魔王グリーティア10
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「今日は私の勝ちですね」
「かくれんぼとやらは鬼ごっこよりも難しい」
子魔王は壺から這い出しながら呟いた。
幾何学式庭園のいたるところに大きな壺が置かれている。それはベルが魔術訓練かくれんぼのために用意したものであった。
魔術訓練かくれんぼのルールはこうだ。用意された壺の中に空間移動魔法で移動して隠れ、鬼に気づかれないよう中から壺の蓋を開けられれば勝ち。開けられなければ鬼の勝ち。壺から壺へは行き来自由で、蓋が押さえつけられていて出られなければ別の壺へ移動して蓋を開けても良い。かくれんぼにモグラたたきの要素も盛り込んだ遊びである。
この日はベルが鬼で子魔王が隠れる役だった。まだ見えないところへ正確に空間移動することができない子魔王は近くの壺に飛ぶことしかできない。そのためベルに移動パターンを読まれ、ことごとく蓋を押さえられてしまったのであった。ちなみに子魔王流鬼ごっこと同じようにこの魔術訓練かくれんぼの鬼も勝ったら噛みついて良いことになっている。
「……噛むのか?」
負けた子魔王はどこか不安そうにじっとベルを見上げた。ベルは身を屈めてにかっと笑って見せた。
「ルールですからにゃ~」
ベルの鋭い犬歯が光る。子魔王はひるんでぎゅっと目を閉じて唇を結んだ。
「次は勝てるように頑張りましょう」
ベルは子魔王の小さな角を唇で挟んだ。子魔王は目を大きくして驚いた様子だった。
「痛くしないのか?」
「痛いのは嫌です。する方もされる方も」
優しく微笑むベルへ子魔王はおもむろに手を伸ばした。真白な色のない手がベルの黒髪と首の間に差し込まれ、肌を撫でる。子魔王の体温が冷たくてぴくりと猫耳が動いた。
「痛いのは嫌か?」
小さな指が行ったり来たりして何かを探している。ベルは子魔王が昨日の噛み痕を探しているのだと気づいた。
「嫌ですよ。……でももう昨日のは治った(ニャおった)から許してあげます。今回だけ特別ですよ」
「……そんなに早く治るものなのか?」
「獣人だからか、目に見える傷ニャらすぐに治り(ニャおり)ます」
「そうか」
言って子魔王は手を下げた。それからにやりと笑って言ったのだった。
「次はすぐに治らないようにしてやろう」
「酷いニャ! 今の流れ(ニャがれ)ニャら優しくするって話じゃニャいの!?」
「ふはは! そんなことを俺が言うわけなかろう! ベルは能天気だな! ふふふ」
ベルが咄嗟に抗議すると子魔王は可笑しそうに声を上げて笑った。子魔王が声を上げて笑うのを初めて聞いたベルはなんだか嬉しくなってしまって怒りを忘れた。
これまで嬉しくても目をキラキラさせるだけで少しも表情を変えてくれなかった子魔王が笑っている。年相応の表情で、楽しそうに笑っているのである。
「優しくしてほしいなら懇願しろ。そうしたら優しくしてやる」
口から出てくる言葉は相変わらずキツイ。それでもにっこり笑った顔が可愛らしくて、ようやく心を許してくれたような気がして、ベルは嬉しかった。
「……私が負けなければ良いってだけの話です」
ベルは立ち上がって歩き出した。
直にアスガープが子魔王を迎えに来る時間だ。
「そう言っていられるのも今の内だけだ。すぐに泣きを見ることになる」
子魔王は上機嫌でベルの後をついていった。表情が明るく、わずかな笑みを浮かべている。しかし、庭の段差を上ったところで何かを見つけた子魔王はすっと顔に灯した笑みを消してしまった。
青い瞳がすっと細くなり、何かを睨んでいる。ベルが子魔王の様子に気がついてその瞳の方を見ると、黄緑の髪の少女マニラが花壇の前で屈んでいた。マニラは二人の視線に気がつくと飛び上がり、一目散に逃げていった。
ベルは逃げていくマニラから子魔王のつむじに視線を移した。
「女の子には優しくしニャいといけニャいですよ」
「あれを女と思ったことはない」
子魔王は吐き捨てるように言った。
