第2話 廃ビルの罠
東京郊外、かつては商業地区だったという場所に、その廃ビルは立っていた。
十二階建てのオフィスビル。窓という窓が割れ、外壁のタイルは剥がれ落ち、骨組みの鉄骨が内臓のように露出している。正面玄関の上には、色褪せた企業ロゴの残骸。ゴーストエリア化して、おそらく五年以上は経っているだろう。
シュウは小型車両の助手席から降り立った。エンジンを止めたドライバーに軽く頭を下げ、集結地点へと向かう。深夜二時。現場には、すでに三十人近いハンター達が集まっていた。
先ほどまでの作戦とは、空気がまるで違う。誰の顔にも、緊張と、それを押し殺そうとする強張りがある。
UR級。
その三文字が、場の全員に圧し掛かっていた。
指揮を執るのはSランクハンターの男だった。名前は知らないが、顔は知っている。組織の中でも指折りの手練れとして名の通った人物だ。
「……状況を説明する」
短く、乾いた声が夜気に響いた。
「確認されたUR級は饕餮。古代中国の神話に由来する『四凶』の一柱だ。貪欲の象徴、何でも喰らう化け物とされている」
ざわ、と空気が揺れる。四凶――この世界を脅かす最上位の脅威。その一角が、いま、この廃ビルに潜んでいる。
「ただし、今回の個体は特殊だ。先日の掃討作戦で深手を負った可能性が高く、戦闘能力は大幅に低下していると見られる。いまを逃せば、取り逃がす。確実に仕留める」
Sランクは視線を巡らせ、隊を編成していく。
シュウは、後方支援の第三班に回された。班長はBランク――鎌原ヒカル。
嫌な符合だった。だが、文句を言える立場ではない。シュウは黙って頷き、班員の後ろに並んだ。ヒカルはシュウを一瞥して、鼻で笑った。それだけだった。
午前二時三十分。突入開始。
廃ビルの中は、外から想像した以上に静かだった。
いや――静かすぎた。
割れた窓から吹き込む風が、天井から垂れ下がるケーブルを揺らす。錆びた鉄の匂い。湿った埃の匂い。その下に、かすかに、甘ったるい腐敗の臭いが混じっている。生き物の死骸か、それとも、もっと別の何かか。
懐中電灯の光が、暗がりに揺れた。
第三班は六名。先頭を行くのはヒカルの腰巾着のCランクふたり。その後ろにヒカル、さらに後方にシュウともうひとりの若いDランク。最後尾にサポート要員が控える。
陣形としては、シュウを守る形にはなっている。だが誰ひとり、シュウに声をかけない。無言の、冷たい壁。
三階へ。四階へ。階段を上がるたび、空気が重くなっていく。ゴーストが近い。DPゼロのシュウにもわかるほどの、濃密な瘴気。
だが、敵影はない。
トウテツはどこだ――シュウがそう思った、その瞬間。
視界の端で、何かが動いた。
反射的に身を沈める。
頭上を、銀色の光が薙いだ。
道術によって形成された刃。Cランクのハンターが振るった、風属性の斬撃。
「……っ⁉」
かろうじて避けた。が、理解が追いつかない。
なぜ、味方の刃が、自分に向けられた?
顔を上げたシュウの前に、ヒカルが立っていた。
口元が歪んでいる。愉悦と、長年溜め込んだ何かを解き放つ、卑しい笑み。
「悪いな、八ツ神。このビル、道術の痕跡が残りづらい造りでよ。UR級の討伐作戦にまぎれてランク外が一人消えたところで、誰も騒がねえんだ」
何を言っている。
頭のどこかで理解を拒んでいるシュウの目の前で、他の班員たちも武器を構え直していた。全員。ひとり残らず。これは突発的な裏切りじゃない。最初から――組まれていた。
「その剣を寄越せ、八ツ神」
ヒカルの視線が、シュウの腰の桃木剣に注がれる。
「宝貝だぜ? お前みたいなランク外が持っていい武器じゃねえんだよ。俺が使ってやる。そのほうが世のため人のためだ。お前だって、わかってるだろ?」
シュウは、動かなかった。
動けなかった、のではない。
怒りが、沸騰する前に、凍っていた。
裏切り。そう呼ぶのも、おこがましい気がした。仲間だと思ったことなど、本当は、一度もなかった。声をかけられることも、労われることも、ただの一度もなかったのだから。
それでも――同じ組織にいるということだけで、どこかで信じていたのだ。いざとなれば、背中くらいは預け合える、と。
バカだった。
シュウは桃木剣を抜いた。
「渡さない」
静かな声だった。
「これは、父の剣だ。お前みたいな奴に、触らせるものか」
ヒカルの顔から、笑みが消えた。
「……そうかい」
突如、刃が振るわれた。
避けきれなかった。肩から脇腹へ、熱い線が走る。血が、驚くほど勢いよく噴き出した。視界が傾く。膝が落ちる。
それでも、シュウは剣を離さなかった。
握り締めた手から、剣が血で滑り落ちそうになる。だから、急いで抱き締めた。桃木剣の硬い感触が傷口には痛かったが、それでも、こいつらに渡してなるものか、という意思が強かった。
今にも倒れそうな状態から、よろめきつつ、廊下の奥へと逃げた。
追撃の足音が迫る。振り向けばヒカルが、獲物を嬲るような笑みを浮かべて、ゆっくりと追ってくる。
瓦礫に足を取られそうになりながら、それでも、シュウは一所懸命駆け抜けた。全身が寸断されそうな痛みに苦しみながらも、少しでも遠くへ逃げたかった。
階段を上り、また廊下を走り、どこかの部屋に入ったところで、ついに崩れ落ちた。
血を流しすぎた。視界が白く霞んでいく。
壁にもたれかかる。ずるずると座り込むように崩れ落ちる。頬に、崩れた天井の埃が降りかかる。
最上階までの天井が全て崩落しており、穴が開いている。満月がちょうど真上にあり、月光が差し込んでくる。その月明かりを一身に浴びながら、シュウはとうとう諦めのため息をついた。
心残りは大いにある。これでも死の物狂いで頑張ってきた。だけど、全部無駄になった。こんなところで、何者にもなれないまま、何も果たせないまま、命尽きようとしている。
(父さん、母さん。ごめん)
まぶたが重くなり、目を閉じて、永遠の眠りにつこうとした。
その時――部屋の真反対側、月明かりも届かない闇の底から、低い声が響いてきた。
「おい、人間」
聞いたことのない声だった。
人のものとも、ゴーストのものとも違う。何か、もっと古い、深いものの声。
シュウは、最後の力で目を見開いた。
闇の中に、二つの眼が光っていた。




