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三、プロモーション

一話が長いです。




 シャルロットの記憶では、アルベール・フレデリック・ド・アストーリアは、現オールシャン王ハインツ三世の弟、アストーリア大公の第二子。

 王位継承第六位の歴とした王族の名だった。





 すぐにシャルロットは父のミレー伯爵に手紙をしたためた。

 完全に自身の裁量を超えている。


 昨日戻ったばかりの秘書のヤネス・ノイマンをモントリヒト城から送り出したのは、夕刻も半ばに差し掛かった頃だった。

 二時間かけてノルトーに入り、一泊して朝一番の列車に乗ってもらう。

 早ければ明日の昼前には、王都バルバラのミレー邸に一報が届くだろう。



 アルベールはあの後、今までの非礼を詫びたシャルロットに、興を削がれたかのようにまたスケッチに没頭した。


 些細を確認しようとミランダと一緒にフィリップを探したが、どこにも姿が見当たらない。


 諦めてサンルームに戻ったシャルロットが目にしたのは、ロングソファの上で、長い足を投げ出して寝息を立てる長身の男の姿だった。



 既視感に、胸が疼く。

 今日は何だか懸命に昇華しようとしている記憶が呼び覚まされる日だ。

 シャルロットは疲れ果てた心地で、その斜向かいにある先ほどと同じハイバックソファに座った。


 アルベールに付き添わせていたマルコは、それを見て静かに退室した。



 外はすっかり晴れて、雲間から幾筋も光芒が射し込んでいる。

 湖も山々もいっそう神々しい。



 ぼんやりとアルベールを眺める。

 どちらかというと中性的な顔立ちは、目を閉じると作り物めいている。

 胸が上下に動いていて、目覚める気配はない。


 美しい湖畔の景色の描かれたキャンバスが、そばのサイドテーブルに雑に置かれている。



 似ているところはそう多くない。と思う。

 背の高いところ。

 手足の長いところ。

 胸の厚さは彼の方がありそうだ。


 髪型は全然違う。

 アルベールはアンバーの香水を好んでいて、彼はムスクの優しい香りがした。


 声は、結構似ているかもしれない。

 柔らかな微笑を作るアルベールと、真摯だがどこか不敵な笑顔の彼。

 瞳の色を思い浮かべていたら、ぱちり、とアルベールの瞼が開いた。


「視線で溶けてしまいそうだ」

 凝視していたことに気づいたシャルロットは、慌てて顔を逸らした。

「お疲れでいらっしゃいましたか」

 いや、と答えて、アルベールはまた瞼を閉じる。

 無警戒だ。

「ペリゴール卿はどちらに?」

「所用で使いに出したよ」

 口調はすっかり飾らなくなった。

「殿下、とお呼びしてよろしいですか」

 組んでいる腕に頭を乗せたまま、アルベールは煩わしそうに両眼を開く。

「今更止めてくれ。億劫だ」

 よかった、とシャルロットは内心で思った。


 伯爵令嬢という立場だか、高位貴族でないため、自国の王族との関わりは薄い。

 夜会やセレモニーでお顔を拝することはあっても、言葉を交わすことはほぼ無い。


 デビュタントで陛下にひと言お声を賜ったのが、今のところ、最初で最後の機会であった。


 他国の王族など埒外だ。



「では今まで通り、アルベール様、と」

 ミランダとマルコには口外を禁じ、事実を知るのは、後は秘書のヤネス・ノイマンだけだ。

「大変恐縮なのですが、混乱を防ぐために、しばらくは客人の芸術家としてご対応致したく存じます」

「そのもったいぶった喋り方はやめてくれないか」

「ですが」

「混乱を防ぐんだろう?」

 ぐ、と、言い淀む。

「ただの客人で構わないよ。君に聞かれなければそのまま通すつもりだった。厄介ごとを持ち込んで済まなかったね」

 少しも悪く思っていなさそうな口ぶりに、ちらりとシャルロットは笑う。

「どうするのが正解かわからなかったので、そう言っていただけて感謝しています」

「知らないふりをしておけばよかったのに」

「それは、後悔しております」

 やおら起き上がり、アルベールは足を組んでニヤリと話し出した。


「男は心の傷を癒すために、一人、旅に出た。旅の途中で怪我を負い、近くの城に助けを求める」


「?」


「城に住む令嬢は自身の城に男を招いて、懸命に看病する」


「あの、」


「男の傷は深く、意識も危うい。だが献身的な介抱の甲斐あって、やがて男は目を覚ます。

二人は恋仲になり、将来を誓い合ったが、男には身分があった」


「それは、まさか…」


「男は身を明かすが、令嬢は苦しく悩んだ末に、王宮に男の保護を願い出た。離れ離れになるのも覚悟の上で」

 シャルロットは二の句が継げない。


「明日の朝フィリップ・ペリゴールが君の国の王宮にそう報告するだろう」


 膝の上に両腕を置き、アルベールは組み合わせた手に顎を乗せた。

