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四、バルバラ城




 モントリヒトの評判は想像の上を行った。

 一山向こうに買い取った保養所と、ノルトーを挟んで反対側の渓谷にある廃城も同じように改修し直し、シャルロットはプライベートヴィラとして順調に経営を開始した。


 主に貴族気分を味わいたい中産階級向けに始めた試みだったが、懐古的な雰囲気と完全な秘匿性が人づてに広がり、蓋を開けてみると古くからの宮廷貴族や、家督を譲った老齢の貴族の客も多かった。



 アルベールとは、グートマン男爵の夜会の翌日に、ノルトーの駅へ送って以来会っていない。

 何度か手紙のやり取りはあるが、本人からだけでなくフィリップ・ペリゴールから近況報告が届くこともあり、オールシャンで忙しくしているようだった。



 アルベールが離れ、根幹が不安定なシャルロットを癒したのは、意外なことにクリスティアン・ロイスナーであった。


 クリスティアンはアルベールを国境の街まで送り届けた数日後に、ミレー邸を訪ってシャルロットを労った。



 モントリヒト城でアルベールと過ごした夏の終わりから初冬にかけて、関わりを深めた相手にはクリスティアンも含まれた。


 初対面は無表情と物腰の硬さに圧倒されたが、長い時間を過ごすとクリスティアンは表情の乏しさ以外は極々普通の好青年であった。



 歳は二十五と、思ったよりもさらに若かった。

 その年で大尉に昇進するのは異例の早さと言える。


 彼は元々士官学校で第三王子の同学年に入校し、卒業と同時に近衛隊員として入隊。

 その後すぐに家格と適性から第三王子の側近として侍り、第三王子が近衛師団長に就任した後、追随するように順調に出世したという。

 昨年の暴動鎮圧の折に軍功を立て、最年少で大尉に任じられた、生粋のエリート将校であった。



 シャルロットの持つ第三王子エドゥアルトの情報は、それほど多くない。

 温厚で理知的な王太子殿下が議会派を取りまとめ、第二、第三王子が軍部を掌握し、王政と貴族政治の大転換期の舵取りをうまく進めている、という印象だ。

 隣国オールシャンの王室が市民蜂起を圧力でねじ伏せ、いまだに火種が燻っている状況と比べると、大分文明的な歴史の進め方をしている。


 王太子殿下は昨年オールシャンの第二王女と婚姻を結んだが、エドゥアルトは未婚で、婚約の話もない。

 おそらく市民階級の大地主の息女あたりを娶るのでは、と父ホルスト・ミレーは見立てているようである。



 

