マッチ売りの少女アリーセ 第三十話
麗しの伯爵令嬢、エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートの姿がゆっくりと揺らぐ。その手は一度離してしまった鐘楼の柱を掴むべく伸ばされるが、その指先はもう柱に届かない。そしてそこは地上六階程に相当する尖塔の上である。
「ぎゃ あ あ」
「キ イ イ」
「せんちょ お お!」
そこへ五階相当の高さまで登っていた、猿回しの不精ひげの男が自ら壁を蹴って飛びつき、手を伸ばす……エレーヌの手も、どうにか尖塔のすぐ下の張り出し屋根部分に掛かる……
エレーヌはもう一方の手に小猿を抱えていた。もう一方の手は屋根の淵を掴もうとしていた。不精ひげの男は果敢に飛んで小猿に手を伸ばしつつ、もう一方の手はやはり屋根の淵を掴もうとしていた。
だけどこのまま双方が片手で屋根を、片手で小猿を掴んでしまったら、小猿は両方から引っ張られ大変な怪我をするだろう。
エレーヌと不精ひげの男は同時にそう考えてしまい、結果、エレーヌは小猿から手を放し、不精ひげの男は伸ばした手を僅かに引っ込めてしまった。
「キッ? キィ イ イ」
落下する小猿。
「ああっ!? 船長!」
一瞬屋根にぶら下がる事に成功した不精ひげの男は手を放し、小猿を追う。
小猿は三階の屋根まで落下して行くが……墜落直前になって自分がサルであった事を思い出し、四肢のスプリングを効かせて軟着陸に成功する。
「ぐふあっ!!」
一方不精ひげの男は二足で着地するも、勢いを止めきれず派手に尻餅をつく。
次の瞬間。
「ぎゃあああああああ!!」
間の悪い事に雪解け水の放水を直撃されたエレーヌが、四階部分の壁に爪を立てながら滑り落ちて来て、屋根の尾根にうつ伏せに倒れていた不精ひげの男の背中にさらに尻餅をつく。
「ぐえ」
「キキッ!? キィィ、キィイ!」
一声苦し気に呻いたまま、不精ひげの男は動かなくなる。小猿は男に駆け寄り、その肩を揺さぶる。
エレーヌは狼狽しながらも立ち上がる。
ここはもう三階部分の屋根だ。ライフルを背負った歩兵達は人垣を作りながら教会の外壁をよじ登り、多くが二階部分の屋根まで上がり、一部は三階部分の屋根にまで手を掛けている。
「ごめんなさい、こんな事に巻き込んで本当にごめんなさい、でも私、今は貴方達にお詫びしている時間が無いのよ!」
エレーヌは周囲を見渡す。もう自分の手に人質は居ない。元々この人質に意味があったのかどうかもよく解らないが。
歩兵達の動きは鈍重だが、確実に包囲を狭めて来ている。
もう一度塔に登るか? 自分も既にかなりの体力を消耗しており先程のように素早くは登れないが、一旦歩兵達を振り切る事ぐらいは出来るだろう。
だめだ。もう上に登っても時間稼ぎにしかならない。
伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートもこれまでか。クリスティーナの軍門に下り、裁きを受ける他無いのか。
「お嬢様! 諦めてはいけません!!」
その時、誰かが……地上で磔台に立てられ晒し者にされていたサリエルが、少しも臆する事なく勇壮に声を張り上げ、策士のように冷静な表情で叫んだ。
「御自分の名前を思い出して下さい! 貴女はどんな状況でも諦めない不撓不屈のお嬢様ですわ!」
「お……おだまりなさい! 貴女どちらの味方ですの!?」
磔台の横に居たクリスティーナは焦りの表情を浮かべそう叫ぶが……サリエルは策士顔で冷静に答える。
「臣は奥様の敵ではありません。ただのお嬢様の味方でございます」
一方、エレーヌは苛立っていた。別にサリエルなどに言われなくても自分は諦めてなどいないと、エレーヌ自身はそう思っていた。
しかしこの状況は八方塞がりだ。何とかしてこの空を飛ぶ方法は無いものか。エレーヌがそんな事を考えた時だった。
―― バキッ! ドッドッドッドッ!!
教会広場へ続く道は歩兵や騎兵によって一時封鎖されていたが、彼らの大半は今教会の外壁の周りや屋根の上に居て、封鎖は手薄になっていた。
その手薄となった道の一つから、仮設された封鎖線の柵をへし折り、一台の蒸気自動車が広場内に乱入して来たのである。
「何事だ!?」
「貴様! 封鎖線を何だと……」
警備に残っていた歩兵が、騎兵が蒸気自動車を止めようと駆け寄るが、その車は激しく後輪を鳴らしながら蛇行し、兵達の間をかい潜る。
「あれは……」
クリスティーナとサリエルは同時に同じ台詞を呟いていた。
車の運転席に居る男をサリエルは良く知っていた。
クリスティーナにはどこかで見覚えのある顔だった。しかし前に見た時はあの分厚い丸眼鏡と大きなハンドルバー髭と山高帽にインバネスコートの男、その中身は男装してエレーヌをデートに誘いに来たサリエルだったはずである。
「ナッシュ! 裏だ!!」
運転席の男はそれだけ叫ぶと、激しいハンドル操作でさらに兵士達の間をかい潜り、教会広場の中を回り出す。
クリスティーナにも部下達にもその男の意図はくみ取れなかった。
黒服組の何人かはガソリン自動車を発進させる為、そちらに戻ろうとしたが。
―― キキキキー!! パッ! パッ!