 覗き込む目の色は、明らかにシャルロットの反応を楽しんでいる。


「私のことはアル、と呼ぶといい。なにせ将来を誓い合った恋人同士なんだ。そうだろう?シャルロット」


 絶句するシャルロットを満足げに眺め、アルベール立ち上がる。去り際にシャルロットの頭に口付けたが、あまりに自然な動作に拒絶が間に合わない。


「私はここも君も気に入った。まだしばらく厄介になるよ」


 意のまま振る舞うことを許されてきた、特権階級のそれだった。


 残されたシャルロットは小半刻、ソファから立ち上がることができなかった。






 事態が動いたのは翌日の夕食時だった。


 ゲートハウスの前に横付けされた何台もの車に、仰天した従僕がサロンに駆け込んだ時、シャルロットはアルベールと食後酒を嗜んでいるところだった。



 その後すぐに別の従僕がモントリヒト城のエントランスホールに案内したのは、父のホルスト・ミレー伯爵その人で、彼はひと月ぶりに見えた娘に僅かに片眉をあげてみせた。

 彼の奥にはフィリップ・ペリゴールと、一日前に見送った秘書のヤネスが、疲れ切った表情で佇んでいる。



「いい城だな、シャルロット」

「それは、ええ。ありがとうございます、お父様。申し訳ないのですが、これほど早くお越しいただけるとは思っておらず、お迎えする準備が整っておりません。

 それで、こちらは…?」

 そう、父の後ろの、明らかに人目を引く青年の紹介を促す。



 濃紺のハーフジャケットにワインレッドの立襟、銀のダブルボタンの並ぶ、特徴的な制服。

 徽章の輝く制帽は左脇に抱えられている。

「こちらはクリスティアン・ロイスナー大尉。イライア王国第一近衛騎兵連隊で中隊長の任に就いておられる」

「クリスティアン・ロイスナーです。レディ・ミレー、お寛ぎのところお騒がせして申し訳ありません。先触れが間に合わなかったことも重ねてお詫び申し上げます」

 その、肩書きより明らかに年若いと思われる青年将校は、軍人らしく短く整えられた深茶色の髪に、黒い瞳で、射抜くようにシャルロットを見つめた。

 背も長身だと思っていたアルベールと同じくらい高く見える。


 クリスティアン・ロイスナーの後ろには彼より幾分年上と思われる、これまた厳ついという表現がぴったりの堂々とした軍人が表情なく立っていて、いつものモントリヒト城の長閑な雰囲気を一変させている。


「早速ですが、アルベール殿下はどちらにいらっしゃいますか」

 圧倒されるシャルロットを意に返さず、クリスティアン・ロイスナーは淡々と問う。

「ご案内いたします、ロイスナー大尉」

 我に帰ったシャルロットは、何とか令嬢らしく微笑んで、身を翻す。背中に刺さる視線を感じて背筋が伸びた。



 アルベールはシャルロットが後にした時と変わらず、サロンのダマスク織のソファでリキュールグラスを傾けていた。


 戻ってきたシャルロットを一度見て、後ろの軍人には目も向けない。

 それに気後れする風もなく、クリスティアン・ロイスナーは一歩踏み出した。

「アルベール殿下、お迎えにあがりました」

 声は朗報と響き渡る。

 アルベールはやはり視線を向けることなくため息をつく。

「頼んでいないよ、ロイスナー中尉」

「春に大尉を拝命いたしました、殿下」

は、と、アルベールは嘲るように笑う。

「そのご立派な大尉殿が王都を離れてこんなところまでご苦労なことだな。近衛隊の仕事は王族と王宮の警護だろう」

「アルベール殿下が国境を越えられたらしいという情報を得て、水面下で捜索しておりましたが、まさかこのような地方におられたとは。ご無事で何よりです」

「無事ではないよ。大きな怪我をしたと報告が上がっているはずだが?」

「確かにそう報告を受けましたが、それほど重症には見受けられません。どうぞバルバラ城へのご移動のご準備を」

「招かれてもいないのに、いそいそ付いていくほど厚顔ではないのだがね」

「招かれていない国に隠れてお入りになる殿下の言とは思えません」

「相変わらずだね、ロイスナー」



「大尉」


 状況を見守っていたミレー伯爵が声を上げると、二人の視線が向かう。

 やり取りに飲まれていたシャルロットは、ようやく気を取り直した。

「アルベール殿下。父のホルスト・ミレーです」

 ホルストは右膝を折る。

「お目にかかれて大変光栄に存じます、アルベール殿下。ホルスト・ミレーと申します。我が娘の城を気に入っていただいたようで感謝申し上げます」

 丁寧に頭を下げたホルストに、アルベールは鷹揚に頷く。

「ミレー伯爵。やり手と噂のあなたにお会いできて嬉しく思う。あなたもあなたのご息女も素晴らしい慧眼をお持ちだ」

「恐縮です、殿下」

それで、と、ホルストは続ける。

「宮城へのご移動は明日以降検討するとして、本日は大尉も外の部下の方々もこちらでお休みになられては。幸い雨風の凌げる程度の建物はございます。夜間の移動は殿下のご負担にもなりますれば、どうぞ一考いただきたい」