 北部のノルトーやモントリヒトはもう雪も降っていたが、王都バルバラは内陸特有の芯から凍るような寒さの中にあった。



 冬の晴れ間、シャルロットは週に一度はやってくるクリスティアンを庭の温室に案内した。

 彼は近衛隊の制服は着ておらず、チャコール色のシックなウールコートを羽織っており、暗めの髪色ときつく見える目元から、いつもの制服を脱いでも非常に自制的だ。



「クリスティアン卿、可愛らしい花束をありがとうございます」

 彼が持ってきたエリカの花を、温室中央のオークのテーブルに飾る。

「どういたしまして。この季節は花が少なくて、選び甲斐がないのが残念です」

 このように会話も普通に成り立つ。



 クリスティアンは椅子に座るでも無く、温室の木々をじっくりと眺める。

 赤い実のついた鉢植えの低木の前で屈むと、おもむろに葉を触る。

「珍しい植物ですね」

「バルバドス・キルシェと言うそうです。何年か前に父が新大陸から持ち帰りました。温室の中では育ちが良く、こちらの気候にも順応しています」

 ぷち、と、赤い実をもぎ、手のひらに乗せてクリスティアンに差し出す。

「よろしければどうぞ」

 親指と人差し指で摘むように受け取り、目の前でまた眺めると、少しだけ不思議そうにシャルロットに目を向ける。

「キルシェと言うからには、食べられるのですか?」

 キルシェはさくらんぼのことだ。

 ええ、とシャルロットは軽く笑う。

「絞ってジュースにするのが多いようです。うちではジャムにしています。そのままではとても」

 すっぱいですよ、と、言いかけたシャルロットの目の前で、クリスティアンはぱくりと口に入れてしまう。

 あら、と思ったがもう遅い。

 クリスティアンは二回ほど咀嚼すると、盛大に顔を顰める。

「ごほっ、ごほっ、、、」

「クリスティアン卿、」

 咳き込む背中をさするが、気管に入ったのかなかなか治まらない。


 しばらく苦しんだクリスティアンは、覗き込むシャルロットに恨みがましい目を向ける。

「わざと、でしたね?」

 ぶんぶん、と首を振る。

 自分を見つめる目が涙ぐんでいて、シャルロットは可笑しくなってしまった。

 なんだったら目元も少し赤い。

 珍しいが、かわいい。

「言い終わる前に召し上がってしまったのです」

 ほう、と彼は少し考えて、

「ほんとうに?」

 と疑いは拭えない。

「少し、嘘です」

 シャルロットは観念した。

「驚いてくれたらいいな、と思っていました」

「…驚きました。びっくりするくらい酸っぱい」

「とても、体に良いそうです」

「目は覚めました」

 え、と思うと同時に一つの可能性。

「もしかして、昨日は当直勤務だったのですか?」

「私は迂闊ですね」

 シャルロットはクリスティアンをテーブルに促す。

 ティーセットとお土産にもらった栗のケーキが使用人によって並べられていて、良い香りが広がっていた。


 お茶を注ぎ、ポットをテーブルに置く。

 今日は言おうと思っていたことがあった。

「クリスティアン卿」

 紅茶に口をつけていたクリスティアンは、静かに

カップを置く。

「もう、十分ですよ。貴重なお休みを私のために使っていただいて、ありがとうございました」

 微笑みを浮かべ、静かに告げたシャルロットに、クリスティアンは黒い瞳を翳らせる。

「頻繁でご迷惑でしたか」

 いえ、と、シャルロットは一度首を振る。

「アルベール殿下から、私を気にかけるようにとご指示を受けているのでしょう?」

 わずかに目を見張るクリスティアンに、シャルロットは続ける。

「あの方は意外と面倒見の良い方ですね。私をか弱いばかりの少女だと思っているのかしら」

 クリスティアンは遠く見るように目線を逸らして、また少しして、何かを決めたように戻す。

 真正面から見据えられ、眼差しの鋭さにヒヤリとした気分になる。

「シャルロット嬢。あなたは、アルベール殿下の本質を見誤っておられるように思う。

 あの方は優しいだけの方ではありませんよ。信頼しすぎてはいけません」

 シャルロットは釈然としない気持ちでクリスティアンを見つめ返す。

「私に優しくしても、彼には得られるものが何もないはずです」

「あの方は善意だけで動かれる方ではありません。それはお分かりでしょう」

「ではただの暇つぶしでは?気が向いた、という以外に、彼を動かす価値のあるものが、こちらにあるとは思えません」

 頑なな態度に、クリスティアンは心持ち眉を寄せる。

「困ったな。何を言っても自分の心証を下げるだけになる気がする」

 そう言って顔を伏せ、懐から手のひらほどの大きさの封筒を取り出す。

 テーブルに置かれた白い封筒には、バルバラフィルハーモニーの文字が控えめに印字されている。

「週末の演奏会のチケットです。私が、あなたを誘いたくて、予約しました」

 シャルロットは固まる。

「強引で申し訳ありません。あなたの予定も確認しなかったが、無理をいうつもりはありません」

「私が断ったらどうされるのですか」

「両親にでも譲ります」

「不器用すぎでは?」

 確かに、と、クリスティアンは微苦笑する。

「アルベール殿下からは、打算であなたに近づく男性に気をつけてほしい、と遠回しに依頼されたが、それを受けてはいないし、私が近づくなとも言われていないので、こうやってお誘いしています。年末の演奏会は人気が高いそうです。そこそこ良い席です。管弦楽はお好きでしたか?」

「クリスティアン卿」

「はい」

「そんなにたくさんお話しできるのですね」

「自分でも驚いています」

 二人で目を見合わせて、クスクスと笑う。

 クリスティアンの笑った顔は、目が少し垂れて、子供の頃に飼っていた黒毛のダックスに似ていると、シャルロットはずっと思っていた。

 特に怒られた時の目にとても似ている。

 本人にも、いつか言おうと思っている。









 シャルロットはもう二回、ゴシップ紙に写真を撮られていた。

 一度目は、ユルク・タルナートとの食事風景を。

 二度目は、パーティーでアルベール・ロアンに抱き寄せられている後ろ姿を。

 同時期にデー・ノルトー公式広報でアルベールと寄り添った写真が載ったが、二度目の記事の方がよほど衆目を浴びたようだった。



 シャルロットが夜会に出る機会はそう多くない。

 特に婚約解消後、王室の夜会はずっと避けていた。

 だが今年はそうもいかなくなった。


 春になり、社交始めに大きな晩餐会と舞踏会がある。

 比較的格式高い晩餐会には出るつもりはなかったが、前年にノルトーの商人相手のパーティーに出て写真を撮られているのに、王宮の夜会に出ないのはさすがに問題があると、舞踏会の参加を父が強く推したためだ。



