緩急、そして夜へ
「…ゼン?」
なにくわぬ声色。
その様子に、固まっていた。
目の前に立つ母。
その様子は、いつもと何ら変わりなかった。
自身を「ゼン」と呼ぶ口調も、顔を見た途端に薄く微笑みかける癖も。
目に見える全てが、母が普通であることを知らせる。
——安心してしまった。
膝が崩れ、荒れていた呼吸が更に加速する。
いつの間にか、瞳からは雫が溢れ落ちた。
途端、その様子を見た母はその場にかがみ込むと、
「大丈夫?なにかあったの?立てる?」
優しい仕草。
そこに、不気味さの面影はなかった。
涙は、止まることを知らなかった。
それからしばらくして、涙が収まった頃、
「気が付いたらいなくなってたから、母さん心配したよ?どこ行ってたの。せっかくゼンの好きな料理だったのに」
「……は」
何気ない一言に、絶句してしまっていた。
その口調は、まるで全てを忘れてしまったかのよう。
見上げたオーゼンは、再び息を呑んでいた。
服の裾を指で遊ばせる。
母自身ですら知らない、嘘をつく時特有の仕草。
だが、見えた母はそんな仕草を微塵もしていなかった。
その瞳はただ真っ直ぐに、オーゼンの瞳を射抜いていた。
——聞き返す勇気はなかった。
狂気の笑みは、瞬く間にトラウマとなった。
脳裏にこびりつく恐怖が、声を喉へと張り付かせる。
そうしてオーゼンは、この事を誰にも話せないようになっていった。
しかし、ただ時間を浪費していたわけではない。
あの日のことをどこまで覚えているのか。
そして、どこからを覚えているのか。
母へと問いかけた回数は優に10を超えていた。
その全てが、同じ回答に辿り着いた。
「ゼンに呼びかけられた瞬間」、そして「扉を開く音が聞こえた瞬間」。
その全てに、嘘をついている様子は見えなかった。
朝日が巡るたび、あの日のことが幻のように、平穏な日常が訪れた。
——だからこそ、
「だから俺は、ニア。お前に依頼したんだ」
ずっと疑問を抱いていた。
“何故この街に住む誰かではなく、見ず知らずの自分へと依頼をしたのか”
その答えが、ようやく明確になった。
——恐れてしまったからなのだと。
頼れる者全員が信頼できなくなってしまえば、オーゼンは図らずとも孤立してしまう。
だから藁にもすがる思いで、見ず知らずの自身へと声をかけたのかもしれない。
短く息を吐いた。
続けてオーゼンへと目をやる。
「話はわかった。だが、泊まるって言うのは流石に危険じゃないか?」
「その気持ちもわかる。でも母さんが変になったのはあの一回だけで、その他はいつもの母さんと一緒なんだ。多分…この地面から聞こえる音の話、それをするのがダメなんだと思う。母さんの記憶も、その会話の一部始終だけ抜け落ちてた」
オーゼンの長い調査の末に辿り着いた結論。
その言葉が真実なら、「音」が能力発動のトリガーである可能性は何よりも高かった。
「…なるほどな。つまり俺はお前の話を聞いたことが原因で敵の攻撃を受けていた…。だとすれば、敵の効果範囲はこの街全域の可能性が高い、か…。はぁ、わかった、1日だけウミを頼めるか?」
改めて頼み込むニア。
だが、オーゼンは不思議そうに首を傾げると、
「なんでだ?ニアも泊まってってくれ」
わずかな沈黙が、場を取り巻いた。
やがてニアは慎重に口を開くと、
「…いいのか?」
躊躇いがちに問いかけた。
そんなニアへ、オーゼンはぐっと親指を立てると、
「まずまずの話、俺が引き留めてるのに放って野宿させるなんてできないからな」
オーゼンの眼差しに、笑みが溢れた。
「なら、すまないが俺も一緒に泊めてもらえないだろうか」
「おうよ、どんと任せてくれ!」
オーゼンは、母と2人で暮らしていた。