 アルベールを除いてこの場で一番身分が高いのはホルストだ。

 一瞬飲み込むように押し黙ったクリスティアン・ロイスナーは、表情を変えぬまま答えた。

「伯爵の御厚配に感謝いたします」



 

 シャルロットは城の奥の別荘を近衛隊に開放した。

 下地と造作の工程が終わり、内装もあらかた完成していたことが功を奏した。

 調度を運び入れる日程も近く、あとは完成を待つだけだった。


 クリスティアン・ロイスナーが率いてきたのは分隊一つ十名ほどのみで、王族を警護するには到底足りないが、正式な訪問でない為公の警備を置けないのでは、というのがホルストの見解である。



 ホルスト曰く、アルベールは現在二十六歳。本人の宣言通り公子としての称号は返上しているが、継承権は保持しており、イライア王宮とオールシャン王宮との間では彼を準王族として遇する旨が内々に取り決められているという。

 王族の国家間の渡航にはいくつもの手続きが踏まれるが、彼はその範疇に入らない。

 一市民として入国が確認されるたびに第三王子エドゥアルト直属の近衛騎兵連隊からクリスティアン・ロイスナーが精鋭を選りすぐって少人数で警護にあたっていると言う。

 お忍びとはいえ、隣国の王族が国の中で危険に晒されるのは、国際問題に発展しかねないという配慮だろう。


 アルベール側も二、三日なら何事もなかった風に帰国することもあったようだが、さすがに今回は滞在が長くなったので王宮に一報入れたのでは、とホルストは考えているようだった。


 何とも傍迷惑な、とシャルロットは思ったが、どこにいくにも仰々しく守られるのは、自由な彼にはさぞや苦痛だろうと、同情も禁じ得ない。

 何せ魚を釣ってきて自分で捌いてしまうような公子さまなのだ。


 何にでも興味深そうに見入る彼は、実際は何も楽しんでいないのかもしれない。



 朝食後、ホルストがアルベールとクリスティアン・ロイスナーを誘ったのは城の図書室だった。

 ホルストは王都のミレー邸から使用人を何名か伴ってきており、シャルロットは大いに助かった。


 モントリヒト城の客間は賓客用の大きいものが合わせて五室、もともとアルベールとフィリップに一つずつ、ホルストに残りから一番良い部屋を用意し、クリスティアンと補佐官に当てがって全てが埋まった。



 ミランダが押してきたティーセットの乗ったカートを受け取り、シャルロットがお茶を振る舞う。

 着席を固辞するクリスティアン・ロイスナーを一人がけのソファにどうにか座らせ、ホルストは口火を切った。


「アルベール殿下に今王都へ赴く意思がないのは承知いたしました。実際強制力もないのでしょう?」

 クリスティアンは苦々しく顔を顰める。常時無表情の男の顔が歪むくらいには、不本意な事態なのだろう。


 仕事中毒で常に精力的に動く父だが、今日は少し疲弊していそうだな、とシャルロットはソファで隣に座るホルストを見て思った。


「しかしここで警護するにも限界がある。アルベール殿下、私から一つご提案が」

「聞こう」

「長くとも秋の間は、と言うことに致しませんか」

ほう、とアルベールは悪くはない反応だが、クリスティアンは若干不満気だ。

「こちらの事情としましては、間も無くノルトーは交易都市として、自由貿易特区に認可されます。私は国家事業の責任者として、これから半年はノルトーに詰めなければならないでしょう。