 パートナーは毎年この時期の夜会のために帰国するアデルに打診していた。

 この所親密にしているクリスティアンは、近衛隊として会場の警邏に当たるため、夜会には参列できない。

 


 半年ぶりに会うシャルロットに、アデルは相好を崩す。

「シャルロット、俺のお姫様はまた綺麗になったね」

 ルイスの前では控えていたが、アデルは昔からシャルロットを溺愛している。

 アデル・コリニーの実家コリニー侯爵家は男ばかり三兄弟。

 母が実姪であるシャルロットを猫可愛がりしているため、三兄弟もやや年の離れた従妹をことさら可愛がった。

 アデルの母は三兄弟のうち誰かがシャルロットと結婚することを切に願っていたが、今のところその流れはない。


 王室の夜会は準礼装だ。

 シャルロットは今日の夜会で、今季に入って爆発的に流行り出した、コルセットのいらないハイウェストタイプのドレスを纏っていた。

 薄い紫のシルク生地の上に、繊細なチュールレースのドレープが身体に沿って流れ、控えめに開いた胸元とは対照的に背中は大きく肌が見えており、非常に優美で艶っぽい大人の一枚だ。

 

 髪型は全体を緩く編み込み、後頭部にボリュームのあるシニヨンを作り、ドレスと共布の幅広のリボンで飾った。

 アクセサリーは大ぶりのアッシャーカットダイヤのイヤリングのみで、全体的にシンプルで上品な仕上がりだ。


 相変わらず良い仕事をするミランダに、アデルは賞賛の言葉を送る。

「ミランダ、君はシャルロットを飾りたてる天才だ」

 ミランダも謙遜するでもなくその賛辞を受け取り、軽く膝を折る。

「アデル様、あとはお任せいたします」

 ミレー伯爵邸のエントランスにほのぼのとした空気が流れる中、ホールの階段の上から伯爵夫妻も登場し、いよいよ出発である。


 四人は二台の車に分かれ、バルバラ王宮へと参じた。



 車止めから前庭を抜け、正門をくぐる間も人波は途切れない。

 広間はより人で溢れ、シャルロットは少し緊張する。


 エメラルドグリーンの壁紙に、金色の縁取り。天井の有名なフレスコ画など、豪華な空間に目を楽しませるものは尽きないが、シャルロットは落ち着かない。


 この場には自分よりも世間を賑わせている、ファムファタールのような妖艶な未亡人もいるし、王族と逢瀬を楽しんでいるような有名な令嬢もいる。

 先ほど目にしたのは巨大な富を持つ銀行家の男性だった。


 だが、どうにも自分にも周りの視線がまとわりつく気がする。

「俺のお姫様は目立っているね」

 アデルが緊張をほぐすように揶揄う。

「気のせいじゃないのね」

 シャルロットはため息混じりだ。



 普段貴族社会と縁遠い生活をしているせいか、自分を取り巻く噂についてもシャルロットは疎い。

 近年はゴシップ記事はセレブリティーとは切っても切れない関係にあるが、シャルロットはどうも自分にはそぐわない気がしている。

 それほど金満な生活をしているわけでもないし、話題に富んだ恋愛遊戯を繰り返しているわけでもない。

 なぜ二回もスクープされたのか、今だに謎のままなのだ。


「私を話題にして何か楽しいの?」

 アデルは両手を広げて見せる。

「君は思ったよりも人目を引くのに気づいた方がいい。

 時代が変わったとは言え、貴族の令嬢が自ら商売に手を出すのは、既存貴族には受け入れ難いものだよ。

 その分未婚の令嬢たちは好意的なようだけどね」

 見渡すと、確かに年若い女性からの視線の色は冷たくない。

「金持ちの貴族嫡男と婚約を解消して、それを糧に自分の才覚で道を切り開く。あの記事は市民階級の女性たちに異常に受けているらしいよ。

 強く美しい女性が良い男を次々と袖にしていく様は、新しい時代の自由な女性像にぴったりだ」

 アデルのふざけた口調にシャルロットは眉尻を上げる。

「次々と袖になんてしてないわ」

 そう言い放ってすぐに、壮大なエントリーマーチが流れる。

 

