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五、あなたとワルツ




 アデルの実家は確かに高位貴族の侯爵家であったが、本人は嫡子ではなく今の所爵位もない。


 それは一線を越えた発言だった。


 エドゥアルトの目元が一瞬険しくなる。

 彼にはこの場でアデルを処断する権利もあったが、頑迷な男ではなかった。


「確かにその通りだな。アデル・コリニー、君の言う通り、認識を改めよう」


 あっさりと翻った態度に、アデルは一瞬虚を突かれ、しかしすぐに持ち直した。

「ご賢察に感謝いたします」



 何となく場が収まった時、後ろの侍従がエドゥアルトに耳打ちする。

 それに、そうか、と頷いて、彼は兄に向き直る。

「兄上、私は晩餐に戻ります。陛下にお小言をもらいたくなければ、兄上もそろそろどうぞ」

 そう言って立ち上がると、扉へ向かって歩き出す。


 部屋を出る直前に、思い出したように振り向いてシャルロットに声をかけた。

「レディ・ミレー、不適切な発言を謝罪する。よければ最後のワルツで一曲お相手願いたい」


 アデルの言葉で混迷の淵から戻っていたシャルロットだったが、これにはまた思考をめぐらせなければならなかった。

 絶対に断りたいが、そうすれば彼の謝罪を受け取らない、という意になる。

「わたくしで務まるのでしたら、喜んで」

 満足そうなエドゥアルトの顔が小憎たらしい。


 ほんの半刻あまりで、シャルロットの王族に対する評価は一変していた。


 そんなシャルロットの胸中を知ってか知らずか、おそらくは完全に察しているのだが、エドゥアルトは初めて見せる笑顔らしき表情で

「では後ほど。ロイスナー、お前はこのまま客人のご案内を」

と言い置いて出て行った。


 嵐のような男だった。



 シャルロットは大きく息をつきたい気分だったが、それはだ早計だ。

 ここに残った王族も、もちろん一筋縄では行かない。

 シャルロットの平静に戻った頭の理解では、むしろこちらの王太子の方がだいぶ曲者だ。


「弟がすまなかったね、レディ・ミレー。あれは昔から思想が少し偏っていてね」

 本当に済まなそうな口調で言うから手に負えない。

「王家に帰するお方として、当然のお姿かと存じます。どうぞお気になさらず」

 そう言うと安心したように頷く。


 徹頭徹尾、この人は穏やかな微笑を崩さない。

 それが尚のこと底知れない。


「そう言ってもらえて良かったよ。それでこちらが本当に呼び立てた理由なのだが、オフェリアが君の城に興味を示してね。ぜひとも一度、訪れてみたい」


 これまた困った事態だが、諾以外の返事は求められていない。

「それはもちろん、心より歓迎いたします」

と、オフェリアを見つめる。

 

