マッチ売りの少女アリーセ 第二十七話
ただちにパニック状態に陥った伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートは、目の前でポカンと口を開けていた小猿のマリーをひったくるように抱え込む。
「キキイッ!?」
「ああっ!? 何をなさるんです!?」
青ざめたエレーヌは不精ひげの男の抗議を振り切り、マリーを抱えたまま、クリスティーナが現れたのと反対の方向へと、広場を横切り走り出す。
黒塗りの蒸気自動車の運転席に居たクリスティーナは一つ溜息をつくと、運転席の横のレバーの一つを三回引く。すると自動車の鼻先についていたベルが三度振れ、カンカン、カンと音を立てる。
それからクリスティーナは大きくハンドルを切りながら自動車を発進させ、百八十度旋回し、エリーゼが逃げた方向へと走り出す。
そして黒い自動車が発進すると、その後方の街角や路地に待機していた四台のガソリン自動車が、クリスティーナの車に続いて走行して行く。
人通りも馬車や荷車も多い運河沿いの道。エレーヌは必死で障害物を左右にかわしながら走る。
しかしエレーヌが着ている百年前の派手で煌びやかなロココ調のドレスは、間違っても走るのに向いているとは言えない物だった。
「おいなんだありゃ、どこかのお姫様か?」
「ハッハ! サルを抱えたお姫様がスカートをつまんで突っ走ってるぞ!」
この辺りを歩いているのは運河で働く男達や荷物の積み下ろしに来た商人とその使用人が殆どで、その多くが少年から壮年ぐらいまでの男達だった。
「お通し下さい! 皆様どうか! 道をお開け下さい!」
「ハハハ、お嬢さん、走ると危ないぞー」
「そんなに急がなくてもいいだろー」
必死の形相で駆け抜けるエレーヌを、男達はからかう……しかし。
「まて……あれはこっちに来るのか」
男達が、古めかしい派手で雅なロココ調のドレスを着た少女が走って来た方の道を見ると。
―― カンカンカンカン!! ドッ、ドッ、ドッ、ドドドドドドドド!!
運河通りの向こうから。黒塗りの大きな蒸気自動車を先頭に、四台のガソリン自動車、さらに二十騎あまりの近代騎兵が。激しく鐘を打ち鳴らしながら怒涛のように押し寄せて来るではないか。
「うわああ! 何が始まった!?」「戦争か!?」「危ない! 逃げろ!」
たちまち往来にパニックが広がる。逃げ惑い、道を開けようとする男達。
しかし自動車というのはまだまだ訓練された乗用馬の速さには敵わないものだった。騎兵達は自動車を左右から追い越し、さらに逃げ惑う男達の間を縫って突撃して行く。
そして。
「エリーゼ! 無駄な抵抗をやめて止まりなさい!」
黒塗りの自動車の運転席から身を乗り出したクリスティーナは、左手で持ったダブルアクションの拳銃を空に向け、引き金を引いた。
―― ドン!
「畜生、撃ちやがった!」
「貴族の決闘だ! 逃げろォォ巻き込まれるぞ!」
男達が逃げ惑う中、騎兵達は徒歩で逃げるエレーヌに易々と追いついた。
彼等が背中に背負っている銃は伯爵屋敷にあるような古いガラクタではない。管状弾倉を備え無煙火薬の専用弾丸を最大八発まで装填する事が出来る、極めて殺傷能力の高い最新式のボルトアクションライフルである。
「エリーゼ様! 止まって下さい! どうか奥様と話をなさって下さい!」
騎兵の一人が、小猿を抱えスカートをつまみながら結構な速さで疾走するエレーヌに馬を寄せて叫ぶ。
「ジロドー! いいから発砲なさい!」
自動車の運転席から半ば身を乗り出したクリスティーナが後ろから檄を飛ばす。エレーヌは益々青ざめる。しかしジロドーと呼ばれたその騎兵も、さすがに伯爵令嬢に銃を向ける事は出来なかった。
「エリーゼ嬢の行く手を塞げ! この先の教会広場に追い込んで包囲するのだ!」
運河沿いの道の行く手には、中心に小さな教会のある石畳の広場があった。