 王と王妃の入場が告げられて、広間の人々は最敬礼をとった。



 舞踏会は盛況だった。

 開宴ダンスがワルツからメヌエットに移り、カドリーユになったところでシャルロットは輪から抜けた。


 晩餐を挟んで最後のワルツになるまで、もう踊るのはやめよう。

 久々のたくさんの人との触れ合いに、体よりも心と口元の筋肉が限界だった。


 それを目にしたのかアデルも早々とシャルロットのそばに立ち、壁際に寄る。


「疲れた?」

 給仕の男性からシャンパングラスを二つ受け取り、シャルロットに渡す。

 一口飲むと、爽やかなスパークリングとすっきりした香りが喉を抜ける。

「久しぶりだったから、少しね」

 自分を好色な目で見る男性たちにも、敵意を向けてくる女性たちにも辟易していた。


 そういえば、大きな夜会はこんな感じだったな、と、シャルロットは懐かしい感覚を思い出す。

 ルイスと婚約していた時に参加したパーティーは、どれも穏やかな家門のそれほど仰々しくないものばかりだった。



 アデルはシャルロットを連れ、晩餐の会場へと向かった。

 シャルロットにとっては昔から馴染みの気の良い従兄だが、世間的に見れば彼は見目の整った侯爵家の次男で、更に国一の商業貴族の腹心でもある。

 離婚経験はあるが年齢も今年三十一と、まだまだ婿がねとして優良物件だ。

 よって、親世代の評価が高く、あまり国におらず、滅多に夜会に現れないことから、機会を逃すまいと引も切らず声がかかる。

 進んでは止まり、進んでは止まり、を繰り返すうちに、まあまあの人だかりが周りにでき、この後の対応を二人が思案し始めたところで、見慣れた男が近づいてくるのが見えた。



 このタイミングはまずいのでは、とシャルロットは思ったし、男も少し躊躇を見せたが、結局声をかけることに決めた様だ。


「レディ・ミレー、少しよろしいだろうか」


 遠巻きに見ていた女性陣から少なくない悲鳴が上がる。

 そうだろう、とシャルロットも思う。

 今日のクリスティアン・ロイスナーはいつもより更に綺羅綺羅しい眩さだ。

 普段の近衛騎兵隊の制服もストイックで目立つが、儀礼用の制服は似合いすぎて目に毒だ。

 濃紺のジャケットとグレーのパンツは変わらず、立襟と袖の折り返しは真っ白で、肩章と飾緒の金のモールが華やかだ。

 胸に並ぶ幾多の勲章は、シャンデリアの光を受けて輝いている。

 目深に被った制帽ですら、今日の彼の近寄りがたい魅力に一役買っている。


 陸軍の中でも花形の近衛隊、出世頭のクリスティアンが禁欲の騎士と言われているのを、シャルロットは知ったばかりだった。

「ロイスナー大尉、今夜はお仕事では?」

 シャルロットの答えにクリスティアンは頷いて見せる。

 彼はアデルに軽く目配せして了解を取ると、エスコートのために自分の腕をシャルロットに差し出した。

 これがまた、周りの好奇を煽った。

 クリスティアンとシャルロットの逢瀬が社交界で密やかな噂になっているのは母から聞かされていた。

 これでは火に油だ。

 恨みがましい目でクリスティアンを軽く睨むが、わかってやっているのか堪えた風はない。



 すこし集団から離れ、メインの回廊から外れたところで、これまた信じられないことを言われる。


「王太子妃殿下が、あなたをお召しです」


 青天の霹靂だった。

 開いた翡翠の瞳がこぼれ落ちるのではないかとクリスティアンは心配したが、シャルロットは衝撃が強すぎてそれどころではない。

「いま、なんて?」

「オフェリア王太子妃殿下が、シャルロット嬢とお話ししたいと、王太子殿下とお待ちです。このままご案内しても?」

 とんでもない、と内心首を振るが、王族の召集にどう対応していいかわからない。

 呆然としているところにアデルが追いついてきた。

 二人は握手して挨拶し合っているが、シャルロットは待っていられない。

 形式的な会話を打ち切って、アデルの腕に縋り付く。

「アデル、大変だわ。妃殿下が私をお召しになってるって」

 は、と、アデルも珍しく驚きを見せる。

「シャルロットが何か非礼を?」

「いえ。私も詳しくは存じ上げませんが、私的にお話ししたいことがある、とエドゥアルト殿下を通してお声がかかりました」


 オフェリア王太子妃の御年齢は二十四歳。

 一昨年隣国オールシャン王室からイライアの王太子妃としてローラント王太子に嫁がれ、先だって第一子のご懐妊が公になった。

 シャルロットにとって雲の上の住人であることは間違いない。


「そう大袈裟なことではないかと。王太子殿下もご同席されています。コリニー卿もご一緒にどうぞ」

 そう促されれば向かうしかない。もとより二人には何の選択肢もないのだから。



 角を曲がった先に、クリスティアンと同じ制服の近衛兵が二人、微動だにせず立っている扉があった。

「私はここまでかな」

 そう立ち止まるアデルに、シャルロットは裏切り者を睨みつけるように振り返る。

