かな紋様が刻まれていた。
門の前には、二人の門番が立っていた。
長身だった。二人とも、ゼインより頭一つ二つは背が高い。磨かれた銀色の鎧を纏い、長い槍を携えている。そして二人とも、片目に眼帯をしていた。左右は逆だった。二人で一対、という印象を受けた。
馬車が止まると、通常であれば門番は一人ずつ通行者に付き、それぞれ確認を行う。しかし今日は違った。二人が並んで、馬車の前に立った。
ゼインは馬車を降りた。
「フルゲン家のゼイン、アリス、シオン。王女殿下の命より帰還した。同行者が一名いる」
門番の一人ーー眼帯を左目にした方が、司を見た。もう一人ーー右目に眼帯をした方も、司を見た。二人の視線が司の上で重なった瞬間、眼帯の縁がわずかに光った。
「通行の確認を行う」左眼帯が言った。声は低く、感情が乗っていなかった。「門をくぐれ」
一人ずつ、ではなかった。全員で、だった。
ゼインは司を促した。六人が並んで門のアーチの下へ入ると——光が消えた。
真っ暗だった。振り返ると、来た道が遥か彼方に見えた。街道も、馬車も、空も、豆粒のように小さくなっている。前を見ると、王都の出口が同じように遠ざかっていた。闇の中に閉じ込められた、そんな感覚だった。
「門自体が魔道具だ」ゼインは司に小声で言った。「彼らが許可をするまで、我々は出られない」
司は黙って頷いた。暗闇の中でも、その目が静かなのがわかった。
二人の門番が、司の正面に立った。眼帯の縁が、また光る。今度は長かった。光は司の頭から足先まで、ゆっくりと走った。二人は無言だった。互いに目配せもしない。ただそれぞれが、何かを読んでいた。
しばらく、誰も動かなかった。
やがて右眼帯が口を開いた。
「異論なし。通行を認める」
左眼帯は黙っていた。
「、、、異論あり」
低い声だった。右眼帯が左眼帯を見た。
「理由を」右眼帯が言った。
「魔力がない」左眼帯は司を見たまま言った。「人間である以上、魔力は必ずある。だがこの者にはない。感知できるほどの魔力が、どこにもない。それだけではない、、、一人で野外にいたにもかかわらず汚れがない。傷も。剣を持ったことのない手と身体をしている。しかも、この辺りでは見ない黒髪だ。何もかもが、噛み合わない」
「だから通さない、と」
「存在として、おかしい。私は信用しない」
右眼帯は少し間を置いた。
「私が見たものと、お前が見たものは違う」
それだけ言った。理由は言わなかった。
左眼帯は右眼帯を見た。それから司を見た。司は視線を逸らさなかった。騒がなかった。何も言わなかった。ただ、静かに立っていた。暗闇の中で、その黒髪だけがやけにはっきりと見えた。
左眼帯が、ゆっくりと息を吐いた。
「、、、仕方ない」
小さな声だった。
「王女殿下の一票も考慮して、通しましょう」
光が戻った。
アーチの向こうに、王都の石畳が広がっていた。魔道具の明かりが、夕暮れの街を橙色に染めていた。
司は一歩、石畳の上に踏み出した。それから振り返って、二人の門番を見た。
「ありがとうございました」
門番たちは何も言わなかった。ただ右眼帯が、ほんのわずかだけ、司の黒髪を見た。それから前を向いた。
王都の石畳を歩きながら、シオンが司の隣に並んだ。
「なあ」
「何ですか」
「さっき、怖くなかったのか。暗闇の中で」
司は少し考えた。
「怖かったですよ」
「でも、何も言わなかった」
「言っても、どうにもならないと思ったので」
シオンは司を横目で見た。それから前を向いて、小さく笑った。
「変なやつだな」
「よく言われます」
ゼインは二人の少し前を歩きながら、その会話を聞いていた。
王女殿下が何を見たのかは、まだわからない。この少年が何者で、どこから来たのかも、まだわからない。しかし一つだけ、わかったことがあった。
この少年は、異質だ。
それは、この国にとって新しい何かをもたらすものだと、感じた。