 彼女は妊娠中だ。

 モントリヒトは王都からノルトーまで汽車で五時間、さらにそこから二時間以上山道を車に揺られることになる。

 出産後、幼い子供を連れてその行程が可能なのか。


 シャルロットはにっこりと微笑む。

「妃殿下と王太子御一家のために、警備体制を見直して、万全にお迎えできるように準備いたします。お身体が落ち着かれましたら、いつでもお越しくださいませ」


 シャルロットのここでの大仕事は終わった。






 その後、王太子に晩餐に誘われたが、アデルもシャルロットもとても何かを口にできる精神状態ではない。

 開放されている絵画の回廊を見て回るのを口実に、丁重に断りを入れ、部屋を後にした。


 扉が閉められて歩き出して早々に、クリスティアンは口を開いた。

 言うことを決めていた素振りだった。

「エドゥアルト殿下は苛烈な方です。今後はご対応にお気をつけください。正直肝が冷えました」


 最初に言っておいて欲しかった。

 シャルロットは同意を得るように腕を預けていたアデルを見上げたが、彼も困ったように眉を上げるだけだった。



 気もそぞろで、じっくり絵を見る気分にならなかった二人は、せっかく人もまばらだった絵画の回廊をさらりとだけ見て、仕方なしにホールへ向かう。

 腰は引けているが、逃げても解決しない。


 会場に着いた時点で、クリスティアンは軽く目礼して王族の警護に舞い戻った。



 同格の家門のあたりへ視線を巡らせると、アデルの父母と歓談するミレー伯爵夫妻が目に入った。

 アデルの母コリニー侯爵夫人は、ミレー伯爵の姉だ。

 人をかき分け、近づく。


 シャルロットの伯母に当たる彼女は、二人を見つけるとふくよかな顔に笑みをこぼした。

「シャルロット!ようやく会えたわ、私の可愛い子」

 そう言って、強く抱きしめる。

 ちなみにアデルには目もくれない。

 慣れているアデルは両親には関わらず、ミレー夫妻の会話に自然に加わる。

「伯母さま、私も会えて嬉しいわ。伯父さまも相変わらず素敵」

 シャルロットはアデルの父のコリニー侯爵にも軽くハグする。


 夫人と違い、コリニー侯爵は痩躯なナイスミドルで、アデルの温かい薄茶の瞳と緩い癖っ毛は、侯爵によく似ていた。

「君はいつも天使のように愛らしいよ、シャルロット。それでいつ、うちにお嫁に来てくれるんだい?」

 これはコリニー侯爵の常套句で、周りに柔らかな笑いが広がる頃、国王夫妻が入場なさって最後のダンスが始まった。




 国王夫妻はもう五十代、年齢を感じさせない風格のある身のこなしで最初の曲を終えると、一段高い玉座に座る。


 そこからは、もう爵位に区切りはなかった。

 皆、各々のパートナーとダンスを楽しむ。




 ワルツは夜会の前半と、晩餐を挟んで後半の二回で、その後酒宴がある。

 間にテンポの速いポルカやマズルカなどがあったはずだが、会場の貴族たちの足取りは確かだ。


 若手のはずのシャルロットがたまにふらつくので、ホールドしたアデルは苦笑した。

「もう少し体力つけなきゃ」

「舞踏会は慣れてないのよ」


 もともと頻繁には参加していなかったし、婚約期間はシーズン始めの王宮晩餐会にしか顔を出していなかった。


「うちの母の方がまだ踊れるよ」

「もう、集中してるから、邪魔しないで」

 口を尖らせたシャルロットに、アデルはまた笑う。


 すっかり大人の女性になった従妹だが、この顔は少女の頃と変わらない。

 昔を懐かしむアデルを尻目に、シャルロットは必死だ。


 最近出席していた夜会は歓談と食事がメインで、長時間踊ることに体が付いていかない。

 元々は嫌いじゃなかったのにな、と思っていたところで一曲目が終わり、次は父母とパートナーを入れ替えて踊る。




 の、だが。



 どよめきと共にシャルロットの手を取る者があった。



 割り込まれた父の驚いた顔と、同じようなアデルの唖然とした顔が視界を流れて、強引に振り向かされた体がぐらりと傾ぐ。


「伯爵、ご息女をお借りする」


 言うが早いか、長い足が自分の手を引いたままホールの中央へ縫うように向かう。

 白い軍服の背中と短いブロンドに、シャルロットは狼狽える。


 

