マッチ売りの少女アリーセ 第二十一話
その様子に気づいたエレーヌは青ざめ、もしやと思い自分の外套のポケットを探る……ミトンの包みはそこにあった。しかし。サリエルは今ショーウインドウの中で誰かにじっと見られている。
「まあ奥様! あのコート、評判のポスターにそっくりですわ!」「素敵!! 本物ですの!?」「おいくらですの!? サイズはありますの!?」
次の瞬間、少しぼんやりとしていたエレーヌは突進してきた重量のありそうな数人の婦人に跳ねられ、コートの売り棚から通路の方へと吹き飛ばされた。
「ああっ、お客様大丈夫ですか!?」
「ねえ!? このコート、トゥールーズがポスターに描いた物と同じ物でなくて!?」「いやですわ奥様、まさかそんなホホホ」
先程まで接客してくれていた店員がエレーヌに手を伸ばそうとしたが……たちまち婦人方に包囲され、動けなくなった。
エレーヌは何とか自力で立ち上がろうとしたが、
「御覧になって! ピンクもありますわ!」
また背後から突進して来た別の婦人に跳ねられ、再び通路の隅へと転倒する。
「キャーッ!! この帽子、お姫様みたいですわああ!」
「ちょっと店員さん! これ値札がついてないわよ、一体おいくらですの!?」
エレーヌは数日前にサリエルに言われた言葉を思い出していた。
―― お嬢様、お声をお控え下さい……それではまるで下品な成金のようですわ
下品な成金のよう? とんでもない。本物はこの迫力だ。自分などとても及びのつくものではない。本物と贋物ではこんなにも違うのだ。
エレーヌはそのまま通路を這ってサリエルの救援に向かう。酷い目に遭ったがこの混乱は僥倖と言えなくもない。自分は店員の目を離れ自由になった。どうやらこの隙に事を成し遂げられそうだ。
「店員さん! ちょっと店員さん!? いらっしゃらないの!?」
「ぐぎゃっ!?」
婦人の一人が匍匐前進するエレーヌに気づかず、その背中を踏んづけて行く。エレーヌは歯を食いしばって通路の間を進み、ショーウインドウに辿り着く。
エレーヌはサリエルが入ったのと反対側の、ショーウインドウの側面扉の前に出ていた。サリエルは仏頂面で依然として謎のポーズを取ったまま硬直している……まだ壮年男性がじっと見ているのだ。
「何をやってるのよ全く……」
エレーヌは舌打ちしながら、ショーウインドウの扉をそっと開け、その隙間から中に這い入る。サリエルを凝視している壮年男性は気づかない。
見つかったら見つかったで構わないというぐらいの気持ちで、エレーヌは素早く、ショーウインドウのほぼ真ん中あたりにあるミトンを入れて陳列してあった可愛らしいバスケットに這い寄る。
これでも壮年男性は自分に気づかない。サリエルは仏頂面で冷や汗を流しているが……このあんぽんたんをどうやって救い出すかは後で考える事にして、エレーヌはまず、ポケットからミトンを出す。
「お母様……有難うございます……」
エレーヌは、小声でそう呟く。
それを見ているサリエルの方も気が気ではなかった。またしても自分のミスでエレーヌをこんな危険に晒してしまった。この上は自分の身はどうなろうとも、お嬢様だけは守らなくてはならないと思うのだが、今、自分には何も出来ない。
そのお嬢様はここまでは首尾よくやって来たのだが、ミトンをバスケットに戻す所まで来て、躊躇なさっているように見える。
無理も無い、お嬢様はこのミトンが本当に欲しかった様子であったし、しかも今はこれをお母様からのプレゼントだと思い込んでいるのだ。
いくらそのアリーセという子との友情の為とはいえ、いざ手放すという段になっては、無心ではいられないのは仕方無い。
だけど急いだ方がいい。急がないと。お嬢様どうかお急ぎ下さい! サリエルはそう、強く念じ続ける。
そんなサリエルの念力が通じたかのように。エレーヌの手がようやく、バスケットと重なった。そしてミトンがそこにそっと置かれる。
壮年男性は気づいていない。あとはエレーヌに一刻も早くこの場を立ち去って貰うだけだ。
そこへ。
「おおーい、アリーセちゃーん!」
壮年男性の後ろの方で誰かがそう叫ぶ。エレーヌはたちまち硬直する。
「はーい! 今参ります!」
そして殆ど間も無く。そこにアリーセが走って来た。十二、三の娘が働くにはもうだいぶ遅い時間だというのに。アリーセは十二月のカトラスブルグで、まだ煙草やマッチを売り歩いていたのだ。
そのアリーセが。ちらりとショーウインドウの方を見た……
エレーヌの心は凍りつく。
アリーセには自分の変装は通じなかった。アリーセはエレーヌが古い御仕着せを着ていようが名門校の制服を着ていようが、同じ人物として接して来た。
そのアリーセが……テーラー梟の森のショーウインドウの中に不法侵入している自分を見たら、どう思うのだろうか?
