物語は絶望の中で
「499…500…!…よし」
とある森の中で一人の少女が刀の特訓をしていた。
白い服を身に纏い、木刀を持ちながら毎日の日課である素振り500回を終えた少女は、疲れ果てながら苦労の終わりを口にする。
少女は透き通るほどの白い髪に、まるでルビーのような赤い目をしており、15歳ほどの少女だった。
汗を拭き、はぁはぁと己の苦労を身に感じながら空を見上げた少女。だが映ったその光景に、少女は信じられないものを見たかのように目を見開いてしまう。
当然だろう。何故なら少女の視界に映った空は馴染みのある青く澄んだものではなくなっていたのだから。
否、他の全ては変わらず馴染みのあるものだった。ただ一箇所、——ガラスのように割れているその空間を除いては。
「…人…?」
起きてしまった現実に目を見開いた少女は、不意にその視界の先に何やら影のようなものを発見した。
それは一見すれば人のような形をした影であり、その違和感にさらに疑問を抱いた少女は、抱いた疑問を解決するべくさらに目を凝らしていく。
そうして同時に少女は理解する。見つめる視界の先、そこに存在する影が、『見てはいけない』何かなのだということに。
だがその時にはもう遅かった。
少女が目を逸らそうと行動を起こしたその瞬間、不意に“何か”の立つ空間はまるでノイズのように歪み、
「…!?」
瞬間、目線が交わった。
気のせいではない。先ほどまでこちらの存在に見向きすらしなかったそれが、今確実に少女へと目を向けていた。
心拍が加速する。まるで精神が現実から目を逸らそうとしているかのように世界から音が失われ、加速する心音だけが鼓膜に反響していく。
そして同時に少女は理解する。それが——、今もこちらを見つめるそれに向ける一挙手一投足が、自身を死へと導く行為であるのだということを。
震える足は立っていることすらがままならないと言わんばかりに地面へと倒れ込み、荒くなった呼吸がその場に長くいることの危険性を反応へと語りかける。
逃げないと…
恐怖に震える足を持ち上げ、少女は“何か”とは反対の方向へと逃げるタイミングを図るべく軽い深呼吸を幾度となく繰り返す。
チャンスは一度のみ。タイミングをわずかにでも間違えれば訪れるのは『死』だと、少女は理解していた。
何かは変わらずこちらへと目を向けており、だが不意にこちらから目を逸らしたその瞬間、
今…!!
駆け出した足は地面を踏みしめ、体を前方へと送り出そうと模索する。
だが踏みしめた足が、2歩目を踏み出すことはなかった。
気づいてしまったのだ。逃げ出そうと足を踏み出したその瞬間、自ら少し先へと歩んだ箇所にある荒野に人の影があることに。
そしてその人が血だらけなほどボロボロに傷ついており、“何か”もまた、その人の存在に気づいていることに。
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広い荒野の真ん中に一人の男がいた。その姿は血に濡れており、失われていない手足もまた尽きることのない痛みを男の体にもたらしていた。
微かな風が吹き抜けるたびに乾く血が不快感を体にもたらし、同時に吹き抜ける風を体が感じるたびに、男に耐え難いほどの絶望が襲いかかっていた。
男——ニアは生きてしまった。
共に育った者達。物心ついた時からよくしてくれた人達。そして——
「なんで…一緒に生きようって約束したのに…」
命をかけて守ると誓った者の犠牲の上に。
力なく呟き、涙に頬を濡らすニアの心情はもはや言葉では言い表せないものであった。
それも仕方のない事だった。ニアは一瞬のうちに、自らの生きる意味を全て失ってしまったのだから。
「…待っててくれ、アリス。今俺もそっちへ行く」
生きる理由を失って、意味もなく魂をすり減らすくらいであればいっそもう——。
生きる理由はもはやニアには存在せず、そこに存在するのはただ理由もなく死を望む傀儡。
そうして生きることを諦めるようにニアは自らの胸へと手を当て、自身の力を持って自身の命を終わらそうと力を込める。
深い考えはいらない。やれば終わり、多少の苦痛はあれど、これからの、罪を抱えて生きる人生よりかは幾分か楽だろう。
わかっていた。いくら考えないようにしようと底のない沼のようにその思考を塗り染めていく。だが幾秒経っても、その力がニアの息の根を止めることはなかった。
『いつか、今よりももっと強くなったら…必ず、私を助けにきて』
それは自らが守らなければならなかった人が最後にニアへと託した願い。そして、形見にして唯一無二の約束。
その言葉が、自責の念に押しつぶされかけていたニアの心をギリギリのところで引き止めたのだ。
彼女がどれほど今のニアの心境を理解してくれていたのかは定かではない。だがもし、もし今のこの心境すらもを察し、わずかにでも生きる理由をと、この言葉を与えてくれたのだとすれば——。
「…わかったよ。今よりも強くなって、必ず君を助けにいく」
先ほどまでと同じ弱々しく男はそう呟いた。
胸へと当てていた手は力なく地面へと落ち、柔らかい感触の上で支えられる。
助ける方法も知り得ない、何をすればいいのかもわからない。残されたのは言葉だけであり、具体的な道標すら何処にも見つからない。
だがそれでよかった。
本当に、いつも君には敵わないな
たとえ叶えようのない、変えようのない現実なのであったとしても、ニアは託されてしまった。いつものように軽い文句を言おうにも相手はこの場の何処にも存在しない。
「例え何を犠牲にしようとも、必ず君を救ってみせる」
だからニアは自分自身へ、そしてこの場にいない最愛の人へと誓ってみせるのだった。
弱々しい声は変わらず力無い現状を理解させ、だがそこには先程とは違う、願いのために生きるという意思が宿っていた。
そうして傷だらけの手を強く握りしめた時、ニアはようやく辺りへと目を向ける。
「ここは…」
ニアはそこで初めて、自らが荒野の真ん中にいることに気づいた。
辺りには何もなく、ただ一面に花が咲き誇っており、そうしてその先には光すらが漏れ出さないほどの暗い森が聳えていた。
「あれは…壁?」
そして続けて呟いたニアの目線の先には、雲へとかかる勢いで、否、雲を突き抜けるように立ち並ぶ巨大な壁があった。
それは優に数キロはあるであろう巨大な岩石のいくつもが並んでいるようであり、あまりに見慣れないその光景にニアはわずかに驚きを覚えてしまう。そして、
「とにかくはやく誰か人を見つけないと」
ボロボロの体で痛みを堪えつつ何とか立ち上がり、人を探すためにその一歩を踏み出した瞬間、
ニアの背後、上空で太陽と重なるように空間にヒビが入り、そして割れるように崩れ去る。
そしてそこから出てきたのは、
「…っ!!…なんで…何でお前がここにいるんだよ!!!」
瞬間、ニアは冷静さを欠いたように空へと声を荒げた。
だが、それも全ては仕方がないことなのだと。何故ならニアの上空、向けられた割れた空間の元には、自らの最愛の人を手にかけた”何か”がいたのだから。