 早い。

 ワルツの二曲目はパートナー以外の親しい異性と踊る時間だ。

 親族か、婚約者の親族か、それに準ずる近しい者。

 エドゥアルトの申し出は、少なくとも後二、三曲踊った後になるだろうと思い込んでいた。


 これでは誤解を受けてしまう。



 そのエドゥアルトは急に立ち止まり、慣性に逆らえないシャルロットの体を易々と抱き止める。


 見上げた男の表情は先ほどよりは幾分柔らかいが、グレーの瞳は値踏みするようにシャルロットを眺めている。



 向き合って、手を繋ぎ、姿勢を正したところで楽団の演奏が再開する。


 ステップが始まった段階からエドゥアルトは好戦的だった。


「滅多に出ない舞踏会だろう。王族が相手なんだ、少しは嬉しそうにしたらどうだ」


 自衛的な笑顔を見破られていた。

 人の心理を暴くことに関して、彼に敵うとは思っていない。

 何せシャルロットは、人と深く付き合うことを避けてこの二年間を過ごしていた。


「光栄に思っております。不調法者ゆえ粗相がございましたら申し訳ありません」

 意地悪すると足を踏むかもよ、と暗に告げるが、エドゥアルトは鼻を鳴らすに留めた。


「どんな物慣れた悪女が来るかと楽しみにしていたが、拍子抜けだったな」


「ご期待に添えず、心苦しい思いです」


 身勝手な男だが、リードは力強くも優しい。


「君がロイスナーを選んでくれたら、私の心も休まるのだが」


「先ほどはご不満そうでしたが」


 お前が親しくなってどうする、と、クリスティアンを叱咤していたはずだ。


「朴念仁のロイスナーを籠絡するような女なら、あいつには手に余るだろう。ミレー伯爵をイライアに繋ぎ止める良い手段なのに、逆に取り込まれてしまう」


 まだ言うか、と言う思いを込めて、反論する。


「考えを改めてくださったのでは」


 下から睨むように言うが、エドゥアルトは視線も下げない。


「ホルスト・ミレーは合理主義者だ。王家を切り離す要素を減らしたい。ロイスナーを選べ、シャルロット」


 エドゥアルトは服従させるような強い視線を向ける。

 その独善的な態度に、反発心が芽生える。

 彼の揺るがない優位性が、彼を彼たらしめているのだ。


「殿下」


 シャルロットの纏う空気が変わったことを、エドゥアルトは意外な思いで見た。

 少しばかり見目の良い娘だが、それだけだと思っていた。


 曲は中盤に差し掛かる。

 曲調が変わり、これが自分のお気に入りの曲名であったことにシャルロットは気が付いた。

 危なげだったシャルロットの足取りは、いつからかすっかり揺るがなくなった。


「わたくしは常に、選ぶだけの立場にありません」


 翡翠の瞳に煌めく強い光に、エドゥアルトは忌々しくも縫い止められた。


 シャルロットにとっては、初めて正面から目が合った認識だった。


「選び、選ばれなければ意味がないのでは」


 強い力で支配して、信頼が続くわけがない。

 貴方のやり方では破綻する。


 言いたいことが伝わったのは、エドゥアルトの薄墨色の瞳に一瞬激昂の色が閃いたことで理解できた。

 

 失敗したとは、思わなかった。

 このまま貴族社会から弾かれても構わないと、投げやりな考えも浮かぶ。

 ああ、だが父にはまた厄介な事情を負わせてしまうな。


 そう思うが、しかしエドゥアルトはシャルロットの予想を裏切り続ける。

 怒りの光を浮かべていたはずの双眸は、今はもう楽しげに細められ、くくく、と、堪えきれない笑い声のようなものまで聞こえる。


 楽しげ。いや、これは似て非なるものだ。


「俺は気の強い女性が嫌いじゃない」

 そうなのか。

 シャルロットは自分の悪手を自覚した。

 だとしたらもっと淑やかな婦人を取り繕っておけばよかった。


 足元が乱れる。

 それに気を良くしたのか、エドゥアルトはフォローを装ってシャルロットの背中を抱き寄せた。


 たくましい腕と胸の感覚が、今は一層まずかった。


「その上品ぶった顔を、ベッドの上で散々泣かせてみたくなる」


 直接耳に吹き込まれた低い声に、シャルロットの頰はかっと赤らむ。


 初々しい反応がエドゥアルトの加虐心を刺激する。


「ルイス・クレモンドは俺の昔馴染みだよ」


 シャルロットの動きが明らかに固くなり、エドゥアルトは心中で嗤った。

 わかりやすい。

 