「ジダンを一袋おくれ」
「ありがとうございます! でも、昨日もお買いになったんじゃ」
「今日は爺さんあげる分だよ、歳の終わりのプレゼントってやつさ。ギフトラッピングも御願い出来るかい?」
「えっ、ええっ、ラッピングですか、あの」
「ハハハ、冗談だよ、そのままでいいって」
アリーセを呼び止めたのは居酒屋『鉄の炎の合間』の店員の孫の方だった。あの店は労働者の店なので、このぐらいの時間にはもう閉店なのだ。彼もナッシュの依頼を受けた者である。
エレーヌは硬直していた。まるで自分もサリエルと同様の、マネキンとなってしまったかのように。
「むっ……?」
その時。ついに壮年男性、ヨーウィンが彼の店のショーウインドウの中にもう一体マネキンが置かれている事に気づいた。
彼はウインドウの前を蟹歩きして、モダンな中にも伝統色を取り入れた見事なウォーキング・ドレスを着せられた、そのマネキンの前に移動する。
「これは……」
壮年男性の顔色がみるみる険しくなって行く。
エレーヌはそちらに目線を向けていなかったのでその事に気づかなかったが、サリエルの目はそちらを見ていた。
奥歯を噛み締めて渋面を作る壮年男性……それを見るサリエルの顔は青ざめて行く。
もういいのではないか。もう今すぐ飛び出してエレーヌを抱えて逃げたら良いのではないか? サリエルはそう思った。
一方、エレーヌの目はサリエルを見ていた。サリエルはその仏頂面を決して崩してはいなかったが、エレーヌにはその側仕えのメイドの動揺が手に取るように伝わっていた。
エレーヌは必死に念じる。自棄を起こすんじゃないわよ、絶対に動くんじゃないわよと。アリーセの顔を知らないサリエルは、彼女が目の前に居る事に気づいていないのだ。
しかしエレーヌの念力はサリエルに通じなかった。サリエルは目線だけ動かして辺りの様子を伺い出す。
エレーヌは動揺する。まさかサリエルは強行突破する気なのか。このショーウインドウを飛び出して逃げ出せば何とかなると思っているのか。
無理だ。今、店の中は大混雑だ。買い物をしている婦人方にはかなり大柄な人物も多く、いかに怪力サリエルといえど掻き分けて飛び出すのは容易ではないだろう。
それ以上に、そんな姿をアリーセに見られたくはない。そんな姿を見たアリーセはきっと思うだろう……ベルはミトンが欲しいあまり、マンビキを働いたのだと。他の事はともかく、エレーヌはそれだけは嫌だった。
そんなエレーヌの思惑も知らず、サリエルが今すぐ飛び出してエレーヌを抱えて逃げようと覚悟した、その時。
「旦那様! 申し訳ありません、私、裏口の鍵を持っていませんでした! 奥にはもう誰も居ないので開けて貰えません、旦那様の鍵をお借り出来ませんか!」
一度は裏口に向かっていた中年の男性店員、ロイズがショーウインドウの前に戻って来たのである。サリエルはますます青ざめ、再び硬直する。