 シャルロットは秋の終わりにノルトーの商人同盟とメディアの式典で、こちらのホテルの広報を行う手筈にになっています。

 他にもいくつかシャルロットの名義で再開発をしている地方があり、それらも併せて周知していくつもりです。

 その後、娘は王都の社交の始まりに向けて北部地方を離れる予定になっているので、ここに貴人のお相手をできる身分のものがいなくなります」

 それまでに帰ってほしい、とかなり分かりやすく言っている。

 明け透けな内容にアルベールはしばらく探るようにホルストを見つめたが、やがて皮肉気に笑った。

「面白いね、ミレー伯爵。貴族らしくない合理的な物言いだが、私にはそのほうが好ましい。あなたの辣腕ぶりの一面を垣間見た気がした。

 理解した。

 では私からも一つ提案しよう。シャルロット」

 呼びかけられてアルベールに向き直る。

「そのノルトーの式典は私がエスコートしたい」

 え、と、言いかけたが声にしなかった自分をシャルロットは内心で褒めた。

 同じく驚いた風のホルストだったが、理解と返しは早かった。

「詳しく、伺っても?」

 ふむ、と、アルベールは腕を組み直す。

「私はオールシャンの社交界にはもう五年以上顔を見せていない。市井で生活し、市井で仕事をしている、所謂市民階級だ。

 彼女は王都の伯爵令嬢で、北部地方で中産階級を相手に事業をしようとしている。伯爵がパートナーでは予想通りすぎて印象が薄い。

 無爵の市民が貴族女性をエスコートしている、その方が話題になるのでは?市民階級にも受けがいいだろう。

 それに何より、シャルロットは私の恋人だ。誰にも役目を奪われたくない」


 他の二人の視線が自分に集中する。問いかけるような空気だが、シャルロットには微かに首を振る以外、応える術がない。


 そんな事実はない、と言ってしまいたいが、バルバラの王宮にはそのふざけた内容で報告が上がっているのだ。

 否定していいのか、判断がつかない。


 迷っていると、また悪い方向に話が進む。

「シャルロット、私の望みを聞いてくれないか。君と過ごせる短い時間、最後に美しい君の横に立つ名誉がほしい」

 アルベールの声が甘い。


 ホルストは娘の恋愛事情に遠い目をしたし、クリスティアンは信じられないものを見たような顔で二人を眺めた。


 赤い顔を両手で覆うシャルロットには、アルベールの悦にいる笑顔は見えていなかった。



 アルベールは用は済んだとばかりに図書室を後にした。

 後ろにクリスティアンと、扉の外に控えていた近衛兵の一人が素早く付き従う。


「殿下が熱心に女性を説き落とすのを初めて見ました」

 クリスティアンの珍しい私語にアルベールはふん、と笑う。

「私も君がそんなことを気にするなんて初めて知ったよ。シャルロットに興味があるかい?」


 脳面のように基本的に無表情だが、クリスティアンは案外情味のある人間だと、アルベールは知っている。

 今回も本心から自分を心配してここまで出張ってきたのだろう。

 鬱陶しいので表向き邪険にするが、アルベールはクリスティアンを気に入っていた。


「殿下がミレー嬢に傾倒なさっている理由は、不遜ながら私にも理解できました」

 へえ、とアルベールは意外そうに呟く。

「貴方様は自分に迎合しない人間がお好きでしょう」

 人好きのする人間を装っているアルベールだが、他人に興味を持つことは稀だと、クリスティアンは認識している。

 この城に入ってまず驚いたのは、彼が”素“でいたことであった。

 


 彼の侍従のフィリップ・ペリゴールから、真偽のわからない上申を受けて数時間。

 出立準備の完了した近衛連隊の詰所に、やや足早に登城したホルスト・ミレーは、娘からの書状とミレー家の秘書の説明にさして動揺を見せていなかった。


 ホルスト・ミレーの娘であるシャルロットの訴えは、隣国の王族を名乗る人物が自分の城に逗留してるが、真否と、国家関係上問題はないのか判断を仰ぎたい、という極めて常識的な内容で、フィリップ・ペリゴールの内容とは随分かけ離れている。


 ホルスト・ミレーの態度がわずかに揺らいだのは、近衛師団長である第三王子エドゥアルトのもとで、シャルロットとフィリップ・ペリゴールの訴えが擦り合わされた時である。

 ホルストは強く吐き捨てることはしなかったが、態度はあり得ないと告げていた。

 

 一方、シャルロットがアルベールに絆され、ある意味匿っている、と言う状況はかなりあるのではないかとクリスティアンは考えていた。

 アルベールが扮する一市民は、市民でありながら前途有望な戯曲家で、それに見合った優雅な容姿をしていて、さらに女性の心を掌握する術を身につけている、非常に魅力的な男性だ。

 しかも蓋を開けてみれば、ただの戯曲家と思っていた男は、隣国の王族だったのだ。そんな身の上を打ち明けられたらひとたまりもないはずだ。


 しかしシャルロット・ミレーはあくまで中立的で、アルベールの身分と地のままの彼を知って、むしろ困惑も露わな態度をとっている。

 そこが、アルベールの琴線に触れているのだ。

 シャルロットの父の伯爵にも、彼が好感を抱いているのは伝わってくる。

 アルベールはこのモントリヒト城が楽しくて仕方がないのだろう。


「長丁場になりそうで、大変苦慮しております」

 クリスティアンの言葉に、隣の近衛兵が何か言いたそうな顔を一瞬見せたが、彼はそれを黙殺した。

 アルベールの背中が笑っているような気がした。








 鏡の中のシャルロットを見つめて、ミランダは陶酔のため息をついた。

「お綺麗でございます、お嬢様」


 今夜シャルロットのために用意されたドレスは、落ち着いたロイヤルブルーのシルクシャンタン生地の豪奢な逸品だった。

 首元は大きく開いており、オフショルダーのスリーブが肩下を覆っている。

 裾に広がる銀糸のつる花刺繍が目を引くが、刺繍以外の装飾は少なく、耳元には真珠のドロップイヤリングが揺れているのみだ。

 髪型はシンプルに両サイドを編み込み、後ろで一本にまとめて丁寧に巻いた。


「あなたすごいわね」

「そうでしょうとも」

 自画自賛の出来栄えだった。

 ミランダはシャルロットの乳姉妹として育ち、その後侍女として仕えることを選んだ。

 侍女の大事な仕事の一つに、主人のヘアメイクが挙げられる。腕がいいと主人からの評価も上がり、自分の給金も上がり、良いことずくめなのだが、いかんせんミランダ自慢の腕を振るう機会はそう多くない。

 ルイス・クレモンドとの破談以来、シャルロットが社交に対しそれほど前向きではなくなったからだ。

 