 そんな従妹の表情もアデルにとっては可愛いだけなのだが、ここで戯れ合う暇はない。

「ロイスナー卿もいらっしゃるし、頑張っておいで」

「アデル、お願い、見捨てないで」

 ははは、と、踏んでいる場数の違うアデルは、食ってかからんばかりのシャルロットを楽しむことにしたようだった。

 そんな睦まじい二人を、クリスティアンは若干不快気に見やる。

 そのクリスティアンが姿勢を正したのが、アデルの目に入った。


「そんな所でいちゃついてないで、入ったらどうだ?」



 声の方を見やったシャルロットの目の前にいたのは、真っ白な儀礼用の軍服を隙なく着こなしたエドゥアルト王子だった。


 一瞬合った目が、興味を持ったように細められる。

 軍部を掌握しているだけあり、色彩の薄いグレーの双眸が鋭い。

 背格好はクリスティアンと同じくらい高く、そして同じくらい大きい。

 白金のように色の薄いブロンドの美形だが、威圧感を帯びた風体から、繊細さはなかった。


 彼と彼の侍従はスタスタとシャルロットたちを追い抜くと、

「兄上、入りますよ」

 と大きく声をかけ、使用人が扉を開けるのも待てない勢いで中に入る。

 そうするともうシャルロットもアデルも逃げ場はない。

 しまった、と、アデルは思ったがもう遅い。

 そのまま招き入れられ、扉近くで控えたクリスティアンに胸の中で苦情を言いながら最敬礼をとった。



 ロングソファに座る貴人は二人。

 奥の一人掛けソファに先ほどのエドゥアルトが悠々と腰掛け、三名からの物見高い視線がシャルロットに降り注ぐ。

 各々侍従や侍女が後ろに控えているが、彼らはここでは壁と同じだ。


 本日二度目のカーテシーは、人生で何度かのそれより格段に緊張が強く、ドレスを持つ手が震えていないか心配になる程だった。


「そんなに畏まらないで、顔を上げてちょうだい」


 高貴な人は声まで高貴なのだな、と、シャルロットは場違いにも思った。

 恐る恐る顔を上げるシャルロットとアデルに、国内で上から数えて何番目かの身分の女性は笑う。

「オフェリアよ。シャルロット・ミレー伯爵令嬢、急に呼び立ててごめんなさい。一緒なのはコリニー卿ね」

 頭は回らないが、幼少からの教育がシャルロットの口を動かす。

「尊い方々に御目通りを賜り、深謝申し上げます。シャルロット・ミレーと申します」

「アデル・コリニーです。ご同席できる貴重な機会に感謝いたします」

 身軽だがアデルは高位貴族の家門だ。落ち着きが違う。


「リア、まずは座ってもらったら」


 部屋の中央から、これまた低く通る高貴な声が降ってくる。

 声の主の存在感は傑出している。

 並びから行くとローラント王太子殿下なのだろう。

 恐れ多くて直視できない。


 そうね、とまた軽やかな声が響く。

 すると何とオフェリア妃殿下自ら立ち上がってシャルロットの手をとった。

 思ったより小柄で、年上にも関わらずかなり可愛らしい。

 赤みがかったブロンドに、ダークブルーの瞳が楽しそうにシャルロットを見つめる。

 ドレスはオールドローズ色のエンパイアタイプで、袖に膨らみが少なくドレープも大きいため古い感じはなく、今の流行とよく調和が取れている。

 デコルテに光るパールの襟型ネックレスの中央には、大きなティアドロップのイエローダイヤモンドが揺れていた。

 妊娠中のはずだが腹部はそれほど目立たない。


 驚きに呼吸も忘れたシャルロットの手を引き、アデルにも目配せして、彼女はシャルロットとアデルをソファの対面に座らせる。

「オフェリアが君と会いたいと、無理を言ってすまなかったね。驚いただろう」

 シャルロットはようやく王太子殿下を視界に入れた。


 夜会の開宴時の記章や勲章の付いたテールコートは脱いでおり、白いウエストコート姿でリラックスして見える。

 琥珀の眼差しと、エドゥアルトと同じ色素の薄いブロンドの髪は一見優し気だが、それだけではない重圧がある。


 シャルロットの返事を待たずに彼は続ける。

「アデルも、久しぶりだね。年明けにお兄さんに世話になったよ」

 アデルの兄は外交官として海を隔てた隣国マルタルーシェに赴任して三年になる。

 数年前から調整していた自由交易都市の関税条約の締結に、ローラントが臨席したのは国民の記憶に新しい。

「兄はお役に立てましたか」

「彼は生真面目だからね。君ぐらい柔軟な方が生きやすいだろうな、とは思うが、あの国には強硬な方が足元を見られずに済む」

「それは重畳に存じます」

 さて、と、切り出したローラントは、後ろの侍従に手を振る。

 長身の侍従は数冊の雑誌をソファセットの間のガラステーブルに置いた。

 そこで初めて、テーブルの上のティーカップと軽食がシャルロットの目に入った。

 それくらい、極度の緊張の中にあった。



 雑誌は隣国オールシャンの文芸誌だった。


