マッチ売りの少女アリーセ 第三十二話
駅馬車を待っていた男達は、皆その名前を知っていた。
オーギュスト・ストーンハート伯爵と言えば地元を代表する有力貴族であるだけでなく、今や国王の右腕とも言える存在で、この国の行方の鍵を握る人物である。
そしてその娘エレーヌ嬢は、先祖代々の封地であるこの市の郊外にある、大変によく手入れされた伝統的な大邸宅に住んでいるらしい。そういう噂も男達は知っていた。
そして男達は皆、実物の伯爵令嬢を見たのはこれが初めてだった。なるほど、伯爵令嬢らしいと言えば、伯爵令嬢らしい姿をしているような。
本物の貴族というのは今でも百年前の宮廷舞踏会の時と同じドレスを着ているのか。男達はそう思った。
一方、年少のアリーセはそういう地元の有力者や政治情勢の事は何も知らなかった。この国には貴族というものが存在すると、なんとなく聞かされた事がある程度である。
「嘘の名前を言ってごめんなさい」
エレーヌはそこまでをはっきりと言って、それから声を落とす。
「ベルっていうのは……私の心の中だけにある秘密の名前ですの。自分が、今の自分ではない別の自分になったつもりの時の、夢の名前……変でしょ? でも本当なのよ」
それを聞いたアリーセは、両手で口元を抑えると、くすくすと笑い、それから小さく首を振って、両手を開き、エレーヌを見上げた。
「解るわ。私も自分をお姫様だと思ってみる事があるの。目が覚めて、ベッドから起き上がるまでの少しの間だけ」
「私も同じ! 朝の布団の中って最高ですわ!」
エレーヌはごく自然にアリーセに両手を伸ばし、アリーセも自然にその手を取っていた。
この光景をサリエルが見ていたら卒倒していたかもしれない。小さいころは無口で人見知り、ある時期からは高慢で気難しい性格になってしまったエレーヌに何とか普通の友達を作ろうと、誰よりも腐心していたのがサリエルである。
しかし傍らで見ているトマにはそのような感慨は無い。トマはむしろ男装したエレーヌが弁護士や自動車屋達に友達のように接するのをさんざん見ている。
ともかく、アリーセはエレーヌが嘘をついた理由など聞かなかった。むしろエレーヌが何を申し訳なく思っているのか解らず、困惑さえしている様子だった。
「あの、だから……私の名前を呼んでくれるなら、両方……ベルもエレーヌも両方呼んでくれたら嬉しいわ」
「じゃあエレーヌも友達になってくれるのね。ありがとうエレーヌ」
アリーセはただ屈託なくそう言って笑った。エレーヌは頷き、続ける。
「次は、お願い。アリーセ、私と一緒に来て欲しいの、あのお店……梟の森に。私、仕事を頑張ったのよ、街の広場で大道芸のお猿さんの手伝いをして、それで十七フラム貯めたの、このお金であの素敵なミトンを迎えに行きたいの。貴女も忙しいのは知っているけど、どうしても一緒に来て欲しいの、お願い!」
エレーヌはやはり、この場にサリエルが居たら目を回して倒れていそうな、どこにでも居る普通の夢見がちな少女のような表情でアリーセに迫る。
エレーヌの哀願に対し、アリーセは。
「本当? 私もついて行っていいの? 素敵! ベルに、エレーヌにあの日声を掛けて良かった!」
本当に自分も心から嬉しいというように笑顔を輝かせ、エレーヌにしっかりと握られた両手に自分も力を籠め、大きく振った。
◇◇◇◇◇
エレーヌは右手でアリーセの左手をしっかりと握ったまま、裏通りの歩道を歩いて行く。
トマはそんな二人の前を離れて歩きながら、周囲を警戒し時折合図を送る。その都度エレーヌは少し立ち止まる。騎兵や黒服の自動車が近くを走り回っているのだ。
「ごめんなさいね、貴女も仕事の途中なのに」
「大丈夫よ、最近の私、何だかお仕事の調子がとてもいいの、馴染みのお客さんが増えて、チャーチルさん……お店のオーナーにも褒められちゃった」
それから先程の朝方の夢の話の続きや、最近の町の騒ぎの話。二人はとても仲の良い友達のように話を弾ませる。
身長は三十センチメートルぐらい違うし、年も四つぐらい離れている。しかしこの二人からはその差を全く感じない……トマはふと、そう思った。それは勿論、エレーヌの方が全てアリーセに合わせているからだ。
同じ身長で年も一つしか違わないサリエルには厳然たる区別をつけるエレーヌも、こうしているとごく普通の、自分より四つ年下の女の子に見える……
そんな事を考えてしまったトマは密かに小さくかぶりを振る。自分はストーンハート家に仕える庭師見習い、女主人にそのような親近感を感じるのは宜しくない。
「どうかなさいましたの?」
しかしエレーヌはアリーセと話しながらもトマの仕草には注目していた。ここでローザンヌ家の手の者に捕まる訳には行かないのである。
「ああ、いえ、何でもありません、どうぞそのままついて来て下さい」