「入ってもいいだろうか」

 わずかに開けられた扉から、柔らかな声が響く。

 ミランダが扉を開くと、正装に身を包んだアルベールが顔を出した。

 鏡越しに見る黒のテールコート姿は、世間一般の正装と同じはずなのに、アルベールが着ると息を飲むほど蠱惑的だ。

 

「美しいですね…」

 思わず漏れたシャルロットの本音に、アルベールは可笑しそうに目元を緩めた。

「それはこちらのセリフだよ、シャルロット。今日の君も夢のように美しい」

 さらりと言ってシャルロットの後ろに立つ。

「これを君に」

 左手に持っていた年代物のジュエリーケースから、眩いばかりのネックレスを取り出す。

 繊細に編まれたチョーカーネックレスは、一見貝ビーズに見えるが、よく見れば素材は小ぶりの真珠だ。真ん中には驚いたことに青翡翠のカメオがあしらわれており、いったいどれほどの価値のものか見当もつかない。


 呆気に取られるシャルロット首元に、何の気負いもなしにアルベールは手を伸ばす。

 触れる瞬間身構えられ、また可笑しそうに笑った。

「君はもう成人女性だろう?この程度のふれあいでそんな顔をされたんじゃ、こっちが照れてしまう」

 そう、後ろ髪をはらりと避けて留金を止める。

 ひやりとしたネックレスと、首筋に感じるアルベールの指先の接触に、一気に鼓動が速くなる。 


「うん、いいね」

 肩を手を置かれ、鏡の中の自分を覗き込むアルベールの顔が近い。


 もうずっと、彼はこんな甘い態度だ。

 食事中に静かに見つめられるのも、ことあるごとに頭にキスされるのも、全く慣れない。

 かと言って気持ちを押し付けてくることもなく、シャルロットは困惑を抱いたままだ。

 全然嫌だと思わないどころか、少しときめいてしまっていることもその困惑を強めている。


 アルベールから、好意を持たれているのは確かだ。

 ただ、彼からの切ない恋心を感じるかと言われると、それは否なのだ。

 いつも自分を眺める視線は、道端の花を愛でるような、暮れゆく夕日に見入るような、そんな観察の色合いが強い。


「こんな高価なもの、お借りできません。傷でもつけてしまったら…」

 はは、とアルベールは笑う。彼はノルトーに着いてからも基本機嫌がいい。

「これはもう君のものだよ。好きに扱うといい」

 シャルロットは開いた口が塞がらない。

「そんな、間違いなく青翡翠ですよ、どれ程の価値があるか…」

 ふるり、と身震いする。

 それをまた面白そうに見つめ、シャルロットのこめかみにひとつキスを落とす。

「母方の祖父が、祖母に渡した守り石だ。生涯あなたを守ります、と決意を込めて。古いだけでアンティークとしての価値はないよ」

 そんなわけはない。カメオの貴婦人の横顔も、精緻な細工で色褪せていない。大切に保管されてきたのが伺える。

「宿代だと思って取っておくといい。離れている間、君を守ってくれると願っている。できることなら今度私に会うときはそれを付けて」

 別れを仄めかされて、シャルロットに寂寥感が去来する。


 アルベールと過ごした一つの季節を、シャルロットは思いもかけずとても楽しんだ。

 終わってしまうことが寂しかった。


「アルベール様、」

 言いかけたシャルロットの唇に、アルベールは人差し指で、止めるように触れた。

「そろそろ慣れて。アル、だろう?」

 シャルロットの頰が赤く染まる。

 その素直な反応が、アルベールを楽しませる。

「アル、様。これが終わってもまたお会いできますか?」

 アルベールは破顔した。

 再会を乞う彼女が可愛かった。


「会えるよ。何度でも」





 ノルトーは直轄地であり、古くからの工業都市でもあるため、商人や職人の躍進が目覚ましい。

 貴族の身分も、王都ほど絶対的なものではなく、力を持った市民階級の地位が政治的にも無視できないほど強くなっていた。

 主要部には様々な国の商館が立ち並び、王都の堅牢な様相とはまた違い、先進的で活気ある発展を見せている。



 会場は近隣国一大きな新聞社のホールだった。

 経営者の男爵は、このノルトーでも有数の資産家で、政治家とも文化人とも親交が深く、彼自身がかなりの知識人だ。


 その男爵夫妻に出迎えられ、シャルロットは優雅に膝を折る。

 周りではいくつもの煌びやかなシャンデリアの下、着飾った人々が話に花を咲かせつつ、主催者の動向を見守っていた。


「お招きいただきありがとうございます、グートマン男爵、夫人。すばらしい夜会ですわ」

 恰幅の良い男爵は和やかな笑顔で頷いた。

 彼は父ホルストと旧来の友人でもある。

「よくいらした、シャルロット嬢。君の噂は届いているよ。ユニークなホテルを作ったらしいね。とても充実したプライベートスパが味わえるようだと、このあたりの経営者は興味津々だったよ」

