魔王城10
ベルは耳を伏せたまま這って扉の前から離れた。広い部屋を見渡して部屋の外に出られそうな扉を探す。
机や椅子、ソファがいくつも置いてあり、壁には本棚、それから暖炉。絵画も飾ってある。美しい夕焼けの湖を描いた絵画の横に大きな扉があることに気づいたベルは、ゆっくりと這って扉を目指した。
ほぼ部屋を端から端まで横断し、扉に着いた。取っ手を掴んで身体を引っ張り上げ、震える足で立ち上がって扉を開けた。
広がっていた廊下にほっと胸を撫で下ろす。
壁に寄りかかって身体を預けながら、ベルは行く先も決めずに歩いた。とにかく魔王から離れたかったのである。
しかし廊下の半分辺りでぐらりと視界が揺れ、吐き気が込み上げてきたので足を止めてその場に座った。吐いてしまわないように口を押える。身体の中をぐるぐると何かが渦巻いているような、嫌な感じがする。
状況を確認しようと便利ツールを開いてみた。体力がほとんどゼロに近かった。
生命力とは体力なのかと一瞬思ったが、たぶん違うだろうなとすぐに否定した。きっと、寿命のような、生命そのものに備わった、便利ツールでも確認できないもののことなのだろう。ただ体力がなくなっただけでこうなるとは思えず、ベルはそう解釈した。つまり、ベルは魔王に寿命を奪われたのである。
「最悪……」
思わずぽろっと口に出してがくりと肩を落とした。
生命力を奪うという行為は誰にでもできることではなく、もちろん魔法で覚えられるものではない。
ベルの知るこの世界、デーモンクライというゲームには魔法とスキルの他に特殊能力というものがあり、四天王や魔王など、主要人物にだけ備わっていた。例えば主人公は〈光の加護〉というもので、どんな致命傷を受けてもHPが一残るというものだった。それから、レチェットには〈吸収〉。生命力やMP、HPなどを吸収する能力。そして魔王には〈千里眼〉という何でも見通す能力、ゲーム内では先読みして攻撃を回避したり必殺技を封印したりする能力が備わっていた。
ゲーム中で魔王が〈吸収〉の能力を使うことはなかったが、どうやら使えるらしい。身をもって知ることになってしまったベルは、怖ろしいという感情と共に悔しいという感情を抱いていた。
(あの男に……魔王に、負けたくない。弱いところを見せるなんて、絶対に嫌だ)
プレイヤーとして魔王討伐に心血を注いだからだろうか。魔王を倒さなければクリアできなかったからだろうか。とにかくベルはあの男に負けてはならないと思った。そしてどんな弱い姿も見せてはならないと思った。
『魔王が世界を支配する未来』が来ないようにするために何をするのかはまだ決めていない。地獄のような未来が来る前に殺してしまった方が良いのか、それともことごとく阻止するだけで良いのか。また別の方法をとるのか。殺すにしても阻止するにしてもどのようにやるのか。まだ何も具体的なことは決まっていない。
情報が少ないから、というのは一つの理由だった。しかし、悠長なことを言って時間を無為に過ごすこともできないとベルは思った。
油断していると殺される。
しかも、戯れに。今日の魔王のそれは、まるで遊んでいるかのようだった。
ベルは壁に腕を突き、ゆっくりと立ちあがった。
(もう、絶対に油断はしない。これからは自分の保身も考えながら行動しないと。身の安全を一番に考えるならここを離れた方が良いか……)
ベルは様々なことを考えながら足を踏み出した。
「……ゴホッゴホッ」
「……?」
壁の向こうから咳のようなものが聞こえてきた。それも軽いものではなく、病気かと心配になるくらいの咳だった。
「ゴホッゴホッ……だ、誰か……」
女の助けを求めるか細い声が聞こえ、ベルは咄嗟に扉を探して部屋の中に入った。
「ゴホッゴホゴホッ」
ベッドの上で、肌が黒く、白い絹糸のような髪の間から鬼のような角を生やした女が身体をくの字に折って咳き込んでいた。
「大丈夫ですか!?」
ベルはふらふらする身体をなんとか動かして駆け寄り、ベッドに横たわる女の身体を起こしてやった。
「ゴホッ……ありが、とう……」
女の背中を優しくさする。女はしばらくすると落ち着いて、小刻みに震える真っ黒な手をベルに伸ばした。
「本当に、ありがとう。楽になったわ。……えぇと、貴方は……もしかして、ベルさん?」
女は真っ赤な眼球と黄色い瞳を瞬いてベルを見上げた。
「……そうです。どうして私の名前を?」
名前を当てられて内心驚きながらも黒い手を取って答えると、女はふにゃりと優しい顔で笑った。
「息子が話していたんです。猫の獣人が新しい魔術教師になって、空間移動魔術を習っていると」
息子、という言葉を頭の中で繰り返す。
(そうか。もしかしなくても、この人は若様のお母様……お妃様だ)
エルシオンが五階は魔王と息子、そして妃が生活していると言っていたことを思い出した。子魔王は見た目が魔王の生き写しなので、目の前の女を見てもすぐには気づけなかった。
「あぁ、ごめんなさい。わたくしはフランウィーネと申します。自己紹介が遅れてしまってごめんなさいね」
申し訳なさそうに眉を下げて笑うフランウィーネ。失礼なことだが、ベルはこの人物が子魔王の母親、ましてやあの魔王の妻とは考えられないと思ってしまった。彼らには不釣り合いなくらい、目の前の女は穏やかで優しい雰囲気を纏っている。
「こちらこそ、私から名乗る(ニャのる)べきでした。非礼をお詫びいたします」
ベルが頭を下げるとフランウィーネは首を振った。
「いいのよ。……そんな、堅苦しい挨拶しないで。妃というのも名ばかりで……わたくしはたいそうなことをしていないの」
フランウィーネのことをよく知らないベルは曖昧に笑って返した。
(こんな人、ゲームにはいなかった。けど……肖像画の人にそっくりだ)
デーモンクライの魔王には配偶者はいなかった。もちろん、子がいるという描写もなかった。故にベルはこのフランウィーネという人物について何も知らなかった。初対面の人のことを知らないのは当たり前なのだが、魔王のことやこの世界のことなどいろいろ知っている身からすると不思議な気分である。ただ、フランウィーネの容姿には覚えがあった。
ゲーム攻略後に行ける洋館に飾ってあった肖像画にそっくりなのである。絹のような白い髪を緩く三つ編みにして前に垂らし、黒い肌に赤い眼球と黄色い瞳。それから鬼のような黒い角。この容姿の女性の絵が、洋館に何枚も飾ってあった。
公式には何も発表されておらず、プレイヤーはこの肖像画についていくつもの推論を出していた。魔王の姉、妹、恋人、母親、友人など思いつく限りの考察をして楽しんだのである。当然ベルも考えたのだが、どの考察もなるほどと思ってしまい、肖像画の人物と魔王の関係性に決着をつけることができなかった。そのためベルは、肖像画の人物が魔王にとってどういう人物なのかというところに注目していた。
(もしかしたら、この人が引き金なのかもしれない)
魔王には大切な人がいて、その人物に関わる何らかのことが世界を支配する引き金になったというのは作中でも語られている。ベルはその人物が肖像画の人物なのではないかと考えていた。その理由は、大事に保管されている描写のある部屋に、一際大きな肖像画が飾られていたからだ。
この、目の前の人物にそっくりな肖像画が。




