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第3話 喰らえ

 闇の中の眼が、ゆっくりと動いた。


 月光の届く境界まで、それはゆらりと踏み出してくる。


 シュウは息を呑んだ。


 月明かりの下に姿を現したのは――人だった。


 少なくとも、そう見えた。


 淡い銀色の髪が、月光を受けてやわらかく透ける。男にしては線の細い肢体に、古めかしい道士風の装束をまとっている。雲紋様の入った白地の上衣に、深い藍の帯。黒いレギンスに、草履。どこか浮世離れした、絵巻物の中の仙人のような佇まい。


 ただし――脇腹に深い裂傷があり、そこから黒い靄が煙のように立ち上っていた。衣の白地に、じわりと血が滲んでいる。片膝を床についた姿勢で、しかし、その背筋は奇妙にまっすぐだった。


(これが……UR級……)


 目に映るのは、ひとりの青年だ。だが、肌で感じる圧はまるで違う。死にかけのはずのその存在が、部屋の空気そのものを軋ませている。DPゼロのシュウの全身が、本能で震えた。


 トウテツ。


 古代神話に名を残す、四凶の一柱。


 その男は、己の血の滲んだ手を気だるげに眺めながら、月光を浴びるシュウをゆっくりと見上げた。琥珀色の瞳の奥には、どこか飄々とした――それでいて底の見えない光があった。


「ずいぶん派手にやられたな、人間」


 低く、わずかに嗄れた声だった。響きは若くも老いてもいる、どちらともつかない不思議な声。


「わしもお前も、似たようなものか。今宵は満月だというのに、情けないことだ」


 シュウは、喉に絡まる血を飲み下した。


「お前……喋るのか」

「わしを誰だと思っておる。そこらの雑魚と一緒にしてもらっては困るぞ、小僧」


 トウテツは、口の端を持ち上げて笑った。笑ったその振動で傷口が裂けたらしく、眉をわずかにひそめ、脇腹を押さえる。その仕草が、妙に人間臭かった。


 シュウは剣を構えようとして、力が入らないことに気づいた。指先が冷えている。桃木剣を抱きしめている腕の感覚が、遠い。血を失いすぎた。考えるより先に、体が終わりに向かっている。


「……俺を、喰うのか」


 途切れそうな声で、シュウは問うた。


「喰わん」


 トウテツは即答した。


「人間は喰わん主義でな。お前達はネズミを喰うか? それと同じだ」


 シュウは、その答えの意味を、一拍遅れて理解した。


 理解したが、どう受け取っていいか分からなかった。化け物に喰われずに済むと言われて、安堵するべきなのか、馬鹿にされたと怒るべきなのか。判断する気力さえ、もう残っていない。


「……そうか」


 それだけ呟き、シュウは再び目を閉じようとした。


「待て」


 トウテツの声が、シュウを引き止めた。


「わしはお前を喰わんが――お前とわし、互いに腹を空かせた犬のようにここで野垂れ死ぬのは、どうにも間が悪い。取引せんか、人間」


 シュウは、わずかに目を開いた。


 トウテツの瞳が、月光を受けて、琥珀色に揺らいでいる。


「わしをお前の中に入れろ。融合するのだ。そうすればお前は死なずに済む。わしも消えずに済む。互いに損はない。悪くない話だろう?」

「……融合?」

「人間とゴーストの、魂の同居よ。前例はある。滅多にないがな」


 トウテツの声は、あくまで飄々としていた。命乞いにも、誘惑にも聞こえない。まるで世間話でもするような、奇妙な軽さがある。


 シュウの頭の中で、組織で叩き込まれた規律が警鐘を鳴らした。


『ゴーストとの接触は、いかなる形であれ絶対に避けよ』

『汚染された者は、ハンターとして即時資格剥奪、隔離対象となる』


 知っている。よく知っている。ゴーストを体内に入れるなど、ハンターにとって最大の禁忌だ。人間を辞めるに等しい。


 だが――。


(ここで死んだら)


 瞼の裏に、父の顔が浮かんだ。母の声が蘇った。


(両親の仇は、永遠に討てない)


 シュウの両親を殺したUR級ゴースト・渾敦コントン。あの化け物を倒すと誓ってから、六年。その間、シュウは剣を磨き続けた。たとえDPがゼロでも、いつか届くと信じて。


 今、ここで、ヒカルのような男に殺されて、それで終わっていいのか。


 このまま、何者にもなれないまま、朽ちていいのか。


「……条件がある」


 シュウは、かすれた声で言った。


「お前の力を、借りたい。だが、お前の好きにはさせない。俺は俺のままで、俺の意思で戦う。それでいいか」


 トウテツは、一瞬、目を細めた。


 そして、喉を鳴らして笑った。


「ほう。死にかけのくせに、言うではないか」


 笑いはすぐに止み、その声は、ぞっとするほど静かなものに変わった。


「よかろう。わしは自由を愛する者。宿主に鎖をかけるほど、無粋ではない。お前の意思を尊重しよう。――ただし、わしを軽く扱うな、小僧。この身は、かつて冥界の王すら退けた者ぞ」

