マッチ売りの少女アリーセ 第三十一話
サリエルは十字架に架けられたまま、それを見送っていた。
町でエレーヌが猿回しの手伝いをしていると知らせてくれたのはトマだった。最悪の予感を感じ取ったサリエルはメイド服のまま近くまで駆けて来て野次馬騒動を見つけ、この現場に到着した。
―― 大変! クリスティーナ奥様が街にいらっしゃいますの!
一方のトマはサリエルの言葉からさらに事態を先読みし、馬車ではなく例の蒸気自動車を出し、ヒゲメガネで変装してここにやって来た上、あれだけの兵隊の包囲網を掻い潜って、お嬢様を救出してしまった。
お嬢様が一時的にせよ助かった事は嬉しいし、自分は間違いなく忠臣である。
しかし……こんなにも差をつけられてしまうと、素直になれない気持ちもある。
ナッシュという例の怪人の時の名前まで出して、トマはごく短い言葉でお嬢様と心を合わせ、簡単かつ大胆に事を成し遂げてしまった。なんという鮮やかな連携だろう……自分にもあそこまでお嬢様と呼吸を合わせられた事は無い。
サリエルは俯き、一粒の涙を堪える。
悔しい。私の方が長くお嬢様に仕えているのに。
「貴女が手引きしたのね……! あの男、何者なの!?」
サリエルは不意にそう言われ顔を上げる。見ればクリスティーナが忌々しげに唇を歪めながら、自分を睨んでいる。
ああ、それがその通りだったなら、トマを手引きしたのが自分だったならどんなに誇らしく思えた事か。サリエルは目を伏せ、小さくかぶりを振る。自分はトマには何も頼まなかった。トマは自らの忠誠心で判断して行動したのだ。
「このままでは済まさないわ、とにかくエリーゼを追うわよ! 騎兵と黒服は今すぐ、歩兵は後からついてらっしゃい!」
黒服組の一人がクリスティーナの前に進み出る。
「ですが奥様、陸軍師団との約束の時間が迫っております、追跡は我々に任せてはいただけませんか、奥様は演習場へ……」
「貴方達だけではエリーゼを捕らえられませんわ! いいから来なさい!」
◇◇◇◇◇
ヒゲメガネで変装したトマに救出されたエレーヌは、蒸気自動車の助手席に居た。
「本当に助かりましたわ! どうしてここが解りましたの!?」
「サリエルの指示ですよ。街にはクリスティーナ奥様が居るのできっと鉢合わせになると」
「サリエルが? 貴方の救援を手配したですって! あのあんぽんたん、いつの間にそんな知恵をつけたのかしら」
「……サリエルはいつも良くやってますよ、お嬢様の事だけを考えて。もう少し評価してあげる訳には行かないんですか? 長年連れ添った主従の呼吸というものも解りますが」
ヒゲメガネで変装したままのトマは、控えめにそう言上する。
「何よ。貴方はいつも控え過ぎるくらいに控え目なのに、今日は雄弁ですのね」
「私は明白にクリスティーナ奥様に逆らいました。明日にも屋敷から追放されるかもしれません。今のうちに、言える事は言っておかないと」
エレーヌは思わずトマの横顔を見る。そして何となく察する。トマは話に嘘を混ぜている。恐らくトマは自力で自分を見つけ出し、自分の判断で救援に来たのだ。
サリエルは自分に寄りついて来る男は残念な者ばかりだと言うが、トマはどうなのか。
エレーヌは自分よりサリエルの方が面食いだと思っている。誰が美男子で誰がそうでないなどと気にするのは自分よりサリエルの方だ。
そのくせサリエルは身近な美男子にはとんと無頓着ではないか。庭師見習いのトマは普段はどこにでもいる農夫のような恰好をして気さくな笑みを浮かべているが、よく見ればなかなかの美男子である。
自分はトマを見出してからあまり日が経ってないが、これまでの二人の様子から見て、トマはサリエルに多少なりと好意を持っていると思う。
一方サリエルはそれに気づいていないか、或いは気づいていて無視していると、エレーヌはそう思っていた。
しかしエレーヌとしては、頭脳明晰で忠義に厚くなかなかの美男子でもあるトマであろうと、サリエルをそう簡単に嫁にやる訳には行かないとも考えていた。
サリエルは自分の物である。
