マッチ売りの少女アリーセ 第二十五話
サリエルはエレーヌの区画からゆっくりと歩み出て、廊下を渡り、静々と階段を降りて行く。エレーヌの母クリスティーナはちょうど玄関ホールを通ってやって来る所だった。
「エリーゼはまだ起きていないの?」
サリエルは冷静に答える。
「奥様、お嬢様は昨日からお休みになっておられます」
「あら……どういう事かしら? 昨日何かございましたの?」
「はい。朝から咳を堪えていらっしゃる御様子でした。それでも馬車で学院へ向かおうとしたのですが、途中で顔色を悪くされて……医師のマナドゥ先生に伺いました所、間もなく熱も出ると思うので自宅で安静にするようにと」
澄み渡る湖のように、深く暗い憂いを瞳に湛えたまま。サリエルは策士の表情で、流れるように嘘をつく。
クリスティーナはホールを通り抜け、階段を登ろうとする。伯爵屋敷の階段は二人がすれ違うには十分広かったが、サリエルは階段を戻り踊り場の隅に下がって、クリスティーナの為に道を空ける。
「そう……あの丈夫な子がねぇ……」
「申し訳ありません。臣がもっと早くに気づかなくてはなりませんでした」
クリスティーナはどんどん階段を上がり、二階に出て、エレーヌの区画の方へと歩いて行く。サリエルは十分な距離をとって、策士の表情のまま静々とそれを追う。
「今は眠っているのかしら?」
「咳が酷く出るので、あまり眠れない御様子ですわ。今日もう一度マナドゥ先生に診ていただく予定ですの」
クリスティーナがエレーヌの区画の入り口の両開きの扉の前に立っても、サリエルは全く慌てなかった。
「御見舞い、させていただこうかしら?」
クリスティーナは扉の取っ手に手を掛けながら軽く振り向き、横目でサリエルを一瞥する。
「是非お顔を見せて差し上げて下さい。お嬢様もきっと喜びますわ」
サリエルは瞳に深い憂いを湛えたまま、涼しげにそう言い切った。
クリスティーナは溜息をつき、取っ手から手を離す。
「やめておこうかしら。私、今は風邪を引いている暇も無いのよ。娘の見舞いすらしないなんて、酷い女だと思うでしょうけど」
「それは……差し出口を致しまして誠に申し訳ありません」
踵を返しエレーヌの区画を離れて行くクリスティーナに礼を捧げながら、サリエルは密かに、自分の策士としての仕事の出来に満足していた。
クリスティーナは大変に手強い相手である。サリエルがほんの少しでも抵抗していればクリスティーナは何かを察し、サリエルがどんなに止めようとしてもエレーヌの部屋に突撃していただろう。
だが成功の余韻に浸っている時間は無い。この後は急いで他のメイドや執事達と口裏を合わせなくてはならない。
階段を降り、ホールに向かうクリスティーナに追従しながらサリエルはそう思った。しかし。
「私、今日はこの町で何人か人に会わなくてはならないの。夕方には戻りますわ。それにしても、ディミトリはどこへ行かれたのかしら。まさか先に出掛けたのではないでしょうけれど」
クリスティーナはそう言って、玄関を出て行った。
「はい、いってらっしゃいませ奥様」
サリエルはロータリーまで出てクリスティーナを見送る。完璧だ。これで屋敷内への根回しも落ち着いて出来る。サリエルはそう考えた。
◇◇◇◇◇
クリスティーナが自ら蒸気自動車を運転し、屋敷を離れた後。
伯爵屋敷の門前には学校へ行くサリエルに代わり、筆頭庭師のエドモンが立っていた。エドモンは外の路肩に停められた自走式大砲に近づき、しげしげとそれを眺めていた。
「こんな物同士が戦場で撃ち合う時代が来るのか……恐ろしいな」
「まあ、これはまだ試作品だから」
大砲にはローザンヌ家の家臣と製造会社の社員二人が付き従っていた。エドモンは家臣の方とは顔見知りだった。
「こんなのが味方に居たら頼もしいかもしれないが、味方に居るって事は敵にも居るって事だろう。これから戦争に行く奴は大変だ」
そこへ。いつもの郵便配達夫が長屋通りの方から走って来る。
「伯爵屋敷に郵便だよ! これ、宜しく!」
「何だバスティアン、今朝は嫌に早いな」
エドモンは駆け寄って来た配達夫の少年、バスティアンから手紙を受け取る。バスティアンは挨拶もそこそこにそのまま駆け去ろうとするが。
「待てよこの郵便! 速達じゃないか!」
「うへえっ……バレた」
「しかも配達指定は木曜日になってるぞ! 一昨日じゃないか、お前何で持って来なかったんだ」
エドモンに誤魔化しを見破られたバスティアンは、とぼとぼと道を戻って来る。
「最近は俺らが大急ぎで速達を持って来てもさ、知らせは電話や電報でとっくに伝わってるって事も多いだろ? だから……」
「だからじゃないだろう、うちに電話は無いし電報も来ていない! 第一お前の仕事は何だよ……」
「違うんだ、あの、仕分け係が間違って別の町に送ってて、見てくれこの消印、クレーの印が見えるだろ? この封筒は海まで行って戻って来たやつで……」
「しかもこれはディミトリ宛てじゃないか……参ったなあ」
エドモンは封筒を手に頭を掻く。バスティアンは肩を落として言う。
「遅配については郵政省職員を代表してお詫びするよ……あの、もう行っていいかな? これから午前の配達の準備をしなきゃならなくて」