 やや前のめりな男爵に、夫人は軽く咎める視線を向ける。

「まあ、あなた、早速お仕事のお話?私は早くお隣の男性を紹介いただきたいわ」

 ははは、と男爵の快活な笑い声が響く。

「確かに、確かに。商人同盟のパーティでも話題だったと聞いているよ」

 優しく見つめるアルベールと一瞬視線を合わせ、シャルロットは微笑む。

「今宵のパートナーを引き受けてくださった、アルベール・ロアン様です。オールシャンで戯曲家をなさっておられますわ」

 アルベールは完全に人を魅了する笑顔を浮かべる。

「初めでお目にかかります、アルベール・ロアンと申します。このような見事な夜会にご同席の機会をいただけて、嬉しく思います」

 男爵も夫人も息を呑んで目を見張る。


「これは驚いた、噂通り魅惑の美男子だ!」

 飾らないもの言いにアルベールは苦笑する。

「どのような噂がお耳を汚したのか気になるところです」

「アルベール・ロアンといえば、オールシャンではとても人気の作家さんなのよ!信じられないわ、本物なの?!まさか本当にノルトーにいらしたなんて!」

 夫人はうっとりと目を細める。

「それにこんなに美しい男性だったなんて」

 とろけ落ちそうな口調に、周囲にくすくすと笑いが広がる。

「妻は無類の舞台好きでね。あちこちいろんな国の舞台を見に行ってばかりで全然家に寄りつかない。先日のパーティーで、シャルロット嬢のパートナーの噂を聞いてから、ずっとこんな感じなんだよ」

 やれやれ、と男爵は肩をすくめるが、男爵も興味を隠せていない。

「シャルロット嬢がパトロンをしているのかい?」

 周りの人々にも気になる話題だったのだろう。囁きが一段低くなる。

 まぁ、とシャルロットは目を丸めて見せた。

「アル、戯曲家のパトロンって何をすればいいのかしら?」

 そう言って可愛らしく見上げる。

 無邪気な物言いに、アルベールは心底この女性が愛しい、という顔でシャルロットを見つめる。

 スカイブルーの瞳の奥に悪戯な光があることには、シャルロットしか気づかない。

「貴女はただそこにいてくださるだけで、私の励みになりますよ」

 腰に回した手に力を込めて、少しだけシャルロットを引き寄せると、額に優しくキスをする。

 ご婦人方からため息と悲鳴が混ざったような声が上がり、グートマン夫人も昏倒しそうな様子だ。

 やりすぎだわ、とシャルロットは思ったが、アルベールは揺るがない。

「母国ではなるべく目立たないように、と立ち回っていましたが、シャルロット嬢の隣に立つには私も力をつけなくてはいけません。こうやって名乗る機会をいただけて、深く感謝いたします、男爵、夫人」

 その謙虚な言葉に、男爵は感銘を受けたかのように深く頷いた。

「そうか、そうか。若い君たちがこれからも目指す道を行けるように、微力ながら私たちもお手伝いしよう」

 力強い言葉に、アルベールは溢れるような笑顔を浮かべる。

「この上ない味方を得た心地です」


 独壇場だった。




「あなたは役者にも向いてると思います」

 じっとりとしたシャルロットの目に、アルベールはニヤリと笑う。

「君もなかなか様になっていた。さすがだね。アル、と呼びかけられて背筋が痺れた」

 密やかに耳元で囁く声は、直接頭に語りかけられているようでくすぐったい。


 二人は人々のざわめきから離れて、ホワイエへ出てきていた。

 エントランスとバンケットホールを繋ぐホワイエは、片面にバーカウンターがあり、もう片面は中庭に面している。

 そこここに休憩のためのソファセットが置かれ、グラスを片手に休んでいるカップルや、総面ガラス張りの窓から見える中庭の景色を眺めている老夫婦もいて、浮き立つ空気はバンケットホールと変わらない。