「君の泣きどころはそこか。ルイスの家は軍門の長だ。いずれあいつが俺の側近になるのだろうと思っていた」


 シャルロットのほとんど抱きしめられている体は、熱を帯びるどころか冷え始めた。

 エドゥアルトの唇が掠める耳朶だけが、不自然に熱い。


「道を違えてしばらくして、遊び仲間の集まりにもほとんど顔を見せなくなった」


 独白に、シャルロットは耳を塞ぎたくなる。

 その追い詰められた表情が、エドゥアルトの愉悦を深くする。


「ルイスの友人に引き合わされたことはあるか?ないだろう。あいつは自分以外の男を一切君に近づけなかった」


 この人が何をしたいのか、シャルロットにはようやくわかった。


「ルイスが君を連れ出したのは、老人会のような夜会ばかりだったろう。悪意のない、つまらない馴れ合いの」


 知らしめたいのだ。

 シャルロットに、自分の弱さを。


「結局君はずっと守られ続けているんだよ。ルイスに、アルベールに、これからはロイスナーに」


 一人で立ち続けられないなら、自分の統治を受け入れろと、傲慢に命じる、残酷な支配者。




「ロイスナーで力不足なら、俺が名乗りをあげるぞ」




 曲が終わってしまう。

 大好きなワルツの曲だったのに、ひどい記憶で残ってしまう。

 最後のターンを終え、足を引いて、ステップをクローズする。



「貴方はただのサディストだわ」



 離れる寸前の報復は、エドゥアルトを悦ばせただけだった。


 