トマは落ち着いてそう答え、再び背中を向ける。
「あの方はどうしてお髭のついた眼鏡をかけてらっしゃるのかしら」
アリーセは別段声を落とす事もなく、無邪気にそう言った。
「喜劇役者志望なのですわ、いつか劇場に立って皆さまを笑わせるのが夢ですのよ。そうだわトマ、アリーセにも貴方の自慢の冗談を聞かせて」
そこへエレーヌが追い討ちを掛ける。この女主人の引き合いを得るようになって二か月、無茶振りをされるのは初めてではないが、ここまで酷いのは記憶に無い。
彼も愛と恋人の国の男の一人として、冗談の嗜みが無いでもないが……産気に苦しむ妻とその夫の小噺はこの二人には良くないような気がする。どうすれば……トマは一呼吸置いて振り向く。
「カトラスブルグ消防隊の隊員は何故赤いサスペンダーを付けているか御存知ですか?」
エレーヌとアリーセは顔を見合わせる。どちらも思い当たる所は無いらしい。やがてアリーセが口を開く。
「……消防馬車が赤いのと関係がございますの?」
「いいえ? ズボンが落ちるからです」
トマはそれで話をおしまいにして周囲の警戒に戻る。三人はしばらくの間無言だった。
「うふふ、ふ」「ね? 言ったでしょ、ふふ」「ふふふ、うふふふ」
それから、アリーセが笑い出し、エレーヌが囁くのがトマにも聞こえた。トマが少しだけ振り向いてみると、エレーヌは自分を指差してまだ何かアリーセに囁いているし、アリーセは肩を震わせて笑いを堪えている。二人がジョークで笑っているのではなく、自分の様子を笑っているのは間違い無い。
トマは苦笑いをして溜息をつく。どうやら自分は少女二人に担がれたらしい。アリーセの唐突な質問もエレーヌが吹き込んだのではないか。
それで今はどんな噂話をされているのやら。くすぐったいけれど悪い気はしないな。トマは密かにそう思った……次の瞬間。
「お待ちを!」
トマは短く小さく叫び、エレーヌに止まるようサインを送る。
「この先が『梟の森』ですが、大通りの向こう側に奥様がいらっしゃいます、騎兵も数人……一度身を隠された方が」
周囲は高層建築の立ち並ぶ落ち着いた街で、適当な集合住宅の階段にでも隠れればすぐには見つかるまい。時間が経てばクリスティーナも移動するだろう。トマはそう考えた。しかし。
「サリエルが仮面大将軍の手に落ちている以上、敵は私の行き先を知っていて張り込みをしている可能性がありますわ……時間が経てば余計不利になるでしょう」
「……あのサリエルが口を割るでしょうか……お嬢様の為なら命をも投げ出す子ですよ」
腕組みをして目を閉じたエレーヌに、トマは食い下がる。トマの脳裏にはあの日見た空中ブランコ技師のような恰好で『梟の森』に忍び込んでいたサリエルが浮かんでいた。
しかしエレーヌは小さくかぶりを振る。
「あれは絶対に口を割らないつもりでうっかり喋るのよ」
「ああ……」
思い当たる節のあるトマは思わず沈黙する。
アリーセは急に不穏な話を始めたエレーヌとトマを、少し不思議そうに見比べていた。エレーヌはそれに気づき、腕組みを解いて苦笑いをする。
「こめんなさい、心配しないで、よくある話なの、私、お母様とちょっと喧嘩をしてるの。私のお母様、ほとんど家に帰って来ないのよ……アリーセもお母様と喧嘩をする事なんてある?」
それを聞いたアリーセは、少し寂しそうな顔をする。
「そうなんだ……私のお母さんはちょっと体を悪くしているけど、いつも私と一緒に居てくれるの……でも、喧嘩する事もあるわ、今朝だってお母さん、私にもお医者さんにかかりなさい、なんて言うのよ、私、見ての通りとても元気なのに」
それを聞いたエレーヌは、次に言おうとしていた言葉を飲み込んでしまう。それから二度、三度、口を開きかけてはやめ……それからようやく言った。
「アリーセのお母様、とても良い方なのだわ。それからアリーセも。私なんてただの我儘。ねえアリーセ、やっぱり今すぐ『梟の森』に行きましょう、あの素敵なミトンはすぐそこですわ! お願い、一緒に来て?」
エレーヌは再びアリーセの手を取り、腰を深く曲げてアリーセと目線を合わせねだるようにそう言う。
「ええ! もちろんよ!」
アリーセは曇りのない笑顔で答える。しかしトマは物陰から通りの向こうとエレーヌを見比べて言う。
「この距離ではかなりの確率で見つかりますよ! 奥様が『梟の森』を監視してるなら尚の事です、どうなさるんですか?」
エレーヌは腰を伸ばし、目を閉じる。そして暫しの間の後。きっと目を見開き、ほんの一瞬、屋敷の冷酷な支配者、伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートの顔に戻って……トマに宣告した。
「トマ。私とアリーセが買い物を終えるまで『梟の森』の入口を死守して」




