マッチ売りの少女アリーセ 第二十六話
土曜日の昼下がり。朝方の雲は午前中に姿を消し、街は十二月にしては暖かい空気に包まれていた。
鍛冶屋通りにも程近い運河沿いの広場は、土曜日は休みの者、土曜日も働く者、土曜日の仕事を終えた者で賑わっていた。広場の周りには飲食店や屋台が並び、労働者達は冬の貴重な日差しを楽しみながら昼食を摂る事が出来る。
「はいっ! マリー船長、見事マストのてっぺんに登りましてよ!」
エレーヌは古めかしいロココ調のドレスに大袈裟な飾りのついた帽子という姿でそこに居た。それらは全て一世紀は時代遅れのデザインな上、生地も経年の劣化でかなりくたびれており、また当世の被服と比べると酷く重く着辛いように見える物だった。
「あら? どうした事かしら、皆様少々御不満そうですわよ、船長さんを称える拍手も聞こえてきませんわね? マリーさん! この高さでは駄目ですわ!」
エレーヌの周りには人だかりが出来ていた。河岸で荷物の上げ下ろしをする男達、鍛冶屋通りから休み時間に昼飯を食いに来た見習い衆、それにただ暇人、遊び人の類い……ここに居るのは少年から壮年まで、男ばかりだった。
猿回しの小猿、マリーは三脚で立てられた高さ二メートルばかりの棒から飛び降りる。エレーヌはその棒にさらに二メートルの棒を継ぎ足そうとする。
「キイッ、キイッ!」
その様子を見てすかさず小猿は抗議するような仕草を示し、別の五十センチばかりの棒を持って来る。
「何をおっしゃいますの船長! 皆様が見たいのは四メートルの棒に登るマリー船長ですのよ? ねえそこの、お髭に赤いリボンを結んだダンディーなおじさま!」
エレーヌは最前列で見ていた老人に話を振る。老人は髭にリボンなど結んでいなかったのできょとんとしていたが、エレーヌは駆け寄って来て老人の長い顎鬚に、素早く赤い小さなリボンを結ぶ。他の客がどっと沸く。いじられた老人の客の方も、まんざらでもないような笑みを浮かべる。
そして三脚の所に戻ったエレーヌのごてごてしたスカートに、小猿のマリーがすがりついて何かを必死に訴えかける。
「皆様もそうおっしゃってますわ! さあマリーさん……なんですって? だけど高くて怖いし疲れた? それでどうしてもその五十センチの棒が宜しいの? 仕方ないわねえ、ではその棒に致しますわ。あらマリーさんあれは何かしら!?」
エレーヌは猿回しの舞台を取り囲む人垣の向こうを指差す。マリーは手をかざしてそちらを見つめる。その間にエレーヌは二メートルの棒を二つ継いで四メートルにする。
「あらマリーさんどうなさったの? 何も無いって? そんな事ございませんわ、今そこをオレンジ色のシロクマさんが通りましたのに。えっ、オレンジだったらシロクマじゃない? だから珍しゅうございますのよ。さあマリー船長、早速その棒をマストの天辺に継ぎ足して来て下さいな」
マリーはマストに見立てた棒に登ろうとしたが、何かに気づいたかのように棒とエレーヌを二度、三度、見比べる。
「どうなさいました? ああ、声援が欲しゅうございますのね! 皆様! マリー船長の勇気に拍手を御願い致しますわ!」
観客達の反応は悪くなかった。方々から笑いさざめきが起こり、まばらな拍手が鳴り出す。
すると小猿のマリーは観念したかのように、五十センチの棒を抱えたままマストを登りだす。観客がそれなりにどよめく中、マリーは天辺まで登りきるとそこに持って来た棒を継ぎ足し、さらにその天辺まで行って、逆立ちをしてみせる。
「わははは、器用だな!」「いいぞー! マリーちゃん」「ブラボー!!」
盛大な拍手の中、エレーヌは必死の作り笑顔で切り出す。
「さあさ皆様、この時間がやって参りましたわ! 私達も雲や霞を食べて生きている訳ではございませんの、皆様と同じ、パンを食べてワインを飲む事で命を繋いでおりますのよ」
群集の中にはこれを合図に飛ぶように逃げて行く者や、ただゆっくりと離れて行く者も少なくはなかった。しかし勿論皆が皆そういう訳でもない。中には自ら、エレーヌやマリーが手にした帽子の方に近づいて来る者も居る。
「どうか素敵な大人の方々、私達にパンを買うお金を、小猿にはバナナを買うお金を恵んでは頂けませんかしら! とびきり素敵な大人の方は、折り畳んで! 折り畳んで入れていただけると、船長がとっても喜びますわ!」
◇◇◇◇◇
「あの、お嬢さんは一体どちらで修行なさったんですか……?」
小猿のマリーの飼い主というのか、興行主の不精ひげの男は、おひねりの量とそれを数えるエレーヌの手際の良さに舌を巻いていた。
今朝早く公園で練習をしている所に再びエレーヌが現れた時には、男も小猿も困惑した。練習でも手を抜かないエレーヌのリハーサルは、これまで緩くやって来た男と小猿にとってはかなり窮屈な物になってしまった。
しかしその甲斐もあって、本番でのエレーヌの所作は客引きに始まり集金に終わるまで完璧、彼女が自前で用意して来た古めかしい衣装の客受けも相まって、この公演は大成功だった。
「それにしても……間違いなく新記録ですよ、一公演でこんなに稼いだ事は今までにありません」