「妻のオフェリアはオールシャン出身なのは周知の通りなのだが、母国の身内からこんな雑誌が届いてね」

 まるで事情のわからないシャルロットとアデルは、頷くしかない。


 ローラントの表情は入室してから変わらない。

 常に、柔らかな笑顔を浮かべている。


「この中の一つの小説が、今市民階級で熱狂的な支持を得ているんだとか」

 オフェリアが一冊を手に取り、パラパラとめくる。


 開いて差し出された紙面を目で追ったシャルロットは、少しして固まった。

 隣のアデルはそんなシャルロットを訝し気に見る。


 オールシャンとイライアは言語体系が同じで、会話するには何の苦労もない。

 しかし文語にすると少しの差異がある。

 読み取るのにそれほど時間はかからなかったが、これは



 月の城

 アルベール・ロアン



 とはっきり書いてある。


 シャルロットは明確に嫌な予感がした。


「オールシャンは市民運動がいまだに活発で、王室も対応に困っているのだけれど。この手の体制批判派の文芸誌は、王宮でも密かに人気なのよね」

「そのうちの一人があなたなのでしょう、義姉上」

 腕組みをして成り行きを見守っていたエドゥアルトがやれやれと声を上げた。


「この小説のモデルがシャルロット嬢なのではないかと、エドゥアルトが言うのよね」


 表情も作れないシャルロットを、対面する三人は興味深そうに観察する。

「とても美しくて悲しい物語なのだけれど、知っていたかしら?」

 いえ、と、シャルロットは掠れる声で否定した。


 オフィリアがかいつまんだ物語の大筋は、こうだ。




 ある国に、美しい貴族令嬢がいた。

 彼女には愛し合った恋人がいたが、ある時手酷い裏切りを受けてしまう。

 心に深く傷を負った彼女は、亡き祖父から譲り受けた国境の古い城に、半ば隠棲するように移り住んでしまった。


 城は森奥の湖のそばにあった。

 鄙びた自然と、素朴な村人が、彼女の心を徐々に癒した。


 ある嵐の次の朝。

 湖畔の様子を伺いに外に出た令嬢は、大きな傷を負った青年に出会う。

 彼は隣国の画家を名乗り、自分のことはどうか捨て置いてくれ、と言い残し意識をなくしてしまった。


 たった数人の家人がいるだけの小さな城。

 迷った末、彼女は家人を説得して男を城に連れて帰った。

 世を儚んだ姿が、少し前の自分に重なったのだ。


 青年の傷はただの怪我には見えなかった。

 切り付けられたような肩の傷は、膿んで熱を持っている。


 数日、令嬢は寝ずに看病した。

 看取る覚悟もあった。

 だが青年は、熱心な看病の甲斐あってか、ゆっくり回復していった。


 起き上がれるようになっても青年は話を拒んだが、令嬢は気にせず看病を続けた。

 その健気な姿が男の心に響いた。


 彼は隣国の市民活動家だった。

 共に蜂起した仲間を制圧によって失い、失意の底で死に場所を求めて彷徨っていたのだ。


 令嬢を癒したように、田舎の城は青年の心も癒した。


 回復した彼は数枚の絵を描いた。

 城と、湖畔の景色と、令嬢の姿と。


 そう。二人は恋に落ちていた。

 しかし二人の穏やかな時間は長くは続かなかった。

 田舎の村にまで、隣国の革命の気配が色濃く伝わってきたのだ。


 青年は言った。

 必ず、ここに帰ってきます。

 生き残った仲間を見殺しにできない。


 涙を流す令嬢に、彼は続けた。

 自分の絵はまだ完成には程遠い。

 生きて帰って、あの絵の続きを描きますよ。


 令嬢は約束の印に、母の形見のイヤリングを片方彼に託した。


 湖畔の城と、湖面に映る月を描いた美しい絵を残し、彼は城を後にした。



 革命は双方たくさんの人命を奪い、王家の存続と、貴族特権の縮小、市民階級の議会への参政を誓約し、数ヶ月後に痛み分けの形で収束した。



 青年は帰ってこなかった。

 命を落としたのだと言う者もあったし、瀕死になり記憶を失ったのだと言う者もいた。


 令嬢は何年も待った。



 村人が青年の存在を忘れかけた頃、一人の若者が城を訪れた。

 若者は画家の青年の助手を名乗った。

 若者自身も長く病床にあり、回復を待って旅に出たと言う。


 手にはアンティークのロケットペンダントを持っていた。


 師匠の遺品です、と言った彼から受け取ったペンダントを開き、令嬢の頰は涙に濡れた。

 ペンダントの中には、いつ描いたのか、自分の穏やかな横顔と、渡したイヤリングが大切に納められていた。


 若者は言った。

 必ずここに届けるように、と言って、彼は息を引き取ったのだと。


 青年は約束を守れなかったが、心は戻ってきたのだ。



 令嬢は若者と共に彼を悼んだ。

 そして、それからそう間をおかず、彼女もいなくなった。


 行き先を知るものは誰もいない。

 村人は悲劇の恋人たちを長く嘆いた。



 城には今も、青年の未完の絵が、時を止めたように飾られていると言う。

 