 周りのカップルは、注目していたひと組の結末を判断しあぐねていた。

 ダンス嫌いと定評のある第三王子が自ら誘い出した、最近話題の令嬢。


 華やかな彼らは、ステップの間も身を寄せ合い熱心に言葉を交わしているようだった。

 途中顔を赤らめる彼女を揶揄う王子は、日常の厳しい表情とは一転して非常に楽しげだ。


 それは、外から覗き見ていた全員にある可能性を抱かせた。



 婚約者も決まっていない、気難しい王族。

 ついに相手を選んだのか。



 しかし終わりの空気はどうだ。

 明らかにきつい眼差しの令嬢。

 対面する王子は、一瞬肩をすくめた後、彼女の頭をふわりと撫でる。


「そう怒るな。俺が悪かった」


 滅多に見せない柔和な顔で彼女を引き寄せると、頭に軽くキスをする。


 幼子の癇癪をあやすようなその素振りに、シャルロットの苛立ちは増す。


 だが、周りにはそうは見えない。

 女性の機嫌を取り成す様子は、仲の良い恋人同士そのものなのだ。



「疲れただろう。少し休むと良い」

 そう言ってダンスフロアからシャルロットを連れ出すと、ホールの壁際に置かれたソファに誘う。

 出入り口からもバルコニーからも遠いそこは、ぽっかりと人のいない空間だった。


 反抗する気も起きずされるがまま、シャルロットはへたりと座った。

「そうやって人形のように在るのも良い。周りが勝手に愛でてくれる」


 給仕からグラスを受け取り、シャルロットに手渡す。

 琥珀色のそれを、ひと口含む。


 アイスワインだ。


 濃い甘みと冷たい口当たりに、気が緩む。

 異様に喉が渇いていたのもあり、ひと口、二口と飲み進めて行くと、飲み終わる前に横から手が伸びる。



「それ以上はいけません」



 クリスティアン・ロイスナーだった。

 こちらは制帽の下で苦虫を噛み潰したような顔をしている。


 不可解な面持ちで見上げるシャルロットからグラスを受け取り、違う給仕を呼び寄せ何事かを告げてそのグラスを渡してしまった。


「持ち場を離れるとは規律違反ではないか」

 何がそんなに楽しいのか、エドゥアルトは口元に拳を当てて笑いを堪えている。

「閣下の警護が本日の任務です。対象が好き勝手に動き回らないでいただきたい」

「良い言い訳だな。しかし警護対象とは時に身勝手なものだ」


 難しい表情のまま、クリスティアンは遮るようにシャルロットの前に立つ。

 ふん、とエドゥアルトは腕組みする。

「何のつもりだ?」

「お眼鏡にかなった女性をいたぶるのが閣下の趣味の一つで在ることは承知しておりますが、さすがに度を越しています」

「お前、随分言うようになった」

「目に余ります。どうかご自重ください」

 エドゥアルトはシャルロットを見下ろす。


 アイスワインは特段度数が高いわけではないが、飲みやすく進みが早い。

 それはシャルロットもわかっていた。

 回ってきた酒気に必死に姿勢を保っているが、瞳孔は小さく揺れている。


「部屋を用意させようか」

 親切心でないことは明らかで、クリスティアンはぐっと奥歯を噛み締める。

「そのためにこのようなことを?」

「さあ。ちょうど良い流れなだけだろう」



 戻ってきた給仕の男性からグラスを受け取り、クリスティアンは屈んでシャルロットに渡した。

「これを、ゆっくり飲んで」

 レモン水だった。

 こくり、こくりと飲む様を、一人は心配そうに、一人はつまらなさそうに見守る。


「献身的な男だな」

 興醒めしたように言うと、ふらりと踵を返した。

「もう飽きた。お前は彼女についていろ」

 本当に飽きただけなのだろう。


 遠ざかる背中をシャルロットがぼうっと見送ると、エドゥアルトとすれ違うようにアデルがやってくるのが見えた。



 こちらも呆れるほどの心配顔だ。

「コリニー卿、シャルロット嬢は早めに帰して差し上げた方がよろしいかと」

 アデルは頷き、膝をついてシャルロットを覗き込む。

 薄い茶色の目が優しくて泣きたくなる。


「お酒を飲んだ?」

「べつに弱くないわ」

 誤魔化すように虚勢を張るが、アデルは困ったように目尻を下げた。

「そう言う意味じゃないよ。でも空腹で飲んではいけない」

「また言われるわよ。過保護だって」

 アデルは苦笑する。

「叔父上に退出を伝えてくるよ。少し待てるかい?」

「お父様と、お母様はどうなさってるの?」

「いろんな方に事情を聞かれているけど、上手く躱していらっしゃるよ」

 そう、と呟いて口を閉ざしたシャルロットの額に、アデルは触れるだけのキスを落とし、立ち上がる。

「車も回してもらおう。ロイスナー卿、シャルロットを頼みます」

 周囲を伺っていたクリスティアンは、声を顰めて言う。

「ではシャルロット嬢を西門までお送りしましょう。ここは人目が多い」

 それに頷き、アデルは足早に立ち去る。



 その後ろ姿も見送って、少しして、シャルロットはクリスティアンを見上げた。

「お仕事はよろしいのですか」

 普段よりも無警戒な眼差しに、微かに眉を寄せる。

 この状況では警戒してくれていた方がありがたい。

「貴女を車に乗せたら戻ります」



 フロアを眺める人々の間から、色とりどりのドレスのひらめきが見える。

 つい先ほどまであの場にいたのが、夢のような気分だ。

 女性たちの宝石がシャンデリアの光を反射して、目にも眩い。


 シャルロットはしばらく陶然と眺めた。

 

 


