宰相アスガープ01
グリーティアが眠るのを見届けてから、ベルは彼の部屋を出た。
扉の横にはレチェットが立っていた。レチェットは二人のやり取りを最後まで見た後、ベルがグリーティアを彼の部屋まで連れていくのに同行した。さすがに空気を読んだのか中までは入らなかったが、出てくるのを待っていたらしい。
「貴女、自分が何を誓ったのか分かっているのぉ?」
小首を傾げるレチェット。ベルは小さくため息を吐いた。
「分かっているつもりだよ。……私の王……グリーティア様は彼だ」
扉を振り返る。耳をすませると小さな寝息が聞こえてきた。さすが、獣人の聴覚である。
「わたしはそれだけじゃないと思うのだけれどぉ……いいわぁ。貴女には早いのかもしれないしぃ。いずれにしてもぉ、わたしの王は彼の王、魔王グリーティア様ですものぉ」
レチェットはいつもの調子でにっこりと笑った。ベルは笑う気も起きず肩を落とすばかりだった。
後戻りできなくなってももやもやした気分のままだ。子魔王を己の手で魔王にすること、グリーティアと呼ぶことを決心したはずなのに、いまいちすっきりしない。決してグリーティアの力になりたくないなどというわけではないのだが、これでいいのかと問うてしまう。自信がないのもしかり。またやってしまったという後悔もしかり。
「浮かない顔はやめなさいな」
いつの間にか下がっていた顔を上げると、鼻先にレチェットの人差し指がくっついた。ぱた、と猫耳が動いた。
「貴女が若様の最初の女なのよぉ?」
ベルは目を細めて「語弊のある言い方をするニャ」と言い返したがレチェットは無視した。
「一生傍にいろとも言われたのよぉ。それってつまりぃ、若様が貴女を手放す気はそうそうないってことなのよぉ? 羨ましいわぁ。わたしもそれくらい必要とされたぁい!」
少しだけ口を尖らせるレチェット。ベルは「そんニャ良いもんじゃニャい気がする」と漏らしてから、ふと思った。
「……どうして急に、若……グリーティア様はあんなことを言い出したのかニャ。訓練の後ちょっと落ち込んでいるようではあったけど、落ち着いて帰っていったはずニャのに」
気持ちの整理がつかなくて引っかかっていたとしても、その日のうちに再び落ち込むことはなかなかない気がする。それも堪えた涙が思わず流れる程だ。何かきっかけがあったとしか考えられなかった。
「きっと鉢合わせしたのよぉ。それで何かあったんじゃなぁい?」
「鉢合わせ?」
ベルはレチェットに視線を合わせた。
「えぇ。若様はねぇ、お休みになる前に必ず王妃様のところへ行くのよぉ。その日あったことを話しているみたいなのぉ。可愛いわよねぇ。若様はぁ、鉢合わせしないように時間をずらしているみたいだけれどぉ、時々被ってしまうのよぉ。今日は被ってしまったのねぇ」
「被るって、ニャにと?」
眉を寄せるベル。レチェットは回りくどい言い方をする。
「王妃様に会いに行っているのはねぇ、若様だけじゃないのよぉ。魔王様も会いに行っているの。たぶん今日は魔王様と鉢合わせしちゃってぇ、何かあったんじゃないかしらぁ」
ベルは唇に手を当てた。
あり得る話だ。人が落ち込むときは他人が絡んでいることが多い。今回のように泣くほどのことならなおさら他人が絡んでいる。それが父親なら頷ける。
もし、本当に父親である魔王に何かを言われてグリーティアが泣いていたのなら放っておくわけにはいかない。なんたって可愛い教え子が泣かされたのだ。
廊下の奥を睨む。この階の突き当りが魔王の部屋だ。確かめるには行くしかない。
ベルは足を踏み鳴らす勢いでずんずん歩いていった。呼んでもいないのにレチェットがついてくる。
「どこへ行くのぉ?」
「まずは情報収集! フランウィーネ様のところだ!」
ベルは子魔王の隣の部屋に立ち、扉をノックした。
「ベルです。よろしいですか?」
「えぇ。どうぞ」
返事を聞くとベルはすぐさま部屋に入り、フランウィーネのベッドの脇に立った。フランウィーネはベルが怖い顔をしていることに気づいて小首を傾げた。