「あれじゃニャくてマニラちゃんです。どうしてそんニャに敵意剥き出しにニャんです?」
ベルは子魔王を覗き込もうとしたが、子魔王は歩いていってしまった。仕方なく、子魔王の一歩後を追う。
「あれは俺を監視しているのだ。アスガープにでも言われているのだろう。魔術訓練の間、ずっとこちらを見ている」
(ふぅん。一応そういう目線には気づくのか)
マニラの視線にはベルも気づいていた。
実はベルが魔術教師になった初日からマニラはこちらを監視していた。特に敵意も感じず、また庭師の小屋に出入りして二言三言話をするようになって悪い子ではないということが分かったので無視していた。しかしアスガープの差し金であるとなると事情が変わってくる。
(初日に庭を半壊させた時、すぐアスガープが飛んできたのはマニラちゃんが教えたからかな)
マニラがアスガープの命で動いているのならそれも有り得る。あんな子どもを利用するだろうかと思ったが、すぐに撤回した。昨日ギネに忠告されたばかりだ。ここは魔王城。様々な策略と陰謀が渦巻くところなのである。子どもでも使えるものは使うだろう。
(でも……)
ベルにはマニラがこちらを見ている理由について別の理由が思い当たった。
「若様。女の子とお喋りしたことはありますか?」
「何故そんなことを聞くのだ」
子魔王は鬱陶しそうな顔をして振り返った。
「マニラちゃんが若様を見ているのは、ひょっとしたら別の理由ニャんじゃニャいかと思ったから聞いたんです。それで、若様。社交界とかに出ることもあるでしょう? 女の子とは話す(はニャす)んですか?」
「勝手に近寄って来たやつとそれなりに会話する程度だ」
もう一度同じ質問をすると子魔王は吐き捨てるように答えてくれた。どうやら子魔王にとってはあまり楽しいことではないらしい。しかし、それで何となくベルには察しがついた。
「ふぅん。さすが若様ですね。女の子も放っておかニャいってことか」
つまり子魔王がモテるということに尽きるのではないか、とベルは思ったのである。
「やつらが何を考えて俺に近づいてきているかくらいは分かっている。皆俺の地位に興味があってのことだろう」
ベルはそれだけじゃなさそうだと思ったが言わないでおくことにした。
子魔王は美少年である。どこぞの王子などという肩書きがなくとも、この美貌なら子どもであっても女の子には困らなそうだった。さすがに子どもだからか自分の美貌に気づいていないらしい子魔王にはそのままでいてほしいような気がして、言うのが憚られたのであった。
「まぁ、それについてはニャんとも言えニャいですが。私の言いたいことは、マニラちゃんもそういう女の子たちと一緒かもしれニャいっていうことですよ」
「やつらとあれが同じ?」
眉を寄せて怪訝な顔をする子魔王。ベルは「そうです」と頷き、マニラがいた花壇の前で屈んだ。
「これはみーんニャ、マニラちゃんが面倒を見ているお花です。花を大切にできるんだから、そんニャに悪い子じゃニャいと思います」
赤や黄色に白。色とりどりの花には一つも元気のないものはなく、どれも生き生きと咲き誇っている。ベルはマニラに対して毎日細かく行き届いた庭の手入れをする勤勉で心優しい少女、という印象を持っていた。アスガープの孫という話を聞いてからもその印象は変わっていない。
「花を大切にするやつが悪いやつではないという保証はどこにもない」
子魔王の言い分も分かるのでベルは「確かにそうです」と頷いたが、「でも」と話を続けた。
「こうした心の余裕がある人には、他人を思いやる心があるんじゃニャいかと私は思います」
「お前は何かとつけて思いやる心の話をする」
子魔王は目を細めてベルの隣に並んだ。ベルが「思いやる心は大切だから仕方ニャいですよ」などと弁明すると、子魔王は視線を下げた。その横顔が寂しそうに見えてベルは口を閉じた。
「……ベル。お前は、俺の名を呼ばぬな」
ドキリとした。
「仕方ない。グリーティアは父様の……魔王様の名だ。俺の名ではない。……母様も俺のことをグリーティアとは呼ばぬ」