「……わかった」

「よし。では――来い」


 トウテツの体が、ゆっくりと崩れ始めた。


 月光に照らされた輪郭が、蝋のように溶け落ちていく。銀髪も、道士の装束も、華奢な肢体も、ひと塊の黒い靄となって、月光の中を滑るようにシュウへ近づいてくる。


 シュウは身構えなかった。


 構える力も、もう残っていなかった。


 黒いもやが、シュウの胸に触れた。


 瞬間。


 背骨に稲妻が走った。


 全身が沸騰するように熱い。同時に、内側から別の何かに押し広げられる感覚。骨が軋み、血管が脈打ち、心臓が別人のリズムで跳ねる。視界が万華鏡のように砕け、再び結ばれる。聴覚が鋭くなる。嗅覚が鋭くなる。さっきまで意識できなかった瓦礫の匂い、風の流れ、遠くの足音までが、一度に流れ込んできた。


「う、あ――」


 喉から、自分のものではない声が漏れた。


 傷口が熱い。激痛のはずなのに、それが、溶けた蝋のようにゆっくりと閉じていく感覚がある。完治ではない。止血されただけ。だが、それで十分だった。


(俺の中に、いる)


 頭の芯に、トウテツの気配があった。他者の存在。しかし排斥されるものではなく、奇妙に馴染んでいた。


『よろしくな、小僧』


 その声は、耳ではなく、頭の内側から響いた。


 ――その時。


 廊下の方から、足音が聞こえた。


 複数。それも、急いでいる。


「逃がすかよ、ランク外!」


 ヒカルの声。


 シュウは月光の降り注ぐ床の上で、ゆっくりと身を起こした。


 部屋の入口に、ヒカルと班員が三人。武器を構え、こちらを睨みつけている。


 ヒカルの顔が、一瞬、訝しげに歪んだ。致命傷を負ったはずのシュウが、座ってこちらを見返しているのだ。血まみれの姿のままで。


「……てめえ、何をした」


 シュウは答えなかった。


『小僧』


 頭の中で、トウテツの声がした。


『やり方を教えよう。手近なゴーストを喰え。それが最も手っ取り早い』

「……ゴーストを?」

『簡単だ。お前の掌に口が生える。それを、やつらに叩きつけろ。あとは勝手に呑み込む』


 そんなことを言われても、手近なところにゴーストなんて、どこにもいない。もし出てきたとしても、ヒカル達によってすぐ駆逐されてしまうだろう。


「どうすりゃいいんだよ。どこにもゴーストなんていないぞ」

『人間。こういう時に便利な言葉があるだろ』

「なんだよ」

『三十六計逃げるに如かず』

「ハァ⁉ せっかく回復したのに、また逃げんのかよ!」

『今のお前では、あいつらに手も足も出せまい。とりあえず、全力で走れ。全力で逃げろ。道中、ゴーストを見つけて捕食すればいい』


 といったやり取りは、トウテツの声がヒカル達には届いていないので、彼らにはシュウが一人で何か喋っているようにしか聞こえない。


「へっ、怪我で頭でもおかしくなったか。気持ち悪ぃ」


 ヒカルは苦笑しながら、三人の班員にハンドサインを送った。班員達は頷き、動き始める。彼ら四人は互いの間隔をあけて、一旦散開してから、壁際にいるシュウを押し潰すように少しずつ包囲網を狭めていく。


「あーもう! わかったよ!」


 突然大声を上げたシュウに、班員の一人がビクッ! と体を震わせた。なぜか大怪我を負いながら元気なシュウのことを、内心では不気味に思っていたのだろう。その班員はどこか腰が引けた体勢で構えていた。


 あそこが穴だ、と直感で見抜いたシュウは、一気に床を蹴り、ビビっている班員へと真っ向から突っ込んでいく。


「わ⁉ わあ!」


 もしもその班員が勇気ある人間なら、カウンターでシュウを迎え撃っただろう。だが、絶好のチャンスを、彼は逃してしまった。


「どけえええ!」


 シュウは怒号とともに、班員に体当たりした。吹っ飛ばされた班員は、尻餅をつき、武器として持っていたナイフを落としてしまう。


「逃げてばっかだな! シュウ!」


 後ろの方からヒカルが自分を嘲笑う声が飛んできたけれども、無視することにした。今は、逃げるに如かず。


 まずは態勢を立て直すことが先決だった。

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