マッチ売りの少女アリーセ 第二十話
店にはまずサリエルが入った。
サリエルが外套の下に着ていたのは伯爵屋敷の召使いのお仕着せである。お仕着せはデザインは全て同じだが、今サリエルが着ているのは高価な素材を使った外出用のお仕着せだった。
「いらっしゃいませ」
「夜分失礼致しますわ」
昼間と夕方に接客してくれたサンディは居ない……見えている店員はあと二人だが、それは前にミトンの販売を断って来た女性店員でも、不審者の自分に発砲して来た男性店員でもない……サリエルはそっと踵を二度打ち合わせる。
商品を遠目に眺めながら、サリエルは売り棚の間を歩いて行く。
店内には他に客は居ない。電灯を明々と灯して午後九時まで営業するというのは街の賑わいには良いが、ここカトラスブルグにはモダン過ぎるのではないか。
店の入り口の扉が、再び開く。
「いらっしゃいませ」
黒い外套をとりながら入って来たのは、サリエルの合図を見たエレーヌだった。エレーヌが外套の下に着ていたのは、本人はごく庶民的だと思っている彼女の普段着だった。
二人の店員のうち一人は壮年の女性で、店では会計を担当している。もう一人は普段は奥の工房でサイズ直しや修理を担当している内気な中年女性だった。
「少々……拝見いたしますわ」
エレーヌは小声でそう呟きながら、コートの売り棚の方へ向かう。
いらっしゃいませ、を言った会計係の店員はそのままカウンターの向こうで今日の帳簿の整理を続ける。もう一人の店員はサリエルとエレーヌをそっと見比べてから、エレーヌの方へと向かう。
「お、お客様、お手伝い出来る事があれば何なりとお申し付け下さい」
あまり接客慣れしていないらしいその店員は、少し口籠りながらエレーヌにそう言った。
一方のエレーヌも、先程サリエルに余計な知恵を吹き込まれたせいで無意味に緊張していた。
「え、ええ……ありがとう」
サリエルは心中頭を抱える。やはりお嬢様には外で待っていていただくべきだったか? いや、さすがに一人ではこの仕事は難し過ぎる。
―― 大丈夫ですわお嬢様、相手は少数、緊張しなくても簡単に出来ますわ。
エレーヌは店員に捕まったような状態になっていて、コートをあれこれと吟味するような恰好になっていた。この店のコートは百フラムから三百フラムはする高級品だが、エレーヌが好む最高級品ではない。
サリエルは仕事を急ぐ事にする。こういうのは早さが肝心だ。今は店員も誰もこちらを見ていない。
ショーウインドウは側面に小さな木戸がついていて、そこを通って店内と行き来出来るようになっている。前に侵入した時はそこを通る前に男性店員に発見されてしまった。サリエルは姿勢を低くして、その扉を一気にくぐる。
―― あとはミトンを元の場所に戻すだけ……
サリエルがそう考えた瞬間。
「わははは、は、は、は、は……」
戦勝記念通りの向こうから、笑い声が聞こえて来た。笑い声を上げていたのは壮年の男性で、彼は一人の中年の男性と一緒に歩いて来た。
「私も見てみたかったな! その女盗賊とやら! わははは……そうか、割といい女だったか」
「旦那様、笑い事ではございませんよ、ははは……まあ何度やってこようと! 私が必ず撃退いたします!」
サリエルはたちまち青ざめる。あの中年男性の方はまさしく、店に忍び込んだ自分に銃まで向けて来たあの店員ではないか。
二人は今の所まだ自分に気付いてはいないが、もうすぐ近くに居る。判断する時間は全く無い。
一体何が正解なのか? どうすればこの危機を乗り越えられるのか?
ああ、今にも男が、こちらに、ショーウインドウに視線を向ける……!
「わははは、いや、無理はするな、無理はするなよ、お前はこの店の大事な跡取りなのだから! はははは……」
「勿体のうございます旦那様、ははは……」
機嫌よく酔っ払っている様子の二人は。ショーウインドウの中で立ち上がり、ポーズをとって静止していたサリエルに気付かず、ショーウインドウの前を通り過ぎて行く。
その様子を店内の向かい側で見ていたエレーヌもまた、青ざめていた。エレーヌについていた店員はエレーヌに勧める為のコートを吟味していて視線を逸らしていたが。
ショーウインドウは二重のガラス窓に挟まれた間にあるので、店内からでも裏側を見る事が出来る。すなわち今店内からは、ショーウインドウの中でマネキンのふりをしているサリエルが丸見えになっているのだ。
エレーヌが心臓が止まる思いを抑えていた、その時。
店の入り口の両開きの扉が勢い良く開いた。
「良かった! まだ営業しておりますわ!」「まあー!! 素敵なお店でございますわねぇ!!」「皆様まだ何かお召し上がりになりますの!?」「オホホホ、嫌だわ奥様、こちらはテーラーでございますわよ!」
エレーヌも、エレーヌの為にコートを選んでいた店員も、一瞬、何が起きたのか全く解らなかった。
ほんの一瞬で店の空気は濃厚な香水の臭いで埋め尽くされた。テーラー『梟の森』の扉から殺到して来たのは、赤青黄色、ピンクに紫、毛皮、派手な帽子や大きな傘、ありとあらゆるアクセサリーを身に着けた……総勢二十名を越える大変に騒がしい淑女の集団だった。
サリエルは突然の店内の異変に気づいたが、すぐにこれをチャンスと見て素早くミトンを取り出す……取り出すつもりが。
「……ッ!」
思わず声を上げそうになるサリエル。サリエルのポケットにミトンは無かった。当たり前である。サリエルはエレーヌに自分がミトンを戻すと言いながら、そのミトンをエレーヌから受け取るのを忘れていた。
「おいおい、何の騒ぎだね……やや、これは」
「なんと、こんな時間に団体のお客様が! 申し訳ありません旦那様、私さっそく接客を手伝いませんと!」
ショーウインドウから出ようとしたサリエルはギリギリで踏み止まった。店内の異変に気づいた男性二人がショーウインドウの方に戻って来たのだ。慌ててポーズを取り直すサリエル。
例の中年男性の方は店の正面ではなく、裏手の方へ走って行く。彼は結局ショーウインドウのサリエルに気づかなかった。しかし。
「……」
壮年男性の方は、そのままショーウインドウの前に立っていた。
しかもその目は今や確実にサリエルの方に向けられていた。
壮年男性。このテーラー『梟の森』のオーナーであり、自ら筆頭職人も務めるヨーウィンは、腕組みをしてじっとサリエルを見つめる。