それ故に、家にはいくつかの空き部屋もあった。
しかし、オーゼンが自身の家を宿泊先として挙げたのには、別の理由があった。
「俺、幼い頃からずっと案内人やっててさ。言っちゃえば子供ながらに仕事三昧だったわけで、家に人を呼んだことがないんだ。親友って呼べるくらい仲良い奴はいるんだけどな」
事あるごとに母が口にしていた、「友達の1人でも連れてきなさい」という言葉。
耳にタコができるほどに聞いた言葉だが、その実申し訳なさも抱いていた。
「最近気づいたんだ。多分あれは、俺が心を休ませる場所を作れてるかどうか、心配だったんだろうな…って」
「なるほどな。だからお前の家なわけか」
「おうよ。休む場所も確保できて、母さんも安心する。これぞまさしく一石二鳥ってな!」
「ウミはそれでいいか?」
「にあといっしょならどこでも!」
「…お前の信頼は少し心配になるよ」
背負われ、うとうととしていたウミ。
ニアの言葉に反応するように目を覚まし、瞬く間に元気に返事を返す。
そんなウミに、ニアは若干の苦笑いを浮かべる。
「じゃ、さっそく行くか。こっちだ」
「こっちだ〜」
「眠いなら寝てて平気だぞ」
瞬く間に、ウミの勢いは弱まっていく。
その様子に微かに微笑んだニアは、ウミを寝かしつけようと、ゆっくりと歩き始めた。
家族団欒。
或いは兄弟のように見える3人は、オーゼンの家へと向かうのだった。
同時刻、——————にて、
「…戻ったか」
男がそう呟いた。
広い部屋の中心。
数十の階段を登った先の玉座に、男は腰掛けていた。
髪色すらが判別できないほどの暗闇。
その中で、呟く男の冷たい青い瞳だけが、視線の先で跪く眼帯の男を射抜いていた。
「して、例のブツは見当たらぬようだが」
「我が王よ。残念な知らせがございます」
「…ほう」
何処までも冷たい視線。
辺りの空気が、途方もないほどに張り詰める。
眼帯の男は動かない。
怯えることも、侮ることもしない。
ただ、目の前の男が命令を下すその瞬間を待っていた。
「許す、続けるがいい。“残念な知らせ”とはなんだ?」
「例の物は搬送途中、襲撃した男により略奪。その後オーグリィンへと潜伏したものと」
「…略奪?」
「はい」
「……」
男は、沈黙を貫いた。
考え込むように、微かに息を吐く。
やがて再び眼帯の男へと目をやると、
「まぁ良い。それで、かの3人はどうした?姿が見えぬようだが」
「おそらく襲撃した男に敗北したのち、逃走したものかと」
「敗北…それに逃走か…なるほど、ではもう用済みと言うわけだな」
ため息混じりに瞳を閉じた。
同時に、何気なく玉座の肘掛けを人差し指で3度叩いた。
微かな音が、静寂が取り巻く部屋の中で幾重にも反響する。
それでも、眼帯の男は動かない。
主の行動を肯定するように、静かに言葉を待つ。
刹那、瞳を開いた男。
玉座から立ち上がると、長い階段をゆっくりと降りていく。
コツコツという音が、部屋の中に響き渡る。
そうして階段を降り切った時、男は足を止めた。
「——主のことだ、余に嘘までつくと言うことは、余に徳をなす者と見越してのことだろう?」
「…見抜いておりましたか」
「見くびるな。余は王である。王である余が、主の変化に気付かぬわけがなかろう…まぁ、此度はその逆だがな。…しかし、オーグリィンか、また厄介な場へと逃げ込んだものだな」
その声色に、何が含まれていたのかはわからない。
「…仕方ない。余、直々に見てきてやろう。主の認めた人材とやらを」
男はゆっくりと歩き始めた。
部屋を後にした時、そこには眼帯の男と、冷え切った空気だけが残された。
——かの少年と戦い、そして敗走した3人は、人知れず命を終えていた。




