魔王グリーティア12
二人は同時に大浴場を後にした。合わせたわけではないのにほとんど同時に着替え終わったのである。ちなみにレチェットはいつもの黒いドレスを着ている。
何故か隣に並んでレチェットが歩いているが、ベルは何となく追い払うこともできずにそのまま一緒に歩いた。会話はない。どこか気まずい空気が流れているのはベルが警戒しているからだろう。
何事もなく、また会話もなく、二人は三階についた。
ベルはすぐに自分の部屋の前に人が立っていることに気づいた。珍しい人物だった。
「若様?」
声をかけると、下を向いていた子魔王が顔を上げて駆け寄ってきた。
「ベル!」
「どうしたんですか? もうお休みにニャられたのでは?」
この時間帯の子魔王はすでに自室で休んでいるはずである。それがどうしてこんなところにいるのかとベルは首を傾げた。
「ベル! 貴様、俺に父様を凌ぐ技を身につけさせてやると言ったな!? それに偽りはないか!」
子魔王が叫んだ。
ベルは目を大きくして少しだけ躊躇った後、喉に詰まりかけた言葉をゆっくりと溶かしていった。
「……はい、若様。嘘ではありません。全身全霊で若様の指導にあたります」
「ならば今すぐ身につけさせろ! 今すぐだ! 俺は、強くならねばならぬ! 父様を越えなければならぬ! 今すぐに!!」
風呂の中でさんざん考えたことを何とか当たり障りのない言葉にしたのに、子魔王は聞いているのかいないのか喰い気味で返してきた。それも必死に訴えるように。ただ事ではないと気づいたベルは膝を折り、目線を子魔王と同じになるまで下げた。
子魔王の目には涙が溜まっていた。
「どうしたんですか若様? 力を身につけるにはどうしても時間がかかります。今すぐは無理ですよ。そのお話はしたはずではありませんか?」
訓練の終わりにその話はしたはずだった。子魔王の手を取ってベルが何とかしてやると言ってしまったあの時に。
子魔王はその時は引き下がってくれたはずだ。もしかしたら納得まではできていなかったかもしれないが、何も言わずにアスガープと自室へ戻っていった。それで一旦落ち着いたはずなのに、どうしてまたその日のうちに蒸し返してきたのだろうか。
「いつかでは遅いのだ! 俺は、俺は……! もっともっと強くならねば……! 父様を納得させるまで強くならねば……! 母様も、守れぬ!」
瞬きすると潤んでいた瞳から涙が零れた。一粒零れてしまうと止まらなくなってしまったのか、子魔王の大きな瞳から次々と涙が落ちてきた。
「どうして俺は……弱いのだっ! どうして俺は空間魔法の一つも満足にできやしないのだっ! どうしてっどうして俺は、父様のようになれないのだっ。俺のような存在があってはならぬ……俺のような出来そこないは必要ないのだ……」
嗚咽を漏らしながら子魔王は涙も拭かずに吐き出した。
ベルは頬を叩かれたような気分だった。
どうして、と己の無力を嘆き、まだ十にもなっていない子どもが絶望している。そんな必要はどこにもないのに。
ベルはこの子が十分頑張っているのを知っている。訓練を休んだことはなく、遅れてきたこともない。それだけでなく、この子が隠れて訓練をしていることをベルは知っていた。フランウィーネが話してくれたのだ。自分の部屋でベルがあげた道具を使って魔術を練習しているようだと。時々悔しそうな声が聞こえてくるのだそうだ。彼女は楽しそうに話してくれた。
努力しているのにできないのは仕方がない。努力不足ならいくらでも叱咤してやるべきだが、この子の場合はそうではない。もう十分できることはやっているのだ。この子ができるようになるのに必要なのは時間だ。大人はそれを教え、少しずつ努力すればやがてできるようになるのだと安心させてあげなければならない。それをこの子どもは誰にもしてもらえなかったのだろうか。そればかりかできないことを謗られたのか。