「うわああ!!」「危ない!!」
駐車しているガソリン自動車の合間を縫うように走り、車輪とホーンを鳴らす蒸気自動車に追い散らされ、初動の機会を損なってしまう。
「奥様! 発砲の許可は……」
「待ちなさい! 撃つのは私が撃ってからよ!」
追い払っても追い払っても集まって来ていた野次馬は、今や幾重にも広場を取り囲み、悲鳴や喝采を上げていた。
「すげえぞあの車!」「王子様の登場か!?」「いや、あれで王子はないだろ」
騒ぎに巻き込まれ困惑するだけだったクリフト神父は、もうこの後の事に頭を切り替えていた。折角こんなに人が集まったのだから、騒ぎの後で皆に呼び掛けてみよう。人を敬い日々の糧に感謝して生きる事の大事さを説いてみよう。何人かは足を止めて聞いてくれるのではないか。
教会の外壁を登りかけていた兵士達の何割かも、蒸気自動車に対処しようと慌てて外壁を滑り降りて来る。
エレーヌは三階の屋根を走る。派手で古風なドレスではなかなか捗らないが、どうにか途中で二階の屋根まで降り、さらに、兵士の少ない所、少なくなった所を走り教会の裏手へと回って行く。
そこには教会で使う馬車を止めておく小さな厩舎と、いくらかの新しい藁束が積まれた場所があった。
「おい! お嬢様がこっちに来たぞ!」「ああっ!? 自動車も来る!?」
厩舎回りに居た数人の兵士が、その動きを妨害しようと駆け寄って来るが。
―― パッ! パーッ!!
「うわああ来た!?」「危ない!!」
結局ホーンを鳴らして迫る蒸気自動車に追い散らされる。その直後。
「よせ、やめろ!!」
エレーヌを追って一階の屋根の上を走って来た兵士が叫んだその目前で、エレーヌは二階の屋根から厩舎脇に積まれた藁束目掛けて飛んだ。
―― キキキキー!!
蒸気自動車は四輪を横滑りさせながらその藁束に腹をぶつけるように止まり、
―― ドサッ!! ボトッ……
藁束に派手に墜落しその弾力で跳ね返されたエレーヌが、蒸気自動車の右座席あたりに逆さに転げ落ちる。
「うそだろ……」「無ェよ……」
蒸気自動車に追い散らされていた二人の兵士が呟いた、次の瞬間。
―― シュー!! ドッドッドッドッ!!
蒸気自動車は右座席に逆さまのエレーヌを乗せたまま急発進した。
外の教会広場はますます酷い騒ぎになっていた。車のエンジンやホーンの音が鳴り響き、怯えた馬が嘶き、人々はますます大きな喝采や悲鳴を上げている。
そんな中、ポーリンは父に破り捨てられた絵の切れ端を拾い集めていた。
ポーリンはとても無口な少年で、他の子供のように友達と外で遊ぶ事を好まず、静かに絵ばかり描いている子供だった。彼の父はポーリンのそういう所にも苛立ちを覚えていた。
少年は無言で、破り捨てられた絵を見つめ、一粒の涙を流し、静かに嗚咽し始める。
「グスン……」
少年の描いた小さな絵は、細切れにされた紙の中に一枚一枚閉じ込められたようになっていた。少年は思う。せめてこの絵を、描いた順番に並べよう。
破れてしまった絵を一枚一枚、慈しむように並べなおすポーリン。
だけどこの絵はもう元の一枚の紙には戻れない。この絵は死んでしまった。そう考えてしまったポーリンは、静かに、二粒目の涙を流す。
その涙がポツリと絵の上に落ちる。ポーリンは慌てて破れた紙の束から手を放す。
魔法はその瞬間にかかった。
父によってビリビリに破かれたそれはしかし、奇跡的に全ての絵をきちんと別々に切り分けていた。そしてひらひらと順番通りに落ちて行く紙切れの中で、ポーリンの絵がほんの一瞬、命を吹き込まれたかのように動いたのだ。
ポーリンは紙切れを拾い集め、何度も、そして色々な方法でその紙を手繰ってみた。もう一度順番に落としたり、次々とめくったり、端をつまんで弾いたり。
少年は泣いていた。一粒二粒などと言わず茫々(ぼうぼう)と涙を流していた。それは悲しみの涙ではなかった。これは自分の頭の中にずっとあって、だけど誰にも伝えられなくて、いつもどうしていいか解らずにいた物だった。
ポーリンの描いたお姫様は生命を持ったように、必死に教会の塔に登る。その小脇には怯える小猿が抱えられていて、助けを呼んでいる。そして塔の天辺にまで追い詰められたお姫様は小猿を振りかざして辺りを威圧する。
何度も何度も。少年は飽きる事なく、自分の手の中で生まれた命を持った絵に見惚れていた。