 わざと少し暗めに落とされた灯りの中、二人もライトアップされた中庭を見るともなしに眺めていた。

「写真を撮らせてよろしかったのですか?」

 ん、と、アルベールは少し考えるふうを見せた。


 ホールを出てくる直前に、デー・ノルトーの記者から写真撮影の依頼を受けた。

 デー・ノルトーはグートマン男爵の経営する新聞社の看板紙で、他にも出席している著名人の写真を撮っているのを見かけていた。

 後日パーティーの報告と共に載るのだろう。

 躊躇したシャルロットに、しかしアルベールは迷いなく受け入れ、寄り添う二人の写真を撮らせた。


「まぁ、こうなることもわかっていてパートナーを申し込んだわけだしね」

「今後に差し障りがあるのでは」

 アルベールはシャルロットを覗き込む。

「心配してくれているのかな」

「それは、もちろん」

「嬉しいな。もっと心配してもらいたくなる」

 すぐに甘くなる会話に、シャルロットはもう、とむくれて見せる。

 そんな仕草をすること自体がアルベールに気を許していることになるのだが、本人はそれに気づかない。


「私がいない間、他の男にフラフラしては駄目だよ」

「私はアル様がどういうおつもりでいるのかまるでわかりません」

 シャルロットの本音に、アルベールは心外だとでも言うように鼻白んだ。

「君のためなら、返上した身分を無我夢中で取り戻すくらいのことはできるのに」

 より一層本心かどうかわからないことを言われ、疑う目つきになったシャルロットに、アルベールはまたやれやれと肩をすくめた。




 アルベールが解けた表情をすっと引き締めたのはその時だった。

 中庭を伺うガラス越しに、こちらに近づく正装した男の姿が見えたからだ。

 すぐに振り返り、シャルロットを庇うように立つ。

「いい夜ですね、ミスター?」

 アルベールの声がやや鋭く聞こえて、シャルロットは不思議に思ったが、向き合った男性にどきりとした。

「ユルク様…」

 男は栗色の瞳をわずかに細め、紳士然とした表情を崩さず頭を下げる。

「シャルロット嬢、あなたにお会いできるなんて、面倒なパーティも出ておくものですね」

 そう言って、アルベールに向き直る。

「ユルク・タルナートです。初めまして、ロアン殿」

 握手を求めるユルクに、アルベールも応じる。

「アルベール・ロアンです。どちらかで私のことをお聞きに?」

 ユルクは目線を下げ、アルベールの斜め後ろに立つシャルロットを少し複雑げに見つめる。

「シャルロット嬢のパートナーの噂を、私が聞き逃すはずがありません。あれからお会いする機会もなかった。変わりありませんでしたか?」



 ユルク・タルナートは、ノルトー近辺だけでも三つの大きなホテルを持つ経営者の子爵の甥で、老齢に差し掛かった伯父の下で実務のほとんどを取り仕切る、いわゆる富裕市民層の有能な男性だ。


 古城を手に入れたシャルロットに、父のミレー伯爵が早々に紹介した人物だった。


 勝手のわからないシャルロットを相手に、惜しむことなく様々な知識や縁故を繋ぎ、時に自ら立ち回って世話をしてくれた。


 伯爵の信頼を深めたいと言う打算的な気持ちもあったのかもしれないが、それを抜きにしても大いにシャルロットの助けになってくれて、誘われるまま仕事以外で何度も食事に行った。


 その中で、徐々に彼の好意が強まっていくのを感じ、シャルロットは戸惑った。


 ユルクは四つ年上の二十六歳。

 温和な雰囲気で、目の下の長さで整えられたダークブロンドの短い髪は清潔感があり、十分に美男子と言える外見だ。

 子爵家の養子に入るのでは、との噂もあり、ノルトーの社交界ではかなり人気がある男性なのだと知っていたが、シャルロットは一線を引いたままの態度を崩せなかった。


 ルイス・クレモンドとの婚約解消からそれほど時間も経っておらず、シャルロットは男性からの恋情にほとんど信用を持てなかったのだ。



 そんな時、二人の食事風景がタブロイド紙に載った。


 シャルロットは驚いた。

 記事の内容は、次期ホテル社長の恋人とのひと時と、シャルロットの経歴が軽く触れられている程度だったが、彼が衆目を集める人物だったこと、自分の私生活が断りなく晒されたことが、現実に受け止められなかった。


 そして、それ以降彼に会うことをやめ、モントリヒトに注心することを決めたのだ。



「不義理をして申し訳ありません、ユルク様。この通り、変わらず過ごしております」

 ユルクはそうですか、と頷き、何か思い悩むように口をつぐむ。

 それを見てアルベールは一歩引いた。

「私は少し外しましょう」

 しかしそれを止めたのは、ユルク本人だった。

「いえ、どうか、このままこちらに。ホールに私の婚約者がおります。不安を与えたくない」

 アルベールは静かにユルクを見つめて頷いた。


「ご婚約なさったのですね。おめでとうございます」

 シャルロットの祝福に、ユルクは少し傷ついた顔をする。

 ふう、と気持ちをまとめるように深く息を吐き、深い色の瞳を微かに眇めた。


「あなたは最後まで私に気を許してくださらなかった。それでもいつかは、と想い続けていました。苦しい思いをいたしましたが、今日を境にまた友人となることをお許しいただけませんか」