「そろそろ立てそうですか」

 クリスティアンは手を差し出す。それをすんなりと受け入れて、シャルロットは静かに立ち上がった。

 この通り、と言うように、にこりと笑顔を作る。


 空腹と、長時間の緊張状態からの解放で、アルコールの回りは早いだろうとクリスティアンは案じていた。


 足腰は問題なさそうだ。

 差し出した肘に腕を絡めたシャルロットを、注意深く見る。


 数歩進み、ハニーブロンドの頭が少し下がったことに気がついた。



 シャルロットは初めての事態に驚いていた。

 すごい。

 お酒ってこんなに目が回ることがあるんだ。


 モヤモヤとした何かがお腹から全身に回って、これはもしかしたら酔っているのかも、と遅まきながら思う。

 転ぶのは何とか避けられた。


「シャルロット嬢、歩けますか」


 クリスティアンの声が遠い。

 それに、はい、と答えたが、彼に届いたかわからない。


「ホールを出るまで、もう少しです」


 視界がぶれて、どこを歩いているのか、自分が歩けているのかもわからないが、制服の腕に掴まる感覚だけが自分を支えていることは理解できた。



「わたし、酔っているみたいです」


 掴まっている腕が震えたので、彼が笑っているのだろう。


「思ったよりしっかりしていますね。気分は悪くないですか」

 はい、と頷く。

「抱き上げるのと、抱き抱えるのと、どちらがよろしいですか」


 言葉の音だけで考える。

 どう違うの、と、言ったのかもしれない。


 クリスティアンがまた笑う。

 この人、最初は無表情が服を着て歩いているようで怖かったけど、今はもうすごく可愛い人だわ。


「クリスティアン卿、お仕事を変えた方がいいのでは」


 あの人の下で働くのは辛そうだ。


 何度か角を曲がって、立ち止まり、クリスティアンが

「失礼」

と言ったすぐ後に、足元の抜けるような浮遊感に体が強張る。


 覚悟した衝撃が来なくて、不思議に見上げた顔がすぐ近くにあって、また驚く。


 彼は目線を落とし、ちらりと笑った。

「あの、」

「動いたら落とします」

 はい、と言うと、彼はゆっくり歩き出した。



 目の前で金の胸飾りが揺れる。

 見上げると、視線に気づいたのか、帽子で陰った黒曜石の瞳が横目でこちらを見て、また前を向く。


「少ないが人目はあります。顔は伏せておいでなさい」


 状況の理解が追いついて、途端に羞恥が先行し、シャルロットは両手で顔を覆ってクリスティアンの肩に頰を寄せた。


「ああ、可愛らしいな」


 しみじみ言う口調に恥じらいが強まる。

 しばらく耐えていると、徐々に聴覚の戻ってくる感覚。水の中から顔を出したような明瞭さが次の声を拾った。


「このまま連れ帰ってしまいたい」


 とてもクリスティアンの言とは思えず、呆気に取られて、ついまた見上げる。


「クリスティアン卿、酔っていらっしゃるの?」

「任務中に飲酒はしません」

「堅物とか朴念仁とか言われてらしたのに」

 ふふふ、と、揺れが全身に伝わっていたたまれない。

「近衛の中ではそうでしょう」

 では、一般的な堅物の範疇があるとすればそれには入りそうもない。


 赤い顔で目を剥くシャルロットに、クリスティアンは口元を寄せる。

「ようやく気持ちをわかっていただけたようで嬉しいです」


 全然堅物じゃない。

 詐欺の被害者のような心地でまた顔を覆うと、忍び難い笑いが響いた。


「名残惜しいがそろそろ到着です」



 車寄せには老齢の夫婦を中心にそこそこ人の姿があった。

 城の門衛や守衛、各家の運転手が入り乱れているが、雑多な感じはない。

 幾人かの衛兵が現れた上官に驚愕の視線を向けたが、彼は気にしなかった。



 奥まったベンチにシャルロットを丁寧に下ろし、自身は片膝を突いて向き合う。

「今は詳しく話せませんが、エドゥアルト殿下のことはそれほど気に病む必要はありません」

 トラウマになりそうな名前に、シャルロットの顔が固まる。

「もう、お会いしたくない」

 本当は、去るものは際限なく追いかけて、来るものは頑として拒むタイプの人間なのだが、クリスティアンは誤魔化した。

「それも、心配ないでしょう」


 シャルロットの手は膝の上で強く握られている。

 

 もちろん会話は聞こえなかったが、ダンスの間に垣間見えるシャルロットとエドゥアルトの表情から、彼女が精神的に嬲られているのは推察された。


 やりきれない気持ちと、救いに入れない焦燥感は、クリスティアンを追い立てていた。


 それもまた、彼の策略であるのは承知の上だった。


 力の入った手を握り、引結ばれている唇を反対の手でなぞる。

 不意を受けて揺れる翠の瞳に見入ったまま、頭の後ろに差し入れた手をくい、と引いて、顔を寄せた。



 それはほのかにワインのかおる、優しい口付けだった。



 見開かれた瞳は、彼女の受けた驚きの強さを物語っていたが、嫌悪は感じられなかった。

「お嫌でしたか」

 いえ、と、かろうじて口を出た言葉にクリスティアンは笑う。


 素直な人だ。

 この人といると笑ってばかりだ。


「では、もう一度口付けても?」


 身を起こし、両手を柔らかな髪の後ろに添える。


 返事は待たなかった。



 シャルロットが震える指で自分の肩口を掴む感覚が、甘い刺激になって全身を駆け抜けた。








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