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第7話 戻ってこいと言われても

第7話 戻ってこいと言われても


 最深部は静かだった。


 青白い結晶灯が淡く空間を照らし、磨き抜かれた白銀の床には光が鏡みたいに映っている。澄んだ風が通り抜けるたび、天井の結晶がちりん、と小さな音を鳴らした。


 以前の腐臭に満ちた死地は、もうどこにもない。


 今ここは、神域だった。


「よし……完璧」


 アルトは満足げに頷いた。


 木製棚へ整然と並ぶ道具類。分類札も貼り終わり、魔導工具は用途別に整理済み。床には埃ひとつ落ちていない。


 気持ちいい。


 実に気持ちいい。


「アルト様、お茶が入りました!」


 ロゼッタが嬉しそうに飛んでくる。


「ありがと」


 アルトは玉座横の机へ腰掛け、湯気の立つ茶を受け取った。


 香草の優しい香り。


 ほっとする。


「やっぱ綺麗な場所で飲むと違うなぁ……」


「はい!」


 ロゼッタは満面の笑みだった。


 その時。


 ゴォン――。


 遠くで扉が開く重低音が響いた。


 アルトが顔を上げる。


「……誰か来た?」


 ロゼッタの表情が曇る。


「複数の生命反応です」


「調査隊?」


「いえ……」


 ロゼッタは眉を寄せた。


「以前、アルト様を追放した者たちです」


 空気が少し冷えた気がした。


 アルトの手が止まる。


 茶の湯気だけが静かに揺れていた。


 やがて足音が響く。


 荒く、乱暴で、まとまりのない足音。


 そして広間へ現れたのは。


「……いたぞ!」


 ガルドだった。


 後ろにはゼイン、ミナ、そしてリーゼ。


 だが以前とは違う。


 全員、酷く疲弊していた。


 鎧は傷だらけ。


 武器は欠け。


 服は汚れ。


 顔色も悪い。


 以前の余裕などどこにもなかった。


 だがガルドだけは、相変わらず偉そうに顎を上げていた。


「よう、アルト」


「…………」


 アルトは静かに茶を置いた。


 懐かしい。


 なのに、不思議なくらい感情が動かない。


 ガルドは周囲を見回し、露骨に顔をしかめた。


「なんだここ……」


 ゼインも目を丸くする。


「最深部ってこんな場所だったのか……?」


「綺麗……」


 ミナが呆然と呟く。


 リーゼだけは何も言わなかった。


 ただ、アルトを見ていた。


 その目には苦しそうな色が滲んでいる。


 ガルドは鼻を鳴らした。


「まぁいい。アルト、お前に話がある」


「……なに」


「戻って来い」


 ロゼッタの顔が険しくなる。


 だがガルドは気づかない。


「お前がいないと色々面倒なんだよ」


 アルトは瞬きをした。


 面倒。


 その言葉が妙に胸へ残る。


「武器整備も回復薬管理も、全部滅茶苦茶でな。お前、掃除くらいしか能がなかったけど、その辺は役立ってたみたいだ」


 悪びれない口調だった。


 まるで当然みたいに。


「だから戻って来い。雑用係としてなら使ってやる」


 静寂。


 広間に冷たい空気が流れた。


 ロゼッタの魔力がぴり、と震える。


「無礼です……」


 低い声。


 だがアルトは片手を上げ、ロゼッタを制した。


「……アルト?」


 リーゼが不安そうに呼ぶ。


 アルトはゆっくり立ち上がった。


 ガルドたちを見る。


 汚れた靴。


 散らかった荷物。


 乱雑に置かれた武器。


 床へ泥をつけたまま歩き回っている。


 ぴくり、とアルトの眉が動いた。


 なんだろう。


 前なら。


 きっと慌てて掃除していた。


 散らかった物を片付けて。


 壊れた装備を直して。


 みんなが困らないように動いていた。


 でも今は。


 胸の奥が妙に静かだった。


「……嫌だ」


 ガルドの眉が吊り上がる。


「は?」


「戻らない」


「お前、状況わかってんのか?」


 ガルドは苛立った声を出す。


「俺たちは上級パーティーだぞ。戻れば以前みたいに置いてやるって言ってんだ」


「以前みたいに……?」


 アルトは小さく繰り返した。


 脳裏に浮かぶ。


 重い荷物。


 罵声。


 腐った食料。


 夜通しの整備。


 誰にも感謝されない日々。


 そして最後。


『ゴミ処理係にはちょうどいい場所だ』


 奈落へ落とされた瞬間。


 胸の奥が少しだけ痛んだ。


 でも。


 今はもう。


 不思議なくらい遠い。


「……もう散らかす人たちはいらない」


 静かな声だった。


 だが広間は凍りついた。


「な……」


 ガルドの顔が引き攣る。


「散らかす……だと?」


「だってそうだろ」


 アルトは淡々と言った。


「武器は投げっぱなし。薬は開けっぱなし。荷物も整理しない。壊れても放置」


 一歩、ガルドへ近づく。


「みんな、自分で片付けようとしなかった」


「てめぇ……!」


「俺、ずっと大変だったんだよ」


 アルトは初めて本音を口にした。


 怒鳴り声じゃない。


 恨みでもない。


 ただ疲れたみたいな声だった。


「みんなが散らかした後を、ずっと片付けてた」


 リーゼの肩が震える。


 視線を落とした。


 アルトは続ける。


「でも、ここは違う」


 振り返る。


 磨かれた床。


 整った棚。


 静かな空気。


 心地いい場所。


「誰も無茶苦茶にしない。ちゃんと整ってる」


 アルトは少しだけ笑った。


「だから、ここがいい」


 その笑顔が。


 あまりにも穏やかで。


 ガルドは逆に激昂した。


「ふざけんな! 俺たちを見捨てる気か!?」


「見捨てたの、そっちだろ」


 空気が止まる。


 ガルドが言葉を失った。


 アルトは静かに言う。


「俺を捨てたの、ガルドたちじゃん」


 重い沈黙。


 リーゼが唇を噛む。


 ミナも顔を逸らした。


 ゼインだけが居心地悪そうに頭を掻いている。


「……アルト」


 リーゼが震える声を出した。


「ごめん……」


 アルトは彼女を見る。


 リーゼの目は赤かった。


「私、止められなかった……」


「うん」


「ずっと後悔してた……」


「……そっか」


 責める声はなかった。


 その優しさが逆に苦しい。


 リーゼの目から涙が零れた。


 だがガルドは違った。


「こんな場所に籠もって何になる!」


 怒鳴り声が響く。


「俺たちは冒険者だぞ! 世界を救う側なんだ!」


 その瞬間。


 ロゼッタが冷たく言った。


「既に救われています」


「……は?」


「アルト様によって」


 ガルドたちが固まる。


 ロゼッタは静かに続けた。


「世界障壁修復率、現在七十三パーセント。魔力災害は停止。各地の汚染も改善しています」


「な、にを……」


「あなた方が捨てた方こそ、世界の救世主です」


 静寂。


 ガルドの顔が青ざめていく。


 だがアルトは、そんなことより。


 床の泥汚れが気になっていた。


「……ロゼッタ」


「はい!」


「入口、雑巾追加しといて」


「かしこまりました!」


 そしてアルトは、もう一度だけ元仲間たちを見た。


「帰る時、床汚さないでね」


 それが。


 完全な拒絶だった。



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