「といった物語なのだけど、年末に発表されたこのお話が、王政派にも反体制派にも大きな話題でね」

 そうだろう、とシャルロットもアベルも思う。あらすじをなぞっただけで、胸が詰まる。


「来月にはリラの王立劇場で歌劇の初日を迎えるわ」

 これには二人とも目を丸くした。


 表向きには南の大国の歴史を辿った小説だが、市民活動の続くオールシャンでは弾圧の対象になりかねない。

 アルベール・ロアン自身の安全も危惧される。


「これは憂愁を帯びた恋人たちもさることながら、舞台となった城と湖の描かれ方もとても美しくて、こちらも話題になっているの。

 原作者のアルベール・ロアンが顔を出して同伴したあなたは、都から離れた城を持つ貴族令嬢で、その城の名前は確か…」

「月の光の城、だったか」

 エドゥアルトの声は少し揶揄うようだ。

「クリスティアン・ロイスナー大尉の報告では、君とアルベール・ロアンに恋愛関係はない、と言うことだが相違ないか」

「ございません」

 絞り出すように告げたシャロットを、アデルは思案げに見つめる。

「彼は劇作家だが、市民活動家と行動を共にしていると言う噂もある」

「申し訳ありません、存じ上げません」

 ほう、とエドゥアルトは考えるように顎を撫でる。

 そんな義理の弟を、オフェリアは咎めるように見る。

「シャルロットと呼んでもいいかしら。

 確かにアルベール・ロアンには様々な噂があるわ。でもそれは、彼が名前以外の存在を表に出してこなかったから、と言うのも大きいの」

 あの、と、シャルロットは声を上げる。

 オフェリアに視線で促され、震える喉を叱咤して話す。

「今、彼に危険はないのでしょうか」


 過激な活動家は粛清の対象になる。

 シャルロットは恐ろしかった。

 何度でも会えるよ、と別れた彼に、もう二度と会え無くなってしまうかもしれない。


「ないと言えるわ。王家も政府も、もう手仕舞いにしたいのよ。他国の状況を見ても、貴族政治に未来はない。市民は力をつけ、領地貴族は没落していく一方。

 アルベール・ロアンの存在は渡りに船ね。この興行も、王立劇場で行うと言うことで、現王政側の歩み寄りを印象付けたい思いがあるわ。

 王家は彼に、市民階級との橋渡しを期待している」

 オフェリアは現オールシャン王の第四子だ。アルベールとは従兄妹同士に当たる。

 内情は間違いないのだろう。


 肩の力の抜けたシャルロットは、ため息を押し殺す。

 あの飄々とした男が、そんな火中にあるとは想像もつかなかった。



 気を緩めたシャルロットを、しかし追い詰める者もある。


「君はなかなかの策士だな、シャルロット・ミレー。さすが敏腕伯爵の娘だけある」


 エドゥアルトの口ぶりに、確実に非難の色が感じられて、シャルロットは背筋を伸ばして向き直る。

「お言葉を理解できかねます」


 おや、と、対面の二人の空気が変わったし、アデルは少し顔色を悪くしたが、シャルロットは気づかない。


「君の手がける小さな事業の話題性として、これ以上のものはないだろう。どうやってアルベール・ロアンを丸め込んだ?」

「あの方がわたくしに丸め込まれる様な可愛らしい方ですか」

 それもそうだな、と、エドゥアルトは肘当てに頰杖をついてシャルロットを眺める。

「それほど手練手管に長けているとも思えない。ではその清麗な容姿との乖離が唆るのだな」

 あまりな言い様に、軽く眩暈を覚える。


 隣のアデルが留める様にシャルロットの膝の上の手を手袋越しに握ったが、それは抑止にならなかった。

「アルベール・ロアン様とはその様な関係ではありません」

「ひと月以上城にこもって、そんな言い分が通用すると思うのか」

