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第4話 蜘蛛

 廊下を、シュウは必死に駆けた。


 融合のおかげで止血はされた。だが、それだけだ。失った血は戻らない。走るたびに頭の奥でずきんと鈍い音が鳴り、視界の端が暗く滲む。肺は熱く、脇腹に刻まれた傷口が呼吸のたびにじわりと引きつれる。


 それでも止まるわけにはいかなかった。背後から、複数の足音がなだれ込むように追ってきている。


「待ちやがれ、八ツ神ィ!」


 ヒカルの怒声が、廃ビルの廊下を反響して追いかけてくる。


 シュウは瓦礫を飛び越え、割れた床板を踏み抜きそうになり、壁に肩をぶつけながら、どうにか体勢を保った。


『小僧。右の階段、下へ降りろ』


 頭の中でトウテツの声がする。


「下? さっき、上の方がゴーストの瘴気は濃いって、ヒカル達が言ってたぞ!」

『濃すぎるところに飛び込めば、N級より上のやつと鉢合わせて即死だ。今のお前が喰えるのは、最下位の雑魚だけよ。下層階の物陰に、弱ったやつがいるはずだ』


 理屈には頷けた。だが、ヒカル達も当然、自分が下の階層へ逃げると読んで追ってくることだろう。彼らは、シュウがトウテツと融合したことを知らない。瘴気の濃い上層階へわざわざ逃げるとは思わないはずだ。


 せめて少しでも距離を引き離さなければ、と焦りながら、シュウは右手の階段へ身を翻した。それが良くなかった。踊り場で足を滑らせ、膝を強打する。強烈な痛み二襲われたが、舌打ちする暇もない。またすぐに立ち上がり、階段を駆け下りる。指先が冷たい。血が足りない。頭が痺れる。


(下、だ。下に、ゴースト──)


 思考が切れ切れになる。


 とうとう一階まで辿り着いた。そこで、シュウは思わず膝をついた。もう一秒も走れそうにない。片膝を床につき、呼吸を整える。肺が引き絞られるように痛む。


 だけど、幸か不幸か、運命はシュウを休ませてくれる気はさらさら無いようだ。


 正面の、崩れたパーテーションの陰。


 黒い影が、ぬらりと這い上がってきた。


 ゴーストだ。両手両足のある人型でありながら、四つ足で壁に張りついている。形状が不安定になっていることから、瘴気に引き寄せられたはいいものの、廃ビルの瓦礫の下で朽ちかけていた個体だということがわかる。体表はひび割れ、動きもぎこちない。


 よくこの手の廃墟で見かけるタイプの雑魚ゴースト。N級の「蜘蛛」と呼ばれるタイプのやつだ。壁に張りつき、カサカサと、まるで害虫のような動きで移動しながら、ふとシュウの姿に気が付き、シャアアア! と獣じみた咆哮を上げた。


 ラッキーなどと思う余裕はなかった。むしろ、よくこんな死にかけを残していたな、と掃討作戦の雑さに舌打ちしたくなった。先行していたハンター達が、こんな弱い個体を「わざわざ仕留める価値なし」と見逃したのだろう。


『来たぞ、小僧。手の平を構えろ』


 シュウは、血に濡れた右手を、恐る恐る目の前に掲げた。


 掌の中央が、じわりと熱くなる。


 皮膚が、内側から押し上げられるように盛り上がり──裂けた。


「──っ、う」


 喉の奥から、嘔吐に似た呻きが漏れる。


 手の平の真ん中に、口が生えていた。牙のような小さな歯が並び、赤黒い舌がのぞいている。自分の体のはずなのに、自分のものと思えない。生理的嫌悪感が、背筋を逆立てる。


「なんだよ……これ、気持ち悪い……」

『文句は後で聞く。早く喰え』


 ゴーストが壁の上で身をギュッと引き締めさせた。飛びかかる前の構えだ。


 考える時間はなかった。シュウはゴーストに対して、手の平を向ける。


 シャアッ! と叫び、ゴーストが壁から跳躍した。シュウの喉笛に噛みつかんとばかりに、口を裂けそうなほどに大きく開けて、喰らいかかってくる。


「うわああああ!」


 シュウは悲鳴にも近い声を上げながら、飛んでくるゴーストに向けた手の平を1ミリも動かすことなく、そのままのポジションで維持させた。だけど、恐怖で前を見ていられず、顔を背けてしまう。


『小僧! 前を見ろ! よくその目で見届けるがいい!』


 途端に、トウテツの声が脳内で鳴り響く。


 シュウが意を決して前へ向き直ったのと、ゴーストが、突き出されたシュウの右手に喰らいつくのは、ほぼ同時だった。


 右手を喰われた! と思った直後、ベコンッ! とゴーストの胴体が唐突に凹んだ。


「え⁉」


 戸惑う間もない。


 メキメキ、ベキベキ、と不快な音を立てて、ゴーストの全身は何かに吸い込まれるかの如く、どんどんひしゃげていき、その頭部の方へと折りたたまれていく。


 シュウは感じていた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それも、相手の体内から、まるで掃除機で吸い込むかのように。声にならない悲鳴を上げながら、ゴーストは小さくなっていき、ついには右手に噛みついた頭部だけとなった。その頭部も、ひしゃげて、スポンッ! とシュウの右手の口の中へと吸い込まれていった。


 ゴーストを文字通り全て喰らい尽くした瞬間、シュウの全身を、奇妙な感覚が駆け抜けた。


 筋肉の配列が組み変わるような、軽やかな違和感。手足の末端が、ぞわぞわと何かを覚えていく。蜘蛛糸のような細い粘着力が、指の腹、足の裏、背中にまで滲み出てくる──そんな、体に刻まれた情報。


『これでお前は、スキルを手に入れた。そうだな、あえて名付けるなら「スパイダー」といったところか。先ほどのゴーストと同じく、壁にも天井にも張り付ける。地味ではあるが、お前の想像以上に機動の自由度は確保出来る。』

「ゴーストを喰って……そのスキルを、俺が、手に入れた……⁉」


 実感は湧かない。だが、体が知っている。


「いたぞ! 一階だ!」


 階段の方から、班員の声が聞こえてきた。


 シュウは思わず逃げようとしたが、膝がガクガクと笑ってしまう。ダメだ、血の足りなさは変わっていない。スキルを得ても、体力は元のままだ。


(くそっ、この状態で戦うしかないのか!)


 鍵となるのは、手に入れたというスキルの活用だ。半信半疑で、崩れかけた壁に手をついてみる。そのまま、試しに、押し上げるように力を込めてみた。


 ぺたり、と手の平が壁に吸い付いた。


「う、お⁉」


 思わず驚いたものの、感慨に浸っている暇はない。そのままの流れで、シュウは壁を踏んでみた。


 足裏が、当たり前のように壁面に貼りつく。


 重力の向きが、頭の中でぐるりと回った。


 たちまち、シュウは壁を「床」のようにして、地面と水平になる形で立つことが出来た。あまりにも不慣れな感覚に戸惑ってしまうが、しかし、状況は一瞬の隙すらも許されないほど追い込まれている。


(やってやる! まずはこのスキルを使いこなしてやる!)


 自分で自分に活を入れて、シュウは壁面に立ったまま、追手どもを迎え撃つ体勢へと移行した。

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