物語は絶望の中で
広い荒野の真ん中に一人の男がいた。
その姿は血に濡れており、傷だらけの手足には尽きることのない痛みが絶えることなく訪れる。
吹き抜けた風が、乾きかけてた血を引き攣らせる。
傷口が冷めるたび、その身がまだ生きていることを知らしめる。
——ニアは生きてしまった。
共に育った者達がいた。
物心がついた頃から、よくしてくれた人たちがいた。
そして——、
「なんで…一緒に生きようって約束したのに…」
——命をかけて守ると、誓った者がいた。
「…アリス」
いくらその名を呼ぼうと、返事が返ってくることはない。
腕の中から失われたアリスの重みが、アリスがもうこの世にいないのだということを嫌でも脳に理解させる。
ラインフィリアは滅んだ。
生き残ったのは自分ただ1人であり、他の誰も生きてはいないのだと。
——みんな、自分を逃すために死んでしまったのだと。
記憶に残るアリスの姿はもうどこにも無く、その声を聞くことも永遠に叶いはしない。
「みんな…」
名前を呼ぶ度に、思い出が剥がれ落ちていく。
潰れた声は誰の耳へと届くことなく宙へと霧散し、ニアが1人であることを再認識させる。
力なく呟き、涙に頬を濡らすニアの心情はもはや言葉では言い表せないものであった。
だがそれも仕方のない事だった。ニアは一瞬のうちに、自らの生きる意味を全て失ってしまったのだから。
「…待っててくれ、アリス。今俺もそっちへ行く」
生きる理由を失って、意味もなく魂をすり減らすくらいであればいっそもう——。
生きる意思はもはやニアには存在せず、そこに存在するのはただ理由もなく死を望む傀儡に他ならない。
現実から目を背けるように、ニアは自らの胸へと手を当て、自身の力を持って自身の命を終わらそうと力を込める。
深い考えはいらない。やれば終わり、多少の苦痛はあれど、これからの、罪を抱えて生きる人生よりかは幾分か楽だろう。
わかっていた。いくら考えないようにしようと底のない沼のようにその思考を塗り染めていく。
だが幾秒経っても、その力がニアの息の根を止めることはなかった。
『いつか、今よりももっと強くなったら…必ず、私を助けにきて』
それは自らが守らなければならなかった人が最後にニアへと託した願い。
そして、形見にして唯一無二の約束。
その言葉が、自責の念に押しつぶされかけていたニアの心をギリギリのところで引き止めたのだ。
彼女がどれほど今のニアの心境を理解してくれていたのかは定かではない。
だがもし、もし今のこの心境すらもを察し、わずかにでも生きる理由をと、この言葉を与えてくれたのだとすれば——。
「…わかったよ。今よりも強くなって、必ず君を助けにいく」
先ほどまでと変わらぬ弱々しい声で、男はそう呟いた。
胸へと当てていた手は力なく地面へと落ち、柔らかい感触の上で支えられる。
助ける方法も知り得ない、何をすればいいのかもわからない。残されたのは言葉だけであり、具体的な道標すら何処にも見つからない。
だがそれでよかった。
ーー…本当に、いつも君には敵わないな
たとえ叶えようのない、変えようのない現実なのであったとしても、ニアは託されてしまった。
いつものように軽い文句を言おうにも相手はこの場の何処にも存在しない。
「例え何を犠牲にしようとも、必ず君を救ってみせる」
だからニアは自分自身へ、そしてこの場にいない最愛の人へと誓ってみせるのだった。
弱々しい声は変わらず力無い現状を理解させる。 だがそこには先程とは違う、願いのために生きるという意思が宿っていた。
そうして傷だらけの手を強く握りしめた時、ニアはようやく辺りへと目を向ける。
「ここは…」
見渡す限り、一面の花が風に揺られていた。
名も知らぬ花々は、ニアなどその場に存在していないかのように飄々と揺れ続けている。
その先には、光を呑み込むほどの黒い森が広がっている。
見覚えのある景色は、どこにもない。
そうしてさらに視線を上げた刹那、ニアは息を呑んだ。
「あれは…壁?」
あまりに巨大なそれに、ニアは目を見開いていた。
山脈を切り取って並べたかのような壁は、天を支えるかのように高々と連なっている。
「…とにかくはやく誰か人を見つけないと」
ボロボロの体を無理矢理に起き上がらせ、ニアは一刻も早く人を探すべくその一歩を踏み出していく。
だが、踏み出した一歩が二歩目を生じさせることはなかった。
一歩目を踏み出した、その時だった。
”ピシリ“
軋むような音と共に、空に亀裂が走った。
ガラスを引っ掻くような不快な音が世界に鳴り響き始め、やがて太陽の浮かぶ空自体が砕け始める。
青空の断片が剥がれ落ちた時、その内側には光の届かない”黒“が覗いていた。
——心音が加速する。
これから起きるであろう最悪の現実を予想できてしまうからこそ、ニアは割れた空間から目を逸らすことを許さない。
瞬間、割れた空間の内側から一つの腕が伸びてきた。
黒く不鮮明なそれは、ニアが想像していた最悪の造形と一致しており——、
「…っ!!…なんで…何でお前がここにいるんだよ!!!」
アリスの力により、ニアはこの世界へと堕とされた。
故に、アリスの力が作用されなかった他の者達が、ニアを追うようにしてこの世界へと辿り着くことは決してない——はずだった。
刹那、ニアは冷静さを欠いたように空へと声を荒げる。
だが、それも全ては仕方がないことなのだと。
何故ならニアの見上げる先には、決してこの世界へと辿り着けるはずのない、”何か“がいたのだから。
そうして”何か“は、この世界に足を踏み入れたのだった。
——その異変を目にしていた者が、もう1人いた。
白い服を身につけた、150cmを超えるかという身長に、透き通るほどの白い髪をした少女。
その見た目は15歳ほどのまだ幼さの残った顔立ちをしており、瞳はルビーのように赤く輝いている。
そうして直前まで稽古に勤しんでいた少女は、刀を片手に目の前で巻き起こった異常に目を見開いていた。
背後に聳えた王都セレスティアの風景はいつもの変わらず、果てしなく広がる森も、肌を撫でる風も普段と変わりはしない。
だがそれでも、異常なのだと確信できるほどに明確に視界に紛れ込んだ違和感。
そうして少女は理解する。
割れた空の内側に、人ではない”何か“がおり、それが人が見てはいけないほどの存在であるということを。
そして佇む”何か“の足元に、全身に傷を負った男がいることを。




