マッチ売りの少女アリーセ 第二十九話
「外がうるさいな……何の騒ぎだ。おい……何を描いているポーリン?」
少年の名はポーリン。彼は絵を描く事に夢中で、部屋に父が入って来た事に気づかなかった。
失業中で昼間から飲んだくれ、苛立っていたポーリンの父は、ポーリンがスケッチブックに描いていた物を見て激怒する。
「なんだこの落書きは!? 俺がこんな物を描かせる為にこの高価なスケッチブックを買ってやったと思っているのか!」
父は無情にも少年のスケッチブックを取り上げ、ポーリンが描いていたページを破り取ると、それをさらにビリビリに破く。
「くそっ、アマンダの奴が甘やかすからだ! 才能が無いんなら絵描きの真似なんかするな!」
父は破り捨てた絵を床にばら撒くと、そのまま背を向けて部屋を出て行った。
「エリーゼ! これを見なさい!」
教会広場ではクリスティーナが。黒服達に命じて急遽作らせた十字型の磔台を指差していた。そこにはメイド服姿のサリエルが縄で縛り付けられていた。磔台のサリエルは地上から一メートル程の高さに架けられていて、倒れないよう四人の黒服によって支えられていた。
「貴女が投降なさらないなら! まず貴女のメイドから御仕置き致しますわよ!」
十字型の磔台に架けられたサリエルは、如何なる感情も伴わない策士の表情のまま、真顔で叫ぶ。
「臣の事はどうかお構い無きよう! お嬢様の為ならこの命など何一つ惜しくございません、きっとこのカトラスブルグの冬の朝日に生まれ変わって、お嬢様を照らしお守り致しますわ!」
「おおい! 酷い事はやめろ!」
「メイドさんが可哀想だろ!」
周りの野次馬からは、そのような良識的な声も飛んだが。
「勿体無ェー! そのボインちゃん、いらないなら俺にくれよー!」
「いい事考えたぞ! その子の服を脱がせたらどうだー!?」
そんな不謹慎な野次も飛び交う。
しかしそのような野次まで飛んでしまっては、さすがに黙っていられない者も居た。エレーヌと同様にクリスティーナの手勢と野次馬に包囲される事になってしまった教会の、クリフト神父である。
「これは一体何の騒ぎなのです! 礼拝堂には聖歌隊の子供達も居るんですよ! 破廉恥な諧謔は止めていただきたい!」
クリフト神父は最初のうちは騒ぎを大きくしないようにと助祭達を抑えていたのだが、我慢しきれずに今度は自らが出て来てしまった。
「すぐ済みますわ! エリーゼ! 何か言ったらどうなの!」
しかしクリスティーナは抗議の為に近づいて来た神父を軽くあしらうと、再び尖塔の方に目を向ける。
そしてエレーヌはと言えば、まるっきりサリエルの事を見てもいなかった。
「お嬢さん! うちの船長を返して下さい!!」
猿回しの芸人の不精ひげの男は実は本当に元船乗りで、高い所に登るのは極めて得意だった。彼はじわじわと登って来る兵士達を軽く追い越し、鐘楼のすぐ下の辺りまで迫っていた。
「それ以上近づくんじゃないわよ! 私、追い詰められたら何をするか分かりませんわよ!?」
エレーヌは小猿のマリーを抱えて、不精ひげの男を威嚇する。
「いい加減になさいエリーゼ! 一体貴女どうしたいの!? 何が望みだとおっしゃるの!」
クリスティーナは尚も呼び掛ける。クリフト神父もここで初めて教会の外壁をよじ登っていた少女が鐘楼の高さにまで達していた事に気づき、頭を抱える。
エレーヌは解らなかった。自分でも何が何だか解らない。自分が何故今こんな所に居るのか。
自分はなぜここに居るのか? それは恐怖の母クリスティーナに追われているからだ。
何故追われているのか? 自分が学校へも行かず市井で大道芸人の手伝いをする為おかしなドレスを着て転げ回っている所を見られたからである。
どうして自分がそんな事をしていたのか? 自分の手で稼いだ金が欲しかったからだ。エレーヌは既にストーンハート家の資産を動かして利殖を生む方法を十二分に身に着けてはいたが、自分自身の手と足で金を稼いだ事が無かった。
そんな事に拘った理由は何なのか。アリーセだ。
伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートは欲しい物に不自由した事がほとんど無い。金で買える物はだいたい何でも手に入れて来た。
しかし友情というものは金では買えない。
アリーセは自分に友情を示してくれた。それはエレーヌの心の渇きを満たし大きな感動を与えてくれた。