そこでエドモンは封筒の裏を見て、密かに驚愕する。何と差出人は伯爵夫人、クリスティーナ・ローザンヌではないか。
ローザンヌ家の家臣は今目の前に居る……彼の目の前で、あまりこの手紙について騒ぎ立てるのは良くない、エドモンはそんな気がして来た。
「まあお前に文句を言っても仕方ないらしいな……ところでバスティアン、どこかでうちの執事長、ディミトリを見なかったか?」
エドモンはさりげなく封筒を懐にしまいながらそう言った。
「今朝見たよ……その時には俺はまだその速達の事を知らなかったんだ、だから別にちらっと見ただけで」
「見たのか!? いや封筒の事はもういいから、どこで見たのか詳しく教えてくれ!」
「駅前だよ、今から二時間前、朝一番の汽車が来た時刻に間違いない。俺は汽車から降ろされた荷物を受け取ってて、ディミトリさんは……汽車に乗るように見えたけど、結局乗らなかったみたいだ」
「それでディミトリは? どっちへ行った?」
「だから俺は郵便を受け取る仕事で行ってたから、詳しくは見てないしよく解らないよ。ああ、でも大聖堂の方へ向かって歩いて行ったかも」
「大聖堂か! 一体何があったってんだあいつは……よし、俺が行ってやる」
「ああ! 待ってよ、大聖堂に行ったとは言ってないよ俺!」
早合点のエドモンはいきなり長屋通りの方に向かって小走りに駆け出し、バスティアンもそれを追い掛けるように屋敷の門前から走り去って行く。
残された三人は顔を見合わせる。ストーンハート屋敷の門番が誰も居なくなってしまった。まあここで待機命令を受けている自分達が、ついでに代わりの門番を引き受けるくらいは何でもないが。
「ちょっとトイレを借りて来る」
三人の一人、ローザンヌ家の家臣の男はそう言って屋敷の方へと歩いて行く。ローザンヌ重工の社員の方はそのまま待っていた。
ディミトリはそこへ帰って来た。伯爵屋敷沿いの道の方から、肩を落とし、背中を丸めてとぼとぼと。普段の彼は決してそんな姿勢で外を歩いたりしないのだが。
トマは粘り強く彼を探していたのだが、トマが開門の仕事の為一度だけ屋敷に戻った時間と、街中に隠れて途方にくれていたディミトリが駅にやって来た時間は不幸にも一致してしまっていた。
さらにディミトリを探しに出掛けたエドモンと、遠回りをして屋敷に戻って来たディミトリとは入れ違いになってしまった。
俯き加減に歩いて来たディミトリは屋敷の門前まで来てようやく顔を上げる。そして見た。屋敷の前の道の路肩に鎮座する不気味な新兵器を。
「こ……これは……ローザンヌ重工のマーク……」
慌てて駆け寄って来たディミトリに、社員達が気づいて近づく。
「ああ、貴方がディミトリ氏ですね? クリスティーナ様から話は伺っています。取り敢えず、これをなるべく早く移動させたいのですが」
ローザンヌ重工はこの兵器を今後最前線となり得る陸軍師団の装備として売り込むべく、カトラスブルグに持ち込んだのである。
「あ、あの……取り敢えず、とは?」
「あまり人目に触れていいものではないですから」
近年の川の向こうの国との軍拡競争は、陸に海に、留まる所を知らない。社員達は勿論そういう意味で言っているのだが。
「いや……こんな大袈裟な物が一体、何故ここに」
何故ストーンハート屋敷の前に、この新型大砲が? ディミトリにはその情報が無かった。それはクリスティーナからの速達によってディミトリにもたらされるはずだった。
「少しも大袈裟では無いですよ。相手にだって似たような備えがあるのですから」
「お待ち下さい、一体何の事をおっしゃっているのですか」
「勿論、あなた方が戦っている、敵……ですよ」
そしてローザンヌ重工の社員の方は、ディミトリをカトラスブルグ陸軍師団の顧問か何かだと勘違いしていた。
クリスティーナとその家臣の方は、ただ単に月曜までこの大砲を置いておく場所としてこの屋敷を選んだだけだったのである。エリーゼへのプレゼントというのは、クリスティーナの間の悪い冗談だった。
「とにかくこういう切り札はあまり見せびらかす物ではありません、速やかに、いつでも引き出せる場所に隠すべきだと思いますよ。相手がどこで見ているか解りませんからね」
社員の片割れにそう言われ、ディミトリは震えながら三歩、後ずさる。
「クリスティーナ奥様は何故、このような物を私に……?」
「勿論。奥様は貴方の助けになると思って、これをこの町に持ち込んだのです」
社員はカトラスブルグ陸軍師団の顧問に新兵器を売り込んでいるつもりで、力強くそう言った。
「しかし……しかしこれはあまりにも大袈裟で、その……非人道的なのでは……」
「仕方ありません。避けては通れない道ですよ……これは戦争なのですから」
もう一人の社員も腕組みをして意味深に頷く。
「解りました……それではとにかくこれを移動させましょう……ここはいけません、化学通りの運河にストーンハート建設の倉庫があります……ひとまずそこへ行きましょう」
ディミトリは何かを観念し頷き、俯きがちに歩み出て、自走式大砲の後部座席に乗り込む。
「良かった。早速行きましょう」
社員達は運転席と機関席に乗り込み、機関を始動する。




