呪いの厄災
『ヲヲヲヲ!!!』
木々を薙ぎ倒す轟音。
燃える木々の匂いに、ニアは意識を覚醒させた。
「…っ!はぁ…はぁ…はぁ…!」
動揺に瞳は揺れ、呼吸は荒れる。
先ほどの出来事を思い出した事により、ニアは咄嗟に足元へと目をやる。
ニアはこの時、ようやく自身の体が誰かに支えられてる事に気づいた。
「気が付きましたか」
真隣から聞こえる、聞き馴染んだ声。
目覚めたニアへ一息をついたエリシア。
ニアを抱えたまま森の中を駆けていた。
ーーそうか、俺は気を失って…
エリシアの腕には、幾つかの傷が生じていた。
滲んだ血が、それが自身のせいで負ったものなのだと悟らせる。
「っ、先輩…」
息が詰まる。
視界に映る光景が、それが自分のせいなのだと突き詰める。
「すみません、先輩…俺のせいで…」
「いいえ、説明不足だった私の落ち度です。見た者を虚空の世界へと強制的に引き摺り込む力、奴を見るなと言ったのはこの力のせいです」
目を伏せ、エリシアは謝罪の言葉を口にする。
虚空の世界。
その説明に、ニアが今こうして生きている事実にも納得がいく。
だが、虚空の中で感じた痛みは本物だった。
ーー…虚空…、それに、例えその体の一端でも、一瞬でも視界に移したら終わり…おそらく虚空はパニブリカの意のままの世界、見た時点で勝ち目は消える…くそ、どうすれば…
見ることすら叶わない力。
それは、抵抗すら許されない絶対的な力であった。
その時、不意にエリシアは口を開くと、
「…それより、隠し石はこの先を真っ直ぐ行った場所です。お一人で行けますか?」
「一人で…って、先輩は?」
エリシアのその言葉の意図が、ニアにはわからなかった。
——わからないふりをした。
それは、その先口にする言葉を決定づけるもの。
分かっているからこそ、他の可能性を信じるように聞き返す。
——だが、
「奴を足止めします」
心が白く染まる。
それは、ニアが恐れていた言葉そのもの。
見ただけで終わりの、逃げの一手以外全てが禁じられた理不尽。
この一月をエリシアと過ごしたニアですら——否、過ごしたからこそ容認することはできない。
「なら…だったら、俺も一緒に…!!」
「いいえ。私一人で、です。必ず後で追いつきます。だからどうか、先に逃げてください」
振り絞って伝えられたその言葉。
それをエリシアは躊躇いなく切り捨てる。
「でも…!」
「どうか、私を信じてください」
——エリシアは優しく微笑んだ。
ニアを逃すため。
この場にいても、足手纏いになるため。
どちらの可能性も、ニアには理解できていた。
この一月にニアの目に見えたエリシアは、決して自分の命を軽んじる人ではない。
他者を助け、自身も助かる最善を常に選択し続ける人物。
だからこそ、
「っ…、分かりました、必ず後で合流しましょう」
「はい。ではまた後で」
変わらない涼しい声色。
それでも、その中にある決意をニアは確かに見た。
刹那、エリシアの駆けていった方向からは、パニブリカの咆哮が響き渡った。
ーー…行こう
迷いがなかったわけではなかった。
エリシアのその手は震えていた。
それでも、エリシアは迷わなかった。
だからこそ、ニアもまた先輩であるエリシアを信じることを選ぶのだった。
「…どうかご無事で」
ニアと別れた直後。
怪物が背後から迫る状況の中で、エリシアはそう呟いていた。
『ヲヲヲヲ…ヲヲヲ!』
直後、迫るそれは更なる咆哮をあげる。
辺りの草木はざわざわととどよめく。
積み上がった泥により成された、人よりも遥か巨大な姿をした怪物。
怨念の集合体であり、元来ここにいたはずのライハ達を生贄に呼び起こされた存在。
この場を去った少年——ニアは知らない。
あえて教えなかった。
伝えれば、きっと意地でも離れようとはしなかったから。
ニアが去ったことに、安堵の息をこぼす。
短い呼吸を繰り返す。
そうしてパニブリカの方へと振り返ると、
「…『呪い』の厄災パニブリカ。『永遠』の厄災アルクヘランの俗物として生まれた…ここに生きていた方々の怨念の集合体」
ニアへと伝えなかった、ただ一言の言葉。
同時に、世界が恐れる“最悪”にして“最恐”の怪物の総称。
「…そして、自身の姿を見た対象の意識を強制的に自身の世界へと堕とし、意のままに操作することのできる力」
ニアの体験した異常の、その実態。
見ることすら叶わない。
一方的な惨死だけが許される、絶対にして回避不可の呪いのような力。
遭遇した時点で大多数の者が生きることを諦め、自害の道を選ぶ。
——それほどの脅威。
「ふぅ…」
エリシアは目を瞑り、浅い呼吸と共に柄へと手をかける。
既に目前へと迫っている。
その距離は、手を伸ばせば届いてしまいそうなほど。
パニブリカの手が、伸びてくる。
——エリシアは刀へと手を添えた。
引き抜かれた刀は白く輝く。
それはまるで、極夜から光の全てを奪い取ったかのようだった。
そうしてエリシアはただ一言、小さく呟いた。
「黛」
瞬間、パニブリカの左半身は消し飛んだ。
伸ばした腕が消え、パニブリカはわずかに硬直する。
だが直後、消し飛ばされた箇所は新たに再生し始める。
見開かれたエリシアの瞳は紅く輝いている。
その瞳は、パニブリカを、悠々と見つめていた。