「フランウィーネ様、お聞きしたいことがあります。先程若様の様子がおかしかったのですが、心当たりはありませんか?」
フランウィーネは息を吸いこんだが、言葉にするのを躊躇った。しかしベルの真剣な表情を見て口を開いた。
「……あるわ」
「教えていただけませんか?」
フランウィーネはえぇ、と頷いた。
「ここで、いつものようにあの子が私に今日あったことを話してくれていた時よ。なかなか空間移動魔法がうまくいかないというようなことを話していたら、あの人が来たの」
「魔王様が若様にニャにかしたんですか?」
フランウィーネは首を振った。
「いいえ、何も。少なくともあの人は何もしていないつもりよ。あの人はあの子に話しかけたり、何かしたりすることはほとんどないの。……まるでいないもののように扱っているから……」
「そんニャ……」
ベルは思わず声を漏らしてしまった。罵ったり手をあげたりすることはもちろん悪いことだが、いないもののように扱うのもおかしい。
「それで若様はショックを受けたんでしょうか? 人に……それも実の親に無視されるのは堪えると思いますが、あんニャに取り乱すとは……」
「続きがあるの」
フランウィーネは自分の手元を見ながら困ったように笑っている。ベルは口を閉じて続きを待った。
「あの子の話をあの人も聞いていたみたいで、あの人、部屋に入ってくるなり言ったのよ。『空間移動もできぬとは全く不甲斐ないにもほどがあると思わぬかフランウィーネ。次期魔王ともなれば、すでに全ての魔術を使いこなしているはずであろう。そうでなければただの凡人、俺とお前の子ではないわ』と」
「にゃっ!?」
「あの人は私に言ったつもりよ。あの子に言ったつもりはないの……聞かせるつもりで言ったのでしょうけど」
悲しそうに笑うフランウィーネ。ベルは衝撃で口が開いたまま固まってしまった。言葉も上手く探せない。
「それで……若様は……?」
「走って出ていってしまったわ」
「……フランウィーネ様はニャにか魔王様におっしゃったのですか?」
「……そんなことはないわとだけ……。だめよね。もっと強く言わないといけないのに言えないの……。あの人の言わんとすることも分かってしまうから……」
「分かりませんよそんニャの! 子どもがいる前で自分の子じゃニャいって言う親がどこにいるんですかっ! おかしいですよそんニャのっ!!」
思わず叫んでしまってから我に返り、ベルはバツの悪そうな顔をした。感情が高ぶって責めるべき人ではない人を責めてしまった。
フランウィーネは何も言わず、優しいけれど今にも泣きそうな顔で微笑んでいた。
「すみません、フランウィーネ様。貴方に当たるようニャことを言ってしまって……」
「いいのよ。あの人とあの子の仲を取り持てない私が悪いの。……だから、あの人を責めないであげて。あの人をこれ以上苦しめないであげて」
ベルの手を取り、両手で握るフランウィーネ。しかしベルは納得できなかった。
「……違いますよ、フランウィーネ様。今辛いのは若様です。若様を苦しめニャいでと言われるニャら分かりますが、魔王様を苦しめニャいでと言われるのは分かりません」
ベルには分からない。人を苦しめる言葉を吐く側の人間の気持ちが。口から出してしまったらもう撤回できないことを知りながら、相手を傷つけることを言う人間が分からない。その人間にどんな事情があり、苦しんで言葉を吐いているのかは関係ない。どうしたってベルは言われた側の人間のことを思ってしまうのだった。
「フランウィーネ様がおっしゃれニャいニャら、私が魔王様に申しあげます」
ベルは冷たくて弱弱しい手を振り払い、部屋を出ていった。
フランウィーネは眉を下げた悲しい笑顔でベルが出ていった扉を見つめた。
「……貴方にもいずれ分かるわベル。貴方はとても優しいもの。だから、あの人の優しさにも気づくでしょう」
呟いたフランウィーネの声は、彼女の部屋の前で立ち聞きしていたレチェットにも聞こえず、闇の中に消えるのだった。




