状況は最悪へと
「…先輩?」
砕けた景色の先に映ったエリシア。
静かな瞳から一変。
ニアを見つけると同時に、表情には焦りが浮かぶ。
「ニアさん!やっと見つけた…!ひどい怪我…治療…いや、まずは撤退を…すみません。私が油断していたばかりに」
その声は、泣き出しそうにも聞こえた。
そんなエリシアの背後には、老人が倒れていた。
図らずとも幻龍師団だと分かる老人。
激しい戦いがあったのか、半径数十メートルの地形は薙ぎ払われている。
だが不思議とエリシアには一切の外傷が見えなかった。
「大丈夫ですよ…それより」
目をやるニア。
その目線を追い、エリシアもまた先に立つ人物の姿を捉える。
「…そうですね。あとは任せてください」
向けられたエリシアの瞳には、一切の容赦が含まれていなかった。
アングレインは、そんなエリシアをも気に留めない。
代わりに横たわる老人を見下ろすと、
「アララルエ…あれだけ大見得切ったくせに君もか…」
冷たい声色。
ルエアの時と同じく、吐き捨てる。
「気をつけて、先輩…。そいつは何か…何かわからないけど不気味な——」
「心配しないでください。私はあなたの先輩ですから」
笑みを向けるエリシア。
やがてニアを下がらせると、ゆっくりと立ち上がる。
その手は、柄へとかけられている。
「待ってくれよ、僕は危害を加えてなんて…」
「喋っていいと言った覚えはないですよ」
刹那、アングレインの身からは血が吹き上がった。
「何が…」
瞬きなどしていない。
にも関わらず、したのだと錯覚してしまうほどに一瞬の出来事。
響く鉄の音が、エリシアがそれを成したのだと理解させる。
アングレインは流れる血へと目を向ける。
だが、表情一つ変えることなく再びエリシアを見上げると、
「君ほどの実力があるなら…あぁ、君はよほどニア君を気に——」
「2回目です。次はありません」
再びその身からは血飛沫が上がる。
話す声は中断され、アングレインは遂に地面へと膝をついた。
「…はぁ」
エリシアの言葉に嘘はない。
それを知ったからこそ、アングレインは静かに横たわったままのルエアの方を指差す。
——そこにルエアの姿はなかった。
「っ!先輩!!」
光るナイフが、エリシアの背後に現れる。
振り抜かれた刃。
未だに存在に気づかないエリシアの元へ、容赦なく迫り行く。
「…なるほど」
——その刃は、エリシアへと衝突することなく宙を舞った。
エリシアは即座に身を翻し、迫るナイフは弾かれる。
武器を手放したことによりガラ空きになったルエアの胴体へ、躊躇うことなく蹴りを振り抜いた。
「———」
声は出ない。
代わりにその体は、幾度も地面を跳ねていく。
敵意が消えたことにより、エリシアはニアへと意識を向けると、
「先ほどの方は…?」
「幻龍師団の一人…のはずだったんですけど…」
自身が苦戦していた相手を当たり前のように制したエリシアへ、絶句してしまう。
その時、アングレインは不敵に笑った。
「油断とはいけないね。“まだ”だよ」
「次はないと言いましたよね」
短い言葉と共に、エリシアは再び柄へと手をかける。
「っ…!!」
「なにが…、いえ、これはまさか…」
——全身に不快感が駆け巡る。
エリシアはハッとしたように蹴り飛ばしたルエアの方へと目を向け、理解する。
「“再誕”だよ」
いるはずのその場所に、ルエアの姿はない。
代わりにそこには、先ほどまでなかったはずの泥のようなものだけが残されていた。
ゆっくりと、だが確実に何かを形作るように積み上がっていく。
同時に、エリシアは血相を変える。
ニアの手を掴むと、
「逃げましょう、ニアさん!」
「でもあいつは…、…いない…?」
アングレインの存在を危惧する。
だが、見えた視界に姿はない。
残されたのは“泥”と、2人の剣士だけ。
その時、エリシアは突如として掴んだニアの手を引くと、
「…っ、ニアさん、こっちへ!」
「!?」
“泥”から距離を取るため、一目散に駆けていく。
エリシアは、それがなんなのかを知っているようだった。
だからこそ、未だに状況を飲み込めていないニアへ、声だけを向けると、
「簡潔に言います。ライハの失踪は幻龍師団の者達の仕業でした。そして消えたライハとルエアと呼ばれた方は、今、パニブリカ…あの泥のようなものを生成するための材料として使われました」
「パニブリカ…?あれが…ライハ達なのか…?」
「一体どれほどの魂を注ぎ込んで…。いいですか、私たちの目標は今、調査ではなく、生きてここから出ることに変わりました」
「生きて…って、あいつはまだあんな場所に」
「見ないで!」
振り返るニアを、エリシアは制止する。
見たことのない焦りよう。
それだけで、只事ではないのだと理解できた。
逃げる2人の背後。