花を見つめる青い瞳が震えたように見えた。
ベルが子魔王をグリーティアと呼べない理由。それは子魔王の言う通り、グリーティアが魔王の名だからだ。
魔王グリーティア。
グリーティアという名の前には「魔王」という名詞がつく。何度もゲームをやり直した所為か、ベルにもそれが刷り込まれてしまっていた。そのため、目の前の小さな子どもをグリーティアと呼ぶのは抵抗があった。いや、呼んでも良いのか分からなかったというのが正しい。魔王にしか使われることのないグリーティアという名を、この子どもに使っても良いものなのか分からなかったのである。
この子どもは魔王ではないからだ。
城の者が皆、魔王のことをグリーティアと呼ぶことはあれ、子魔王のことをグリーティアと呼ばない理由はそれだ。
「……っ」
呼ぼうと思ってみたが出てこなかった。
(これが、あの人のことを魔王と認めるということなんだろうか)
グリーティアと呼べば、それは魔王である。
名というものにこれほどの力があるとは、とベルは身震いした。そしてあの魔王には名前にさえ力があるのだとも思った。名前一つで人を震え上がらせる。恐ろしい男である。
「若様」
ベルは優しい声で子魔王を呼んだが、子魔王は花を見つめたまま顔を上げなかった。
「……若様は未熟です」
子魔王の身体が震えた気がした。
「今のままでは魔王様に遠く及びません。けれどきっと、若様は彼の王をも凌ぐ良き王にニャりますよ」
ビー玉のような青い瞳がベルを睨んだ。
「何の根拠があってそう言うのだ。アスガープもそう言うが、俺は……そう、思えぬ。父様は俺の歳で全ての魔術を扱えたと言う。俺はまだ、半分も扱えないではないか。そんな俺がどうして、父様のような魔王に……父様を凌ぐ存在になれると言うのだっ」
子魔王の目が潤んで揺れた。目いっぱいに涙を溜めてベルを見つめている。けれども涙は流れなかった。今にも零れてしまいそうなのに、零れない。
(あぁ、そうか)
ベルは気づいた。
こうして子魔王は、この小さな子どもは小さな歯を食いしばって寸前で涙を堪え、理想と現実の大きな差の狭間で踏みとどまっているのだと。他人からの大きな期待と、それに応えられない己の不甲斐なさと戦っているのだと。いつか転んで壊れてしまってもおかしくないところで、この子はギリギリ踏みとどまっているのだ。どちらにも転ばないように、一人で必死に。
フランウィーネが子魔王には味方がいない、守ってくれる人がいないと嘆いた意味が分かったような気がした。
「よろしいですか、若様」
ベルは子魔王の両手を握った。冷たくて小さい。
「成長は人それぞれです。早ければ良いというものでもありません。他者は過程よりも結果で判断しますに最終的に若様が扱えるようにニャる魔法が彼の王を凌いでいれば良いのです」
「だが……」
子魔王の手を強く握る。
「若様。大丈夫です。若様にはこのベルがおります。ベルが必ずや(かニャらずや)若様に彼の王を凌ぐ技を身に着けさせて差し上げます。私はこれでも賢者マンシャム様に最高の弟子の一人だとお墨付きをもらっているんですよ。信用してください、若様」
にっこりと笑うと子魔王は目を瞬いた。
溜まっていた涙はいつの間にか引いていて流れることはなかったが、子魔王は何も言わなかった。ただじっと、真っ青な目でベルを見つめていた。
「何をしておるのじゃ! 全く貴様は身を弁えることを知らんのじゃな」
アスガープの声にベルの耳がピクリと動いた。首を伸ばして子魔王の後ろを見ると、アスガープがぶつぶつ何かを言いながら近付いてきていた。
アスガープとの距離がまだあるうちに小さな手が抜けた。子魔王は無言で踵を返し、ベルから離れ、アスガープの脇を通り過ぎてずんずん進んでいく。
アスガープはふん、とベルに向かって鼻を鳴らしてから子魔王の後を追いかけ、隣について歩いていった。
ベルは遠くなっていく二人の背中を、目を細めて見つめていた。