「キィーッ! キィーッ!」
「お黙りなさいッ! 貴女は私の人質ですわ!」
エレーヌは何度も騎兵達の包囲の突破を試みたが、それが果たせないまま広場に誘導されてしまった。騎兵達は広場から外へ出る五本の道に展開し現場を封鎖する。
そして運河沿いの道の方からは次々と自動車が到着する。クリスティーナの黒塗りの蒸気自動車が、四台のガソリン自動車が。さらにその後ろからは二台の大型蒸気自動車がやって来た。
「エリーゼ! いい加減になさい!!」
クリスティーナは拳銃を手に運転席から降りて来る。
エレーヌは小猿を抱えたまま、一瞬、石畳に跪くような仕草も見せたが。
「私、何も悪い事はしていませんわ!!」
突如そう叫ぶと、近くの壁に立て掛けられていた木の板に足を掛け、教会の一階の出窓の屋根によじのぼる。
「やめなさい!! 貴女どれだけ恥の上塗りをなさるおつもりですの!? ジロドー! 何を見ているの、さっさと撃ちなさい!」
「奥様、いくら何でもこの銃では撃てません、殺傷力が強過ぎるのです……いやそれ以前に! あれは貴女のお嬢様ですよ!」
四台のガソリン自動車から、黒いスーツ姿の男達が降りて来る。
二台の大型蒸気自動車の幌付きの荷台からも、最新式の軍用ライフルを持った歩兵達がぞろぞろと降りて来る。彼等もそれぞれの分隊長の指令通り、小さな教会を包囲するように展開して行く。
「だったらその銃を貸しなさい、私が撃ちますわ! 一族の恥に引導を渡すのも、貴族たるものの責務ですのよ!」
「落ち着いて下さい! この銃は駄目です奥様!」
クリスティーナは馬を降りた騎兵の一人から軍用ライフルをもぎ取ろうとするが、騎兵は銃を抱き抱えて抵抗する。
「こちらには人質が居ますのよ! 銃なんか向けるのは止めなさい!」
「キキィーッ! キキキイキーッ!」
エレーヌは教会の出窓の屋根の上で、小脇に抱えていた小猿を両手で鷲掴みにして周囲に誇示する。
「待って下さぁぁぁい!!」
運河沿いの道の方から、男の叫び声がする。義侠心のある通りすがりの若者が、小猿の飼い主である不精ひげの男を乗せ自転車を漕いで追い掛けて来たのだ。
不精ひげの男は自転車の後輪の車軸から飛び降りると、クリスティーナ達の元へ駆け寄る。
「あの子はうちの大事な船長なんです! 御願いですから撃たないで下さい!」
広場は当然の事ながら無人ではなかった。
運河通りで蹴散らされた男達も黙っていた訳ではない。その殆どがこの捕り物の顛末を見届ける為に追い掛けて来ていた。
広場の周囲には勿論建物がある。教会の向かいという立地故飲食店や喫茶店などは無かったが、焼き菓子店や文具店、古書店などが広場側に間口を向けている。その上層階は概ね住居であり、住人が住んでいる。
そして教会の中にも人は居る。土曜の午後の礼拝堂には、小さな子供達のコーラス隊が練習の為集まっていた。
コーラス隊の子供達は、礼拝堂の中から見ていた。ロココ調の古い派手なドレスを着たどこかのお姫様のような姿をした背の高い少女が、泣きじゃくる小猿を抱えたまま、二階の出窓をよじ登って行くのを。
教会の向かいの住居の一つ、四階の部屋の窓辺に五歳くらいの男の子が居た。
絵を描くのが好きなその少年が、今日は何を描こうかと思案している時に起こったのがこの事件だった。
馬や自動車に乗ったかっこいい兵隊さんに包囲される中、絵本の中に出て来るようなお姫様が、サルを小脇に抱えて教会の壁をどんどん登って行く。二階から三階、三階から時計と鐘のある塔へと。
少年は極限まで目を見開き、スケッチブックに鉛筆を走らせる。
彼の絵は大変変わっていた。彼は一枚の絵をじっくり描く事の出来ない子供だった。彼はお姫様とサルの動きを一瞬一瞬切り取るように、スケッチブックの隅から、ごくごく小さな、しかも下らない落書きのような雑な絵を、幾つも幾つも描き連ねて行く。




