少女の名
森の中を駆けてしばらくが過ぎた頃——、
ふぅと短い息をこぼしたニアは、少女を地面へと下ろそうとその体へと手を伸ばす。
しかし、少女は今の体勢が気に入っているのか、ニアの服を強く掴んでいた。
「…めいわく?」
「いや、いいよ。気にするな。それより酔ってないか?」
ニアの言葉に、少女は伏せていた顔を上げると、
「だいじょうぶ、げんきいっぱい!」
屈託のない笑顔。
わずかに安堵し、連れてきてしまったことへの罪悪感が和らいでいく。
その時、少女は思い出したような表情を浮かべると、
「おにいさん、おなまえは?」
「セルニアだ。ニアとでも呼んでくれ」
「わかった!じゃあ、たすけてくれてありがとう!にあ!」
間髪入れずに向けられた、幼いながらの純粋無垢な笑み。
その様子に、先ほどまで悩んでいた自身を悔いてしまう。
そしてニアもまた少女へと意識を向けると、
「君の事はなんて呼べばいい?」
その言葉に、少女は迷うそぶりすらなく笑みを浮かべると、
「なんでも、でもなまえつけてくれるならそれがいちばん」
「つけるって…」
当然ながら、人に名前をつけた経験など一度もない。
だが少女はニアが名前をつけてくれる事を期待しているのか、その目をじっと見つめていた。
そうして逃げるように視線を反対へと向けた時、その視界にはあるものが映った。
「海…か」
どこまでも広がる青い海。
この世界へ来てからの初めての景色に、少女の翼を見た時と同等の感動を味わってしまっていた。
元の世界と変わらない海は、ひどく懐かしさを抱かせる。
だからこそ、ニアはふっと笑う。
続けて腕の中の少女へと目をやると、
「じゃあ、ウミって名前はどうだろうか?それとも安直だと嫌か?」
我ながら安直なネーミングセンスだと理解していた。
子供である以上、断られることも十二分にあり得る。
ニアは少女の顔色を伺うようにじっと見つめる。
だが少しして、沈黙を貫いていた少女は再びその顔を持ち上げると、
「ウミ!わたしウミ!」
「気に入ってくれたならよかった」
幾度目かの無邪気な笑顔に、頬を緩める。
名前をつけられた少女——もとい“ウミ”は、自らの名を忘れないようにとヒソヒソと何度も復唱していた。
途端、ハッとした表情を浮かべたニアはおもむろに地図を取り出すと、
「そういえば確かこのあたりに…」
「にあ、それなに?」
「ん?あぁ、見てもわかるかわからないけど、今俺はここを目指して歩いてるんだ。ここからこう歩いてきたから…今はこの辺りか?」
差し出された地図を見たウミは、「うーん」と首を傾げる。
直後、諦めたようにパッと笑みを浮かべると、
「わかった!いこ、にあ!」
先ほどから騒いでいるにもかかわらず、ウミには一切の疲れが見えなかった。
「…なぁウミ、街に寄ったら何か服でも買おうか」
「…!!いいの!?」
躊躇いがちな様子に、わざとらしく笑ってみせると、
「ダメだっていうと思ったか?俺はそんなにケチじゃないぞ」
「やった!」
「…それじゃ、何処かに出た時その場で衣類は買うとして、問題はそれまでどうやってその翼を隠すかだな…」
「じゃあこれ!」
「…それは?」
「なんかおめんみたい、つけたらつばさきえるってきいた」
「…聞いた?誰に?」
「んー…わかんないけど、ことばだけおぼえてるの」
嘘はない。
再びそう判断したからこそ、ニアは疑いを潜める。
同時に、ウミは背後へと振り向き、ガサガサと物音を立てる。
そうして振り向くと、
「どお!」
「これは…」
その顔には、黒いモヤのようなものがかかっていた。
顔全体を覆い尽くす影。
一度違和感として捉えてしまえば、明確な違和感となる。
だが不思議な事に、違和感として捉えなければ不自然なほどまでに顔の一部として馴染んでいた。
「…?」
変わったことはもう一つ。
先程までそこにあったはずの白い翼が、跡形もなく消えていた。
「すごいな、どうなってるんだ?」
「わかんない!でもウミじゃないひとがやっても、いみないみたい」
「そうなのか…不思議だな」
「ね、ふしぎー」
不思議そうに思考するニアへ、ウミは面を外すと躊躇いなく手渡す。
途端、なかったはずの場所に翼が現れた。
ーー仮面を付けると消える…?いや、見えなくなる感覚の方が近いのか
微かな重みだけを残す面。
両の目元には、蛇のように青い線が引かれている。
それ以外に、特徴と呼べる特徴は残されていなかった。
ウミのいう通り、ウミ以外が触れても“ただの面”としてしか機能しないようだった。
疑問に首を傾げる。
真似をするように、ウミもまた微かに首を傾げていた。
やがて諦めたように面をウミへと返すと、
「まぁ、とりあえず今はつけなくていいか。人のいる場所に着いたらつけよう」
「わかった!」
再び歩き出したニア。
その後もウミの元気が尽きることはなかった。
おかげでニアの脳内には、暗い思考はよぎらない。
やがて日は再び沈み、辺りに暗闇が訪れる。
そうしてまた朝が来た。
ウミはおんぶされた状態のまま、すうすうと寝息を立てている。
数日かけて通り抜けるつもりだった森。
それはウミの存在により、ニアを止まることなく歩き続けさせる。
足早に歩き進めたおかげか、食料は当初の予定と比べるまでもなく余っていた。
地図を見ながら、もう間も無く森が終わりを告げる事に安堵する。
ーー地図によればこの先にあるのは山岳地帯。
目的地はそのさらに向こうへといった場所…
いや、一歩ずつ着実に、だ
記した図を見ながら、山岳地帯を迂回するべく進行方向をずらしていく。
丁寧に書き写す余裕がなかったがために、鮮明には記されていない。
だが、その様子から見るに、どうやら山岳地帯の中央にも町らしきものが建っているようだった。
——そうして遂に森が終わりを迎えた。
ジンジンと痛む足と引き換えに、視界の先には微かな光が漏れ出す。
歓喜を隠しきれないように、ニアは足早に光の元へと歩き進め——。
「これは…」
景色に、ニアはつい目を見開いてしまっていた。
「…街…?」
そこには、セレスティアの景色ですら可愛く思えるほどの、人混みに溢れた町並みだけがあった。