ベルの腹の底に何かが湧いた。
「若様。落ち着いてください」
ベルは子魔王の両肩に手を添えた。
「若様は頑張っていらっしゃいます。ベルには分かります。もっともっとと、理想が高いことは良いことです。でも自分を追いつめすぎるのは良くありません。今日は休みましょう若様。ゆっくり身体を休ませて、明日からまた頑張りましょう」
「だが……!」
ベルは子魔王を抱き寄せ、何も言えないように顔を胸に埋めさせた。子魔王は驚いた顔をした。
「今はちょっと不安定にニャっているだけです。大丈夫です。一度眠ってしまえば気分も晴れますに大丈夫。ベルに任せてください」
頬を頭にくっつけ、ぽんぽんと一定のリズムで背を叩いてやる。すると落ち着いてきたのか鼻をすする音が聞こえて、子魔王がぎゅっとベルの服を掴んだ。
「……俺は強くなれるのか? 俺は父様に認められる存在になれるのか?」
顔を上げて問いかける子魔王。
「ニャれますよ。ベルがそうさせます」
ベルは頷いた。
「……今すぐはできぬのか?」
「それはできません」
「……何故、思い通りにならぬのだ。俺は魔王に……王になる身だというのに、何故思い通りにできぬ……」
服を掴む子魔王の手に力が入った。
ベルは少しだけ天上を仰いで答えを探した。
「……王様は全てを思い通りにできるから王様にニャるわけじゃニャいからでしょうか」
身体を離し、子魔王の青い目を覗き込みながら続ける。
「王様には全てを思い通りにしてくれる存在がいるから、王様が全てを思い通りにできるだけです。どんなに優れた力を持っていたとしても、個人でできることは限られています。王様にはそれを補う存在がいるからニャんでも思い通りにいくだけニャんでしょう」
「俺にはそんな存在もない。そんな存在を惹きつける能もないのか……」
ベルは首を振った。
「そんニャことありません若様。少ニャくとも若様には努力の才能があります。覚えていますか? 努力の才能とはどういうことをいうのか」
「……どんなに辛くても諦めずに続けられることだ」
ベルは頷いた。
「そうです。よく覚えていましたね若様。若様は努力の才能もあるし賢いです。そういう人を応援したくニャる人は少ニャくニャいですよ」
「……貴様はどうなのだ、ベル。俺についてこようと思うのか」
「私は……」
言葉が途切れた。
青い目が怖いくらい真っ直ぐに自分を見ていることに気づいてしまった。
瞬間、ベルの心臓がドクンと音を立てた。魔王に会った時に感じた、心臓を鷲掴みにされたような感覚がする。
「貴様は俺を王にするのか」
青い瞳が強く言い放つ。先程まで泣いていたはずの瞳が強い意志を持ってベルを見つめ返している。
聞かれてすぐには言葉が出なかった。返答次第で己の立ち位置、これから先の未来が決まると思ったからだ。ここではいと言ってしまったら、もう後戻りできない気がする。
「答えろベル。貴様は全てを思い通りにしてくれるのか。……俺を最後まで見捨てぬのか」
(あぁ、ずるい……)
最後にじわりと滲んだ彼の不安で心細くて仕方がないという感情にぐらりと心が揺れた。単純に、この子を守りたいと思ってしまった。
ベルはその場に片膝を突き、首を垂れた。
「……はい。私が貴方を魔王にいたします。……グリーティア様」
指先が震える。ベルは自分が重大なことを言ってしまったことに気がついていた。
「顔を上げろ、ベル」
頭の上に降ってきた指示に顔を上げると、口の端を上げて満足そうに笑うグリーティアの姿があった。
癖のない黒の長髪に、真っ白な肌。黒い眼球の中に青い瞳が埋め込まれていて、頭からは先端が青く根元は黒い鬼のような角が生えている。
王の姿だ。
「その言葉、信じるぞ。ベル、貴様は俺の傍で一生俺を支えるのだ」
グリーティアが白い手を伸ばし、ベルの顎を撫でた。
「はい。仰せのままに」
ベルは軽く目を閉じた。
もう、戻れない。




