マッチ売りの少女アリーセ 第七話
木曜日深夜。
懲りないサリエルは昨夜に引き続き、黒いツーピースと黒のコートに身を包み黒い帽子を被り、夜中だというのに黒い大きな遮光ゴーグルまで掛けて、寝静まった伯爵屋敷の庭師用の通用口から外に出た。
そして辺りを警戒しながら屋敷の前の大路を長屋通りの方へ、忍び足で走って行く。
サリエルは考えていた。相手もまさか二夜連続で来るとは思ってもいないだろうと。既に警察に事件現場として認識されている場所に再び舞い戻りはしないだろうと考えているのではないかと。
鍛冶屋通りから金融通りへ。周囲には時折酔っ払いや暇人に混じり、警邏の姿も見える。しかしサリエルは裏道や建物の隙間の空間を巧みに使い、誰にも目撃されぬまま、戦勝記念通りの角のテーラー『梟の森』の、横道を挟んだ向かいの建物にたどり着く。
そこは一階に珈琲店、地下に小劇場の入った五階建てのビルディングだった。最上部には屋上があり、階段を登れば誰でも行く事が出来る。
用心に用心を重ねながら、サリエルは慎重に屋上に出て、辺りを警戒しながら通り側の手摺りの所まで身を屈めて前進する。
戦勝記念通りと交差するこの道もそれなりに広い。車道と歩道を合わせると二十メートル程はある。
時刻は既に深夜一時。『梟の森』店舗である一階、仕立室を兼ねた二階、作業場と事務所である三階、いずれも明かりはついていない。
サリエルは一つ深呼吸をして、持っていた鞄を置き服を脱ぎ出す。サリエルはコートとツーピースの下に、手首から足首までを覆う大変に体にぴったりした服を着ていた。レオタードという、空中ブランコ技師が発明した物だという。
「さ……寒い……」
サリエルは思わず小さく呟くが気を取り直し、脱いだ服と入れ替えに鞄からクロスボウを取り出し『梟の森』の三階のバルコニーに向かって発射する。
ワイヤーを結んだボルトは狙いを過たずに飛び、サリエルがワイヤーを引くと、その先端の鉤爪が鉄製の手摺りのパイプの向こうへと引っ掛かる。
サリエルはワイヤーのこちら側のフックも近くの手摺りに巻き付け、ストッパー付きの滑車でワイヤーの弛みを閉める。
最後にサリエルは鞄から出した取っ手付きの滑車をワイヤーに掛け、鞄をリュックのように背中に背負う。そしてもう一度深呼吸をする。
良心の呵責が無い訳ではない。サリエルも一応懐に百七十フラム分の紙幣を入れて来ている。あのミトンの代金の十倍だ。
勿論金を置いて行けばいいという物では無いのは解っている。お嬢様を模した蝋人形を盗み出した時とは訳が違う。
そしてもう一人。サリエルは心の中でまだ見ぬ祖父に詫びる。御爺様。貴方が身を削って残してくれた遺産の一部をこんな事に使って申し訳ありません。
それでもサリエルにとって、エレーヌへの忠誠は絶対だった。手袋を買いに。サリエルは夜空へと飛んだ。
夜のカトラスブルグの空を、体の線も露わなレオタード姿の若い女が飛び建物の三階のバルコニーへと降り立つ。
女は伝って来たワイヤーを二、三度引っ張って解除し回収すると、施錠されていない扉からその中に侵入する。
辺りは数分間静かだった。
ぶち模様の雄猫が一匹、すたすたと横道の方から歩いて来る。油断なく辺りを見回していた彼の目が、ふと、街角のテーラーのショーウインドウに止まる。店は何時間も前に閉店しており、勿論明かりは点いていない……
次の瞬間、いきなりショーウインドウの電灯が点灯した。突然の明かりに驚き、猫は慌てて走って逃げだす。
それから店内で警報ベルが鳴りだした。二階、三階にも電灯が点く。テーラーはまるで、こんな夜中に突然開店したかのようにも見えた。
―― ドン!
さらに。店内で発砲音が響いた。
それから数秒後、そのテーラー『梟の森』の正面扉がガチャガチャと揺れ出した。誰かが中から慌てて開けようとしたが、施錠されていてなかなか開かないという様子だった。
―― ドン!
再び発砲音が響く。扉は一瞬動きを止めたが、またバタバタと動き出し、やがて大きく開いた扉の中から涙目のサリエルが飛び出して来る。
「動くなー!! 凶賊めが!!」
店内から男性の叫び声がする。次の瞬間。
―― キキキキーッ!!