そしてエレーヌはそんなアリーセの苦境を知った。アリーセは貧しい上に母親の看病と医療費の工面に苦しんでいた。
エレーヌは最初、そんなアリーセを自らの有り余る財力で助けようかとも思ったが、それはすぐには上手く行かなかった。そしてもう一つ、大事な事に気が付いた。
自分が生まれながらに持っているような端金でアリーセを助ける事は、アリーセが自分に示してくれた友情とは全く釣り合わないと。
そしてエレーヌは自らの手で金を稼いでみようと思った……それが、今自分がここに居る理由の全てだ。
「キィーッ! キイキイ! キィイー!」
「ああっ、マリー船長! 大丈夫です、今助けますからね……お嬢さん! どうかお願いします、マリー船長を放して下さい!」
エレーヌが小脇に抱えた小猿が泣き騒ぎ、不精ひげの男が哀願する。
エレーヌは再び思考の渦に沈む。そもそも、なぜ自分はアリーセの友情に浴する事になったのか。
それはあの、うさぎミトンのおかげだ。
自分はあのミトンが欲しかった。たまらなく欲しかった。あれをつけて、カトラスブルグの寒い冬を快適に過ごしたかった。
だけど何故あのミトンが良かったのか? 物質的な事で言えばエレーヌは高価で触り心地の良い毛皮の手袋もたくさん所有している。
この瞬間に。エレーヌは、自分が本当に欲しかった物に気づいた。
「お母様!」
エレーヌは叫ぶ。
「私、お母様からのプレゼントに感動しましたのよ!? 私がどれほど……あのプレゼントに感動したのか、お解りにならないのではなくて!?」
その声はクリスティーナにもしっかりと聞こえた……しかしクリスティーナの方では、そのプレゼントという物に心当たりが無かった。
プレゼント。強いて言えば駐退復座機付きの新型砲を搭載した最新の秘密兵器、蒸気自走式野戦砲の試作品を、冗談でエリーゼへのプレゼントだとは言ったが。
「あれに感動したですって……? あのねえ貴女、あんな物冗談だって何で解りませんの?」
そんなクリスティーナの返答を聞いて、エレーヌは顔色を変える。
「冗談ですって!? 私にとっては冗談ではありませんのよ!? どうしてお母様がそんな事をおっしゃるの!? 私、ずっと……ずっとあれが欲しかったのよ!」
エレーヌはこの時、ようやく自分の心に眠っていた記憶の断片に気づいた。
◇◇◇◇◇
エレーヌがまだ初等学校の生徒で無口な少女だった十年前。エレーヌの手にはカシミヤの裏地のついた絹の手袋があった。
時刻はいつも通りの下校時。ストーンハート家の馬車は校門の前でエレーヌを待っていた。そして静々と馬車の方へと歩いて行く自分を、一人の同級生が駆け足で追い越して行く。
そして同級生は徒歩で迎えに来ていた彼女の母親に飛びついた。母親は微笑んで、腕に抱えていた籠の中から何かを取り出した……それはその母親の手作りらしい、手編みのミトンだった。
◇◇◇◇◇
喜びを全身で表現する同級生と満足そうな母親の顔。その何気ない光景はエレーヌの脳裏に焼き付き、今も記憶の奥底に眠っていたのである。
「だけど私、私どうしても、あれをそのまま受け取る訳には行きませんの! お母様の気持ちは……お母様の気持ちは本当に嬉しいんですのよ! それでも……」
エレーヌは涙声でそう叫ぶ。
クリスティーナはますます困惑する。実際、エリーゼがあの自走砲を自分へのプレゼントだと言い張り、どうしても自分の物にすると言い出したら少し困る。あれはこれから陸軍の演習地で実践射撃訓練に参加させなくてはならないのだ。それなのに確かに自分は言ってしまった。あの大砲がプレゼントだと。
「あれを手にするべき資格が私にはありませんでしたのよ! つい先程まで! あれは私とアリーセのどちらか、先に自分の力で十七フラムを貯めた方が手にする、そういう約束の品物でしたの! お母様がご存じ無いのは仕方ありませんわ、ですが私、頑張りましたのよ! 自分の力で頑張りましたの、この自分の力で手に入れたお金で、お母様からのプレゼントでもあるあの」
エレーヌがそこまで言い掛けた瞬間。
―― ガランゴロンガラン! ガランゴロンガラァァァン!!
突然、エレーヌが捕まっていた鐘楼の鐘が激しく揺れ、甲高く激しい音波を放った……午後一時の時報である。
「ぎゃあああああああ!!」
耳のすぐ近くでまともに鐘を鳴らされたエレーヌの手が、鐘楼の柱から離れた。
「キッ……」
エレーヌに抱えられたままの小猿は、自分の身が地球の重力に委ねられた事に気づいた。