「貴方は私の使用人ですのよ!? お母様に何を言われようと気にする事はなくてよ! そんな事より、戦勝記念通りへ向かって下さるかしら!」
◇◇◇◇◇
辻馬車や駅馬車、蒸気自動車やガソリン自動車、様々な交通が行き交う戦勝記念通りを、時折前時代的な騎兵が通り過ぎて行く。
エレーヌは派手過ぎるロココ調のドレスを隠す為、トマのコートを取り上げて着込んでいた。それでも天蓋もついていない競技車として作られた蒸気自動車はどうしても人目につく。
「ここで降りた方がいいわね。貴方も手伝うのよ、アリーセという煙草売りの女の子を探して。赤い木綿のスカーフを被った十二、三歳の赤毛の女の子よ。チャーチルの煙草屋の籠を持っているわ」
自動車を側道に止めさせ、歩道に降りたエレーヌはそう言った。トマは辺りを用心深く見回しながら答える。
「この辺りで降りるのは賛成です、ほら、騎兵が来ます!」
二人はさらに建物の間の路地へと走って行く。
騎兵はその少し後に蒸気自動車の横まで駒を寄せ、馬を降りてそれをつぶさに調べ、呼び子のホイッスルを吹く。
「そのアリーセという子を見つけてどうするんですか?」
「二人で『梟の森』へ行ってミトンを一組買うの。それで今回の騒ぎはおしまい。その後私は武運が尽きるまで逃げ回りますけどそれはあくまで私とお母様の私闘、貴方達に対応して貰う事はございませんわ」
トマは路地から路地、側道から側道へと、辺りを哨戒しながら歩いて行く。騎兵や黒塗りの車を見ては立ち止まり、路地に戻り、誰も居ないと見えた時は、振り返って隠れているエレーヌに手招きをする。
戦勝記念通りに金融通り、カトラスブルグの一等地の大通りと裏通りを、エレーヌとトマは警戒しながら行き来し、アリーセを探す……やがて。
「お嬢様、あの子は違いますか? スカーフはしていませんが背格好が似てますよ」
トマは側道の向こうの街角で駅馬車を待つ数人の男性に声を掛けている少女を指差す。それは確かにアリーセのようだった。
「あの子よ! よく見つけたわね、さすがですわ!」
「お嬢様、辺りに警戒して下さい!」
たちまち駆け出すエレーヌ。追い掛けながら窘めるトマ。二人は裏路地を抜け、側道を渡り、アリーセの元へと駆け寄る。
駅馬車を待つ客達は誰も煙草を買わなかった。アリーセは騒がせた事を小さくお詫びして、その場を離れようとした。
「アリーセ! 良かった、やっと会えましたわ!」
エレーヌはそこへ駆け寄って来た。駅馬車を待っていた男達も、古いロココ調のドレスの上に男物のコートを羽織ったちょっと風変わりな少女の登場に、それぞれに興味を含んだ視線を向ける。
「貴女は……ベル? ベルよね、ああ、おかしな事を言ってごめんなさい、そのドレス、とっても素敵だわ」
今は昼間で周りが明るい。アリーセの目は人工の明かりと自然の闇が入り混じる夜には極端に悪くなるが、日中の明るいうちはそれ程でもない。
だからアリーセには初めて会った時の貧しい女工を装ったベルの姿はきちんと見えていた。そして今のベルの姿は、とてもあの時のベルのようには見えない。
だけどアリーセの耳は、この昔のお姫様のような恰好をした年上の少女は間違いなくベルだと言っている。
エレーヌは一瞬トマに視線を向ける。トマはアリーセの事については何も知らないだろう。そもそも、アリーセの事はサリエルにしか話していない。
まあ、いずれにせよトマは頼まれもしないのに余計な口出しをして来るタイプの人間ではない。エレーヌはアリーセに向き直る。
「私……いえ、私、貴女にどうしても聞いていただきたい事がありますの。一つはお詫びで、一つはお願い。どうか聞いて下さるかしら?」
「勿論よ。お友達でしょう私たち。なあに?」
アリーセは屈託なく微笑んで首を傾げる。エレーヌは良心に棘のような痛みを感じ、僅かに眉間を曇らせる。
「私、ベルという名前じゃないの。本当の名前は……エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートですの!!」
エレーヌは自分なりの覚悟を決めて、そう言い放った。