 シャルロットは答えられない。

 ユルクの瞳には今なお愛恋が灯っているように見えるが、それは以前より静かで穏やかな光にみえた。


 諦観を内包しているその色は、もう深い悲しみも抱き込んで、全てを許容しているのだ。


 あれほどの恩を受けて、ユルクの気持ちを信じられなかった自分が、急にとても酷い人間に思えた。


 ユルクは続ける。

「あなたを忘れられない私に、伯父が縁談をまとめてしまった。吹っ切る良い機会になったと思うことにいたしました」

 一気に膨れ上がる罪悪感で、シャルロットの喉は震えた。

「わたくしは、どうしてもあなたの気持ちが信じられなかった。こんなに誠実に想ってくださっていたことに、今初めて気づきました」

 その悄然とした様子に、ユルクは笑う。

 どこかホッとした表情に、シャルロットの胸は強く痛む。

「ああ、今になって報われた気分だ。せめてあなたを恋慕う心だけは信じて欲しかった」

 震える指先で、シャルロットは唇を覆う。

 この優しい人になんてことをしてしまったのだろうと、取り返しのつかない過去に視界が揺れる。


 ようやく立っているシャルロットの背中を、アルベールは静かに支える。


「婚約者は少し年上の穏やかな女性です。あなたとの記事も、私の心残りも、何もかも飲み込んで、隣にいることを選んでくれた」

「大切に思っておられるのですね」

 アルベールの受容に、ユルクはええ、と頷く。

「今後も同じ業界に身を置くことになるのでしょう。避けたりせず、たまに会ってお話しするくらいの気軽な関係になれませんか」

 凍る声を、シャルロットは何とか搾り出す。

「そんな、もちろんです、ユルク様。薄情なわたくしに、これほどのご温情をいただけて、どうお返ししたらいいのか…」

 では、と、シャルロットの後ろめたさを晴らすようにユルクは言った。

「友人としての出発の記念に、握手していただいても?」

 シャルロットには断る余地はない。

 彼は心無い自分を許すと言ってくれているのだ。


 おずおずと出した手袋越しの右手を、ユルクは笑って手にとる。

 浮かべる笑顔が偽悪的で、違和感を覚えたシャルロットを、ユルクはぐっ、と軽く引き寄せた。

「え…」

 と思わず声が出た時にはもう、口付けは手首の内側に落とされていて。


 シャルロットは離された手を反対の手で包み込んで、惚けたように見返した。


「あなたのパートナーを勝ち取った彼に、少しは意趣返しできたかな」

 アルベールはシャルロットの肩を引き寄せる。

「タルナート殿、彼女は私の気持ちも疑ってばかりで、全く信じてくれてはいませんよ」

 アルベールの言葉を理解したユルクは、非常に同情的な目でアルベールを見た。

「何と、罪深い女性だ」

「やっとお分かりいただける方に出会えた」

「私の手には余る方だった。ロアン殿の今後を心から応援いたします」

 では、とまた握手を交わし、ユルクは晴れやかな顔でホールへ歩き出す。


 開かれた扉の向こうに小柄な女性の後ろ姿を見つけると、足を早めた。

 やがて連れ立った二人が人混みに紛れると、シャルロットは深く息をついた。


 ユルクは一度も振り返らなかった。




「あんなにいい男を捨てて、後悔するな、きっと」

 アルベールの軽口に、シャルロットは返答する余裕がない。

 少し高い位置から見下ろすシャルロットは、顔を伏せて表情は知れないが、影を作るまつ毛だけが小さく揺れていて、彼女の漂流感を垣間見せていた。


「ゴシップ誌の記事がそんなに不快だったのかい?」

 いいえ、と、シャルロットは首を振る。


 記事はきっかけにしたに過ぎない。あれが無くとも、シャルロットはきっとやんわりユルクを遠ざけていただろう。


 怖くて、と、声にならない声で呟いたシャルロットを、アルベールは冷ややかに見やる。


「なにが?人間が?男が?それとも、君に興味を持つ男が?」

 その厳しい声に、シャルロットはゆるゆると顔をあげる。

 声と同じく厳しい表情のアルベールに、不安が募る。


 シャルロットはもう、人の言葉と気持ちが全く信じられなくなっていた。

 いくら容姿を褒められても、愛を告げられても、何も響かない。


 心の底から君が大切なんだ、と示してくれていた人は、自分への態度を変えないまま、自分の友人と恋を楽しんでいたのだから。


 でも。

 今度はそんな自分の頑なな心が、優しい人を傷つけてしまった。

 ユルクはどれだけ苦しい思いをしたのだろう。

 真心を信じてもらえない辛さは、シャルロットには分からない。

 


「あの、アル様、」

 よるべのない子供のようなシャルロットに、アルベールは仕方がないな、と表情を緩めて向き合った。

 それだけで安堵する。

「シャルロット、君は困った子だね。奥底で人を信用していないのに、自分に踏み込んで来ない私には簡単に寄りかかる。外見や行動の割に脆いところが君の魅力ではあるが、今の君はあまりにも弱い」

 右手をシャルロットの頭に置き、耳を撫で、手のひらを頰に添える。

 柔らかな声なのに、心の深淵まで響くようで、シャルロットは慄く。

「そんな、ことは」

 言いさした唇を親指で触る。

「他人の好意を信じきれないのに、相手が傷ついていたと知って心を痛めてしまう。どうしたら良かった?最初から、相手の心の痛みなど考えなければ良いんだよ。そうすれば、君の心は守られる」


 アルベールの青空の瞳は、暖かな春の日差しのようにシャルロットを包み込む。


「でも、君にはそれはできない」


 その暖かさに、頭の奥が微睡む。


「次に会うときまでに決めるんだ、シャルロット。

 昔の男をすっかり切り捨てるか、私と結婚するか、どちらかを」



 この人は全てを知って私を引き受けようとしているのだと、シャルロットは靄のかかった意識の中で思った。



「わかったね」



 他の音は聞こえなかった。


シャルロットの中でアルベールは、優しく可愛がってくれる、安心できるお兄さんです。

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