ホクホク顔の不精ひげの男はそれで良かったが、小猿のマリーの方は小道具を入れた箱の上で背中を向けてぐったりと寝転んでいた。
普段の不精ひげの男とのステージに比べエレーヌの要求は五割増しでキツい。
エレーヌの演出による傍目には軽妙に見える掛け合いも、実は全部台本通りである。だから演者同士の間の緊張感が凄いのだ。
「どうしましょう……」
おひねりの金を数え終えたエレーヌは、その結果を手帳に書き止めながら……肩を震わせる。
「お嬢さん? どうしました」
「どうしましょう! 私、このような事に才能があるだなんて思いもよりませんでしたわ!?」
エレーヌは本気で焦った表情で顔を上げる。
「こんな、私にこのようなサルを使った下賤な三文芝居の才能があっただなんて、ですが私本当に伯爵令嬢ですのよ!? その私がこんな仕事を続けていい訳が無いじゃない!?」
自分達の生業を強烈に卑下され、マリーと不精ひげの男は閉口する。
「それはそうですね……とにかく、もう目標の金額を稼ぐ事は出来ましたよね? あの、御手伝いいただけた事は本当に感謝致します、あとはまあ、私達今まで通りにやって行きますから……そろそろ御嬢様はお帰りになられた方が」
どうにか気を取り直した不精ひげの男はそう告げる。
エレーヌの目標はとっくに達成されていた。十時台に駅前広場で一公演、十一時台に金融通りの噴水前で一公演、そして昼時の旧河岸広場で一公演、三公演での売上は既に百五十フラムを越えていた。三等分してもエレーヌの取り分は五十フラム以上、エレーヌの目標は十フラムと五十サンクだったのだ。
しかし。
「何をおっしゃるの!? ようやく面白くなって来たところですのに! 今はまだお昼ですのよ、今日は土曜日、書き入れ時はこれからではなくて!?」
エレーヌはすっかりこの商売の虜になっていた。自らのパフォーマンスが目の前で現金になる、エレーヌは今までそんな経験をした事が無かったのだ。
「夕方にはきっと! バルタザールの店のあるロータリーで興業しましょう、きっと一公演で百フラム、いや二百フラムは固いですわ!」
「待って下さい、今日はもういいんです、マリーちゃんもヘトヘトですし、こう申し上げては何ですが貴女のような資本家にはお解りにならないんです、私共庶民は細く長く、穏やかに飯を食いたいのです、今日はもう十分、目立ち過ぎました」
そう言って不精ひげの男はペコペコと頭を下げる。マリーも疲れた体に鞭を打つように起き上がり、不精ひげの隣にやって来てペコペコと頭を下げる。
「な……何よ。どうしてですの!? 貴方達庶民がいつも言うんじゃない、パンを買う金をよこせって、今がその金を稼ぐ時ではなくて!? マリーさん、貴女も今そんな芝居してどうするのお客の前でもないのに、でもそうね、そんな元気があるならもう少し演出を改良しましょうかしら。さあ、お稽古ですわ!」
「キキッ!? キィィー、キィィー!」
エレーヌはペコペコ頭を下げていた小猿のマリーの腕を鷲掴みにして立ち上がる。
「さっきの公演でも出来ておりませんでしたわ、私が冗談を言って貴女が倒れる所! あれは大いに笑っていただく所ですのに、貴女の転び方があまりにもお淑やかだから、お客さんも笑っていいのかどうか迷っておりましたわ! あれはもっと派手に転ぶのよ!」
「キイィ……キィーキィーィ」
「お嬢さんやめて下さい、本当にマリーちゃんも疲れてますから、あの」
辺りはまだ昼休みの終わらない広場。周りには工員や作業員達も多く残っていたし、暇人達の数も減ってはいない。マリー達の公演が終わった後も、面白い様子をしている二人と一匹を眺めている者も多かった。
「お黙りなさい! 私がもっと稼いで差し上げると申し上げてますのよ! 解ったわよ、じゃあ私がお手本をお見せしますわ! よく見てらっしゃい、いい? 私が面白い事を言ったら! こうして!」
エレーヌは止めようとする不精ひげの男に構わず、自らマリーに演技の手本を示す。時代遅れのロココ調のドレスを着たまま、後ろ向きにゴロンと、大袈裟に倒れるエレーヌ。
そうなれば大掛かりなパニエごとスカートも引っくり返り、時代がかった大きなズロースも丸見えになる。不精ひげの男は目を覆い顔を背けるが、広場のあちこちからは笑い声もこぼれた。
「ご覧なさい、皆様笑っておりますわ! いいことおサルさん、お客様の笑いをいただきたかったらこのくらいの事は当たり前に……」
エレーヌは起き上がりながらマリーの方を向く。マリーはただ、半分口を開けてポカンとエレーヌの方を見ていたのだが。
そのマリーの向こう。広場の石段と灌木の並木の向こうにある道路に。いつの間にか、薔薇の紋章の蒔絵を施した黒塗りの蒸気自動車が停まっていた。
その運転席では、伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートの実の母、クリスティーナ・ローザンヌが……窓枠に頬杖をついて、じっと。エレーヌの熱の篭ったマリーへの演技指導を見つめていた。