激しいブレーキとゴムタイヤが軋む音を響かせ、一台の蒸気自動車が横滑りしてテーラーの前に停車する。
「ト……」
サリエルはその名前を口にしかけて、慌てて口をつぐむ。
「さっさと乗れ!!」
黒い山高帽に大きなハンドルバー髭を蓄えた一見島国の紳士風の男が、運転席から叫ぶ。サリエルは一も二もなくその助手席に飛び乗る。
―― ドン!!
再び発砲音が店内から響き、サリエルも紳士も反射的に首をすくめる。弾は蒸気自動車のサイドパネルに着弾し穴を開けていた。
紳士は圧力弁を開きクラッチを繋ぎ、蒸気自動車を急発進させる。
―― ババババババババ……
走り去る蒸気自動車を追うように、店内から、ガシャンガシャンと金属が擦れ合う音を響かせ、一人の鎧武者が歩き出して来る。
彼はずっと潜んでいたのだ。重い鋼鉄の鎧を着ていた為、賊は取り逃がしてしまったが、彼は今夜も店を守る事が出来た。
賊は昨夜も来た。昨夜彼がそこに居たのは偶然だった。
昨夜彼はある事情から店が閉まってもそこに居た。そこで涙にくれていた。
彼は昼間、貧しい女工がショーウインドウの中のミトンに見とれていたのを見咎め、彼女に無礼な態度を取ってしまった。それを別の小さなレディに見つかった。
その少女が彼に突き付けた言葉は、都会の暮らしにすっかり汚れていた彼の心を抉り、その汚泥を洗い流してしまった。
自分は、御客様に素敵な品物との出会い、その感動を届けたくてこの道を選んだのではなかったのか。心ときめく商品を所有する喜び、それを使う喜び、それを一人でも多くの人に届ける事を希望していたのではないのか。
男の名はロイズ。彼は昨夜、閉店した店の中でずっと泣いていた。それを彼の愛するこの店の商品達に聞いてもらいたいと思っていたのだ。
賊はその時に現れた。
賊を撃退したロイズは勿論警察を呼んだ。警察は捜査をしてくれるとは言ったが、警備まではしてはくれない。
だからロイズは警備していたのだ。今夜は鎧兜を着て単装式の拳銃まで用意していた。賊は今日も来た。昨夜は暗闇のせい、今夜は兜のせいでその姿はよく見えなかったが。
「少女達の夢の為! 御婦人達の日々の暮らしの為! 梟の森とその商品達はその為にあるのだ! 盗賊ごときにやらせはせん! やらせはせんぞ!」
この店を守る。ロイズはその誓いを新たにする。
◇◇◇◇◇
伯爵屋敷の裏手。エレーヌの区画とは反対側にあるガレージの近くの生垣の外の道に、帽子とつけ髭で変装したままのトマは蒸気自動車を止めた。
「寒かったらコートくらい着ろよ……」
言いたい事は色々あったが、トマが口に出せた言葉はそれだけだった。
トマは昨日の朝からサリエルの様子がおかしい事に気付き彼女の動きにも警戒していた。すると案の定、サリエルは深夜に出掛けて行くではないか。
蒸気自動車の助手席でサリエルは小さく、青くなっていた。
サリエルの方はトマに助けて貰えるとは思ってもいなかったし、この姿を見られるとも思ってもいなかった。こんな体型も露わなおかしな服を着ているのを同僚であるトマに見られるの恥ずかしかった。だからと言って慌ててコートを着るのも恥ずかしい。そして。
「どうして怒らないの……私、勝手な行動でチームだけでなくお嬢様まで危険に晒したのよ」
「また脱走を企てられる方が迷惑だからな……これ以上お嬢様に列車強盗の真似をさせたくない」
トマがまるで怒らない事はサリエルには余計に堪えた。
「負けたくなかったのよ……最近は貴方の方が任務成功率もお嬢様の信頼度も高いような気がして……クロヴィスさんの件の時もお嬢様は私より貴方を信頼して起用しましたわ」
トマは懐から煙草入れを取り出して葉を巻紙に巻いていた。
「あの時はお嬢様と君は喧嘩してたんだろ。今回だって御下命を受けたのは君とディミトリだけじゃないか」
「貴方には解らないわ! 私、六歳の時からお嬢様と一緒だったのよ!」
「悪いけど実際解らないよ。今日はライターは持ってないのか?」
トマのマッチ箱は空だった。トマは仕方なく、巻き終えた紙巻き煙草を火がついてないままでくわえる。
「俺はこの車を自動車屋のガレージに帰さなくちゃならない。君はここで降りて部屋に戻ってくれ」
サリエルは小さく頷き、服やクロスボウが入った鞄を背負い、レオタード姿のまま車を降り、屋敷の方に帰って行く。