積み上がる“泥”は、既に4メートル程までに巨大な形を成していた。
その体に首はない。
——そうして“それ”は、動き始める。
「ニアさん、いいですか、何があっても絶対に奴を…っ!?」
「なんだ…!?」
咆哮が2人の背後から響き渡った。
空気を塗り替えた不快感に、思わず表情を歪める。
その時、エリシアは何かに気付いたようにニアへとその目を向け、
「ニアさ…」
振り向いたエリシア。
だが、それが何を伝えていたのかはわからなかった。
口の動きが、何かを「見るな」と言っていたように感じた。
だがそれは叶わない。
何故なら——、
『ヲヲヲヲ!!!!』
駆けるニア達の上空を、巨大な影が覆い被さった。
鼓膜を貫くほどの絶叫が、辺り一体を激しく揺らす。
姿は見ていない。
それでも、向けられる殺気に全身が絶えず鳥肌を立たせる。
「っ…!!」
直後、エリシアは再びニアの手を掴む。
そうして先ほど以上の速度で駆けていく。
「…ニアさん?」
——引かれた手に、力はない。
連鎖するように、ニアの体は呆気なく地面へと倒れ込んだ。
直後、エリシアはニアの身に起きたことを悟る。
そうして、小さな声を漏らす。
エリシアが手を引いたと同時。
ニアの視界には、伸びるパニブリカの腕が映り込んでしまっていた。
「ここは…?」
暗い森の中で、ニアの意識は覚醒した。
駆けていたはずの景色は一変。
視界の中からはエリシアの姿も、先ほどまで迫ってきていたはずのパニブリカの姿も消え失せていた。
辺りにあるのは、無造作に倒された木々。
その光景に、自身がいまだに極夜の中にいることを理解する。
「またアングレインの力…?…いや、それよりも先輩は…」
燃える木々の匂いは、変わらず肺にまとわりつく。
違和感を伝えていたのは、消えてしまったエリシアの存在だけだった。
——鼓膜の片隅で、空気を裂く音が聞こえた。
それは遥か上空から聞こえてくるよう。
釣られるように、上空を見上げたと同時。
「っ…!」
ニアの前方には、“何か”が落ちた。
全身が危険信号を送る。
絶えることのない不快感を味わせる存在。
辺りに飛び立った泥が、ニアの思考を肯定する。
「…パニブリカ」
衝撃により、原型すら失い潰れた姿。
それは瞬く間に動き始め、やがて再び積み上がり始める。
ーー先輩はこいつを見るなって言ってた。
でも、今起きてることから考えるに、俺はこいつを見てしまったと考えて間違いはないはず…
だとすれば、こいつの力は自身と対象の転移…?距離はわからないが、少なくともその予想が正しければまだこの極夜の何処かに先輩がいるはず…
なら今は…逃げるしかない…!!
焦る思考。
それでも、自分を失うことなく結論へと辿り着く。
その思考の中には、ある決定的な矛盾が含まれていた。
その矛盾に、ニアはまだ気づかない。
ーー考えろ、今俺がするべき最優先はこの場からの離脱。話はそれからだ…、なら!!
意識を集中させる。
駆け出す瞬間を探り、ジリジリと後方へと擦り下がっていく。
風が吹いた。
——刹那、ニアは駆け出す。
「…?」
踏み出したはずのニアの体は、不思議と地面へと倒れ込んでいた。
パニブリカは何もしていない。
積み上がる泥は、いまだ完成系とは程遠い。
だとすれば何が理由なのか。
それは、自身の足元へと目をやったことにより瞬時に理解する。
「…は?」
目に映ったのは、膝から下がなくなった自身の足だった。
鮮血が溢れ出る。
じわじわと体を上り詰める痛みという名の熱。
それを理解したからこそ、
「あぁぁぁ!!!!」
叫び声が上がる。
目は涙に濡れ、痛みに思考が掻き乱される。
ーー何が、何で…何をされた…?痛い、痛い痛い痛い———
溢れ出る血を止めようと、手を伸ばす。
「…は」
——腕は消え失せた。
吹き出した血が額を真っ赤に染める。
「っ…あぁぁ!!!!!」
思考が消える。
痛みだけが脳を支配する。
「なにが…なんで…!!」
声を荒げ、痛みを紛らわせる。
それすらも、意味を成さない。
残っていた片足は消え失せた。
絶叫が周囲に響き回る。
残っていた片腕もまた、消し飛ばされる。
浅い呼吸。
血溜まりの中に横わるニアの瞳は、何も捉えない。
そんな状況の中、ひどく冷静だった。
そうして、先ほど気付かなかった違和感の存在を知る。
ーー…ちがう、これは…今いるここは…
ルエアとの戦闘により、全身に刻まれたはずの傷。
いつの間にか消えた傷に、ニアはようやく今いるこの場所の答えへと辿り着く。
「…ぁ」
——視界が回転した。
全身の感覚は途切れ、一周した頭は地面へと落ちる。
脳が最後に捉えたのは、地面へと衝突する感覚だった。
そのニアの瞳に、光はなかった。
ニアの命は、静かに終わりを告げた。