「だとしても」


 秋の古城での日々は、小説の恋人たちの心を癒したように、シャルロットの荒んだ心を確かに癒したのだ。

 侮蔑されたまま良しとは出来なかった。


「貴方様に誹られる謂れはありません」



「恐れながら、閣下」

 扉のそばからの聞き慣れた声に、シャルロットの緊迫は少し和らいだ。

「クリスティアン・ロイスナー、お前の発言は許可していない」

 クリスティアンは怯まない。

「その辺りでお収めを」

 ふん、とエドゥアルトは鼻で笑う。

「堅物のお前まで引き込むとは、大した令嬢だな」

「語弊があります」

「俺はお前に、ホルスト・ミレーの娘とアルベール・ロアンが必要以上に親密にならないようにしろ、と言ったはずだが。見張りのお前が親密になってどうする」

 それは、シャルロットが何度か考えた可能性だった。

 問いかけるような視線に、クリスティアンは一度目を合わせ、またエドゥアルトを直視する。

「ミレー伯爵家に、閣下がご懸念する要素は見当たりません」


 シャルロットとアデルは表情を失う。

 何か王家に疑惑を持たれた事実があったのだと、その言葉は教えていた。


 二人の様子に、エドゥアルトは顔を顰める。

「お前、今のは意図的だな」

「閣下の行き過ぎたお言葉を是正したまでです」

「シャルロット・ミレーに関わる男は軒並み過保護になるのか」

 長い足を組み替え、エドゥアルトは蒼白のシャルロットと、宥めるように手を握るアデルを胡散臭げに見遣る。

「アデル・コリニー然り。クリスティアン・ロイスナー然り。アルベール・ロアンは君の守護者でも気取っているのか。

 巧く君を隠していたルイス・クレモンドに至っては、未だに君からの赦しを待ち続けている」


 シャルロットはもう、意識を保つので精一杯だった。

 先ほどまで耳元でうるさく鳴り響いていた拍動も、すでに聞こえなくなっていた。


 アルベールの立場も、王家の父への疑念も、自身の破談のその後も、情報量が多すぎて処理できない。

 

 エドゥアルトの舌鋒を止めたのは、これまで懸命に見守りに徹していたアデルだった。


「殿下、理由不詳のミレー伯爵家へのご不信と、シャルロットの婚約解消には何か関係が?」

 常時穏やかな男の鋭い声に、エドゥアルトはアデルを見据える。

 沈黙の対峙に、終わりはすぐに来た。


「不信などないよ」


 鶴の一声だった。

 全員の視線が集まる。


 ローラントは微笑を湛えたまま弟を切り捨てる。

「踏み込みすぎだ、エドゥアルト。お前が同席を申し出たから受けたが、後悔している。私の妃の機嫌を損ねた罪は重い」

「私はシャルロットの城に行きたいと言うだけのつもりだったのに、どうしてくれるの。あなたの強権主義は度を越してるわ」

 エドゥアルトは素知らぬ顔だ。

 アデルは変わった風向きに、ようやく息のできる思いだった。


「重ねて言うが、ミレー伯爵に不信などないよ。ただ、彼は少し力をつけすぎた。我が国も王家の求心力が落ちているからね。弟は、彼のような傑物が、隣国と繋がるのを少し危ぶんだだけだ」

 未だ混乱から立ち直れないシャルロットの代わりに、アデルは恩人を擁護する。

「叔父のホルスト・ミレーは、私の目から見ても、国家と王家のために粉骨砕身しているように見えます。証拠のない疑惑は忠義ある貴族の離反を招くのでは」


 アデルは足を組んだまま自分とシャルロットを注視する、無表情のエドゥアルトに向かって言った。



「ご認識の再考をお願いしたく存じます」





 

アデル回でした

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